第三文化村を南(下落合駅方面)へとくだる道は、2本ある。1本は尾根筋の道で西坂へと抜け、もう1本がその尾根下にあたる谷間の道で、聖母坂へと抜けられる。地形図を観察すると、江戸期や明治期には「不動谷」と呼ばれ、奥へ進むと東へ直角に曲がりこむ、聖母坂の切れこんだ深い谷間だ。等高線が密なことから、当初はかなり急峻な渓谷だったのだろう。いまでも急な斜面の面影が、第三文化村に建つ住宅の敷地伝いに残っている。戦後しばらくは、聖母坂に沿った湧水の清流も見られた。
この「不動谷」については、面白い現象がある。江戸期の切絵図、および明治期の地形図では、この聖母坂一帯が「不動谷」と記されているが、時代を経るにしたがって「不動谷」は西へ西へと移動していくのだ。大正5年に、早くも「不動谷」は動いている。だから、堤康次郎は目白文化村を発売するとき、字(あざな)が「前谷戸」であったにもかかわらず、当初「不動園」などという名前をつけた。いまの地図では、落合第一小学校の下の谷間(第四文化村)が、「不動谷」ということになっている。さまよえる「不動谷」については、また改めて別記事で書いてみたい。
この谷道を、第三文化村が販売された1924年から間もない1926年(大正15)の下落合事情明細図、および1965年(昭和40)の住所表記新旧対照案内図(下落合地区)を比べてみても、それほど大きな変化がないのがわかる。60年代でもいまだ、ゆったりとした敷地に第三文化村の開設当初からの家々が並んでいた。風情が大きく変るのは、70年代以降のことだ。つづきは・・・
★「目白文化村」サイト Click!
■写真:上は、木立と大谷石の土台に第三文化村の面影が残る屋敷。下は、1926年(大正15)の徳川邸北側に拡がる、第三文化村の尾根道と谷道。聖母病院はまだ存在しない。
この記事へのコメント
宮迫 汎
ChinchikoPapa
西坂の徳川家界隈となりますと、周辺に住む個々人の紹介記事を読んでみても、残念ながら菖蒲に関わる池の記述、あるいは「あやめ荘」というキーワードは記録されていないようです。
どなたか、下落合に昔からお住まいの方で、ご存知の方いらっしゃいますでしょうか?>ALL
宮迫 汎
ご丁寧な調査、ありがとうございました。当サイトを開くのが遅れ、お礼を申し上げるのが遅くなりましたこと、お詫び致します。実は、明治30年代から大正年代にかけて下落合で幼年期から青年期を過ごしていたと思われるある人物の出生並びに本姓を知りたく思っておりました。当方は九州の田舎住まいの身でして、調査資料も十分でないため、もしかしたらこちらのサイトで何らかの手がかりが得られまいか、と考えた次第です。御手数をおかけしました。
ChinchikoPapa
徳川邸の周囲だけでなく、少し広範囲に「あやめ寮」をキーワードに探してみましたが、残念ながら発見できませんでした。「あやめ寮」と通称で呼ばれていたお宅が個人のお屋敷だとしますと、その所有者名が掲載されている公算が大きいですね。もう少し、ヒントをいただければ、たとえば近隣の様子や近くに住んでいた方のお名前・屋敷などの情報があれば、より突っ込んだ調査ができそうに思えるのですが・・・。「あやめ寮」は継続して、これからもちょっと気にとめておきます。
宮迫 汎
ついては、重ねてご厚意に甘える形になり気が引けるのですが、「もしかしたら…」という期待を捨てきれないため、いま少し当該人物の特定に役立ちそうな事柄を付け加え、判断の資料にして頂けたらと思いました。もっとも、ここはオープンなネットの場ですので、あまりこと細かな記述はためらわれますが。
以下は、私が近しかったある老女(故人)のが書き残したものから採録したもので、何らかの手がかりが得られないだろうか、と思っております。
それで、下落合の地図を今一度お調べいただけたらと存じますが、徳川邸の近辺に、次のいずれかの姓を名乗るお屋敷は見あたりませんでしょうか。
荒井、伊藤、藤井または慈光院。もし、このいずれかの姓を持つお屋敷が見つかれば、そこから求める手がかりの第一歩が得られそうな気がしておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
ChinchikoPapa
何かわかりしだい、こちらへリプライを差し上げます。
ChinchikoPapa
