その昔、わたしが美術学校へ入りたくて絵を習っていた高校時代、美術の教師がこんなことを言った。「日本の紅葉をキャンパスへ写そうとしてもダメだ。そんなこと、絶対にできるわけがない。いかに写すかではなく、いかに嘘八百をうまく描けるかだ」…。それでも、わたしは「そんなことも、ないんじゃないか」と試してみたことがある。
透明水彩、油、パステル、ポスターカラー、岩絵具…といろいろ使ってはみたが、どうしてもこの色合いを出すことができなかった。「ぜんぜんダメじゃん、それみたことか」…という顔で、教師は笑って見ていた。紅葉と、西に傾いた黄色い光の絶妙。「じゃあ嘘八百の絵を、なぜことさら描くのか?」という問いに、「ひょっとしたら、きみが見ている紅葉とわたしが見ている紅葉とは、まったく違うように映ってるかもしれないじゃないか。その違いや主観を表現するのが絵を描くことだ」…と、認識論の世界へ逃げこまれてしまった。
なんとなく、詭弁臭さを感じて納得できずに、主観的認識と客観的認識なんてわけのわからない議論をした憶えがある。テレピン油の匂いがただよう、教室の情景がなつかしい。結局、「きみは太陽を赤く描くかもしれないが、太陽が青く見えてる人だっているかもしれない」と、まるで英国教会派は不可知論まがいの教師の言葉で終わってしまったのだが、なんだか美術をことさら人文科学的な視野から語られたような気がして、いまだ納得できていない。
でも、確かに言えることは、どうやっても紅葉を絵に写すことはできないし、わたしには絵の才能がなかった…ということだけだ。散歩の途中で紅葉を見かけたら、いまだ美術教師の笑顔が浮かんで消えた。
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ChinchikoPapa