1922年(大正11)ごろに完成した、広大な箱根土地本社の跡地は、いまは3分の2ほどが山手通りの下になっている。泉や池が埋め立てられ、盛り土がされてその面影はいまやまったくない。
現在は、ディスカウントスーパー(カラー写真)の建つあたりが、大きな池へと下る斜面があったところ。モノクロ写真に見える斜面が、あちこちに湧水のあった本社の敷地南辺の斜面。手前には、池の南端がほんの少し写っている。奥の建物は、箱根土地の社屋ではなく、第一文化村に建てられたクラブハウスだ。
箱根土地本社は、赤いレンガ造りで2~3階建てのしゃれた建物だった。改正道路(山手通り)の建設計画とともに、すぐに壊されてしまった本社屋だが、1925年(大正14)に描かれた、松下春雄の『下落合文化村入口』と題された油絵に、建物の一部がかいま見られる。つづきは・・・
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この記事へのコメント
iGa
ChinchikoPapa
かあちゃん
ChinchikoPapa
●箱根土地(株)の関連建設会社
社名はわかりませんが、おそらくいちばん数多くの建設を手がけているのではないかと思います。住民は、文化村の土地を購入するとともに、建物も箱根土地に任せよう・・・ということで建築を依頼したため、「箱根土地に建ててもらった」という意識があるようです。でも、実際には関連建設会社の作品です。
●あめりか屋
明治以来、東京府内の西洋館建築で有名な、当時の老舗的な建設会社です。名前がしめす通り、米国風の建築が得意だったようです。ただし、和室をともなう一般住宅の建設には不慣れだったのではないかと思います。
●フラー建築(株)
米国はロサンゼルス(ビバリーヒルズ)の住宅造りを手がけた会社らしく、日本にも合弁会社を設立(1920年)しています。支配人のターナーが目白文化村を実際に訪れ、「おお、ロサンゼルスの縮図よ!」と言った話は有名。和洋折衷住宅の先駆けのような建設会社です。
●宮大工
第一文化村の知り合いの家のひとつも、宮大工に建ててもらいました。それまでの日本家屋の大工では、西洋館を建てるのは不可能なので、多彩な建築技術に通じた宮大工に設計図をわたして、苦心のすえに建ててもらった家が何棟かあります。
●中村健二(建築家)+南建設
●河野伝(建築家)
こうしてみますと、外観は西洋風に、中身は和室と洋室の和洋折衷に・・・という、それまでの一般住宅ではありえなかった日本初の先駆的な家造りに、住民のみなさんが試行錯誤していた様子がなんとなくわかります。明治期まで華族やおカネ持ち、あるいは企業が建てていた純粋な西洋館とは本質的に異なり、外観は西洋風でも中身は応接室を除いてほとんどが畳の部屋という屋敷もありました。昭和初期に大流行する、いわゆる和洋折衷の「文化住宅」の嚆矢となった実験的な建築が、大正期の目白文化村で試みられていたようです。
すずめ
iGa
トラックバックから札幌の旧小熊邸 拝見しました。そちらもコメント盛り上がっていますね。
Chinchikoさん、詳細なご回答有り難うございます。
当時はライト風の設計は時代の最先端だったのでしょうね。ライトのプレーリーハウスのドローイング集等を入手すれば、器用な日本人のこと、ライト風のデザインはそれなりにできたのかも知れませんね。そういえば前の首相官邸もライト風、銀座のサッポロビールのビアホールもライト風、最近のハウスメーカーもネタが尽きると、ライト風のデザインが復活してきます。
ChinchikoPapa
かあちゃん
>すずめさん、新年早々ごめんなさーい。近頃勘違い、物忘れ&思い込みがはげしくて<若いのに(((^_^;)
>Papaさん、杏奴ママさんの風邪の具合はいかがですか?私は初売りに出かけて元気が出たのでもうすぐ治りそうです(^^)
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa