大正期の下落合には薬局がわずか3店舗。

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 わたしの学生時代から、落合地域には薬屋(薬局・ドラックズトア)がやたら多いと感じていたが、このところさらに増えているようで、大きめな通り沿いにはほぼ100~200mおきぐらいに薬局があるのではないかとさえ思えてくる。いつか、歯科医院の多さを記事にしたことがあったけれど、薬屋も同様に地元ではかなり数が多い店舗だ。
 たとえば下落合(現・中落合/中井含む)には、救急対応の大型病院が国際聖母病院と目白病院のふたつもあるので、処方箋薬局が多いのは当然なのだが、市販薬のみを扱うチェーン店の数も多い。これに昔ながらの「薬屋さん」を加えると、コンビニ同様あちこちに開店しているのに気づく。高齢化社会を迎えて増加しているせいもあるのだろうが、もちろん店舗をかまえる薬屋のほかに、各戸訪問で救急箱を補填する「富山の薬売り」はいまも健在だ。
 いまから、100年以上前の落合地域(落合村の時代)には、薬屋はたった3店舗しかなかった。それも、3店とも下落合(現・中落合/中井含む)の目白駅寄りの東部にあり、下落合の西部や上落合、葛ヶ谷(西落合)には1店舗もなかったとみられる。もっとも、上落合の場合は東中野駅前からつづく商店街があり、また小滝橋のすぐ南側、戸山ヶ原の西端には1902年(明治35)以来、大型の豊多摩病院が開設されていたので、小滝橋通り沿いなどの周辺には薬局があったかもしれない。また、当時は個人経営の医院でも医薬品を扱うところが多かっただろう。
 東京じゅうの薬局を網羅する、1922年(大正11)に東京薬局会から刊行された『東京薬局会会員名簿』が残されている。当初、わたしはアトリエを建設したばかりの曾宮一念佐伯祐三が、ちょっとした調合薬や市販薬を購入するのに、どこの薬局を利用していたのかが気になっていた。曾宮一念は、季節により微熱や頭痛がつづく体調不良にみまわれ、アトリエに付属して「静臥小屋」とも「寝小屋」とも呼ばれる部屋を自身で設計して増築している。また、佐伯祐三は風邪をひきやすい体質だったものか、1926年(大正15)秋の「制作メモ」を参照すると、月に5日間ほどは“病気”のために休養して屋外写生へ出かけていない。
 このふたりの画家が、ちょっとした頭痛や熱、風邪などで市販薬を求める際、どこの薬局を利用していたのかが気になり、大正期の落合村(1924年より町制が敷かれ落合町)に開店していた薬局を調べてみたくなったのだ。そして見つけたのが、1922年(大正11)現在で開店していた東京市内の薬局をリスト化した、前述の『東京薬局会会員名簿』だった。なお、1922年(大正11)といえば中村彝がいまだ存命だった時期であり、彝もまた同居する岡崎キイや近くの友人たちに頼み、カルピスの飲みすぎによる征露丸などw、なんらかの市販薬を買ってきてもらったのかもしれない。
 1922年(大正11)の時点で、豊多摩郡落合村に記録された薬局は次の3店舗だ。
 ・豊青堂薬局  下落合516番地  経営者:青山道雄
 ・増井薬局   下落合524番地  経営者:増井正男
 ・中央薬局   下落合642番地  経営者:森田司吉
 この中で、「増井薬局」は山手線・目白駅も近い、目白通りに面した近衛町の入口付近にあった店舗で、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」を参照すると、西隣りを蕎麦屋「長寿庵」と東隣りを糸生地屋「池田メリヤス」とにはさまれて開店していた。目白駅で下車した勤め帰りの人たちが、ちょっと立ち寄るのに便利な薬局だったろう。ちょうど、大正期は萬鳥園種禽場の目白通り側(北側)に接する位置にあり、佐伯祐三が仮住まいをしていたかもしれない借家から、わずか100mほど歩いた目白通り沿いだ。
