
いまから69年前のきょう、1936年(昭和11)2月26日、前夜から降りつづいた大雪の朝、当時は小学生だった親父はいきなり母親(祖母)にたたき起こされた。めずらしく朝っぱらからラジオが大きな音で流れていて(ラジオ放送は沈黙していた・・・というのが定説なので、これは親父の記憶違いClick!の可能性が高い)、朝食を食べるのもそこそこいきなり母親からこう告げられた。
「東京が戦争で火の海になっちまう。いまのうちに見ておくからさ、早く支度おしよ」
ラジオから流れるニュースの意味がよくわからず、親父は、当然ながら学校へ行く支度をして居間に下りていくと・・・
「そんなもん置いてきな」
と言われて、勉強道具を放り出された。そこで初めて、学校へ行かなくてもよく、それ以上になにか重大なことが起きているのを知った。午前9時少し前、親父の父親(祖父)はすでに仕事に出かけ、兄(伯父)はとうに府立中学へと登校したあとだった。ちょうど麹町区有楽町の東京朝日新聞社が、栗原・中橋隊50名により「国賊朝日新聞社を膺懲する」と襲撃されていた時間帯だ。
千代田小学校(現・日本橋中学校)の校舎を右手に見て、すずらん通りから両国広小路の広大な道路へ出ると、祖母はすぐに円タク(1円タクシー)を拾った。それからの半日間、親父はなにがどうなっているのかわからないまま、東京じゅうの景色を車窓から眺めることになる。前年の、相沢三郎中佐による永田鉄山軍務局長の斬殺は知っていたが、陸軍の皇道派と統制派の抗争や、北一輝をはじめとする「原理主義的社会主義」とでもいうべき思想に影響された青年将校たちの存在など、小学生の親父には知るよしもなかった。
円タクがまず向かったのは、下谷から練塀町を通って神田見附(万代橋のちに万世橋)あたり。めずらしい神田の雪景色を車窓から眺めながら、そのまま上野へと抜けずに、御茶ノ水から飯田橋、近衛師団のある九段下、竹橋あたりへ入ってくると、周囲の雰囲気がおかしいことに気づいた。人やクルマの数が少なくなり、代わりにやたら警官の数が多いのだ。26日の昼間、まだ東京市内には戒厳令がしかれていなかった。戒厳令が決定されるのは、同日の夜(午後8時)に入ってからだ。
やがて九段下から糀(麹)町、溜池、山王下あたりに円タクがさしかかると、今度は街中に兵士の姿が目につくようになる。四つ角ごとに兵隊たちが立ち、通過するクルマを止めては誰何(すいか)していた。特に、山王下の料亭「幸楽」や「山王ホテル」の周辺は、完全武装の兵隊たちが大勢たむろしていたという。祖母と親父の乗った円タクも、そんな場所にさしかかると銃剣つきの小銃を向けられて停止を命じられた。「どこへ行くか!?」と訊かれて、物見遊山とは答えられない祖母は、最初は親父をダシにして「子供が熱を出して」・・・とか、いい加減なことを答えていたそうだ。
ところが、赤坂から第一師団の麻布一連隊と三連隊のある六本木あたりへとクルマがさしかかると、兵士の誰何が頻繁になった。これらの兵士は、警備戦時令による第一師団から派遣された警備兵だと思われる。警備戦時令の発令は午後3時ということになっているが、その前から第一師団の兵士たちは街頭へ出ていたようだ。十字路にかかるたびに、停止を命じられてどこへ行くのか、あるいはその理由を訊かれるので、とうとう祖母は「どこへ行こうが、あたしの勝手さ!」と怒りはじめた。

横柄な口調で誰何してくる兵士たちが、20歳前後の若造ばかりだったのも、当時、30代前半の祖母のシャクに触ったようだ。祖母は赤坂あたりで、ついにキレた。銃剣を突き出しながら「どこへ行くか!?」と詰問する兵士に、車窓を開けざま・・・
「邪魔するんじゃないよ、どきな!」
と怒鳴りだしたのだ。何度目かには、ついでに「バカのひとつ憶えかい! 用事があるのさ、どきな!」とも叫んだようだ。円タクの運転手は、ニヤニヤ笑っていたそうだが、祖母の横に座っていた親父は気が気ではなかった。なにしろ、兵士たちはそろって着剣銃口をこちらに向けている。だが、母親がほんとうに怒ったときの怖さも知っていた。父親をはじめ、町内の男たちを黙らせるほどお侠(きゃん)で威勢がよかったようだ。その剣幕に気圧されてか、兵隊たちはそのまま通行させてしまったらしい。円タクは、兵士の誰何と祖母の罵声を繰り返しながら、やがて有楽町から数寄屋橋、銀座を通って日本橋へと帰ってきた。
