高田馬場駅は、山手線の中で女性が利用したくない駅の、いつも上位にランクインしているそうだ。地下鉄東西線や西武新宿線が乗り入れて、いちおうは便利なターミナルには違いないのだが、確かにお隣りの洗練された目白駅に比べたら、いつもなんとなく野暮ったくてキタナイ感じがする。昔から、学生街のせいだからだろうか、若い子の姿が目立ってどこか落ち着かないのかな。それとも、小さな駅舎のわりには乗降客が多すぎて、利用者のストレスがたまるせいなのか?
1970年代の前半、高田馬場駅は“きれい”だった。駅前には噴水があり、その中央には「平和の女神」のブロンズ像が据えられていた。野暮ったくて小さな駅なりに、ならではの自己主張をしていたと思う。ところが、1976年ぐらいから、駅舎と駅前広場のすべてを巻き込んで、改修工事がスタートした。国鉄(当時)と西武新宿線の双方の駅舎には、工事中の見苦しいフェンスやシートがあちこちに設けられ、駅前の噴水は壊されて工機や資材の置き場になってしまった。女神像は、どこへ行ったものやら行方不明に・・・。
この工事、数年で終わると思っていたのが大間違い。国鉄がJRに変っても、工事が終わる気配はまったくなかった。1970年代の終わりになっても工事中、1980年代の終わりになってもまだ工事中、1990年代の終わりになってもまだまだ工事中・・・。21世紀を迎えて、ようやく終了することになる。高田馬場駅とその駅前広場は、実に25年間も見苦しい工事現場そのものだったのだ。この25年の間、高田馬場駅の利用者は、エンエンときたない工事中の様子ばかりを見せつけられてきた。だから、女性が高田馬場駅はキタナイから利用したくない・・・という印象を持つのも、むしろあたりまえなのだ。
さて、25年にもおよぶ大工事、黒四ダムだってレインポーブリッジだってできてしまいそうな「プロジェクトX」の末に、じゃあいったいなにが新しくなったのかといえば、エレベーターが設置されたのと、山手線側と西武線側とを結ぶ15mほどの通路が増えたこと、自動改札口がひとつ増え地下鉄への階段が1本追加されたこと、それに駅舎の外観がストライプの模様入りになったこと。駅前広場の噴水がつぶされて、わけのわからないサークル状のなにもない広場ができたこと・・・のみ、たったこれだけなのだ。しかも、駅前のわけのわからないサークル状の広場は、ときどきいまだに工機や資材の置き場になっている。いったい25年間も、なにをしていたのだ??
ある日突然、女神の像がもどってきた。広場の端っこのほうへ、いかにも持てあましたような感じでアリバイ的に設置された。あれから25年、25歳も年を取ってしまった女神のお姉さんは、高田馬場駅を見ながらこうつぶやいてるに違いない。「あたしを25年もおみかぎりでさ、もどってみりゃなんてえことありゃしない。愛も変わらずはうれしいけどさ、なんだい、相も変わらず野暮でババっちい駅だねえ。高田のババとは、よく言ったもんさね」。・・・あっ、ここはいちおう山手弁のエリアでした。(汗)
※補記/2005年4月現在、またもや女神像が行方不明になり工事中になってしまった。
■写真上:左が2005年、右が空襲直後・・・じゃなくて1965年(昭和40)の高田馬場駅。
■写真下:駅前広場がまだないころ、1960年(昭和35)ごろの高田馬場駅東口。
この記事へのコメント
hedawhig
※補記/2005年4月現在、またもや女神像が行方不明になり工事中になってしまった。
・・・おかしい!お腹が痛い!・・お見事!!落ち付き♪・・・座布団25枚!あげましょう!