 つづいて「豊青堂薬局」は、「増井薬局」から目白通りをさらに西へ180mほど歩いたところ、ちょうど目白中学校のキャンパスが途切れたあたりに開店していた。「下落合事情明細図」を参照すると、西隣りが「八十四銀行」の大きな建物で、東隣りが「有田〇〇屋」という業種が不明な店舗にはさまれていた。「豊青堂薬局」の角を南へまがると、すぐに観世喜之邸と付属する能舞台が建っていた。中村彝が、なにか市販薬の購入を頼んだとしたら、アトリエから歩いて280mほどでたどり着けるので、おそらくこの薬局だろう。
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 次に「中央薬局」は、現在では聖母坂通りの貫通で消えてしまった木村横町の入口に近い、目白通りに面して開店していた。目白駅から約1.1kmと少し離れており、下落合の中部(現在の中落合)に住んでいた人たちがよく利用した薬局だろう。1925年(大正14)に作成された「出前地図」(「下落合及長崎一部案内図」)を参照すると、西隣りを「並木金物屋」と東隣りを小野邸にはさまれた位置に開店していた。そして、1931年(昭和6)ごろ聖母坂が拓かれると同時に、同薬局は目白通りへと出る角地に開店して営業を継続している。
 なお、「中央薬局」は大正期からの上記3店では唯一現存していて、「クスリ中央」と屋号を変え営業をつづけており、わたしもたまに佐伯祐三アトリエのついでなどに利用している。1921年(大正10)の創業で、今年で創業104年を迎える下落合ではもっとも古い薬局の老舗だ。佐伯アトリエや曾宮一念アトリエの建設と同年に開業した「中央薬局」(現・クリス中央)は、佐伯アトリエから歩いて約200m余、曾宮アトリエからも歩いて約300m余なので、両画家とも利用していた店舗だろう。ただし、曾宮一念は中村彝の存命中は頻繁に彝アトリエを訪問していたので、ついでに「豊青堂薬局」へも立ち寄っているのかもしれない。
 1922年(大正11)に刊行された『東京薬局会会員名簿』からは、当時の医薬品に関するさまざまな課題が透けて見える。同会の「規定」によれば、東京在住の薬剤師の資格をもつ人物が経営する薬局を網羅するとしており、薬剤師の資格がない“モグリ薬局”は除外している。裏返せば、市販薬の急増とともに薬剤の知識がない薬局経営者も出はじめていた時期で、同会ではそれらの素人が経営する薬局を排除する目的もあったのだろう。
 また、薬局の設備がバラバラでは均一の薬剤を調合できないため、同会所属の店舗では最新設備による統一化を努力目標にかかげ、調剤に使用する薬品(原材料)の調達も統一することで、薬剤の品質向上と効能の安定化をめざしていたようだ。また、薬局によっては価格がバラバラだった薬品の値段を一定にし、店舗の目立つところに公示することで、顧客に不満や不信感を与えないよう留意するなど、かなり細かな規定を設けていた。特に、A薬局で薬品を購入すると50銭で済んでいたのが、B薬局では1円を請求されるなど利用者からの苦情も多かったらしく、薬価が不統一だったのを是正するのが喫緊の課題だったのだろう。
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 ちなみに、当時の薬局に掲げられた東京薬局会による「調剤薬価規定」は、以下のとおりだ。
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 また、処方箋を要する薬剤については、その処方箋の発行に関し、医師会や医師個人に対して「交渉ヲ為スモノトス」、つまり意見をいえると規定している。これは、医師のいいなりに薬剤を処方すると、患者に対してなんらかの影響(薬害)が出る場合などを想定しているのだろう。いまでも問題となっているように、マイナ保険証や“薬手帳”などない時代なので、複数の薬を飲みあわせることで身体にダメージを与えかねない場合は、医師に通達して薬剤を変更させるなどのアドバイスができるとしたのだろう。
 さらに、同会では「従業員紹介部」という部署を設け、薬局に勤務する従業員の斡旋・紹介、すなわちリクルートも行っていたようだ。「東京薬局会規定」の、第7条から引用してみよう。
  
