
江戸期には、落合地域で具体的にどのような農作物が栽培されていたのだろうか? これまで、おもに明治以降から戦前まで栽培されていた麦類や野菜(ダイコン)、果実(カキ)などについては折にふれ記事にしているが、米についてはほとんど触れてこなかった。
そこで、1826年(文政9)に天領(幕府直轄領)の上落合村から幕府に提出された、「村差出明細書上帳」という史料を参照してみよう。同史料は、戦後になって月見岡八幡社に奉納されたもので、それまでは氏子の中村家が保存していた関係から、「中村家文書」とするのが正確なのかもしれない。いわゆる「村方書上(むらかたかきあげ)」と総称される同書上帳は、おそらく代官所(幕府)へ提出した本帳の下書きあるいは草稿とみられ、ところどころの項目に追記が見られる。上落合村の「村差出明細書上帳」は、その内容が1988年(昭和53)に新宿区教育委員会から刊行された『新宿区文化財総合調査報告書 4』に収録されている。
けれども、おそらく調査報告書の収録時に転記ミスがあったのだろう、わたしは同書の収録には項目に漏れがあることを知り、全文は1994年(平成6)に上落合郷土史研究会の岸辰夫という方が独自に編集した、『解説村差出明細書上帳』(私家版)に収録されていることがわかった。そこで、いちおう双方の資料を比較・参照しながら、上落合村で栽培されていた農作物、特に米(稲)について見ていきたい。おそらく、同時期の天領(幕府領)だった下落合村や葛ヶ谷村(ほぼ西落合エリア)でも、おおよそ大差ない作付けだったと思われる。
「村差出明細書上帳」原本と、『新宿区文化財総合調査報告書 4』(新宿区教育委員会)との差異は、たとえば44項の「油使用人」の「用」の字が教育委員会の資料では脱落していたり、最後に近い84項目めの「本尊釈迦仏 日蓮宗火葬場 法界寺」とその関連文が丸ごと欠落していたりと、おそらく原本を原稿化する際に転記ミスが生じたものだろう。したがって、原本の記述は上落合郷土史研究会の『解説村差出明細書上帳』のほうを尊重したい。ただし、同研究会の岸辰夫という方の原文解釈にも、現代の江戸史研究から見ると、明らかに誤解釈ではないかとみられる箇所が散見されるので、あくまでも「村差出明細書上帳」の原本記述を中心に考察してみたい。
まず、江戸期の「五穀」について見ていこう。五穀は、全国の地方地域によって異なるが、江戸期の関東地方における五穀とは、米・麦(大麦・小麦)・粟・稗・黍または米・麦・粟・稗・豆(刈豆=大豆のこと)の5種類だ。上落合村では、「黍」と「豆」のどちらを五穀に含めていたかは不明だが、作付けしている農作物について、五穀以外の産物に「刈豆」を含めていること、明治以降も黍は落合地域で栽培されていたことなどから、同村では「黍」が五穀に含まれていたのではないかと想定できる。上落合村の「村差出明細書上帳」には、次のような記述が見えている。
五穀之外格別多作出候者無御座候
「五穀のほか特別に多く栽培している穀物はない」と幕府に報告しているが、米については別に項目を立ててその品種まで詳しく記述している。
稲草種之名 白志げ 蟹あけ くろ志け めくろゑちご
「白志げ」は、明らかに江戸期に全国で栽培されていた、「白髭(しろひげ)」と名づけられた米種のことだろう。「髭」とは、稲穂の先につく刺のような芒(のぎ)のことで、大麦・小麦の麦穂につくトゲトゲの形状とまったく同様のものだ。現在では、芒のつく稲はほとんど見られないが、江戸期にも芒なしの稲は栽培されており、そちらは「坊」とか「坊主」「法師」などの名称がつけられていた。したがって、現代の米はほとんどが「坊主」「法師」種ということになる。