まず、メルクマールとなりそうな「慈光院」ですが、下落合にはこの名称の寺院あるいは団体はありません。名前からしますと、本願寺派の寺院のようですが、東京でこの名前が付くもっともポピュラーな寺は、本所(墨田区)横網1丁目の築地本願寺別院である慈光院がもっとも有名ですね。
次に、荒井邸、伊藤邸、藤井邸ですが、徳川邸の周囲100m以内に、伊藤邸と藤井邸が大正末期に存在しています。ただし、伊藤邸は昭和初期に転居したらしく、昭和6年現在には在住していません。また、荒井邸はサーチ範囲を拡大しても、それ以前に転居しているものか、大正期には発見できませんでした。
●藤井邸
下落合1138番地にあります。徳川邸を起点にしますと、ちょうど南西に80mの位置です。現在は、十三間通り(新目白通り)の下になってしまっているあたりです。わたしのブログの記事でいいますと、「首相は十三間通りの下で息をひそめていた」に、藤井邸を含む地図が掲載されています。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2005-05-09-1
2・26事件のとき、岡田首相が隠れた佐々木久二邸の2軒隣りのお宅ですね。昭和初期、藤井氏の肩書きは医学博士ということでした。
●伊藤邸
下落合837番地、徳川邸の南東100mほどのところ、旧鎌倉古道と久七坂に面して大正15年まで伊藤邸があったことが確認できます。しかし、昭和初期の町誌にはすでに名前がありません。下落合周辺の伊藤姓では、野方を中心に中野界隈にありました五代将軍・綱吉の犬小屋建設管理にかかわった伊藤家が有名ですが、その姻戚かどうかはよくある姓ですのでわかりません。
ちなみに、藤井・伊藤両邸を1947年の空中写真で図示してみました。(上記事の最下段) 中央には徳川邸と、その庭園の池が見えています。藤井邸がこの時期まで住まわれていたかは不明ですが、とりあえず両邸の位置関係をご参照ください。
宮迫 汎
雲を掴むに似た話にもかかわらず、丁寧にお調べくださいましたこと、ほんとうにありがとうございました。
今回いただいたお返事は、私にとって非常に緊張を感じる内容でした。そのことはこの書き込みの後段で申し上げます。
私がその素性を知りたく思っている人物 (仮に名前をTといたしましょう) の出自が下落合ということは確信しながら、しかし、その人物の本姓が分からないということについては、なぜだろうと疑問に思うのは、恐らく当たり前の感情の流れでしょう。
そこで、これまで調査の労をとってくださったChinchikoPapa様に感謝の気持ちを込めて、老女が書き残した文 (彼女がTから聞かされて、記憶に残っていた事柄) を手がかりに、その辺の事情を少しばかり説明させていただこうと思います。(文中、私が別途入手できた資料による推理、判断の箇所もありますが、極力事実を曲げないように配慮しております。)
その老女は、若い頃、一時期、Tと内縁を結んでおりました。しかし、Tがどうしても彼女を入籍しなかったため、やがて彼女の親族の強い意向が働いて離別するに至りました。
Tは8人兄弟の末子で、明治37年または38年生まれ。落合小学校から府立一中、一高、東京帝大という学歴者だったそうです。(ただし、大学は後述の理由で、中退か卒業かは不明)
彼の父親はかつて新潟の小藩の家系(藩名は未特定)で、母親は庄内の富農の家の出でした。(この女性は体があまり強くない人だったとか。それゆえ、8人兄弟といっても屋敷では妾腹の子も兄弟として一緒に暮らしていたのではないか、などと法外な推測の余地もなくはない。Tにしても、幼年時代、付き添いの乳母に世話されていたそうです。)
Tが物心ついた頃の父親は、東京のM生命保険会社の役職に就いていたということです。また、ある時期、北海道は釧路の白糠にあった鰊漁の漁業会社にかかわっていたとか。(そのような関係からか、Tは少年時代、夏休みの時期などには、釧路で営業していた卸問屋「ヤマサンサトウ」という親戚筋の家によく遊びに行っていたそうです。)
Tが大学に入った頃は、ちょうど大正デモクラシーの流れで学生運動が盛んな時期でした。東京帝大でも新人会が活動しており、やがてTもその中に加わっていきました。(その心情的動機を想像すると、若者特有の正義感に加えて、金さえあれば妾を持っことも当然としていたブルジョワ感覚の父親への強いい反感 〔Tの言葉〕 がからんでいたのではないかと思われます。)
彼は活動家の中でもかなり過激だったらしく、活動資金の調達に、実家を脅して金を強請ったり、仲間と組んで、さる大農家の屋敷を打ち壊した(Tの言葉)こともあったらしいのです。目に余る行状に、ついに実家は彼に対して準禁治産の法的措置をとったのでした。
その後、Tはしばらくの間、国外に飛び出して、米国やヨーロッパあたりを転々と放浪していたそうですが、やがて日本に舞い戻り、どういういきさつからか、九州は大分に身を置くようになりました。そして、そのときに、まだ女学校を出たか出ないかの年頃だった老女とたまたまめぐり会う事になったのでした。
同棲を始めた頃の2人は、別府市に居を置き、Tは「別府新報」という小さな地場新聞 (恐らくゴシップ漁りで経営するアカ新聞か) を出したり、地元の遊園施設「鶴見園」で興行する芝居の脚本書きなどで稼ぎを得ていたようです。(Tは学生時代、汀漣〔みぎわ さざなみ〕というペンネームで小説を同人雑誌か何かに投稿するなど、文筆作業にはかなり自負心があったらしい。)
しかし、そうした世渡りで、Tは世間に自分の本姓を名乗りませんでした。便宜的に別姓(偽名)を使っていたのです。老女の覚え書きによれば、それは幼い頃世話を受けた乳母の姓だったそうですが、真偽は分かりません。内縁の連れ合いに、入籍できない理由をどのように説明していたのか、どの程度真実を明かしていたのか、私には想像がつかないことです。
ただ、推測の域ですが、Tはある時期、実家を訪れて、結婚入籍のため準禁治産宣告の解除を願ったが、拒否され、逆に女と別れるように言われたうえ、女との手切れ金としてなにがしかの金員を渡されたらしい。いずれにしてもその辺の事情はTの後見人の同意問題なども絡んでいるようですが、詳しいことは分かりません。
Tは老女に、七人の兄の名前を教えていました。そして、自分の本姓は慈光院だと言ったとか。特殊な響きのこの姓は、私が図書館の姓名大事典で調べた限りでは、寺院などの名称以外に氏姓としてもあるにはあるが、きわめて稀れらしい。今回Papa様にお調べいただいた結果でも、下落合にはそういう姓を名乗るお屋敷は見あたらないとのことですので、どこからそういう姓を持ち出してきたのか。入籍をせがまれての一種の方便だったのか。それにしても、なぜ…。T(故人)の真意は謎のままです。
今回のご返事の中で、私がハッとしたのは藤井邸のくだりでした。伊藤邸も気にかかりましたが、藤井邸はもっと詳しく知りたいと思いました。理由は大きく次の2点です。
一つは、Tの何番目かの兄で医者になった人がいるということです。(Tも医者になりたかったそうですが、父親の意向で不本意ながら工学系に進んだとか。)藤井邸の医学博士の係累を知りたいと思いました。
いま一つは藤井家の母系についての関心です。Tの母親の実家が庄内の富農と申しましたが、さらに踏み込んで言うと、その富農とは庄内のH家のことで、宗家8代目には3人の娘がいて、そのうちの一人が藤井某に嫁していることを、同家の歴史について書かれている書籍に掲載の家系図で知っておりました。 もちろん、それだけでは下落合の藤井邸と庄内のH家の間に関わりがあるといった短絡判断はできません。
また、このことに関連して、人と人のつながりにいささか因縁を感じさせられているのですが、新潟の出自で、昭和21年北海道5区から立ち、衆議院議員として当選7回の実績を持っていたI氏(故人)が、実はTと従兄弟同士であることが、Tの生前残した言動から分かったのです。そうだとすると、TとI氏の従兄弟関係は双方の母方の血縁から来ているとも考えられました。
というのは、I氏の母親はもしかしてH家の3人姉妹で伊藤某に嫁した人ではないかと思われるのです。(この辺はI氏が22年ほど前に出した準自伝的著作を読んでも残念ながら明確な肯定も否定する要素も見出せませんでした。)
もしこの推測が当たっているとしたら、藤井家と伊藤家が母系でつながっていることになり、I氏の従兄弟であるTの姓は藤井ということになるわけです。
しかしこれはまだ何とも言えないことです。藤井某が下落合の藤井邸と果たして結びつくものか。結論にはさらなる検証が必要になります。
私はまた、T本人が自分の本姓をどのように思っていたかにも、関心が及びます。もし、彼が妾腹の子であったとしたら、戸籍上の本姓よりも、ほんとうに名乗りたかったのは生みの母親の姓であったかも知れません。偽名に乳母の姓を使っていたということにも、何かしらこだわりが感じられるのです。