親父はのちに、二二六事件の現場を逐一見てまわったことを自慢にしていたが、祖母がキレて一連隊か三連隊の兵士たちを怒鳴り散らしたことは、ようやく晩年になってから初めて話してくれたことだ。アルバムに残る、祖母の粋な和服姿の写真を見るにつけ、わたしはつくづく、ひと目でもこの女性に逢いたかったと思う。敗戦の直前、40代の祖母は病気で死んだ。東京大空襲を知らずに死んだのは、むしろ幸福だったのかもしれない。
26日の早朝、ピストルと軍刀で殺害された高橋是清蔵相の、赤坂区表町にあった私邸が、いま小金井にある江戸東京たてもの園(江戸東京博物館)に保存されている。血痕こそ残っていないが、その日にできたものか、2階寝室の長押の角には刀痕と思われる瑕が残っているのが印象的だ。
■写真:26日の山王下あたりで、着剣した実包(実弾)装備の銃口を向けて誰何(すいか)する決起部隊の兵士たち。決起部隊の中には後年、目白/下落合を愛した落語家・柳家小さんもいた。(上) 翌日、戒厳令下の東京市街。日比谷あたりか。(下)
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元祖「すずらん通り」に吹いた風。
Excerpt: ①
久しぶりに「実家」へ行ってきた。といっても、「実家」はとうに60年前の東京大空襲で焼けてしまって、存在しない。でも、急に出かけたくなったのは、『和菓子屋の息子』(小林信彦著/新潮社)を読んだから..
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Tracked: 2005-12-16 00:15
70年前、大雪の下落合。
Excerpt:
昨年の2月、東日本橋のわが家における二二六事件の朝の情景Click!をブログへ書いたが、では下落合ではどうだったのか? ひとつ特徴的なのは、事件が伝わるリードタイムが東日本橋と下落合とではまったく..
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Excerpt:
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空襲で妙正寺川の中へ逃げた高良一家。
Excerpt: 1936年(昭和11)2月26日、高良とみClick!は大雪の新宿にいて二二六事件Click!のニュースを知った。新宿方面に事件のウワサが伝わってきたのは、同日の午後になってから・・・という話Clic..
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Tracked: 2008-12-20 00:06
画家たちが見た二二六事件。
Excerpt: 以前、わたしの祖母が二二六事件Click!の朝、まだ小学生だった親父を連れ「東京が火の海になっちまう。見納めだよ!」と、円タク(1円タクシー)をやとって東京じゅうを“市内見物”Click!してまわった..
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Tracked: 2009-02-26 00:04
「橘」薫る東日本橋の風。
Excerpt: 2007年に文藝春秋から出版された、小林信彦Click!の『日本橋バビロン』を面白く読んだ。わたしが実際に目撃し、知っている時代は物心がついた1960年代も後半、つまり本書では最終章あたりに登場してく..
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Tracked: 2010-03-05 00:03
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Excerpt: 1929年(昭和4)10月13日、戸山ヶ原にできたばかりの「東洋一」を誇る大久保射撃場Click!の真新しいトイレで、さっそく落書きが発見された。それが「上を見ろ→馬鹿が見る~」程度の、他愛ない落書き..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-02-25 00:03
わたしのクルマと運転手はどこいった?
