ある土曜日の昼下がり、ネコとたわむれていたわたしは、外がガヤガヤと騒がしいのに気がついた。ご近所が、なんとなく騒然としているのだ。そのうちに、ピンポーンというチャイムが鳴った。すわっ、火事か喧嘩か・・・、いえ、ここは山手でした(^^;、なにか事故か病気で倒れた人でも出たのかと思い急いでドアを開けると、ご近所の方が立ってみえて「テレビが映らないんです」。
わたしはとっさに、うちはテレビの修理はやってないけど・・・などと思ってしまったのだが、次の瞬間、「あっ、アンテナだ」と気がついた。さっそくテレビを点けてみると、なるほどザーザーとノイズが入って、どのチャンネルも満足に映らない。東京12チャンネルにいたっては、ほとんど“貞子”さんがいまにも出てきそうな画面になっていた。さっそく、近くにある大学の電話番号を探しはじめた。
下落合界隈、特に尾根筋ではなく南斜面の家々は、新宿に高層ビルが建ちはじめたころからテレビ映りが悪くなり、画像が大きく乱れるようになった。電波の屈折や反射が、斜面ではことさら複雑になるのだろうか。1970年、最初に京王プラザホテルが建ちはじめたころからの現象のようだ。つづいて、住友ビルと安田ビル、三井ビルが完成したとき、電波障害は決定的となった。ちなみに、いまでも新宿区にCATVは存在しない。高層ビルがあるせいで電波障害がひどく、地上受信局を設置できないのだそうだ。会社自体は存在するが、電波障害対策事業のような業務を行っていると聞いた。この地区では画像に無数のノイズが入り、映像全体もゆがんで見える。ご近所では、できるだけアンテナを高くしたり、ノイズ防止装置をつけて対応したようだが、ビルが増えるにつれて応急処置では間に合わなくなった。
そこで、もっと高いところに設置しないとダメだということになったのだが、当時の下落合にはそれほど高い建物はない。でも、目を斜面ではなく、ふと神田川の方角へ向けると、そこには富士女子短期大学(当時)の時計台がそそり立っていた。ご近所で誘い合い、「あの上なら、きれいに受信できるに違いない」・・・ということになって、話し合いのすえ時計台のてっぺんに集合アンテナを取りつけた。以来、界隈の何棟かの屋根から、アナログ地上波のアンテナが消えた。無粋なアンテナの載っていない家々の姿は新鮮だった。こういうちょっとした変化でも、屋並みの印象はガラリと変わる。取材中の目白文化村でも、大正時代のように地下共同講で電柱が存在しなければ、どれほど落ち着いた風情になるだろうか・・・と、何度か感じたことだ。
大学に電話をすると、土曜日だったせいもあるが担当者が不在で、なかなかラチが明かなかった。しばらくして、大学から電話があり、「うちでは、アンテナ工事をしてません」とのこと。じゃあ、どこかの電柱工事で、誤ってテレビケーブルをいじってしまったのだろう・・・ということになった。案のじょう、2時間ほどのちにテレビ画像は復旧した。高層ビルというと、風害や照害が話題になることが多いが、目には見えない電波障害が予想以上にひどいのを改めて知った。そういえば、高層マンションが林立する石川島の隣り、佃島でも、家々の屋根にテレビアンテナ(アナログ地上波)が少なかったような気がする。
■写真:左は東京富士大学の時計台。てっぺんに、ご近所まとめての集合アンテナがすえられている。右は1970年、建築中の京王プラザホテル。
★おまけ:「吉良邸」のベランダから眺めた新宿方面。桜の木が大きくなって見えにくいが、中央に時計台がある。「♪黄昏の都会は~ブルーな湖~」の時間帯に撮影。(^^;
この記事へのコメント
りちゃつま
ああ~。ビリーバンバンか、朝倉理恵か。
冬のこの季節、寒いんだけど、どこか春めいていく
たそがれ時の表情がいいですね。
今度東京に行ったら行きますわ。下落合あたり。
ChinchikoPapa
主題曲はマガジンの『愛の伝説』、挿入歌が朝倉理恵の『さよなら・今日は』でした。両曲とも、フランス風のしゃれたメロディ作りが得意な、坂田晃一の作曲だったかと思います。
♪黄昏の都会は ブルーな湖 蒼ざめたクルマが 流れていくよ
♪帰る空なくして 悲しげな鳩が 公園の片隅 震えて鳴くよ・・・
といった出だしでした。(^^
ビリーバンバンの『目覚めたときには晴れていた』(二丁目三番地)や、『さよならをするために』(三丁目四番地)なども、そういえば坂田作品でしたね。
Mimura
私の実家はまさにこの近く
この頃私は高校生でした。
しかも、この番組に出ていた
栗田ひろみと同じ高校で
入試をした時も一緒の教室でした!