ここで面白いのは、江戸東京方言をそのまま稲の品種名として書きとめていることだろう。「白髭(しろひげ)」を「白志げ(しろしげ)」、「黒髭(くろひげ)」を「くろ志け(くろしげ)」と、村役人(名主)が発音したままの名称で文章化している。「村差出明細書上帳」は、上落合村の名主・重右衛門が提出者となっているが、実際の執筆は重右衛門から依頼された、幕府への提出書類の様式(フォーム)に精通する、専門の“公事師(くじし)”が代筆しているとみられる。公事師は、おそらく町住まいなので稲の品種のことなどわからず、いわれるままに「白志げ」「くろ志け」と書きとめたのだろう。「白髭」「黒髭」の色彩は、もちろん稲穂の先に突きでる芒(のぎ)の色から名称化されたもので、ほかに当時は「赤」や「青」という名の稲種も栽培されていた。
そこで、1826年(文政9)に天領(幕府直轄領)の上落合村から幕府に提出された、「村差出明細書上帳」という史料を参照してみよう。同史料は、戦後になって月見岡八幡社に奉納されたもので、それまでは氏子の中村家が保存していた関係から、「中村家文書」とするのが正確なのかもしれない。いわゆる「村方書上(むらかたかきあげ)」と総称される同書上帳は、おそらく代官所(幕府)へ提出した本帳の下書きあるいは草稿とみられ、ところどころの項目に追記が見られる。上落合村の「村差出明細書上帳」は、その内容が1988年(昭和53)に新宿区教育委員会から刊行された『新宿区文化財総合調査報告書 4』に収録されている。
けれども、おそらく調査報告書の収録時に転記ミスがあったのだろう、わたしは同書の収録には項目に漏れがあることを知り、全文は1994年(平成6)に上落合郷土史研究会の岸辰夫という方が独自に編集した、『解説村差出明細書上帳』(私家版)に収録されていることがわかった。そこで、いちおう双方の資料を比較・参照しながら、上落合村で栽培されていた農作物、特に米(稲)について見ていきたい。おそらく、同時期の天領(幕府領)だった下落合村や葛ヶ谷村(ほぼ西落合エリア)でも、おおよそ大差ない作付けだったと思われる。
「村差出明細書上帳」原本と、『新宿区文化財総合調査報告書 4』(新宿区教育委員会)との差異は、たとえば44項の「油使用人」の「用」の字が教育委員会の資料では脱落していたり、最後に近い84項目めの「本尊釈迦仏 日蓮宗火葬場 法界寺」とその関連文が丸ごと欠落していたりと、おそらく原本を原稿化する際に転記ミスが生じたものだろう。したがって、原本の記述は上落合郷土史研究会の『解説村差出明細書上帳』のほうを尊重したい。ただし、同研究会の岸辰夫という方の原文解釈にも、現代の江戸史研究から見ると、明らかに誤解釈ではないかとみられる箇所が散見されるので、あくまでも「村差出明細書上帳」の原本記述を中心に考察してみたい。
まず、江戸期の「五穀」について見ていこう。五穀は、全国の地方地域によって異なるが、江戸期の関東地方における五穀とは、米・麦(大麦・小麦)・粟・稗・黍または米・麦・粟・稗・豆(刈豆=大豆のこと)の5種類だ。上落合村では、「黍」と「豆」のどちらを五穀に含めていたかは不明だが、作付けしている農作物について、五穀以外の産物に「刈豆」を含めていること、明治以降も黍は落合地域で栽培されていたことなどから、同村では「黍」が五穀に含まれていたのではないかと想定できる。上落合村の「村差出明細書上帳」には、次のような記述が見えている。
五穀之外格別多作出候者無御座候
「五穀のほか特別に多く栽培している穀物はない」と幕府に報告しているが、米については別に項目を立ててその品種まで詳しく記述している。
稲草種之名 白志げ 蟹あけ くろ志け めくろゑちご
「白志げ」は、明らかに江戸期に全国で栽培されていた、「白髭(しろひげ)」と名づけられた米種のことだろう。「髭」とは、稲穂の先につく刺のような芒(のぎ)のことで、大麦・小麦の麦穂につくトゲトゲの形状とまったく同様のものだ。現在では、芒のつく稲はほとんど見られないが、江戸期にも芒なしの稲は栽培されており、そちらは「坊」とか「坊主」「法師」などの名称がつけられていた。したがって、現代の米はほとんどが「坊主」「法師」種ということになる。
ここで面白いのは、江戸東京方言をそのまま稲の品種名として書きとめていることだろう。「白髭(しろひげ)」を「白志げ(しろしげ)」、「黒髭(くろひげ)」を「くろ志け(くろしげ)」と、村役人(名主)が発音したままの名称で文章化している。「村差出明細書上帳」は、上落合村の名主・重右衛門が提出者となっているが、実際の執筆は重右衛門から依頼された、幕府への提出書類の様式(フォーム)に精通する、専門の“公事師(くじし)”が代筆しているとみられる。公事師は、おそらく町住まいなので稲の品種のことなどわからず、いわれるままに「白志げ」「くろ志け」と書きとめたのだろう。「白髭」「黒髭」の色彩は、もちろん稲穂の先に突きでる芒(のぎ)の色から名称化されたもので、ほかに当時は「赤」や「青」という名の稲種も栽培されていた。



さて、次に「蟹あけ」という品種の米だが、この名称はいろいろ調べてもわからなかった。ただし、公事師が聞き取りをまちがえたか、あるいは「蟹あけ」という名称がそもそも誤って(転訛して)上落合(というか関東南部)で用いられていた可能性もありそうだ。そのような前提で「蟹あけ」を考えると、江戸期の稲種名に多い「赤」という色彩を、「あけ」と誤って(訛って)用いられていたのではないか。すると、江戸期には数多く栽培されていた赤米が想定でき、蟹の赤色に近い色あいをした赤米のことではないかと思いあたる。稲の品種に「赤」とつく地方は、江戸期には東北・北陸・中部地方が圧倒的に多かったので、これらの地方から稲種が伝わるうちに、どこかで「蟹赤」が「蟹あけ」に転訛したのかもしれない。
つづいて、「めくろゑちご」について見てみよう。これは明らかに、「ゑちご」=越後が発祥の稲種なのがわかる。そして「めくろ」については、江戸期「めくろ」「めぐろ」「芽黒」「目黒」などさまざまな字があてられて、同一品種あるいは同一系統品種だったことがわかる。江戸期の稲種については、日本農業研究所が発刊している「農業研究」第36号(2023年)に収録された、西尾敏彦の論文『水稲在来品種名から垣間みた江戸時代の稲作と農民の姿』に詳細が記述されている。
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「目黒・めぐろ」
中世から続く中国地方の田植え唄(註番号略)にも登場する品種名で、「やろく」に次いで東北から九州まで多くの史料でみられる。「芽黒」(『北越新発田~』)と記したものもあり、『農稼録』(同前)には<籾の芽少し黒し>と記されている。芒が黒ずんでいたのだろう。「糯」とする史料が多い。
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「糯(もちごめ)」に分類される資料が多いそうなので、今日でいうもち米の一種かもしれない。同論文では、江戸期に栽培されていた稲種を、当時の史料の中から6,390種も探索し、さまざまな分類を試みている点で画期的な仕事だ。上落合村で作付けされていた「めくろゑちご」は、越後すなわち現在の米どころ新潟県が発祥の、品種改良された「芽黒」だった可能性が高い。
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「目黒・めぐろ」
中世から続く中国地方の田植え唄(註番号略)にも登場する品種名で、「やろく」に次いで東北から九州まで多くの史料でみられる。「芽黒」(『北越新発田~』)と記したものもあり、『農稼録』(同前)には<籾の芽少し黒し>と記されている。芒が黒ずんでいたのだろう。「糯」とする史料が多い。
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「糯(もちごめ)」に分類される資料が多いそうなので、今日でいうもち米の一種かもしれない。同論文では、江戸期に栽培されていた稲種を、当時の史料の中から6,390種も探索し、さまざまな分類を試みている点で画期的な仕事だ。上落合村で作付けされていた「めくろゑちご」は、越後すなわち現在の米どころ新潟県が発祥の、品種改良された「芽黒」だった可能性が高い。



