高田敏子の下落合散歩。(下落合みどりトラスト基金)

 国語の教科書でもなじみ深い詩人の高田敏子も、一時期、下落合に住んでいた。ちょうど太平洋戦争が始まるころ、国際聖母病院の向かいに家を借りて暮らしていたらしい。のちに高田馬場駅の向こう側、諏訪社近くの諏訪町(現・高田馬場1丁目)へ土地を買って移ってしまうが、彼女も頻繁に付近を散策したらしく、諏訪の森ばかりでなく下落合を連想させるような詩をいくつか残している。
 高田敏子の出身は日本橋で、そのあと結婚して一時中国へ渡ったりもしているが、それを除けば東京における推移は日本橋→下落合→諏訪町(高田馬場)と、わたしと同じような移動をしている。中央区(日本橋區)側から見れば、緑の多い新宿の北部は山手の中の山手であこがれだったが、逆に山手の側から見ると、日本橋の町っぽさ、いかにも東京らしい風情があこがれの対象と映るらしい。確かに、目白文化村からの買い物先は、新宿や銀座よりも日本橋のほうがはるかに多かったようだ。
 高田敏子は、わずか1年余だが下落合に住んでいた。ちょうど、真珠湾攻撃が行われた年、1941年(昭和16)の秋から、翌年の秋にかけてだ。1942年(昭和17)の4月18日昼すぎ、東五軒町にいた彼女は米軍機(B25)の爆音と攻撃に驚いて、急いで娘の通う落合第一小学校へと駆けつけようとする。空母「ホーネット」から飛び立った、ドーリットル隊16機による東京初空襲だった。電車(市電)はすべて止まり、江戸川橋→目白坂→千登世橋→学習院→下落合→聖母坂→落合第一小学校(第四文化村)と、途中で自転車の荷台へ乗せてもらったりしながら一気に走りとおした。彼女を自転車の後ろに乗せて目白駅まで走ったのは、詩人・安西均であったことがのちに判明している。
   
 五月のその季節、西武線下落合駅には薬王院への道案内図が張られ、年々訪れる人が多くなりました。以前は人もまばら、院内の緑濃い静けさの中で、花も咲き開いた時間を静かに守るようにしている姿に見えました。“花の王”といわれる牡丹にしても、散る日のある愁いのただよいを私は見てしまいます。(中略)
 下落合に、私は昭和十六年の秋から、翌年の秋までの一年を住みました。この年をはっきり覚えているのは、十六年十二月八日の真珠湾攻撃のラジオを聞き、翌年四月十八日は東京がはじめて空襲を受けたことからです。
 家は、聖母病院正門の真向かい、借家でしたが、ちょっとした広さの庭のある住み心地のよい家でした。当時、下落合駅から聖母病院に上がる坂は、随分と急な坂道で、朝、赤ん坊だった次女のお守がてら表道に立っていると、青果市場に出す野菜を積んだ農家の人の引く荷車が、大変な苦労で上がって来ました。
 長女は十七年の四月、落合第一小学校に上がりましたが、聖母病院のシスターにあこがれて、看護婦さんごっこの遊びを毎日のようにしていました。(「高田馬場に住んで」より)
   

 では、戦中戦後を通じて高田敏子が散歩・・・というか、戦時中は次女を背負ってお守りをしたかもしれない、お気に入りのコースClick!をたどってみよう。このゴールデンウィークあたり、薬王院のボタンが満開になりそうだ。

■写真は枝垂れザクラが満開の薬王院境内、は昭和6年の聖母坂。

この記事へのコメント

  • NO NAME

    「人の引く荷車が、大変な苦労で上がって来ました」・・・その先の青果市場からの荷車でしょうか。
    随分前、サイクリング自転車を新調した時、ギアを試しに上ったことがあります。止まらずに目白通りまで辿り着いてギアの凄さを実感しました。
    荷車はギアなど無かったでしょ・・・
    写真右はバッケ、切通しのように見えます。
    2005年04月26日 00:12
  • ChinchikoPapa

    青果市場へ大八車で運んでいたようですね。ものすごく大変だったのではないかと・・・。戦時中に、六本木に住んでいたうちの義父が、新宿空襲で怪我をした人たちを陸軍のおんぼろトラックで、焼けていない聖母病院へとピストン輸送してたのですが、当時の貧弱なトラックでは馬力が出ず、坂をのぼるのがきつかったようです。当時は山手通りは工事中で、どの道も舗装路ではなかったでしょうから、自動車でも“難路”だったのではないかと思います。
    2005年04月26日 11:57

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