吉屋信子の散歩道。

 

  手のつかぬ 月日ゆたかや 初暦
  初暦 知らぬ月日は 美しく
 おそらく新春に詠んだのだろう、『徳川の夫人たち』『女人平家』などの作品で有名な小説家、吉屋信子の俳句だ。第一文化村のこの界隈は、彼女が犬を連れて毎日散歩をするコースで、近所の人たちから頻繁に目撃されていた。当時、吉屋信子は第二文化村の外れ、中井駅へと下りられる南側の斜面に住んでいた。
 吉屋信子はまた、大正期から昭和初期にかけて少女小説で一世を風靡した作家でもある。竹久夢二をはじめ、中原淳一や蕗谷虹児などの、まつ毛が異様に長い少女のイラストとともに、『花物語』や『わすれなぐさ』、『お嬢さん』などいまでも読みつがれている作品を数多く残している。その中で描かれる、ハイカラでおしゃれで洗練された山手の生活環境は、もちろん目白文化村での生活スタイルをイメージしたものだった。大正から昭和にかけて、当時の少女たちが夢みた先進的なハイカラ生活を実現している街・・・、目白文化村はそんな側面をも備えた、少女たちあこがれの住宅街でもあった。
 向田邦子は、父親に吉屋作品をして「こんなベタベタしたものは読むことはない!」と怒られているが、友人から『花物語』を借りてひそかに読んでいる。「私のように戦前にセーラー服を着た女の子には懐かしい」とエッセイの中で書いているが、女学生の向田邦子にとっても目白文化村は、理想的であこがれの新しい生活環境と映っていたにちがいない。つづきは・・・

「目白文化村」サイト Click!
■写真のモノクロ写真は、河野伝が設計しサンポーチが評判になったN邸。は現在の様子。

河野伝設計のN邸間取図/1923年(大正13)当時

この記事へのコメント

  • エム

    N邸のお庭には鉄棒もありました。
    それも確か高いのと低いのと・・・。
    今もあるかしら。
    2005年02月06日 08:14
  • ChinchikoPapa

    昔、庭に鉄棒やブランコを置く家が、けっこうありましたね。たいがいそれは、木製の白い垣根の中にあって、通りを歩いているとよく見えました。小さいころから鉄棒に慣れさせて、小学校へあがってから逆上がりなどで苦労しないように・・・という親心だったのでしょうか?
    下落合を舞台にしたドラマ『さよなら・今日は』では、リビングにブランコが天井から下がっていましたけれど、実際にそういうお屋敷でもあったんでしょうかね。
    2005年02月06日 20:34
  • 井上祐一(文化女子大学)

    N邸の設計者について
    河野伝について調べています。帝国ホテルに建設でフランク・ロイド・ライトのもとで仕事をした人です。N邸についてご存知のことをお聞かせいただきたい。
    よろしくお願いいたします。
    2005年02月21日 16:04
  • ChinchikoPapa

    井上様、ご連絡が遅くなりました。<(_ _)>
    河野伝設計のN邸につきましては、『主婦の友』1924年(大正13)2月号に、写真入りで詳しく掲載されているようです。そこには、屋敷の全景写真とともに、間取り図が掲載されていたようですが、当該の『主婦の友』は参照することができませんでした。わたしが参照しましたのは、目白文化村研究会(東京電機大学)が1985年に作成した『「目白文化村」に関する総合的研究』です。その中に、河野伝が設計したN邸のことが触れられています。
    また、建築当初の間取り図も掲載されていますので、それをサイトへアップします。「吉屋信子の散歩道」最下段へ、リンクボタンを設置しますので、ご参照ください。
    2005年02月22日 13:24
  • 井上祐一

    ありがとうございました。感謝。
    2005年02月22日 17:39
  • ChinchikoPapa

    いえいえ、お役に立てたでしょうか・・・。
    2005年02月22日 21:09
  • ナカムラ

    蕗谷虹児の展覧会が弥生美術館で7月1日まで開催されており、いってまいりました。昭和8年蕗谷は、やはり挿絵で活躍する松本かつじの妹・龍子と結婚しますが、その時代の写真パネルがあり、「下落合の家」にてとありました。それで美術館の学芸員の中村圭子さんに仲介いただき、ご子息の龍生さんに電話でお話しすることができました。昭和5年くらいから昭和19年に山北町に疎開するまで下落合2-622、聖母病院の前に住んでいたとのことでした。その前は上屋敷に住んでいたとのこと。下落合に越してきたきっかけはわからないとのこと。吉屋信子の文に蕗谷虹児のイラストが・・・まさに独特の雰囲気を醸して。このお二人ともに下落合在住だったんですね。私的にはうれしい発見でした。そのときの家は空襲で焼けてしまったとのことでした。
    2007年06月20日 09:33
  • ChinchikoPapa

    以前、高田敏子の文章をまとめ読みしたときに、近くに住む蕗谷虹児の名前が出ていたように記憶しています。高田敏子も諏訪町へ引っ越す前、戦前まで聖母病院のすぐ前に住んでいました。
    http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2005-04-22

    ひょっとしたら、戦時下では近隣との連絡や会合が多かったでしょうから、ご近所づきあいがあったかもしれませんね。少し前、竹久夢二と笠井彦乃について調べているとき、これで夢二と虹児がふたりとも下落合に揃ってしまった・・・と思いました。(^^
    2007年06月20日 11:02
  • ChinchikoPapa

    昔の記事にまで、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2011年02月16日 12:44

この記事へのトラックバック

まぼろしの目白「戸田邸」を見つけた。
Excerpt:  新宿区の教育委員会による、中村彝アトリエの「記録調査」が本格的に始まりそうなので、少し気をとりなおして、また目白/下落合の物語をつづけていきたいと思う。 現在は徳川黎明会となっている目白の徳川邸C..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2006-04-17 00:00

吉屋信子の下落合風景「牛」。
Excerpt: 吉屋信子Click!は、下落合を散歩するときに犬を連れ歩いていたが、ときには手に入れたカメラも携帯していたようだ。彼女が散歩Click!に持ち歩いていたカメラは、大正期の末に米国コダック社から発売され..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-11-22 00:00