Excerpt: 1936年(昭和11)2月26日に起きた、陸軍皇道派の「国体原理派」Click!による二二六事件Click!で、ときの岡田啓介Click!首相が下落合の佐々木久二邸Click!にかくまわれていたエピソ..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-05-14 00:37
帰宅したら空襲で家がない古川ロッパ。
Excerpt: 古川ロッパ(緑波)といえば、戦前はエノケン(榎本健一)と並んで日本の喜劇界の大御所のような存在だった。わたしの親の世代なら、おそらく知らない方はひとりもいないだろう。古川ロッパの弟子筋には、森繁久彌C..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-09-06 00:07
椎名町と下落合界隈の「グラビアアイドル」。
Excerpt: 戦前は、写真館へ出かけ家族や友人同士でポートレートを撮るというのが、ごくあたりまえに行われていた。カメラがいまだ高価だったせいもあるのだが、やはり「正式」で改まった写真館の記念写真と、「手軽」なスナッ..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-10-01 00:09
蹶起将校宅から600mにひそんだ岡田首相。
Excerpt: ずいぶん以前から、二二六事件Click!の蹶起将校のひとりが、上落合に住んでいたという伝承を耳にしてきた。だが、いくら二二六事件Click!の資料を調べてみても、上落合に住所のある将校は見つからなかっ..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-11-22 00:11
二二六事件の朝は電車が動いていた。
Excerpt: これまで二二六事件については、このサイトでも東日本橋にあった実家の祖母と親父の行動Click!をはじめ、銀座のカフェで壁画の仕事をしていた画家たちの反応Click!、大雪が積もったその朝の下落合の様子..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2013-02-24 00:02
江戸東京の匂いがせえへんのや。
Excerpt: たとえば、わたしが大阪で40年暮らし、ひたすら大阪の歴史や文化、言語、風俗習慣を学習して、地域のテーマ本を書いたとする。かなり微にいり細にいり、突きつめて取材し研究し、小さなところまでこだわって調べ表..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-01-05 00:08
この記事へのコメント
fukagawa_diary
ChinchikoPapa
NHK敷地から渋谷区役所あたりにかけて、いまでも花束をそえる方があとを絶ちません。戦前まで、陸軍刑務所の処刑場があったところで、北一輝を含め首謀者将校たちが銃殺された場所です。渋谷のあのへんは、小塚原、鈴ヶ森、小伝馬町、青山、サンシャインシティとともに、親父が東京であまり散歩したがらない場所のひとつでした。
hedawhig
懐かしいですね。 歯切れのいい方がトンと見られなくなって。
心地よい ブログ、ありがとう
ChinchikoPapa
hedawhig
彼女の気持ちが、とてもよく分かります?
昔はいい意味で、男女意識が確立していましたから。
現在はユニクロ時代?
後姿で判断すると、とんでもないことになります。
ChinchikoPapa
employee
私の祖父の場合は事件当日、大学の卒業試験が終わった次の日で朝寝をしていたそうです。10時になって朝食をとりに府立簡易食堂に行ったところ、食堂の人に「兵隊に米をごっそり持っていかれた」と言われて初めて異変に気づいた、と生前話していました。当時の下宿屋は旅館と同じように、朝夕食も上げ膳据え膳で便利だったそうですが、高いので、それは早くにやめていて、市ヶ谷の民家で二階借りをして、食事は簡易食堂ですませていたそうです。事件からもうすぐ70年になろうとしていて、インターネットでこういう話を伺えるのはありがたいことです。余談ですが、祖父は学生のころ、井の頭公園で林芙美子を囲んで俳句会をしていたと話していました。そういうこともあって、このブログを興味深く読ませていただいております。
ChinchikoPapa
その親父が下宿していたのは高田馬場駅近くですし、日本橋出身の安井曾太郎の自宅・アトリエもあったりして、下落合には親の代からなんとなくつながりを感じてしまいます。ちょうど戦時中と重なりますので、下落合を散歩した親父の片手に、まだカメラがなかったのが惜しいのですが・・・。
employee
安井曾太郎、あの画家は下落合に住んでいたのですか。