ChinchikoPapa
ちょうどドラマが終わったあと、下落合に初めて足を踏み入れました。1974年の春ごろだったと思います。いまの下落合から中落合にかけて、延々と散歩したのを憶えています。当時はまだマンションも少なく、ほんとうに山手のお屋敷街でした。
もちろん、富士短期大学(当時)の周辺も歩き回りました。ひょっとすると、ご自宅の前を歩いたかもしれませんね。
Mimura
この番組の後にやっていたのは日仏合作の
ドラマで雪が降るでお馴染みのアダモが主題歌
歌っていました。
私は、高校卒業後は、当時高田馬場にあった
エスペラと言う当時ディスクジョッキーをしていた喫茶店で
私もディスクジョッキーをしていました。
ところで、今朝これと一緒にミツワ石鹸の所で
♪ワッワッワッ輪がみっつ とコメントを書いたのは
私です。名前を入れるのを忘れてすみません。
でも栗田ひろみは当時はものすごく人気でした。
ちなみ、そこの高校は確かこの中にもあった思いますが
落合遺跡がある所で女優の酒井和歌子さんが
卒業した高校です。
ChinchikoPapa
>エスペラと言う当時ディスクジョッキーをしていた喫茶店で
>私もディスクジョッキーをしていました。
わたしは、残念ながらそちらの喫茶店は存じ上げません。当時のDJ喫茶というの、ぜひわたしも行ってみたかったです。「エスペラ」があったころというのは、高田馬場駅隣りにあるパチンコ屋の「白鳥会館」が、まだ名曲喫茶「白鳥」だったころでしょうか。(^^;
わたしも、当時は栗田ひろみが出ていた、大島渚監督の『夏の妹』を映画館へ観にいきました。それにしても、大正時代の旧名でいいますと「城北学園」は、酒井和歌子の出身校なのですね! まだまだ知らないことが多い、下落合界隈です。
小道
ChinchikoPapa
では、「六ノ坂バッケ上・落合遺跡の縄文竪穴式住居は撤去されてもうないよ」記念の、学園同窓会をPapalogでやられます?(^o^
Mimura
私も小道さんと同じ年がバレてしまいますと同じに
私もそれなりに年はだって栗田ひろみさんと同じだから
でも、栗田ひろみさんは半年も学校にはいなかったのです。
でもファンの人がいたらごめんなさい!彼女は歌があまりうまくなかったような
あの高校は白いブレザーがあって、そして校章は結構高い値段でした。ちなみに私の時は1個500円でした!
しかも当時は先生と生徒の恋愛もあって結婚する人もいたり、
また私が在学中の時に公明党の竹入委員長さんの娘さんもいました。
私は40代後半、オゾンやデフテックやケツメイシなどまた
70年代音楽が大好きです。
生まれも育ちも高田馬場ですが
今は埼玉在住です。
これも何か縁なので是非、学園同窓会でもしてみます?
私もブログをしたいと思っているのですが
今いち自身がなくって
ブログのコメントもここが初めてだったのです。
またコメントさせて下さい。
Mimura
あの高校は中学もあって当時円形校舎がありました。
つまり丸い形の校舎でらせん階段でした。
夜になるとお化けと言うか幽霊が出るとか
いい伝えがありました。
実際にあの校舎で部活をしてかなり辺りが
暗くなりつつの時1人の生徒が先に階段を下り
帰ろうとしたら、階段をいくら下りても下に行かず
怖くなり部活の教室に戻り皆で集団で帰りましたが
気味が悪かったです。
小道
私は3年生の時に、途中編入でそこの高校に入学致しました。
私が2つ年上かもしれません。栗田ひろみさんが入学したというので、どんな女の子か見にいったものです。
プログは簡単ですので、是非、やってみてください。
やりながら、こんな風にも使える、こんな風にも活用できるという感じで、自分なりの軌道ができてきました。
最近の収穫は、こんなブログに出会えたってことかしら。
Mimura
では、もしかして当時は高3?
