佐伯祐三が描いた絵に、「下落合風景」とネーミングされた連作がある。1926年(昭和元)から翌年にかけて描かれたもののようだが、全部で何点存在するのかはわからない。(一説では30数点とのこと) いまでは、日本じゅうに散逸してしまっている。その連作のひとつが、佐伯の隣人だった落合第一小学校の教師を通じて地元の同校に寄贈され、たいせつに保存されてきた。ときどき、地域センターや新宿歴史博物館などで公開されるから、ご覧になった方も多いだろう。休日にテニスを楽しむ人々を描いた、第二文化村南端のテニスコートの情景だ。(現在は、新宿歴史博物館で管理保管)
佐伯祐三が下落合に住んだのは1921年(大正10)、まだ目白文化村(第一文化村)が造成される以前のことだ。わずか5年間、渡仏している期間を除けばさらに短い時間しか下落合ですごしていないが、よほどこの土地が気に入ったのだろう。「下落合風景」は、かなりの点数が存在するとみられている。また、佐伯祐三が死去したあと、米子夫人も戦争をはさんで1972年(昭和47)に亡くなるまで、下落合の第三文化村わきの同所に住みつづけた。ちなみに、米子夫人はおとめ山公園の保存運動にも協力している。
米子夫人が亡くなったあと、1973年(昭和43)に新宿区が土地建物を丸ごと買収し、「佐伯公園」(約600平方メートル)として保存している。当初は、母屋とアトリエをいっしょに保存していたが、現在は母屋は解体されアトリエのみとなっている。アトリエの内部は非公開だが、園内のうっそうとした木々や静寂から、当時の下落合の様子や第三文化村の風情を想像することができる。
さて、連作「下落合風景」のいくつかの作品は、下落合(現・中落合/中井を含む)のどのあたりを描いたものなのだろうか? 絵に描かれた風景や建物の様子をもとに、大正期から現在にいたるまでの地図や、1947年の空中写真などと照合して、わたしなりに特定を試みてみた。『落合新聞』の竹田助雄氏は、米子夫人とともに「落合風景」の場所特定を試みようとしていたようだが、おとめ山保存運動に忙殺されて、ついに果たせなかったようだ。そのうち、米子夫人が亡くなり、竹田氏も「落合風景」の場所特定を諦めてしまった。わたしは無謀にも、わずかな点数だがそれを試みてみたいと思う。ほんとうは全作品をやってみたいのだが、残念ながら作品の画像が手に入らない。
佐伯祐三は、連作「下落合風景」を描いたあと、わずか2年後にパリで客死している。まだ、30歳の若さだった。つづきは・・・
★「目白文化村」サイト Click!
■写真:左は佐伯祐三のアトリエ(現・佐伯公園内)、右は母屋が壊される前の佐伯祐三宅。空襲では周囲が全焼しているにもかかわらず、アトリエ・母屋とも奇跡的に焼け残った。
この記事へのコメント
hedahwig
自問するときがあります。
東京砂漠~♪ どなたかが歌っていました。
のどが渇いて~・・・CMもありました。
心が潤いたいのですね・・・このトラストも人が住める環境への問いかけと感じてきています。
都会で育った人は開発は結構!うんざりしています。
私のふるさとを返してと叫びたい・・・
私は流行のビルに行ったことがありません。
ChinchikoPapa
当時の新興住宅地だった渋谷の奥や、杉並、中野、世田谷ありへ大挙して引っ越していきました。親父世代の人々ですが、いまだ中央区へはもどってきません。中央区は住民を呼び戻そうと、移入者には補助金などいろいろな“特典”を用意しているみたいですが、区の人口は一時期の50%ほどしか回復していません。緑が消え、住民が消え、商店が消えた町に、もはや人々は魅力を感じないんですよね。このままいきますと、新宿区が、中央区や千代田区の二の舞にならない・・・という保証はどこにもないですね。
練馬区立美術館 横山勝彦
ChinchikoPapa
コピーを参加者へ配布する件、了解いたしました。どうぞ、ご自由にお使いください。また、「下落合風景」も、わたし自身、まだ実物を数点しか観たことがありません。ぜひ、都合をつけてうかがいたいと思います。わざわざ、ご丁寧にありがとうございました。