 第七條 本会ハ薬局従業員ノ補足ニ付 会員ノ便宜ヲ図ルモノトス
     但シ薬局従業員紹介部規定ハ別ニ之レヲ定ム
  
 そして、最後の規定では、会員の薬局になんらかの問題が生じた場合には、薬剤・薬品以外の案件でも、同会が緊密に相談に乗るとしている。たとえば、親が開店した薬局を子どもが継ごうとせず後継者がいないとか、郊外住宅地ブームで建設業者から立ち退きを迫られているとか、病院や医院が近くにないので誘致できないかとか、多種多様な相談ごとにも対応したのだろう。
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 当時の豊多摩郡に属した地域では、ほかに渋谷町中渋谷、同町下渋谷、代々幡町、千駄ヶ谷町、淀橋町、大久保町、戸塚町、中野町、野方村に開店していた薬局が網羅されているが、いまだ「村」だったのは落合村と野方村のみで、野方村には新井地域に2店の薬局が開店していた。

◆写真上:1921年(大正10)創業の、今年で104年を迎える老舗「クスリ中央」(旧・中央薬局)。
◆写真中上中上は、豊多摩郡では最大の医療機関だった1902年(明治35)創立の豊多摩病院の全景と中庭を囲む病棟の一部。中下は、1931年(昭和6)に下落合670番地に設立された国際聖母病院。は、1967年(昭和42)に下落合1丁目662番地に設立された目白病院。
◆写真中下は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる下落合524番地の増井薬局。は、同じく「下落合事情明細図」にみる下落合516番地の豊青堂薬局。は、1925年(大正14)作成の「出前地図」にみる下落合642番地の「中央薬局」。
◆写真下は、大正期に製薬会社が出稿した医薬品の媒体広告。は、1922年(大正11)に東京薬局会から刊行された『東京薬局会会員名簿』の表紙()と奥付()。
おまけ
 昭和初期に、濱田増治が描いた薬局のモダン店舗デザイン。「光丹」は(森下)仁丹で「ミツワ薬局」はミツワ石鹸のパロディだが、すでに入口のドアの上には「DRUGSTORE(ドラッグストア)」の看板文字が見えている。なお、このようなモダン薬局で、わたしも欲しい「バカナオール」が売られていたかどうかはさだかでない。
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めずらしく子母澤寛が怒る『味覚極楽』。

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 一昨年の記事につづき、「なにいってやがる」とイラついた人物の話をひとつ。意地きたないので、また食べ物の話になるが……。戦後、子母澤寛大森から神奈川県の藤沢に転居していた。そのころには、『味覚極楽』でインタビューした相手は、ほとんどが物故してこの世にいなかった。だから、戦前の光文社版ではなく、戦後刊行の龍星閣版(1957年)や中央公論社版(全集/1963年)、あるいは新評社版(1977年)などには、インタビュー時のリアルタイムでは書けなかった子母澤寛の率直な感想が、各人物ごと徐々に付属していくことになる。
 その中には、著者がめずらしく立腹している文章がある。東京日日新聞の掲載時には第15回の「長崎のしっぽく」で取材した、自称「南蛮趣味研究家」で「文士」の永見徳太郎だ。この人物については、わたしも読んでムカッ腹(ぱら)が立ったのだが、出身地である故郷の長崎料理について、そのままストレートに「美味しいんだよ」と褒めて推奨すればいいものを、江戸東京における料理や嗜好をいちいちケナしながら、ことさら長崎料理を持ちあげているのだ。東京で食べる料理の一部が、「どれもこれもなっていない」そうなので、今回はひとつ、わたしもこの人物の品格やレベルに相応の表現で書かせてもらおうか。
 こういう人間を、なんと表現すればいいのだろう? 長崎で暮らし地付きの人間として、東京へ旅行した際に味わった料理や食文化と、長崎の地元のそれとを比較して、やはり故郷の長崎料理のほうが水もあうし、その地域のデフォルトとして形成された味覚がいちばんに決まっているし、東京の料理はどうしても口にあわない……というような文脈や経験譚であれば、育った故郷の味覚文化=“母味・母舌”が美味しいと感じるのは当然のことで、しごくもっともなことだと理解でき納得もできるのだが、わざわざ東京地方にやってきては腰をすえて住みつき、当地の料理を「うまくない」と吹聴してまわる、本人にとっては“よその地方”の料理文化を好き勝手にケナし貶めるのは、はたしてどんな神経をしているのだろうか?
 いつかの記事でも書いたが、その逆を考えてみればこの人間にもわかるだろうか。わたしが長崎地方へ勝手に住みつき、刺身を注文して箸をつけたとたん、「なんで醤油が甘いんだよ? どれもこれもなってねえじゃねえか!」などと突っ返したら、長崎人はおそらく「おうち、なしてわざわざ長崎に住んでまで食べよっと!? ほんなこてぇ、故郷に帰って食べれ!!」と激怒するだろう。同じことを、わざわざ東京地方でやっていることに、ご当人はまったく気づかないのだ。自身の故郷の習俗・文化を自慢したいのはわかるし、わたしも故郷が好きなのでたびたびここに“お国自慢”を書いている。だが、よその土地にあえて住みつき、その地方のそれらをけなしながら故郷の食習慣・食文化を褒めそやすのは、どのような脳内構造をしているのだ?
 ふつうのオトナとして、なにが無神経でみっともないかをわきまえる感覚を備えた人間であれば、よその地方へ自身の都合や好みでやってきて住みつきながら、当地の料理や食文化をけなしたりしたら、無分別なガキ同然の人間として、周囲から忌避されるのは当然だろう。子母澤寛は「ガキ」とは書かないが、永見徳太郎を世間知らずで礼儀知らずな「旦那」で「病気」だと皮肉り軽蔑しているのが、感想の「旦那文士」からはありありと透けて見える。
 では、『味覚極楽』の永見徳太郎インタビューから、少し引用してみよう。
  
