
コメント欄でsakuraさんより、社会教育劇『街(ちまた)の子』(東京シネマ商会/1924年)という映画をご教示いただいた。わたしは目白文化村が登場し、夏川静江が出演している映画を娯楽作品だとばかり思いこみ、大正末から昭和初期にかけての映画を総ざらい的に探しつづけていたが、文部省推薦の社会教育映画だとは気づかなかった。
映画を観たとたん、イスから立ちあがるレベルではなく、sakuraさんも書かれているように鼻血がでてイスから転げ落ちそうになってしまった。この映画には、それぞれ収録されたシーンからいえば浅草寺、仲見世、六区横のひょうたん池、関東大震災の焼け跡バラック、江戸川橋から小日向水道町にかけての江戸川(1966年より神田川)、舟溜まり、大洗堰、江戸川公園、東京駅前、丸ビル、丸ノ内、神楽坂、赤城神社、落合府営住宅(落合第二府営住宅)、目白文化村(第一文化村/第二文化村?)などが登場している。ちょうど、箱根土地が第三文化村を販売中に同映画は制作されていたことになる。
また、長崎尋常小学校の近くにあった安達牧場の牛乳屋と牛乳箱、目白通りの小野田製油所が当時は精製し離れた家庭には配達していた大島椿油の看板など、気になる映像が満載となっている。しかも、これらはすべて1924年(大正13)の夏前後に撮影された“動く”風景であり、同時期のスチール写真に比べると情報量がケタちがいに多い。映画の出演者も、気になる人たちばかりだが、それについては連載記事の最後に触れておきたい。また、ぶっつけ本番でロケを敢行しているせいか、俳優たちや撮影チームを見物する野次馬が目立つけれど、それが逆にドキュメントの味わいや緊張感を醸しだしているので、監督の意図的な手法やねらいなのかもしれない。
当時の映画はサイレントだが、1巻のフィルム上映時間が短いため51分の長さといっても、全部で5巻のフィルムに分かれていた。つまり、映画館で上映するときは4回のフィルムチェンジが必要だったことになる。表現としては、フラッシュバックやアイリス状のマスキング、オーバーラップの多用、目白文化村とみられる草原を走るスローモーション・シーンなど、当時のロシア・アヴァンギャルド映画の影響からか、最新の表現技術がふんだんに導入されている。ストーリーは表現とは裏腹に、関東大震災で孤児となった子どもたちが、引きとられたスリの親方のもとで悪事を重ねるが、そのうちのひとり「ヱレキの仙吉」(小島勉)が、やはり震災で両親を亡くした少女「お京」(夏川静江)の、正直かつ謙虚に生きる姿勢から影響を受けて、にわかに改心し徐々に更生していくという、新派の舞台にでもありそうなコッテコテの展開となっている。(なぜ「ヱレキの仙吉」と呼ばれたのか、最後まで観賞してもわからなかったが)
それでは、気になるシーンから順番に観ていこう。まず、1924年(大正13)という年代を感じさせるのは、大震災から間もない時期なので、街中のあちこちに復興に向けた建材が集積されている風景だ。(1) 大谷石やブロック、材木・丸太、コンクリート構造物に用いられるとみられる砂利や砂の山が随所に見えている。特に大谷石のシーンでは、東京市のシンボルマーク(現在の東京都も同マーク)とともに「小石川区役所」の文字が入った木箱がとらえられている。また、焼け跡に建てられたとみられる敷地には、板材の外壁に屋根をトタンで葺いただけの、にわか造りのバラック小屋が散見できる。大震災の余燼くすぶるほどではないが、撮影されたのは同年の春から夏にかけてとみられるので、1年とたってはいない時期だったのだろう。





