ときどき神楽坂を散歩するようになってから、20年はたつだろうか。子供のころ、親父に連れられてきたのも含めると、この町とのかかわりは40年近くになるかもしれない。1960年代に見た神楽坂の情景は、いまやあまり見られなくなってしまった。ここは明治以降、柳橋、芳町(元吉原)、新橋、赤坂、浅草と並んで、東京六華街と呼ばれていた。柳橋や芳町とは異なり、神楽坂の華街としてのスタートは新しく、幕末までは武家屋敷街だった。三業(料理屋/置屋/待合)が、そこいらじゅうにできたのは、おもに明治に入ってからだ。名前の由来は、早稲田の穴八幡の祭りに神輿が神楽とともにやってきて、町内を練り歩いたからだ・・・と言われているが、筑土八幡説や若宮八幡説、はては市谷八幡説もあってはっきりしない。
夏目漱石は、亡くなる直前の『硝子戸の中』で、こんなことを書いている。
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其頃の芝居小屋はみんな猿若町にあつた。電車も俥もない時分に、高田の馬場の下から浅草の観音様の先迄朝早く行き着かうと云ふのだから大抵の事ではなかつたらしい。姉達はみんな夜半に起きて支度をした。途中が物騒だといふので、用心のため、下男が屹度供をして行つたさうである。
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これは、高田馬場下(早稲田の夏目坂)から神楽坂を経由して、外濠まで歩いていく様子を書いている。当時はまだ、浅草や今戸へ行くのに、神楽坂河岸から柳橋に出て大川をさかのぼる猪牙(ちょき/舟)を利用していた。明治初年ごろの神楽坂は、まだ追いはぎや辻斬りでも出そうな、さびしくて「物騒」な町だったのがわかる。
神楽坂は、関東大震災で下町が壊滅したとき、一度だけ東京随一の繁華街になったことがある。いまだに、年寄りたちはそのことを自慢したりする。最盛期には、700人を超える芸者さんがいたらしい。料亭の数も、いちばん多かった時代で150軒もあったが、いまではおそらく30軒にも満たないだろう。芸者の数も、100人を切っているといわれている。この街の芸者さんは、野球の早慶戦やラグビーの早明戦がはじまると、早稲田の応援に駆けつけたりする。そう、最近はすっかり新宿に取られてしまった早稲田の学生たちに、神楽坂へもどってきて欲しいのだ。でも、学生がどうやって料亭にあがり、芸者さんへの華代を工面すればよいのだろう?(^^;
いろいろなことがあった。70年代、祭りに阿波踊りが加わったが、それほど認知度が高まったわけではない。なぜ、神楽坂に阿波(四国)の祭りなのか、わたしはいまだに理解できないでいる。神楽坂が舞台の長期TVドラマが作られて、地元も全面的に協力したらしいのだが、それほど視聴率があがらず客足も伸びなかった。全共闘運動が華やかなりしころ、楠田枝里子さんが理科大で機動隊に追われて、駐車場へ蹴落とされたのもこの坂だ。高層マンションは神楽坂に似合わないと、地元ではずっと反対運動をつづけたが、客足が伸びれば・・・という思惑もあってか、芸者新道の真上に高層ビルがなしくずし的に建ってしまった。これでは、和可菜旅館で執筆する山田洋次、野坂昭如、伊集院静各氏たちも、上から覗かれているようで落ち着かないだろう。
芸者新道Click!には、かろうじて昔ながらの料亭が軒をならべているが、その昔、神楽坂芸者のマニュアルには接客するうえでのいろいろなポイントが、微にいり細にいり書かれていた。「第一印象をよくする」、「芸の勉強に励む」、「聞き上手になる」、「お高くとまらない」、「新聞をよく読む」、「流行を追わない」、「時計はしない」、「口紅の色に留意する」、「ダイヤの指輪でお酌をしない」・・・このへんまではまあ当然なのだが、「お客様が早稲田出身とは限らないので、早稲田びいきは出さない」なんてのもある。いまなら、さしづめ「システム用語を憶えてパソコンを使いこなす」なんて課題が加わるのかもしれない。
でも、お酌してくれる芸者さんに、「近ごろ、フィルタリングがきびしくてシビアだそうですのねえ。そういえば、きのうここの女将さんがこぼしてましたわ。御勘定書をPDF生成してお客様へ送信したら、POPサーバに蹴り返されちまったんですってさ。どう絞ったら、プロキシーで御勘定書がはねれるのか不思議がってますのよ」・・・なんて言われながらお酒を飲むのは、やだな。
■写真:左は2005年の神楽坂、右は1960年(昭和35)、下は1965年(昭和40)ごろの同所。
この記事へのコメント
中本 哲
穴八幡の御神輿やお囃子のビデオや音をお持ちの方はいらしゃらないでしょうか?探しております。京都の中本です。
ChinchikoPapa
http://www.regasu-shinjuku.or.jp/46.html
わたしは流鏑馬のビデオはどこかで見たことがありますが、穴八幡の祭事ビデオは記憶にないですね。お役に立てずにすみません。
utchie!
70〜80年代、ナゼか商店街のお祭りに
人寄せ用にあちこちで阿波おどりが盛んに起用されましたね。
神楽坂阿波おどりは都内でも古参に入りますもんね♪
そうじゃなくても神楽坂、大好きです。
最近はずいぶんと景色が変わりましたね……。
ChinchikoPapa
utchie! さんのブログ、とても面白そうですので、ぜひ登録させてください。これからも、よろしくお願いいたします。
utchie!
リンクをありがとうございました♪
お堀沿いの木々の緑がきれいな季節になりましたね。
また、神楽坂へぶらぶらしに行きたいです♪
ChinchikoPapa
渡辺@メジャー
写真を拝見すると
昔の面影を残す神楽坂といっても
今とずいぶん違うものですね。
ChinchikoPapa
1950年代の写真も手元にありますので、今度機会がありましたらご紹介しますね。
dancedancetomo-yori
ChinchikoPapa
でも、最近は、昔ながらの「芸」がちゃんとできるホンモノの芸者さんが減ってまして、お酒の相手をするだけのコンパニオンのような子が、神楽坂でも増えているようです。それでも、かなり高い料金だと思いますが・・・。(^^;