 東京でも赤坂田町の「ながさき」築地の「たからや」の二つだけがまず長崎料理らしいものを出すけれども、やはり東京人に好くように、だいぶ調子が変わってきている。「ながさき」の方は冬に入ると魚も長崎から取り寄せるし器物もすべて長崎物、板場から女中まですべて長崎ずくめだがそれでもどうも本当の長崎の味は出てこない。(中略) 水たきは博多が本場のようなことをいっているが、実は長崎から移ったもので、東京の水たきは、どれもこれもなっていない。水臭くもあるが、まず鶏が長崎のような訳にはいかないのである。烏森の「海月」、牛込の「川鉄」、銀座うらの「水月」など、感心しなかった。(中略) 江戸っ子が一枚着物を質に入れても食うという鰹は長崎島原にかけて実にうまい。これを大きく皮ごとぶつ切りにして砂糖醤油へ半日から一日つけておいて、それからうすく刺身に下ろして、からし醤油で食べる。東京のようにぴんぴんしたのを、そのままではないが、これもまたなかなかうまいものである。
  
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 東京の店で出す長崎料理は、「長崎料理らしいもの」であってホンモノではなく口にあわないようだし、東京の鶏の水たきは「どれもこれもなっていない」そうだし、せっかく刺し身になるようなカツオを、「砂糖醤油」(!?)に漬けておくのがいちばん美味(うま)い食べ方なのだそうだ。これを、長崎で暮らしている長崎人が現地でいっているのなら、そんな食い方もあるのかとめずらしがって聞き流せるが、それをわざわざ東京地方へ引っ越してきて住みつき、当の地元でケナしまくっているから呆れてひっかかるのだ。地元の人間が聞けば「てめぇ、ケンカ売ってんのか?」(職人言葉で失礼)というようにも受けとれる。
 こういう人間に投げる言葉は、ひとつしかないだろう。「そんなに江戸東京地方の料理が気に喰わなきゃ、故郷に帰って食やいいだろうが。仕事が東京だから? バカをいっちゃいけない。誰かに拉致・誘拐されたわけじゃあるまいし、自から主体的に好きこのんで選択し、気に喰わねえ土地に住んでんのは、どこのどいつだ? おきゃがれ!」。今日的にいえば、好きこのんでやってきて日本に滞在しながら、その料理や文化にケチをつけ傍若無人にふるまう外国人(だったらなぜわざわざ来日するんだ?)と、この地元ではさして変わらない感覚だろう。
 子母澤寛も、インタビュー時から相当アタマにきていたようだ。彼は江戸末期、祖父の代には薩長軍と戦うために江戸から函館まで出向し、子母澤寛の代になってようやく江戸東京へともどってきている幕臣の家柄だ。だから、家庭内で食されていた料理はまちがいなく江戸東京の味覚だったろうし、話されていた言葉は子母澤寛の口調から推察すれば江戸東京方言(城)下町言葉だったろう。永見徳太郎は、それを知ってか知らずか、子母澤寛にとってはことのほか腹の立つインタビューだったにちがいない。
 新聞社の仕事で忙しいさなか、永見徳太郎は子母澤寛を無理やり引っぱり出して長崎料理を押し食いさせている。イヤな「旦那」なので何度か断ったようなのだが、それでもゴリ押しで新聞社から連れだされた。インタビュー相手が推奨する料理については、めったに悪口を書かない著者だが、このエピソードではありのままの経緯や感想をそのままむき出しで書いている。同インタビューへ、戦後になってから付記した「旦那文士」から引用してみよう。
  
