正月は、わたしが料理番だ。いや、正月にかぎらず、土日祝日はたいがいわたしが料理を作っているのですが・・・。(^^; せっかく作っても、いつまでも満腹しないオスガキどもへ食わせるのはちょっと・・・というか、かなり空しい。お節料理は大晦日の午後、大掃除が終わったあとから仕込みに入る。買出しに行ったら、今年はユリ根やクワイがめちゃくちゃ高くてパスしてしまった。そのかわり、ヤツガシラを多めに買いこんで、煮しめを大量に作ることにする。暮れの大掃除のとき腰をひねったせいで、手間ひまのかかる黒豆の甘露煮もパス。既製品を買ってしまった。かろうじて栗きんとんのみ作ることにするが、サツマイモの裏ごしなどの力仕事はすべてオスガキまかせとなった。
さて、まず煮しめ。材料は、ヤツガシラ、竹の子、にんじん、ごぼう、しいたけ、蓮根の6種類。たまに塩銀杏を入れることもあるが、オスガキどもが大嫌いなので外す。これらを、昆布と鰹節でとった出汁(酒と味醂も必須)で煮ていくわけだが、一緒に煮るのは、ヤツガシラとにんじんのみで、あとはすべて別々に煮ることになる。したじ(濃口醤油)と塩、それに砂糖(三温糖ないしは黒糖)の加減が、それぞれの野菜では全部違うからだ。また、灰汁の多いれんこんとごぼうは、特に分けて灰汁をていねいに取りながら煮つける。最初に酢水に漬けておく方法もあるが、酢の香りが残るようでわたしはしない。しいたけと竹の子はかなり甘めに、ごぼうと蓮根はやや甘めに、ヤツガシラとにんじんはたくさん食べられるよう出汁が引っこまない程度の薄味に・・・という感じ。盛りつけも、別々の鍋から重箱へ・・・というのが理想的なのだが、面倒になるとひとつの鍋に混ぜ合わせてしまう。そこが、男料理のいい加減さだ。
次に雑煮。雑煮は元日の朝、作りたてを食べるのが美味しい。前日の夜中に作りおくと、素材に味が染みこみすぎてくどい。わが家は、典型的な「関東雑煮」だと思う。その昔、雑煮に欠かせない野菜は、練馬大根に滝野川にんじん、葛西の元祖・小松菜に世田谷の三つ葉と、富士山の火山灰地で育まれたシャキッ!と目のさめる江戸野菜のそろい踏みだったのだが、いまはそんなもんいくら探しても見あたらない。いちばん最後まで残っていたのは、品川の海蔵寺で沢庵和尚が漬物にして、美味さに定評があった練馬大根ぐらいだろうか。みんな宅地化され消えてしまったので、しかたなく東都生協からとどく野菜で作るしかない。昆布と鰹節の出汁で煮る(こちらも酒と味醂は必須)のは同じだが、大根とにんじんは千六本(千切りより太め)に。小松菜は別鍋で、緑があせない程度に塩ゆでしておく。おごれば江戸名物の鴨肉を、ふつうは鶏肉を適当な大きさに切って、素材が煮えたら投入。肉に火が通ったら、したじと塩、かくし味で砂糖を加えてできあがり。盛りつけるときに、別ゆでしといた小松菜、三つ葉、それに火取りしたての浅草海苔を添える。わが家のこの作り方は、鶏肉や鴨肉が手軽に手に入るようになった明治期以来、変っていない。椀の底に、好みでゆず皮をほんの少し入れておくのもいいが、これもオスガキどもから文句が出るので今年もナシ。下町でも少し場所が変わると、雑煮の作り方は少しずつ異なっていたようだ。わが家の雑煮は、特に親に確かめてみたわけではないけれど、おそらく日本橋風なのだろう。あるいは、おふくろの育ちが入って、少しは山手風も混じっているのかもしれない。
大鍋へかなり大量に作った雑煮と煮しめのはずだったが、ほぼ1日でなくなってしまった。そのかわり、オスガキどもがあまり手をつけないフナやハゼの甘露煮、ハマグリや小えびの佃煮、ニシンやサケの昆布巻きがいつまでも残る。料理は、どこか絵具を混ぜて思いどおりの色を出していく作業に似て楽しいが、瞬間芸の世界だと思う。「音楽は音が出た瞬間、宇宙の彼方へと消え去っていく芸術だ」・・・と言ったのは、エリック・ドルフィーだったろうか。料理は、どこかとっても空しい。その空しさが、ことさら楽しいのかもしれない。
この記事へのコメント
玉井一匡
ただ、ぼくは根が食いしん坊だから、時間をかけてつくったものがたちまちなくなってもむなしい気分にはならず、ああ旨かったとおもうばかりで、次は何を喰おうかと考えてしまいます。
ChinchikoPapa
わたしも、もともと食いしん坊で作っては食べ作っては食べ・・・していたのですが、料理を作ると匂いが鼻について、さすがに昔のようには大食いしなくなりました。やっぱり、人が作ってくれたものを食べるのがいちばん美味しいです。(笑)