いまだ江戸川(神田川)に架かる木製の江戸川橋が、すぐ下の江戸期からつづく堰堤とともにとらえられている。(2) おそらく、東京シネマ商会の本社があった、小日向水道町の岸辺から撮影されたものだろう。江戸川橋の下は、江戸期から物資の一大集積地であり、荷揚げや荷積みをする大きな舟溜まりが形成されていた。落合地域では、田畑で収穫した農作物を江戸川橋の青物市場まで運ぶ、昔話(明治期)が多く残されている。また、さまざまな物資は大川(隅田川)の柳橋から神田川へと入り、千代田城の外濠をへて、舩河原橋から江戸川へとさかのぼり、ここで荷揚げされていた。そして、江戸川橋から牛車や馬車に積まれた荷は、旧・神田上水沿いを上流域へと運ばれていった。昭和期に入ると、旧・神田上水から江戸川にかけての川底が浚渫され川幅も整備されて、護岸工事やコンクリート橋への架け替えも進み舟溜まりは終焉を迎える。
その少し上流、目白山(椿山)の山麓にあった江戸川公園(3)とともに、大洗堰(4)もとらえられている。旧・神田上水は開渠のまま、小日向水道町方面へと分岐して後楽園へと抜け、残りの川幅の広い流域が江戸川となるわけだが、大洗堰は上水分岐から少し下流の江戸川に江戸期から設置されていた。ちょうど、現在の大滝橋が架かっているあたりだ。大洗堰の下流域は、江戸川公園の開設とともに貸しボート屋が営業し、水遊びや釣りを楽しむ人たちで賑わっていた。特にソメイヨシノが開花する時期には、江戸川沿いから外濠まで植えられたサクラ並木の下で花見をする行楽客が押し寄せたのは、いまも昔も変わらない。もっとも現在の桜並木は、神田川のもう少し上流、江戸川橋からアユが棲息する高戸橋あたりまで移動している。
めずらしいのは、江戸川をわたる江戸期の仕様をした木樋だ。(5) これは上水道の木樋ではなく、1924年(大正13)の当時、関口水道町に2基設置されていた水車小屋へと向かう導水木樋のうちの1本だ。おそらく、江戸川公園の背景に映っているので、上流(関口水道町40番地)のほうの木樋だろう。江戸期には、黒色火薬を製造し爆発事故を起こしていた関口水車は1基だったが、1921年(大正10)ごろに江戸川へもう1基、水車小屋が増やされ2基となっていた。
この導水木樋は、大洗堰の上流で分岐した旧・神田上水から、江戸川端まで南北に暗渠で水流が引かれ、江戸川を横断する木樋を通じて水車小屋まで運ばれていた。小屋がなく、水車がむき出しだった江戸期~明治期とは異なり、導水木樋の流路や位置も大きく変わっていた。木樋の中央から、なぜか水流が江戸川へ流れだしているが、水車小屋が夏季で稼働していなかったか、あるいは関東大震災で水車が破損し休業していたのかもしれない。
その少し上流、目白山(椿山)の山麓にあった江戸川公園(3)とともに、大洗堰(4)もとらえられている。旧・神田上水は開渠のまま、小日向水道町方面へと分岐して後楽園へと抜け、残りの川幅の広い流域が江戸川となるわけだが、大洗堰は上水分岐から少し下流の江戸川に江戸期から設置されていた。ちょうど、現在の大滝橋が架かっているあたりだ。大洗堰の下流域は、江戸川公園の開設とともに貸しボート屋が営業し、水遊びや釣りを楽しむ人たちで賑わっていた。特にソメイヨシノが開花する時期には、江戸川沿いから外濠まで植えられたサクラ並木の下で花見をする行楽客が押し寄せたのは、いまも昔も変わらない。もっとも現在の桜並木は、神田川のもう少し上流、江戸川橋からアユが棲息する高戸橋あたりまで移動している。
めずらしいのは、江戸川をわたる江戸期の仕様をした木樋だ。(5) これは上水道の木樋ではなく、1924年(大正13)の当時、関口水道町に2基設置されていた水車小屋へと向かう導水木樋のうちの1本だ。おそらく、江戸川公園の背景に映っているので、上流(関口水道町40番地)のほうの木樋だろう。江戸期には、黒色火薬を製造し爆発事故を起こしていた関口水車は1基だったが、1921年(大正10)ごろに江戸川へもう1基、水車小屋が増やされ2基となっていた。
この導水木樋は、大洗堰の上流で分岐した旧・神田上水から、江戸川端まで南北に暗渠で水流が引かれ、江戸川を横断する木樋を通じて水車小屋まで運ばれていた。小屋がなく、水車がむき出しだった江戸期~明治期とは異なり、導水木樋の流路や位置も大きく変わっていた。木樋の中央から、なぜか水流が江戸川へ流れだしているが、水車小屋が夏季で稼働していなかったか、あるいは関東大震災で水車が破損し休業していたのかもしれない。






つづいて、ロケは市電がいきかう東京駅前や、丸ノ内のオフィス街へと移る。だが、ここは記事のテーマから離れるので作品をご覧いただくとして、面白いのは丸ノ内に野良イヌがウロウロしていることだ。このぶんだと野良ネコや、現在の新宿駅と同様にタヌキもいたかもしれない。いろいろとあって、悪ガキ仲間に復讐された仙吉が道端でケガをして倒れているところを、目白文化村に住んでいる学者の山田実夫妻に助けられ、自宅に連れてこられて寝かされる。その山田邸の部屋というのが、派手な壁紙が貼りめぐらされたあまり学者らしくない内装なのだが、すでに和室ではなくイスにベッドの生活だった。(6) 壁には、聖母マリアのエピソードを描いたとみられる油絵が架かっているが、夫妻が近くの教会へ通っていそうなのを暗示している。
このシーンの撮影は、東京シネマ商会の高田馬場スタジオにセットが組まれて行われたらしい。高田馬場の撮影スタジオといえば、古くから小松商会の撮影所(タネドリ)が上戸塚135番地(現・高田馬場4丁目)、いまの早稲田通りでいえば高田馬場駅の西側にあるSUDO時計店の裏あたりにあり、東京シネマ商会は設備がそろった小松商会のスタジオを、居抜きで買収して活用していたのかもしれない。このスタジオを足場にすれば、目白文化村までのロケーションもそれほどたいへんではなかっただろう。
ケガで寝ている仙吉は、いろいろな人物に追いかけられ山田邸を脱出する夢を見るが、ここでオーバーラップ技法とスローモーションが多用されている。そこに登場する、広い草原とハーフティンバーの意匠の大きな西洋館は、おそらく目白文化村のどこかだろう。(7) わたしは、この西洋館に見憶えがないけれど、いまだ広い空き地(住宅敷地?)が拡がっているので、販売を終えて間もない第二文化村のどこかだろうか。よく見ると、左手の雑木林の中に水道タンクのような構造物が見えるようなので、現在の下落合教会(下落合みどり幼稚園)や石橋湛山邸のある一帯の、整地された分譲敷地だろうか。太陽は右手上空から射しているので、そうだとするとカメラマンの背後には敷地内に3棟の母家が建つ宇田川邸とカシの老木が見えていたはずだ。
夢からさめた仙吉は、サイドテーブルに置かれたままの手提げ金庫から、こっそりカネをくすねた女中を追いかけ、箪笥の裏に隠したカネを盗んで山田邸の窓から逃げだす。当然、女中はカネが消えたのを仙吉のせいにしただろう。このあと、どこかの街角が映り、当時の喫茶店(いまだ水茶屋と呼んだほうが似合う)のシーンになるが、かき氷はともかく店がまえに似合わず、ミルクセーキやソーダ水のメニューが幟旗にゆれている。
このシーンの撮影は、東京シネマ商会の高田馬場スタジオにセットが組まれて行われたらしい。高田馬場の撮影スタジオといえば、古くから小松商会の撮影所(タネドリ)が上戸塚135番地(現・高田馬場4丁目)、いまの早稲田通りでいえば高田馬場駅の西側にあるSUDO時計店の裏あたりにあり、東京シネマ商会は設備がそろった小松商会のスタジオを、居抜きで買収して活用していたのかもしれない。このスタジオを足場にすれば、目白文化村までのロケーションもそれほどたいへんではなかっただろう。
ケガで寝ている仙吉は、いろいろな人物に追いかけられ山田邸を脱出する夢を見るが、ここでオーバーラップ技法とスローモーションが多用されている。そこに登場する、広い草原とハーフティンバーの意匠の大きな西洋館は、おそらく目白文化村のどこかだろう。(7) わたしは、この西洋館に見憶えがないけれど、いまだ広い空き地(住宅敷地?)が拡がっているので、販売を終えて間もない第二文化村のどこかだろうか。よく見ると、左手の雑木林の中に水道タンクのような構造物が見えるようなので、現在の下落合教会(下落合みどり幼稚園)や石橋湛山邸のある一帯の、整地された分譲敷地だろうか。太陽は右手上空から射しているので、そうだとするとカメラマンの背後には敷地内に3棟の母家が建つ宇田川邸とカシの老木が見えていたはずだ。
夢からさめた仙吉は、サイドテーブルに置かれたままの手提げ金庫から、こっそりカネをくすねた女中を追いかけ、箪笥の裏に隠したカネを盗んで山田邸の窓から逃げだす。当然、女中はカネが消えたのを仙吉のせいにしただろう。このあと、どこかの街角が映り、当時の喫茶店(いまだ水茶屋と呼んだほうが似合う)のシーンになるが、かき氷はともかく店がまえに似合わず、ミルクセーキやソーダ水のメニューが幟旗にゆれている。




この店の前を、「長崎小学校前/安達」と書かれた冷蔵箱を、大八車に載せた牛乳屋が通過する。(8) 安達牧場で生産された、のちに「キングミルク」のブランドで親しまれる東京牧場の製品だ。映画では、お京が井戸汲みをする洋館の勝手口シーンで、もう一度「安達牧場」と書かれた牛乳箱が登場するが、東京市外の西北部では各家庭に浸透していた牛乳なのだろう。(9)
<つづく>
<つづく>
◆写真上:第一文化村の末高邸から撮影された、映画では山田夫妻邸とされている中村邸。その背後には三角屋根の渡辺邸、遠景の河野邸と永井邸が見えている。
◆写真中上:上は、お京役の夏川静江(左)と仙吉役の小島勉(右)。中上は、震災復興に用いられる大谷石の石積み(1)が随所に登場する。中下は、いまだ木製のままの江戸川橋と舟溜まり(2)。下は、1935年(昭和10)ごろにコンクリート橋へ架け替えられた江戸川橋。
◆写真中下:上は、お京と仙吉が話しこむ江戸川公園(3)と同園の現状。中上は、大洗堰と貸しボート屋(4)で右手が江戸川公園。中下は、1919年(大正8)撮影の大洗堰。下は、江戸川に架かる水車小屋への導水木樋(5)と1923年(大正12)の1/10,000地形図にみる江戸川橋界隈。
◆写真下:上は、高田馬場のスタジオでのセット撮影とみられる山田夫妻の邸内(6)。中上は、目白文化村かその周辺域とみられる草原で撮影されたスローモーション・シーン(7)。中下は、街角を通りすぎる安達牧場の牛乳屋(8)。下は、井戸のある勝手口に設置された安達牧場の牛乳箱(9)。
★おまけ
◆写真中上:上は、お京役の夏川静江(左)と仙吉役の小島勉(右)。中上は、震災復興に用いられる大谷石の石積み(1)が随所に登場する。中下は、いまだ木製のままの江戸川橋と舟溜まり(2)。下は、1935年(昭和10)ごろにコンクリート橋へ架け替えられた江戸川橋。
◆写真中下:上は、お京と仙吉が話しこむ江戸川公園(3)と同園の現状。中上は、大洗堰と貸しボート屋(4)で右手が江戸川公園。中下は、1919年(大正8)撮影の大洗堰。下は、江戸川に架かる水車小屋への導水木樋(5)と1923年(大正12)の1/10,000地形図にみる江戸川橋界隈。
◆写真下:上は、高田馬場のスタジオでのセット撮影とみられる山田夫妻の邸内(6)。中上は、目白文化村かその周辺域とみられる草原で撮影されたスローモーション・シーン(7)。中下は、街角を通りすぎる安達牧場の牛乳屋(8)。下は、井戸のある勝手口に設置された安達牧場の牛乳箱(9)。
★おまけ
AIエンジンで、モノクロ映像をカラー化してみた。手前から奥へ中村邸(玄関が赤で主屋根は緑)や渡辺邸(赤)、河野邸(赤)の屋根だと認識している。また、宅地造成地とみられる草原が拡がるシーンに登場する、大きな西洋館の屋根は“緑”だと認識しているようだ。これらの色彩は、箱根土地が制作した人着のカラー絵はがきと比較すると面白い。