 「いや今日はぜひ君に食べさせたいものがある」/といって、はっきり覚えていないが赤坂へつれていかれて、御馳走になったのが、前の記事にもある鰹を皮のまま大きく三枚に下ろして、前の晩から砂糖醤油へ漬けておいたのを料理人が目の前でぶつぶつ切りの刺身におろして、とろりとしたからし醤油で食べさせる。/ 「どうだ、こんなうまいものはないだろう」 「いやあまりうまくない」 「そうか、おかしいね、君の舌はどうかしてるな」 「甘ったるくてね」/といったら、いきなり料理人を、/ 「これ少々砂糖が利きすぎてるじゃあないか」/と大声で叱りつけた。残った髪が白くて頭の真ん中の禿げた料理人であったが、/ 「へえ、相すみません」/と、ぺこぺこ謝った。永見さんはこの家の上得意だったらしい。そうそう、暖簾にひょうたんが斜めに染めぬいてあった家だ。
  
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 「こんなうまいものはないだろう」と、うまさを無理やり押し売りしているのが長崎地方ではなく、東京地方でやっているのだからもはや救いがたい。料理人を客の前で、これ見よがしに叱ってみせるのもキザ(気障り)で野暮で嫌味だが、江戸東京舌の人間に砂糖の入った甘い醤油に漬けた刺し身(江戸東京のヅケは生醤油に漬けたマグロの赤身にワサビ)を食わせること自体が、そもそもケタ外れでメチャクチャなことに、永見徳太郎は東京で暮らしていながら気づかないのだ。あるいは知ってても知らないフリをしたのか、それとも子母澤記者に無理やり「うまい」といわせたかったものだろうか。
 「せっかくの新鮮な刺し身ガツオを、甘い砂糖醤油なんぞに漬けやがって、なに考えてやがるこの大べらぼうが!」となる、そんな味覚の地方にやってきてうまさの押し売りをするから不可解千万なのだ。子母澤寛も、「人(料理人)のせいにすんじゃねえや、地方の味覚や食文化が丸ごとまちがってんだよ!」と、ノド元まで出かかったにちがいない。
 ことさら避けたいイヤな人物に、とびっきりマズイ「刺身」を食わされただけではなく、取材当時から腹の虫がおさまらなかったらしい子母澤寛は、永見徳太郎が「迷惑人間」で「病気」だったことを隠さず、あからさまに軽蔑をこめた文章を残している。
 つづけて、「旦那文士」から皮肉たっぷりな一節を引用してみよう。
  
 よく「なにか食べに行きましょう」と誘う。御馳走になるのはいいが、こっちは迷惑だったことが多い。交際しているうちに永見さんは妙にこう著作家扱いをされたがる人だなということが次第にわかってきた。世に「旦那文士」というのがある。ろくに物も書きもしないで、それで食ってでもいるようなゼスチュアをしたり、旅行をして宿屋へ泊ると宿帳に職業を「小説家」などとやっつける。無理にも文士交際をしたがりたい人がよくあるでしょう。私の知ってる人でも同じ風なのが二、三人いる。立派に財産があって、ねてても食えるというのになにを好んで文士仲間などに入りたいのか。わざわざ名刺に「伝奇作家」などという肩書をつけている人もいるし、文士の会などというとどこをどうするのか率先出席して一席ぶったりする。一種の病気だろうが、実に気の毒な病人があるものである。
  
 取材からおよそ30年ほどたっているが、子母澤寛は永見徳太郎への怒りを忘れていなかったようだ。“よその地方”へフラッとやってきては、そこに根をはり代々の骨を埋める覚悟もなく傍若無人にふるまい、その土地のさまざまなものをケナしては、居心地が悪くなるといつの間にか行方不明になっていなくなる。こういう不マジメで卑怯な輩はいつの時代にもいるもので、戦時中の寺々にいた「敵前逃亡」坊主たちではないが、昔ながらの「大江戸(おえど)の恥はかき捨て」、いま風にいえば他所で「持続不可能」な言動をやらかしては都合が悪くなるとトンヅラする、没主体的でいい加減な人間の典型を、子母澤寛は見いだしていたのかもしれない。
 確かに、長崎地方からわざわざ東京地方へやってきて住みつき、砂糖醤油の刺身を「こんなうまいものはないだろう」と地元の食文化で育った舌の人間に押し食いさせたりするのは、まったくもってあまりにも地域の食習慣に無知なのか、江戸東京地方の“食”を丸ごと無視してないがしろにしているものか、あるいは上記「旦那文士」のたとえでいえば、ほとんどビョーキの世界だろう。
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 その後、永見徳太郎は「どれもこれもなっていない」東京を引きあげて、温泉地の湯河原(神奈川県)や熱海(静岡県)に移り住んでいるが、そこでも旅館や料理屋に「文士」の名刺を配りながら、この地域には「うまい料理屋がない」と吹聴してまわり、料理人を叱っていたのだろうか? それほど関東あたりの食文化や味覚が不満なら、なぜ長崎へとっとと帰らないんだ? この男は晩年まで故郷には帰らず、最後は文字どおり行方不明になって終わっている。