さて、あまりあからさまにするのがためらわれ、記述を控えた事柄もありますが、以上がPapa様にお礼方々ご披露する話の次第です。
私の疑問はまだ完全には払拭されませんが、おかげさまで下落合の様子を望外に知ることができました。これ以上は興信所に依頼するとかの方法でも使わなければ難しいでしょう。しかし、仮にすべてを解明できたとしても、自己満足以外、いまさら誰かを幸せにするものでもなさそうですし、自分の年齢や資力などの現状を省みれば、ほどほどにしておく方が賢明か、などと思うこの頃です。
拙い長文で、失礼いたししました。 ご尽力を深く感謝いたしております。
宮迫 汎 拝
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ただ、「詳しいことは掲載しないでくれ」という方もいたようで、そういう方たちは肩書きと氏名だけの記載になっています。医学博士の藤井Y氏もそんなひとりです。さらに特異なのは、この方の番地記載がない点です。事情詳細図(住民地図)を見ればすぐにわかってしまうのですが、『町誌』には番地の記載を拒否しているようですね。このような例は、他にも数例見えます。
それから、もうひとり、藤井氏を見つけました。所番地まではわかりませんが、東京博善社落合葬儀場の重役に藤井N氏の名が見えます。こちらは、前者の藤井家と関係があるのかないのか不明ですが、落合界隈に住んでいたのは間違いなさそうです。
さて、出身地または親の出自から、「越後/新潟県」をキーワードにして、当時の住民を調べてみますと、この近辺には大正~昭和初期にかけて16家の新潟県(越後国)を出身とする家があることがわかりました。もちろん、経歴記載を断っている家もあると思いますので、この数がすべてではありません。80年前のプライバシーですし、自ら進んで公開していますので構わないでしょう。この16家の家業・肩書きは、下記の通りです。
①内山家・・・土建会社経営 ②落合家・・・東邦電力会社理事
③星野家・・・陸軍中将(越後村上藩) ④玉木家・・・大倉商会会長
⑤島田家・・・第一高等学校教授 ⑥相馬家・・・東京計器製作所取締役
⑦結城家・・・東京写真専門学校校長 ⑧原家・・・王子製紙取締役
⑨島峰家・・・医学博士 ⑩今井家・・・今井商店取締役
⑪有田家・・・外務次官 ⑫遠藤家・・・豊菱製氷取締役
⑬陸川家・・・東京護謨取締役 ⑭古島家・・・鎌倉山住宅地代表
⑮青柳家・・・青柳染工場代表 ⑯水島家・・・文化給水社主
どなたか、お心当たりの方はいらっしゃったでしょうか?
宮迫 汎 rochi @oct-net.ne.jp
ありがとうございます。何やらやくたいもない謎解きにあなた様を引き入れてしまったようで、申し訳ございませんが、おかげさまで私の方は積年の疑問が少しばかり解けてきたような気がいたしております。まだ決定的なものではありませんが、かなり真実に近づいているように感じております。しかし、今回お知らせいただいた16家の情報については、T本人ならば存知の家があったかも知れませんが、いかにせん、80歳を超えた老女が記憶をたどって記したものからは、何も手がかりは得られませんでした。Tが子供の頃の思い出話に、仲秋の観月の時期には近所の悪童たちと一緒に徳川邸を始めあちらこちらの屋敷の庭に忍び込んでは、縁側に供えられた月見団子を盗んでまわり(そのころ縁起づけとして歓迎された風習)、それぞれの家の団子の味を批評した、などという土地の話は折々聞かされていたようですが、その仲間たちの名前は聞かされていないようです。Tの実家の8人兄弟の中には医者になった者のほか廣瀬家に養子に行った者(養子先の情報は皆無)などもおり、中には軍人になった者もいたかも知れませんが、子細は不明です。お知らせの中での藤井家の在所登録不備の件は、邸主がずぼらでそうなったのか、別の理由からか、事情はさまざま考えられるので、とりあえずは予備知識とさせていただきます。
私は目下、藤井姓の全国的な広がり状況など、これまた雲を掴むような試みながら、庄内のH家と下落合の関わりの有無をぼつぼつですが調べております。
Papa様におかれましても、また何かございましたら、もうこの期に及んでは乗りかかった船のお気持ちかもしれませんが、またお知らせいただけたら嬉しく存じます。暑さの厳しい折からごくれぐれも自愛ください。