出身が日本橋ならChinchikoさんのお家とも交流があったのではないでしょうか。下落合と日本橋とのつながりも感じられて大変勉強になりました。
カメラは戦争中には手に入らなかったでしょうね。
ChinchikoPapa
学生の身分では、カメラには手がとどかなかったんでしょうね。昭和20年代前半ぐらいまで、高田馬場に下宿していたようですから、戦時中の様子から戦後まで、空襲をはさんですべて見ているはずなのですが、当時はまだカメラ散歩マニアにはなれなかったようです。
NO NAME
「青山」+「空襲」で引くと、東京新聞の記事が出て来ました。
http://www.tokyo-np.co.jp/kioku05/index.html
1945年5月25日夜の山の手空襲。これでしょうか。
クリスマス電球ではなやかに着飾っている表参道が、ちょうど40年前にはそんな惨状だった。
ChinchikoPapa
http://www.tokyo-np.co.jp/kioku05/txt/20050602.html
親父が青山界隈を避けていたのは、空襲による被害からではなく、江戸期から昭和へとつづく「町づくり」の過程のせいではないかと思います。青山霊園が造られる以前から、青山一帯はちょうど千代田城の裏鬼門にあたる方角ですので、寺院や墓地がもともと多かったようです。それらを潰したり、あるいは墓地領域や境内を大幅に縮小したりして、青山の町(特に北青山界隈)はつくられています。
その過程で、膨大な数の墓地を改葬せずに、墓石だけ集めて狭い地域に押し込んでしまったり、供養がなされない古い墓地はすべて潰して開発が行われたり・・・と、あまり気味のよくない造成のされ方をしたようです。
親父は、そのことを祖父母から聞いて育っているようですので、「青山は怖い場所だ」・・・という印象が残り、近寄らなかったのではないかと思います。このことは、うちの親父に限らず、町の成立に絡んだ伝承は広く知られていたようで、青山を舞台にした幽霊話が、今日にいたるまでやたら多いのも、そのせいではないかな・・・と感じています。
道端の虫
たまたま、二二六事件当日のお祖母さまの武勇伝とコメント拝見して、何日か考えましたが、どうしても書かずにはおれませず、書き込ませていただきます。
その日、お祖母様はすぐに円タク(1円タクシー)を拾って半日間、息子を連れて東京じゅうを走り回られた。
四つ角ごとに兵隊たちが立ち、横柄な口調で誰何してくる兵士たちが、20歳前後の若造ばかりだったのも、当時、30代前半の祖母のシャクに触られたようで、
銃剣を突き出しながら「どこへ行くか!?」と詰問する兵士に、車窓を開けざま・・・
「邪魔するんじゃないよ、どきな!」と怒鳴りだされた。
と、あらかたこのような内容の記事で、以下のような「コメント」が書き込まれていました。
「素敵なお婆ちゃま・・・超江戸弁 江戸っ子~
懐かしいですね。 歯切れのいい方がトンと見られなくなって。
心地よい ブログ、ありがとう」
この野戦体制の歩哨勤務に立って「誰何」していた兵卒は、上官の命令に従っていたのです。
そして、この後、参加部隊の下士官・兵は最前線に送られ、特に最後まで抵抗した安藤隊所属の下士官兵は肉弾突撃を再三命ぜられてほとんど全員戦死したと聞きます。
事件の日に、円タク(1円タクシー)、今で言う「ハイヤー」でしょうね、を雇って半日間見物に回って、「邪魔するんじゃないよ、どきな!」と怒鳴りつけた人たちの住む国を護って戦死したのです。
あなた様のこの記事を拝見しながら、あるブログで読んだ「全共闘の時代」に関する記事を思い出していました。
そこには全共闘時代の思い出の記事に続いて、こんなコメントが書き込まれておりました。
「(あなたも)あばれてればよかったね! 内ゲバは論外として、機動隊相手にさあ。」
また以前テレビで、「ニュース番組」と言う「時事漫談ショウ」のコメンテイターみたいな人、どこかの新聞社関係のようないかにも進歩派知識人のような人が、
自分の学生時代の闘争を振り返って
「私たちは機動隊に突っかかるんですヨ、
でも相手はぐっとこっちをにらみつけながら、こうしてるんですね、
(と両手のこぶしを握り締めてこらえる仕草をまねて)、
警官隊が手を出せば叩かれますからね」
といかにも楽しげに武勇伝のように話していた場面を思い出しました。
彼は最後まで「あの機動隊員には悪かったと思う」とは言いませんでした。
せめて「機動隊員のほうも気の毒だった」とも言いませんでした。
デモ隊の女子大学生が、機動隊員に向かって
「権力の犬っ!犬っ!ワンと吠えろっ!」と罵った、
という武勇伝もいつかどこかで聞いた覚えがあります。
機動隊の隊員も学生と大体同じ世代だったでしょう、同じ人間でしょう。
なぜ大学生さん同士の「内ゲバ」は「論外」と言うくらい無条件にいけなくて、