◆写真上:永見徳太郎のような人間が、江戸東京の料理をけなしながら長崎料理を賞揚すると、長崎料理の品位が大きく下がると思うので蛇足を。長崎料理の東坡肉(とうばに)で、中国料理の東坡肉(トンポウロウ)に似ているが、まちがいなく美味だ。
◆写真中上は、大正期の撮影らしい永見徳太郎。は、「どこをどうするのか」「文士交際したがり」で参加したらしい記念写真。右から左へ「旦那文士」永見徳太郎、マジメな経済学者・武藤長蔵、マジメな小説家・芥川龍之介、マジメな小説家で編集者・菊池寛。
◆写真中下は、サルではなくイヌと写る若き日の子母澤寛。は、いまでも手に入りやすい中公文庫版の子母澤寛『味覚極楽』1983年版()と2004年版()。
◆写真下は、和食・中華・洋食が混ざりあった異国情緒が楽しめる長崎料理屋の卓袱(しっぽく)料理。江戸東京方言では、蕎麦にのせる長崎風の具とからめ「しっぽこ」と発音されることが多い。は、これもコクがあってまちがいなくうまい本場の長崎カステラ。

下落合を描いた画家たち・日野耕之祐。

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 今回は、従来の「下落合風景」画面に比べ、ついこの間まで見られたかなり新しい風景作品だ。落合地域にお住まいの方なら、あるいは美術ファンの方なら、画面をご覧になった瞬間にどこを描いたかがおわかりだろう。1989年(平成元)に制作された、佐伯祐三のアトリエを描く日野耕之祐のスケッチ『佐伯公園』だ。(冒頭写真)
 わたしが初めて佐伯アトリエを見たのは、1974年(昭和49)の高校生のときだった。1972年(昭和47)に米子夫人が死去した2年後のことで、当時はいまだ公園化はおろか、アトリエにつづく母家や米子夫人の居間がそのまま残っているような状態で、当然、内部は公開されていなかったように思う。1980年(昭和55)に、NHKで放映された『襤褸と宝石』に登場するアトリエ内部の展示施設もなく、濃い屋敷林に囲まれた薄暗い、ちょっと不気味な印象しか残っていない。
 その後、新宿区がアトリエ内部を展示室にして公開していたようだが、わたしはこの時期に佐伯アトリエを訪れていない。そして、1985年(昭和60)ごろに老朽化した母家と、南側に増築されていた米子夫人の居間が解体され、アトリエのみがポツンと残る「佐伯公園」になった。わたしは、1982年(昭和57)に南長崎の学生アパートから、下落合の聖母坂沿いのマンションへ転居してきているが、母家の解体工事の光景はまったく記憶にない。
 もっとも、当時はバブル景気とICTシステム(C=ネットワークは原始的なものだった)が浸透しはじめたまっただ中で、土・日・祝(休日)がなく会社への泊まりこみや徹夜はあたりまえ、とても周囲を散策して風景を楽しんだり何かを調べたりする余裕などなかった。この喧騒は、1990年代末のいわゆる「ITバブル」がはじけ、ようやく沈静化するまでつづいていた。そんな毎日がつづく状況で、いつだったか子どもを連れて地域センター(新旧どちらの出張所だったかが曖昧だ)を訪れた際、佐伯祐三の『テニス』が展示されていたのを憶えている。
 現在のきれいに修復された画面ではなく、随所にクラックや絵の具の剥脱が目立つ50号の傷んだ画面だったが、下落合のどこを描いた風景なのかが気になった。佐伯の「下落合風景」シリーズに対する興味を植えつけられたのは、おそらくこのときの『テニス』との初対面が最初だったろう。高校時代から、下落合(現・中落合/中井含む)のあちこちを歩きまわっていたわたしは、佐伯がどこを描いた風景なのかを、いつか突きとめてみたくなったのだと思う。
 1980年代の後半に佐伯アトリエを訪れると、母家が解体されたあとアトリエだけがポツンと残る、緑が濃い「佐伯公園」として生まれかわっていた。佐伯公園の風情は、その後ずいぶん長くつづくことになるが、2008年(平成20)4月5日(土)の朝早めに佐伯公園を訪れると、近所のおばあさん(お名前をうかがいそこねていて残念だ)とみられる方が、換気のために佐伯アトリエのドアや窓をすべて開け放して、公園内を清掃をされているまっ最中だった。内部を見せてもらってもいいかどうか訊ねると、カメラをもったわたしを見て「写真もどうぞ」といってくれた。このとき、初めて佐伯アトリエの内部を見学することができた。
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 「どちらから、おいでになったの?」と訊かれたので「下落合の地元です」と答えると、おばあさんは気を許したものか、佐伯アトリエに関することや近所の話題をいろいろと話してくれた。アトリエで、20分ほど取材や世間話をさせていただいたろうか、このとき佐伯アトリエの南隣りに建っていた青柳邸、つまり佐伯祐三から『テニス』をプレゼントされた落合第一尋常小学校の教師・青柳辰代が住んでいた邸の前に拡がる、国際聖母病院が建設される以前の丘陵および原っぱを、昔から「青柳ヶ原」と周辺の住民たちが呼んでいたことを知った。また、現在では「西ノ谷」と呼ぶことが多くなったが、昔は佐伯アトリエの前に口を開けた谷戸は、大正以前の古くから「不動谷」と呼ばれていたことも確認できた。
 これは、このご親切なおばあさんに限らず、下落合東部に昔から住む多くの住民たちと同じ認識、当時の興信所各社が調べた土地評価の「不動谷」周辺のレポートと同様の認識、つまり「不動谷は、どうして西へいっちゃったんでしょうね?」と不可解な表情を浮かべた、下落合東部の古老たちと同様の共通認識であることも確かめられた。すなわち、郊外遊園地「不動園」につづき目白文化村を開発した、箱根土地(および協力地主)によるSP戦略上の、意図的な「地名操作」を強く疑いだす瞬間でもあったのだ。佐伯祐三は、クリスマスツリー用の木を伐りだした“洗い場”のある谷戸を、周辺の住民たちと同様に「不動谷」と認識していただろう。
 日野耕之祐の『佐伯公園』にもどろう。画面には、アトリエを訪れた美術ファンだろうか、ベンチに座る赤いバッグをもつ女性が描かれており、その近くをネコがゆっくりと歩いているようだ。佐伯アトリエが公園化されて以来、ここは周辺に住む野良ネコたちの集会場、あるいは日向ぼっこをするテラスとなっており、わたしもしばしばネコたちを撮影しに同公園を訪れている。多いときには、5~6匹のネコたちが陽射しのなかで寝そべっており、特に、アトリエのドアの下に置かれた庭石や、コンクリートブロックのたたきが温かい特等席で、ネコたちはそこに集まってはニャゴニャゴとなにやら話していることが多かった。
 さて、日野耕之祐は、異色の画家といえるだろうか。もともとは新聞の美術記者だったのだが、光風会展へ作品を展示する光風会の会員であり、美術文化協会展へも作品を出品している。1925年(大正14)に福岡県で生まれた日野耕之祐は、1948年(昭和23)に日本美術学校を卒業すると、福沢諭吉が創立した時事新報社の美術部へ就職している。新聞の名称が、産経新聞に変わってからも美術記者をつづけ、15年間も新聞社で働いていた。その後、40歳を目前に記者を辞めて画業に専念し、1967年(昭和42)には作品が日展の特選になり、1976年(昭和51)には日展審査員に就いている。
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 また、記者時代の文章力を活かし、『美を探る』や『具象ノート』など多くの美術エッセイ類を残しており、中でも1967年(昭和42)に三彩社から出版された絵画随筆『東京百景』と、1971年(昭和46)に日本美術社から出版された写真随筆『美を訪ねて』が、もっとも知られている書籍だろうか。日野耕之祐の『佐伯公園』は、1989年(平成元)に刊行された財務省の広報誌「ファイナンス」5月号に掲載された、絵画とエッセイによる「美の季節」シリーズのために描かれた水彩画だ。この時期、日野耕之介はすでに杉並区高円寺4丁目528番地の新しいアトリエに住んでいただろうが、それまでは西落合1丁目5番地にアトリエをかまえており、落合地域には豊富な土地勘があったと思われる。「ファイナンス」より、日野耕之祐の文章を少し引用してみよう。
  
