弁天社のあるメインストリート。

 弁天社のある、第一文化村のメインストリートだ。現在、第二文化村内にある「下落合みどり幼稚園」(下落合教会)へ、オスガキどもが通っていた縁で、この通りには知り合いも多い。下落合みどり幼稚園は戦後に建てられた幼稚園だが、ひらがな習いなど小学校の入学準備をいっさいやらせず、ひたすら泥まみれになって徹底的に遊ばせる方針が気に入って通わせていた。そのせいか、ふたりともいまだに勉強は不得意だが・・・。文化村内でもこの幼稚園の人気は高く、多くの子供たちが通っていた。
 前回もふれたが、弁天池の畔から弁天社が少し高台になっているこの通り沿いに移築されたため、通称「弁天通り」などとも呼ばれている。また、戦前までは弁天鳥居の並びに同志会(生活協同組合)があったことでも知られていた。ゆったりとした区画割りで広い屋敷が並び、同志会では店頭販売をしていたせいもあって、買い物や散歩に、文化村の住民たちがもっともよく通り抜けた道だ。つづきは・・・

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■写真:第一文化村の中央にある弁財天社。

この記事へのコメント

  • エム

    はじめまして、文化村生まれ、文化村育ち、ついでにみどり幼稚園
    出身者です。
    我がふるさとの文化村の記事をいつも楽しく拝見しております。
    文化村ハウスにはひとつ年上のまゆみちゃんが住んでいましたので
    しょっちゅう遊びに行きました。
    崖に向いて開いた流し場には桶と洗濯板が並んでいたっけなあ。
    共同の炊事場の光景も目に浮かびます。
    もしかしたら私の一番古い記憶が「文化村ハウス」かもしれません。
    それほど強烈な記憶が残っています。
    2005年01月18日 14:50
  • ChinchikoPapa

    ようこそいらっしゃいました、エムさん! 目白文化村初めての、住民の方のご登場です。(^o^
    その「文化村ハウス」ですが、わたしの記憶にないところをみますと、1980年より以前に取り壊されてしまったのでしょうか? 古くからお住まいの方にうかがいますと、ずいぶん以前からかなり老朽化が進んでいたようですので、建てられたのは戦前でしょうか。1947年の空中写真でみますと、第一文化村のこの一画だけが緑に囲まれていたせいか、同志会の建物ともども島状に焼け残っているのが見てとれます。
    また、なにかお気づきの点やご感想などありましたら、お気軽にぜひコメントをお寄せください。次回からは、いよいよ焼けなかった大正時代の住宅街へと入っていく予定です。(^^
    考えてみますと、代々下町出のわたしがおよそ場違いなところに住み、生粋の「山手っ子」の方々とおつき合いできるのも不思議なら、こうして実際に文化村へ代々お住みの方とコミュニケーションしながらサイトを作れるのも、改めてすごいことだ・・・と感嘆してしまいます。これも、ブログのおかげでしょうか。
    2005年01月18日 15:49

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Tracked: 2008-10-25 00:21