「機動隊相手にさあ」なら「あばれてよかったね」なのでしょうかね。
あのテレビのコメンテイターを許せずに、もし、私が上京して刃物で彼を襲ったなら、
彼は即座に「言論を暴力で封ずるのか」「警察は自分を護れ」と叫ぶでしょうね。
あの「どきな!」と怒鳴られたという江戸っ子のお祖母様は、大空襲の時は誰に怒鳴っておいでだったのでしょう。
「あばれてればよかったね! 内ゲバは論外として、機動隊相手にさあ。」
「邪魔するんじゃないよ、どきな!」
「心地よい ブログ、ありがとう」
とパソコンに書き込んでいる人たち。
でも、この人たちだって、相手が現場の警察官や兵卒だから、
「どきな!」とか「あばれてやる!」とか言っておいでなので、
相手が高級将校や会社のえらいさんだったら、ぺこぺこしてるんじゃないかと、
ま、これは私のひがみですが。
もちろん、私が上京して刃物で彼を襲うことはありません。
ただ、私でも許さないことは出来ます。
私は、父も伯父も兵卒であった私は、
友人の息子が給与が安定しているからと警官に就職した私は、
まず間違いなく、怒鳴られる方の一族である私は、
許さない。
世の中は、あなたたちばかりではない、
私たちのような者もいるのです。
言わねば、言わねば、の思いで震える手でこの文を、打っております。
垣もとに 植えしはじかみ 口ひひく、われは忘れじ、われは許さじ。
ChinchikoPapa
この記事でご不快の念を抱かれたようで、まずその点をお詫びいたします。そのうえで、書かせていただきたいのですが・・・。
> この野戦体制の歩哨勤務に立って「誰何」していた兵卒は、上官の
> 命令に従っていたのです。
おうかがいしたのですが、これはいったいどの時点で明確になった事実なのでしょう? 「上官」とは、麻布第一連隊(ちなみに義父のいた連隊ですが)か、それとも第三連隊のそれを指してお書きですか? それは226事件が起きたその日の時点で(少なくとも午前中から昼過ぎまで)、リアルタイムに東京市民へ判明していた事実でしょうか?
そのとき、祖母に限らずほとんどの東京市民は「なにかが起きている」とは感じていても、具体的にいったいなにが起きているのかは、なんの説明もないまま、さっぱり状況がつかめなかった・・・というのが実情ではなかったでしょうか。これは、単純な時系列による事実認識の問題ですよね。そして、道端の虫さんがお書きのことは、あと追いで判明した、換言すれば226事件のずっとのち、戦後になってようやく明らかになった事実をも含む内容ですよね。
情報がなにももたらされないまま、「なにかが起きている」という不安とも懸念ともつかない感覚から、一般道で円タクを走らせ市内をめぐっていたら、警察でもない軍隊の兵士からいきなり停止を命じられ、わけもわからず着剣銃口を向けられ脅されながら「誰何」された・・・というのが、いちばん実情に近い姿ではなかったかと思います。こんなことが一般道で何回も繰り返されたら、わたしの祖母のような気性の人間でなくても、少し気短かな性格の人間なら、おそらく怒り出すでしょうね。
今日では、鉄道が止まったり、バスが検問でずっと停止したまま、それが「なぜ?」なのかの説明が充分になされなかったりしたら、乗客たちは怒り出して駅員だろうが警官だろうが抗議あるいは文句をいうだろうし、中には食ってかかる人さえ頻繁に見かけますよね。別にその人たちは特別な人間ではなく、また現在に限らず、戦前にだってたくさんいただろうし、うちの祖母もあまり自慢のできた気性ではありませんが、そのような人間だった・・・ということなのでしょう。
わたしは残念ながら、彼女に直接会ったことがないのですが、少なくとも筋の通らないことに関しては容赦のない性格だったようで、それは相手が軍人だろうが地廻りだろうが関係なく、死ぬまで一貫していたようです。ちなみに、祖母は1943年(昭和18)に病死していますので、東京大空襲の惨禍は知らずに済んでいます。
ただし、226事件の全貌・・・とまではいかなくとも、おおよその経緯や状況を、あと追いの知識ではなく、ましてや結果論でもなく、その日その時に知っていたとしたら、かなり危険な状況だったであろう街中へ、親父を連れ出してまわったかどうかは、さだかではありませんが・・・。
> あなた様のこの記事を拝見しながら、あるブログで読んだ
> 「全共闘の時代」に関する記事を思い出していました。
以下に書かれたことは、わたしの祖母と、あるいは上記の文脈とどのようにつながってくるものか、わたしにはまったく理解できません。きわめて意識的かつ主体的に行われたであろう「全共闘」や「内ゲバ」という“行為”と、なにも知らされない状況で筋の通らない(少なくとも祖母にはそう思えたのでしょう)理不尽な状況を押し付けられ、ついに怒り出したという祖母の“行為”と、ふたつの精神のどこが通底しているのでしょう?