もし、そうだとしたら栗田ひろみさんも有名でしたが
確か高3の生徒と体育の教師との間でその生徒が卒業したら
教師と結婚すると有名でしたが・・・・・。
正直、お恥ずかしい話ですが私はブログはまったく知らないのです
どうやってやったらいいのかも。
教えて下さいませんか。
小道
そえ言われれば、そんな気がします。というぐらいのあやふやの記憶です。3年に編入したら、漢字試験の3年間で終わるところを1年間で終わったり、それと、一番良く本ほ読んでた頃だったので、常に読書していたので、あまりまわりが解らなかったのかもしれないです。
ブログは私のはGOOの無料ブログなんです。どこのがいいか、探ってみてはいかがですか。他の方のブログをたくさんご覧になってみて。
ChinchikoPapa
またいつでもコメントをお待ちしています。ブログは、ちょっとパソコンとネットを使い慣れれば、簡単にできてしまいます。たいがい無料で開設できますので、挑戦してみてください。
ChinchikoPapa
http://www.jsc-com.net/shimoochiai/news/132.htm
その前の遺跡上に再現されていた、竪穴式住居がなくなってしまったのは、ちょっと寂しいんです。何度か、見に出かけましたので・・・。
ChinchikoPapa
Mimura
当時、私が高校の時に催眠術やこっくりさんなど
はやってもいました。年代で行くと昭和49年~50年くらいです。
今、私はおせんべいで有名な草加に在住していますが
岩槻に大学もあります。
でも私が在学中は学校と同じ区にいたので
あまり評判はよくなかった記憶があります。
Mimura
実は、私はこの主題歌の当時のシングルレコードを持っているのです。
私はレコードプレイヤーを持っておりそこからMDに録音しMDから聴いています。当時のシングルは1枚500円でした。歌はまがじん。私はこのB面のすみれ色の黄昏も大好きで、昨日は思わず両面聴いてしまいました。
詩を見るだけでも今でも言えると思うのですが都会って自分だけ精一杯で
冷たい所のイメージがあるようです。
♪黄昏の都会はブルーな湖
青ざめた車が泳いでゆくよ
帰る空なくした 悲しげな鳩が
公園の片隅 ふるえて鳴くよ
人はふっと知り合い つかの間の夢をみて
やがてただ 消えゆくだけなの
私はほしい すべてを賭けて
生きる 愛の命を
木枯らしの都会は つめたい湖
灰色のみかづき うつしているよ
ほほえみを忘れた さかなたちの群れが
地下鉄の入り口 ながれてゆくよ
人はふと知り合い つかの間の夢みて
やがてただ 消えゆくだけなの
信じてみたい 確かな愛に
めぐり逢える あしたを
まがじんの愛の伝説で1973年11月に
日本コロムビアから発売されています。
もし、このシングルを入手するのならば中古のレコード店で探せば
見つかるかもしれません。
私も中古レコードの老舗えとせとらでHPから見つけ出し入手しました。
何だか昔を思い出しDJ風になってしまった感じです。
ChinchikoPapa
この円形校舎、わたしはキャンパスに入って実際に見た記憶がありますので、建て替えられてしまったのは80年代末ぐらいでしょうか。当時は、守衛さんに「縄文遺跡を見に行きます」というと、すぐに入れてくれましたが、いまは復元住居もなくなってしまいましたので、入りにくくなってしまいました。出土物が展示されている「遺跡記念館」も、土日が休みなので最近はなかなか入れません。
ChinchikoPapa
ついでに、朝倉理恵のテーマソングもどこかに保存してたりします。この記事ページのいちばん下に、まがじんのEP画像をアップしてみました。
ドラマ「さよなら・今日は」は、下落合の風景とともに、この主題歌ともども観た方へ強烈な印象を残しているようです。家族がバラバラになり「家」が崩壊していくにつれ、家族とその周辺の人たちがなんとか幸福を見つけ掴みとっていく・・・、「さよならをしなければ、新しいこんにちはは生まれない」というアンビバレンツなテーマに、特に当時十代だった子たちにはジンときましたね。
ドラマ初回の、相馬坂を下るシーンのすぐあと、下落合や高田馬場の街中があちこち映される中で、早坂暁か清水邦夫が書いたテーマ詩(初回はどちらかの脚本だったような気がします)が、中野良子のナレーションで挿入されました。いまとなっては、いかにも70年代半ばのノリで、かなり気恥ずかしいものとなってしまいましたが、憶えていますので書き留めておきます。
さようならと言って 別れを予感するのは あなたの愛
今日はと言って 別れを予感するのは あなたの愛
ゆきずりの人々が ゆきずりの人々におくる 熱い眼差し
そのくせなぜか 口ごもる 空しい時の流れ
きょうも街の中で いくたびか振り返った あなた
きょうも街の中で 別れを予感した あなた
さようなら 今日は
今日は さようなら
(このきっかけで、すぐに第1回目のテーマソング「愛の伝説」挿入)(^^;
Mimura
ChinchikoPapa
Mimura
今の若い人ってベルボトム知っているのでしょうか。
思わす時代を物語るって感じですね。
でも、ここのコメントなのですが、2月から一気に9月に来て
多くなったのは私のせいでしょうか?