当時もいまも、農業従事者は稲の品種や生育にはきわめて敏感であり、収穫量が多くて天候の変化に強く、安定した栽培が期待できる品種を常に求めていたと思われるので、栽培種の最後に書かれている「めくろゑちご」は、当時の農業技術で品種改良が進んだ最先端の稲種(もち米)を、導入している最中だったのかもしれない。
つづいて、五穀以外の農産物(おもに野菜)を挙げている項目を引用してみよう。
五穀之外大根芋茄子白瓜牛蒡刈豆にん志ん江戸江商ひ出申候
これによると、畑ではダイコンやサトイモあるいはサツマイモ、ナス、シロウリ、ゴボウ、大豆、ニンジンなどの野菜類を栽培していたのがわかる。これらの野菜は、落合地域の周辺域でも江戸期からほぼ同様の種類が栽培されており、南関東では多く見られた土壌にあう野菜の作付けなのだろう。すでに名産地も登場しており、ダイコンは練馬・落合、ナスは寺島(向島)、シロウリは中野、ゴボウとニンジンは滝野川、ミョウガは早稲田・神楽坂というように、江戸市中の市場や食通の間では生産地までこだわるようになっていた。
ちなみに「芋」は、「里芋」と「薩摩芋」のどちらのことだろうか。明治以降の落合地域では、双方の「芋」が畑で栽培されているので判然としないが、ここで落合地域の旧家で食べられていた、正月の雑煮を思いだしてほしい。雑煮は、先祖代々その地域を象徴する「食文化」として具材が決められており、江戸東京は広いので地域ごとに江戸期から雑煮の具材が細かく異なっている。以前、下落合村で江戸期からつづく旧家では、男がつくる雑煮にサトイモが入れられていたのをご紹介していた。したがって、隣接する上落合村でも、同様の雑煮が江戸期から食されていたのではないか。そう考えると、先の田圃に植えられた「めくろゑちご」(もち米)とともに、畑で栽培されていた「芋」はサトイモではなかっただろうか。
上落合村の「村差出明細書上帳」には、戦前まで落合名物だった水菓子(フルーツ)のカキ(柿)栽培が記載されていないが、これはあえて書かなかったのではないかとみられる。うっかり書上帳に記載し、カキも生産物(名産)のひとつとして幕府に認知され、年貢あるいは献上の対象とされてはかなわないので、農作物から省いたのではないだろうか。秋にカキを収穫し、甘い干し柿にして江戸市中の水菓子屋(フルーツ店)へ卸すのは、上落合村の農民にとっては、野菜を市場へ運んで行う商いとともに、現金収入の大きな柱だったとみられる。
上落合郷土史研究会の『解説村差出明細書上帳』を読んでいると、やはり21世紀の今日では違和感をぬぐえない。同書は、江戸期に「士農工商」という身分制度があったという前提で記述されているが、そのような身分制度は江戸期の行政史料にも司法史料にも、その他あらゆる史料にも見あたらず、中国や朝鮮の儒教書のみに記載された(つまり同国々でかつて施行されていたとみられる)身分制度だったことが判明している。
つづいて、五穀以外の農産物(おもに野菜)を挙げている項目を引用してみよう。
五穀之外大根芋茄子白瓜牛蒡刈豆にん志ん江戸江商ひ出申候
これによると、畑ではダイコンやサトイモあるいはサツマイモ、ナス、シロウリ、ゴボウ、大豆、ニンジンなどの野菜類を栽培していたのがわかる。これらの野菜は、落合地域の周辺域でも江戸期からほぼ同様の種類が栽培されており、南関東では多く見られた土壌にあう野菜の作付けなのだろう。すでに名産地も登場しており、ダイコンは練馬・落合、ナスは寺島(向島)、シロウリは中野、ゴボウとニンジンは滝野川、ミョウガは早稲田・神楽坂というように、江戸市中の市場や食通の間では生産地までこだわるようになっていた。