宮迫 汎 拝
宮迫 汎
ChinchikoPapa
・藤井NAOYUKI (医学博士)
・藤井NORIAKI (会社取締役)
宮迫 汎
残念ながらこのお二人はTの兄弟の名前とは違うようです。ま、しかし、この時代は名前を自分の好みで変更することも割と自由だったのではないかと思うので、結論はまだ保留したいと思います。ちなみに、Tの兄弟の名前を老女の書き込みに基づいてローマ字表記しますと、
MAMORU, NAGASHI, SUKASHI, TOORU, MINORU, MASAHIKO,TSUNEHIKO,
TERUHIKO となっております。前の5人は一字だったようですが、漢字を思い出せなかったらしくひらがなで書いてありました。
ChinchikoPapa
①徳川邸から自宅がやや離れており、相馬子爵邸に近い。
②島峰TOORU氏は長男である。
①につきましては、記事末の掲載写真でいいますと、「旧・伊藤邸」のさらに右手(東側/下落合76番地)になります。昭和6年現在の肩書きは、医学博士・東京高等歯科医学校長となっています。
宮迫 汎
いろいろと当該事案の検索に真剣ご努力いただき、ほんとに感謝いたします。全くのところ、私は、幾つもの断片をなくしたジグソーパズルを解くに似た思いでおります。今回お寄せくださった情報も、残念ながらぴったり符合するものではありませんでしたけれども、ただ、先にお示ししたTの兄たちの名前は、老女の古い記憶ゆえ確実に年齢順ではないかも知れないので、島峰という氏姓は別として、むげに否定したくない情報でした。しかし、現在のところ、私はやはり藤井姓にこだわりを感じております。H家8代目当主の3姉妹の一人章様の夫君、藤井寿麿氏とはどこのどういうお方なのか。また、関連することとして、同じく3姉妹の一人、美和様が嫁いだ伊藤佐氏とは、かつて昭和20年代に衆議院議員で、政務次官などを歴任したI氏の父君ではなかったのか。この推論の大前提は、TとI氏が従兄弟同士という認識から演繹したのものです。新潟の庄屋の出というI氏が、晩年著した自伝的半生記には、なぜか父親とのことがほとんど書かれていない。父親とは別離したと簡単にあるだけで、そのほか父子にまつわる記述がまったくないのが不思議です。さらに、私が関心を持つI氏の母親のこともさらりとしか触れられていない。母親の出自は不明なままです。私はこのジグソーパズルの未発見のフレークがどこにこぼれているのか、それがどうも気になるのです。歴史的真実をとらえるということは、人間社会の大きな歴史の流れにおいてはもちろんでしょうが、こんな小さな個人の歴史の特定でもなかなか難しいものだと感じることしきりです。
ところで、話はまるで違いますがPapa様のブログを散策していて、おすすめ本のところに、先般惜しくも亡くなった杉浦日向子さんの著書を挙げておられましたね。私もファンのひとりでしたので、いま、彼女の著作をリストアップして書店に注文し、在りし日の姿を想い出しながらあれこれ読んでみようと思っているところです。心豊かな楽しい読書が期待できそうです。
それはまたいずれ。
ChinchikoPapa
落合花子
私は日当たり悪い実家が大嫌いで両親が死んだら処分か空き家にしようと思っています。
どうしたら崖下の我が家を好きになれるか?と思いネットで検索したら、崖についての歴史を書いた貴ページに当たりました。
ChinchikoPapa
江戸期には、目白崖線の丘上には集落はなく、ほとんどの家々が崖下に建設されていました。下落合村の「本村(もとむら)」も、現在の七曲坂や久七坂、西坂の崖下に展開していました。おそらく、北風が防げるのと低地の田畑に近いからでしょうね。
だから、落合地域では寺社の敷地や大屋敷の位置も含め、崖下や崖の斜面のほうに古い歴史が宿っています。
諏訪谷?
湧き水もあるので元プールや池があったのかもしれません。
最近、新宿ダッシュでもやりましたが、崖の上から狸やハクビシンが白昼堂々降りてきます。
ChinchikoPapa
いまの聖母病院のあるところが、通称「青柳ヶ原」と呼ばれた丘でしたので、諏訪谷つづきの渓流が流れていた南北の谷戸ですね。湧水池が、大正期には川上の湧水源近くに、昭和に入ってからは聖母坂沿いにの東側にありました。おそらく、大正期までは夏になると、ホタルの宝庫だった渓流沿いですね。