 ぼくは佐伯に会ったことはないが、米子夫人が二紀会の画家であったことと、ぼくの家と近かったことで、このアトリエで米子夫人とよく会った。いまはアトリエだけになってしまっているが、アトリエにくっついて小さな2階屋と平屋があった。アトリエの壁にはペンで描いた佐伯の自画像がかかっていた。/久し振りにここをおとずれた。通りから細い路地を入ったつきあたりで、足の悪かった米子夫人は、外出のときは車が入らないのでいつも困っていた。ぼくがこの絵を描く1時間ばかりのあいだ、この公園に入ってきたのは、学生と、病院の若い看護婦さんらしい人が本を読みにきただけだった。あとは近所のネコたちのちょうどよいたまり場になっていた。
  
 そもそも、佐伯アトリエは多くの画集や図録の年譜にあるように、1921年(大正10)の「年頭」あるいは「早い時期」に建設されているのではないと考えている。長男が生まれるのを待って、同年3月末に下落合623番地の新築アトリエへ転居してきた曾宮一念の証言にもあるように、建設途上のアトリエに塗るペンキのカラーリングの参考にと、そのときが初対面だった曾宮一念アトリエを佐伯が訪問したのは、同年4月以降のことだ。曾宮一念が、1921年(大正10)の早い時期に淀橋町柏木128番地から動いていないのは、同年正月にパトロンだった福島県白河町に住む伊藤隆三郎あての年賀状でも、また同年1月16日付け野田半三あての手紙でも確認できる。
 曾宮一念は、綾子夫人が1921年(大正10)3月21日に長男・俊一を出産すると、母体の恢復と新生児が落ち着くのを柏木の仮住まいで待ち、3月末か4月の頭にようやく下落合へ転居してくるのであって、佐伯祐三が曾宮アトリエを訪ねアトリエのカラー塗りを見学したのはそれ以降のことだ。また、佐伯アトリエを建設していた大工の棟梁が、竣工後に大工道具一式(カンナはその中のひとつだったろう)をもって挨拶にくるのが、“中元”ではなく“歳暮”だった点にも留意したい。1921年(大正10)の「初め」あるいは「早い時期」にアトリエが竣工していたら、大工道具は中元としてとどけられていたはずだ。佐伯アトリエは、少なくとも同年の6月以降に竣工しているものと思われる。
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 「佐伯公園」化から約25年、老朽化した佐伯アトリエは2009年(平成21)に解体工事がはじまり、翌年には佐伯祐三アトリエ記念館としてリスタートしている。ネコばかりが集まって無人だった佐伯公園だが、現在では記念館のスタッフが常駐して、さまざまなガイダンスをしてくれる。

◆写真上:1989年(平成元)に制作された、日野耕之祐の水彩画『佐伯公園』。
◆写真中上:2007年(平成19)の春に撮影した、リニューアル前の佐伯祐三アトリエの外観。
◆写真中下:2008年(平成20)4月5日にたまたま撮影できた、佐伯公園の佐伯アトリエの内観。
◆写真下は、母家からつづく廊下の正面が便所で左手が洋間への入口。中上は、佐伯自身が設計・建築したアトリエ西側の洋間。中下は、いつもアトリエ前で見かけたネコ集会。は、日野耕之祐()と1971年(昭和46)出版の日野耕之祐『美を訪ねて』(日本美術社/)。
おまけ
 上記の日野耕之祐による写真随筆『美を訪ねて』に掲載された、下落合氷川社の鳥居前に保存されている庚申塔。1816年(文化13)に建立されたもので、青面金剛の下に三猿が刻まれている。道標を兼ねた庚申塔で右手に「ぞうしが屋」(雑司ヶ谷)、左手に「くずが屋」(葛ヶ谷)と刻まれており、地元の通称「雑司ヶ谷道」の由来となったとみられる道しるべだ。撮影は1960年代末と思われるが、以前から露天に置かれているため現在では表面の浸食風化がかなり進んでいる。
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