ちなみに「芋」は、「里芋」と「薩摩芋」のどちらのことだろうか。明治以降の落合地域では、双方の「芋」が畑で栽培されているので判然としないが、ここで落合地域の旧家で食べられていた、正月の雑煮を思いだしてほしい。雑煮は、先祖代々その地域を象徴する「食文化」として具材が決められており、江戸東京は広いので地域ごとに江戸期から雑煮の具材が細かく異なっている。以前、下落合村で江戸期からつづく旧家では、男がつくる雑煮にサトイモが入れられていたのをご紹介していた。したがって、隣接する上落合村でも、同様の雑煮が江戸期から食されていたのではないか。そう考えると、先の田圃に植えられた「めくろゑちご」(もち米)とともに、畑で栽培されていた「芋」はサトイモではなかっただろうか。
上落合村の「村差出明細書上帳」には、戦前まで落合名物だった水菓子(フルーツ)のカキ(柿)栽培が記載されていないが、これはあえて書かなかったのではないかとみられる。うっかり書上帳に記載し、カキも生産物(名産)のひとつとして幕府に認知され、年貢あるいは献上の対象とされてはかなわないので、農作物から省いたのではないだろうか。秋にカキを収穫し、甘い干し柿にして江戸市中の水菓子屋(フルーツ店)へ卸すのは、上落合村の農民にとっては、野菜を市場へ運んで行う商いとともに、現金収入の大きな柱だったとみられる。
上落合郷土史研究会の『解説村差出明細書上帳』を読んでいると、やはり21世紀の今日では違和感をぬぐえない。同書は、江戸期に「士農工商」という身分制度があったという前提で記述されているが、そのような身分制度は江戸期の行政史料にも司法史料にも、その他あらゆる史料にも見あたらず、中国や朝鮮の儒教書のみに記載された(つまり同国々でかつて施行されていたとみられる)身分制度だったことが判明している。

今日では、明治期に薩長政府が江戸時代をことさら封建的かつ過酷で窮屈な身分制度が存在していた時代だとイメージづけるために、他国の儒教書から引用して捏造したものとして全否定されている。今世紀に入り、ようやく「日本史」の教科書からは削除されつつあり、一般向けの歴史書(一例を挙げれば2008年に小学館から刊行された平川新・著『日本の歴史・第12巻-江戸時代/十九世紀-開国への道』など)でも、その全否定の経緯が紹介されるようになった。
◆写真上:江戸期のような芒(のぎ)のない、現代の田圃に植えられた「坊主」の稲穂。
◆写真中上:上は、上落合村「村差出明細書上帳」の表紙(左)と本文(右)。中は、現代でも芒が顕著な麦穂。下は、1916年(大正5)現在の落合村で栽培されていた野菜。
◆写真中下:上・中は、1926年(大正15)ごろ制作の佐伯祐三『にんじん』と『野菜』。『野菜』は1925年(大正14)ごろの制作とされているが、ザルの上に置かれた蔬菜類は落合の青物ではないだろうか。下は、下落合の畑で撮影した江戸期からつづく「落合ダイコン」。
◆写真下:上は、いまでも実る先年いただいた甘い落合ガキ。中は、下落合で採れたカキを軒下に吊るして干し柿にする下落合(字)本村のお宅。下は、本文とは関係ないが上落合に住んだ壺井栄原作の映画『柿の木のある家』(芸研/1955年)。高峰三枝子や上原謙などが出演しているが、ロケーションは下落合のアビラ村(芸術村)に通う目白崖線下の中ノ道(下の道)で行われている。
◆写真中上:上は、上落合村「村差出明細書上帳」の表紙(左)と本文(右)。中は、現代でも芒が顕著な麦穂。下は、1916年(大正5)現在の落合村で栽培されていた野菜。
◆写真中下:上・中は、1926年(大正15)ごろ制作の佐伯祐三『にんじん』と『野菜』。『野菜』は1925年(大正14)ごろの制作とされているが、ザルの上に置かれた蔬菜類は落合の青物ではないだろうか。下は、下落合の畑で撮影した江戸期からつづく「落合ダイコン」。
◆写真下:上は、いまでも実る先年いただいた甘い落合ガキ。中は、下落合で採れたカキを軒下に吊るして干し柿にする下落合(字)本村のお宅。下は、本文とは関係ないが上落合に住んだ壺井栄原作の映画『柿の木のある家』(芸研/1955年)。高峰三枝子や上原謙などが出演しているが、ロケーションは下落合のアビラ村(芸術村)に通う目白崖線下の中ノ道(下の道)で行われている。