でも、何処のブログを見ても懐かしくって子供の頃
思い出します。
でも、気になる文を見つけたのですが
富士女子短期大学。あそこは私が記憶しているのは
女子だけではなく男女共学で富士短期大学だったような
気を悪くしたらごめんなさい!
ChinchikoPapa
はい、コメントが多いの、大歓迎です。(^^ じゃんじゃん書いちゃってください。
富士短期大学の件ですが、短期大学の途中から男子を受け入れて、最終的に現在の4年制「富士大学」になったのではなかったでしたっけ? わたしも不確かですので、もう一度調べてみますね。該当の文章がどこか、お教えいただければ幸いです。
black_tie_1
四のセツ・モード・セミナーを思い出します。 ^^
ChinchikoPapa
> いまはもう、男の子にミニ・スカートをはかせ、ロビーでの結婚式で神父
> 様になり、すぐに生徒の耳を引っぱる変なおじさん(セツ先生のこと)は
> いません。
・・・なんて、センターのWebサイト「入学案内」には書かれています。
black_tie_1
いえいえ、友人に誘われてついていっただけです。 ちょうどあの頃、73年の秋(10月)でした。
72年から73年にかけては“立原えりか作品集”が出版されたりしましたが、今思うとテレビドラマの世界も72年から74年にかけては、あの時代ならではの黄金期であったように思います。 私にとって最も良い時代でした。
この方もあのドラマが忘れられなくて孤軍奮闘。 リンクの御了解を得たので貼らせて頂きました。
↓
http://blogs.yahoo.co.jp/stmaruco/32233981.html#32233981
ChinchikoPapa
最初に放映されたときは、とびとびでしか観られなかったのですが、その後二度ほどの再放送のとき、ようやく全編を通して観ることができました。当時はビデオがなく、面白いドラマがあると、しかたがないのでカセットテープに録音したりしましたね。
「冬物語」はずいぶん流行っていたみたいですが、わたしは見せてはもらえませんでしたので、心残りの作品ですね。確かに、当時のドラマは粒ぞろいで、少し展開がのろいと感じるかもしれませんが、いま観ても面白そうです。
NO NAME
もう、こうなったら、親戚・知人・同窓会一同・全員を巻き込んで、、、一大キャンペーンを巻き起こして、死ぬまでになんとしてでも全編観てやろうと思います。 そのためにCSも入れたんですから。
ええ、ええ、、、 最近タバコを止めたし、酒も半分以下に抑えました。 毎朝5時起き、月・水・金は5時57分の電車で通勤。 会社近くのスポーツクラブに7時入り、ストレッチに心肺機能、筋肉強化、いろいろやってます。 お楽しみはこらからですから。
black_tie_1
鼻息あらくて black_tie_1 入れ忘れました。
ChinchikoPapa
再放送は、75年の午後と76年の午後に放映されたように記憶していますが、76年午後の再放送で、ようやく全編を観られました。
わたしも、再放送されるまで、身体をきたえて元気でいなければ。(笑) 70年代半ば、あのころの下落合の風景を、ぜひもう一度見てみたいものです。
ChinchikoPapa
いつでしたか、こちらで「さよなら・今日は」の1シーン、山村聰と森繁久彌の“海軍談義”を、思い出しながら書いたことがありました。確か、1974年のお正月に放送された回だったと思います。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2005-12-08
ほとんどが、ふたりのアドリブ台詞で、しかもこの回に限っては生放送のドラマ(!)という回でした。面白いのは、台詞をトチッているのもそのまま放映されたことでした。
black_tie_1
ChinchikoPapa
おそらく、基本線の台本はあったのでしょうが、そこは芸達者がそろった回でアドリブだらけ。山田五十鈴と森繁久彌の掛け合いは、ほとんどすべてがアドリブだったんじゃないかと思います。お正月の生放送なので、ほんとうにお酒が出ていたようですね。役柄から、山田五十鈴だけが禁酒をしているという設定で、ジュースしか飲めない彼女が、「あてかて、ジュースが腹へ染み渡るわ」とこぼしていたのを憶えています。そこで、緒形拳が噴き出してましたので、これもおそらくアドリブだったのでしょう。
ぜひ、目白・下落合あたりを散歩されてください。きっと、タイトルバックの風景や、あるシーンで見たことのある場所があちこちに出現すると思います。でも、彫刻家のアトリエを改造した、喫茶店「鉄の馬」はありませんが・・・。(^^
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
元住人
授業のあと、エスペラで駄弁り暗くなると鳥やすで一杯というのが学生時代の定番でした。
ChinchikoPapa
高校時代や学生時代は、なにをあんなにしゃべることがあったのか、喫茶店で友人たちと長時間ダラダラ話していましたね。そんなことをしてても、居心地がそれほど悪くならない空気が、当時の喫茶店にはあったように思います。