catenamas
私の実家も代々、高田馬場の例にもれず野暮な下宿屋を営んでおります。今はうんと遠いところに住んでいるので、とてもなつかしく思えます。これからも記事を楽しみにしております。
女神のお姉さんがいたのはもう25年も昔になるんですね。
ChinchikoPapa
少しは気分転換になりましたでしょうか?(^^ でも、きのうの業者の答弁を見てますと、ますます腹が立ってきますので、来週あたりストレス解消の「怒り」シリーズでもやらかそうかと考えています。
ChinchikoPapa
わたしは、学生時代から下落合界隈に住んでいるのですが、なぜか目白駅ではなく高田馬場へ出ることが多いです。ババっちい駅ではありますが、どこか親しみの持てるところに惹かれるのかもしれません。
親父も高田馬場、現在のBIGBOX裏に下宿して空襲に遭ってますので、親子3代(子供を含めますと)にわたって縁のある駅なんです。(^^
catenamasさんは、米国にお住まいなんですね! 米国のサクラもきれいですね。よろしければ、「読んでる部ログ」へ掲載させてください。
tetsuo
馬場が終点だった時代を子供でしたが、かすかに覚えています。それから都電。たしか茅場町行きだったと思う。神保町から美土代町に子供の科学のようなたしか科学教材社ってのがあって、小学生数人で冷やかしにいったことが遠くにいった最初かな。
馬場には映画館がいろいろあったのですよ。滅亡した映画館の輝き。いいテーマだと思います。稲門ビルのちょい下にアイシス劇場があった。その後ビルに東映、その以前、早稲田松竹は東映封切もやっていた。西友のパール座、明治通りの戸塚映画、早稲田の全線座。早大通りの突き当たり江戸川橋の山吹町にも映画館。
ChinchikoPapa
それにしても・・・、お話をうかがいますと、ほんとうに映画館が多かった町だったんですね!
ChinchikoPapa
おっしゃるとおり、緑がほとんどないですね。諏訪ノ森を保存しておけば、下落合の御留山を上回る森林駅だったでしょうに。都電が走っていたころは、わたしはほとんど憶えてません。親父に連れられて歩いているはずですが、記憶が飛んでしまってます。
「諏訪森」は南海鉄道(現、南海電鉄)に「諏訪ノ森」という駅があり、「上戸塚」の場合は横浜の「戸塚」と紛らわしいのでそういう風にしたと思います。
ChinchikoPapa
馬場住民
(注意するとキレられます・・・)
あそこは本当にこわいです。
ChinchikoPapa
先日、高田馬場で放置自転車を整理していた職員に、大声で食ってかかる若い子を見かけましたが、なにを考えてるんだか・・・。タバコもそうですが、育てられ方=しつけの問題なんでしょうけど、薄らみっともなくて情けないですね。
M.Yamazaki
貴HPにあります、馬場の駅写真を使用させて頂きたいと思い、メールを差し上げました。よろしくお願い申しあげます。
yamamy@muse.ocn.ne.jp
http://www9.ocn.ne.jp/~inakadiy/
ChinchikoPapa
それにしても、素晴らしい「田舎暮らし」ですね! わたし、暖炉のある家にあこがれてしまいます。ご近所は大邸宅が多く、ペチカのあるお宅が多いのですが、うちはなぜか掘りごたつなんです。(^^;
山崎元樹
私ただ今、HPに掲載する「画像でたどる自分史」なるものを制作しています。
その中で学生時代の高田馬場駅の写真を使いたいと探して貴ページにたどり
着きました。転載の許可を頂きたくメールいたしました。よろしくご検討お願いいたします。
yamamy@muse.ocn.ne.jp
http://www9.ocn.ne.jp/~inakadiy/
ChinchikoPapa
メールでも、お返事しておきます。
Y-K(Y-Y)
昭和ドライクリ-ニングという洗濯屋です。
両横には学生会館、表駅方面に向かうと大きなゴルフ練習場。
裏には高田外語学院。
小学校は戸塚第二小。
今から、50年前の高田馬場裏駅です。
そんな裏駅風景を知っている人がいたら嬉しいです。
銭湯は子供10円、一駅5円、渡辺のジュ-スのもと
そして、空からビラがよく振ってきました。
メンコ遊びとザリガニ取り、良き時代でした。
ChinchikoPapa
1960年代の、高田馬場駅から駅前、早稲田通りの情景でしょうか。渡辺ジュースの素や炭酸系の素は、わたしもよくなめて舌をオレンジやグリーンに染めてました。w 当時は、空からスピーカーで広告を大音量で流したり、ビラを撒いたりするのが規制されていませんでしたね。
60年代の駅周辺の写真や、戦前の情景などをまとめた記事も掲載しています。ご笑覧ください。
●1960年代の高田馬場駅周辺
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2013-03-08
●戦前の駅周辺と商店街の様子
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-11-30
桶谷 宗太
私テレビ東京で番組制作しております
株式会社極東電視台の桶谷と申します
現在高田馬場駅を中心にしたお散歩番組を制作しており
街紹介の中で高田馬場駅の古い写真を探しておりまして
貴ページにたどり着きました。
写真の許可を頂きたくご連絡いたしました。
下記アドレスまでご連絡頂けますと幸いです
よろしくご検討お願いいたします。
sota.oketani@fetv.co.jp
ChinchikoPapa
のちほど、メールを差しあげます。少しお時間をください。