ちなみに、わたし自身は「全共闘」世代と呼ばれる方々よりもひとまわり以上、下ですが・・・。また、ある年代の方々を○○世代とひとくくりにして、個々の人たちの思想も主体も個性も“埋没”させる表現を、わたしは好きではありません。
道端の虫
あなたや、あなたのお祖母様に悪口をきくつもりは無かったのですが、
口が過ぎたかもしれません、ご勘弁願います。
「上官」とは誰をさすのか、
と聞かれても、私にはわかりません。
ただ、兵隊が、上の人の命令なしで、鉄砲を持って、街角で「誰かっ」と言う事は、無いと思います。
というより、兵隊には、上の将校さんから、命令されたら、従う以外に身の振り方は無かったと思います。
そういう意味です。
また、「全共闘世代」とか「団塊の世代」とか、「昭和30年代は」とか、「昔は良かった」などと、人をひとくくりにするのは、私も大嫌いです。
ただ、親代々富める人と、親代々貧しい人との間には、
時代を超えて、何か越えがたい溝があるようには感じております。
どちらが、正しいとか、どちらがやさしいとか、言うつもりは有りません。
どちらにもいろいろな人が居る、と思っております。
兵隊に向かって怒鳴られたお祖母様にも、ある種の共感を覚えた、
怒鳴られた田舎者の出身の若僧の兵隊にも、共感を持った。
ただ、兵隊の姿の方に自分の父祖の姿が二重写しになったため、
と言うところが、本当の私の思いです。
失礼します。
ChinchikoPapa
わたしも、少し紋切り型のリプライを差し上げてしまったか・・・と、反省しておりました。失礼の段、ご容赦ください。
わたしも、「○○世代」とか「○○派」と人間をひとくくりにしてしまうのが、ちょっと気がかりなタイプです。一種のレッテル張りというのでしょうか、「あの人は○○だから」・・・という非常に一面的なカテゴライズが、先入観と偏見とを産み固定観念へと結びつくというのは、わたしもこの年になるとつくづく感じてしまいます。(自戒を込めて・・・) それを突き詰めますと、旧ソ連の「反革命分子」や戦前の「アカ」というような、人間を平気で圧殺・抹殺していく思想と、どこかで容易に結びつくのだと思います。
本来、人間は非常に多面的なものだと思いますので、おそらくわたしの祖母も、円タクの窓から怒鳴り散らずばかりの女性ではなかったでしょう。(そう願いたいですが)
いまごろ、墓の下からわたしを叱り付けているかもしれませんが。(^^;
コメントをごていねいにありがとうございました。
ChinchikoPapa
YOKO
私の母も祖父母も東京に住んでいましたが、226の当時は何がどうしたのか、断片的にしか新聞にでなかったそうです。戦後になってからいろいろな事実がでてきて、そういうテレビは必ず見ていました。
ChinchikoPapa
録音テープのドキュメンタリーは、わたしも見ました。意外だったのは、電話口の将校や北一輝などが淡々と会話をしていることで、特に北一輝(西田税だったかもしれません)の「なにか、いるものはないかね?」と、差し入れの打診をしているのが印象的でしたね。
二二六事件について、地域を意識しながら調べていると、祖母のいた日本橋などの下町や東京郊外(落合地域)などで、当日の朝から、案外事件の正確な内容が把握されている点が目立ちます。可能性としては、ラジオはほんとうに沈黙していたのか?……という課題がひとつと、学校関係者(学生や生徒たちも含む)が事件の被害者たち(政治家等)を、早い時期から把握しているというテーマがあります。
少なくとも、鉄道や市電などの交通は通常どおり運転(雪による遅れは出ていたかもしれませんが)して、学生たちはみな登校しているようですので、「交通が止まっていた」というのは誤伝だとわかりますね。
YOKO
ChinchikoPapa
いまの「オレオレ」詐欺ではないですが、なんだか謀略の臭いがしますね。誰かになりすまして将校らに電話し、「いるもの」つまり裏返せば蹶起部隊に不足しているものを、ひそかに聞きだそうとしていた……とも解釈できます。中田 整一の『盗聴』は未読ですので、機会がありましたら目を通しておきたいと思います。
先に書きました、事件直後に栃木県宇都宮から小日向第六天町の徳川慶喜邸へ急派され、事件が収束するまで駐屯していた歩兵第59連隊にも、同じようなエピソードが残っています。このとき、連隊旗の旗手をつとめていた青年将校をはじめ、若い士官たちが徳川宗家の女性たちには人気のマトで、子女から女中たちまでがはしゃいでいたと、当の徳川喜佐子(榊原喜佐子)が回想しています。w