
★この記事を書き終えたあと、目白文化村を舞台にした映画作品が判明しているので、“文化村映画”については次回改めて記事にしてみたい。わたしは夏川静江が出演する映画を娯楽作品とばかり思いこみ探していたが、実際に制作されたのは文部省があと押しする社会教育映画だった。この記事は、映画作品が判明する直前のものなので、それを踏まえてお読みいただきたい。
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目白文化村(第一文化村)では、夏川静江が主演の映画ロケが行われたという逸話が伝わっている。複数の方からそのようなお話をうかがったが、この伝承は映画ではなく1926年(大正15)に上演された舞台の誤伝ではないだろうか。(実は正確なご記憶だったのだが)
「目白文化村」と「夏川静江」をキーワードに、10年以上にわたって映画雑誌や映画アーカイブ(旧・フィルムセンター)、映画DBを調べてきたが、それらしい作品がどうしても見つからない。(わたしは娯楽映画ばかりを探していた) ただし、キーワードから「映画」外すと、すぐにも目白文化村を舞台にした夏川静江主演の新劇作品を見つけることができる。1926年(大正15)の5月31日から6月2日にかけ、築地小劇場で上演された原作・岸田国士による『紙風船』の舞台だ。演出は佐々木積で、「妻」役を夏川静江が、「夫」役を御橋公が演じている。
岸田国士の『紙風船』は、目白文化村では第四文化村が販売されていた、1925年(大正14)の早々に辻堂海岸で執筆され、同年に刊行された「文藝春秋」5月号に掲載されている。読者の評判がよかったのか、同年の9月には第一書房から出版された『岸田国士戯曲集』に早くも収録され、翌1926年(大正15)2月には春陽堂から出版された『岸田国士戯曲選集/第2篇』にも収められている。当時としては、よほど人気の高かった戯曲作品なのだろう。そして同年の初夏、おそらく人気絶頂のタイミングで築地小劇場にて上演されている。
以上のような経緯が、どこかで「演劇」と「映画」が入れ替わってしまった要因ではないだろうか。上演される作品の舞台がどのような場所であり環境なのか、演出家や俳優たちが現地を見学しに訪れることはめずらしくないし、また事実、岸田国士はよく第一文化村の友人宅を訪問している。1923年(大正12)にフランスから帰国した岸田国士は、翌1924年(大正13)から法政大学の講師に就任するが、同僚だったドイツ語学の予科教師(のち法政大学教授) 関口存男(つぎお)と親密になり、下落合1321番地(のち下落合3丁目1321番地)の第一文化村に建っていた関口邸を頻繁に訪れていたことが、1987年(昭和62)に鹿島出版会から刊行された山口廣・編『郊外住宅地の系譜』収録の、藤谷陽悦「目白文化村」の証言にみえている。
原作者だった岸田国士が、演出家や俳優たち、劇場の大道具小道具などスタッフたちを引き連れて現地(関口邸)を見学しに訪れていたとしても、なんら不思議ではなく、文化村の近隣住民たちはその一行を垣間見て、特に当時は人気女優だった夏川静江の姿を一行の中に認め、“映画”のロケが行われたと勘ちがいしても、ことさら不自然に感じなかったのではないか。(実は映画の撮影は舞台上演の2年前、すでに関東大震災直後の1924年に行なわれていた)
このころの築地小劇場では、同劇場を主導する小山内薫派と、フランスの最新演劇を学んでもどった岸田国士との間で、戯曲と演劇の解釈をめぐる対立が深まっていた時期にあたる。小山内薫は、戯曲と演劇はまったく別の表現であり、戯曲は文学の一部だとする持論を展開していたが、岸田国士は戯曲と演劇は表裏一体であり、戯曲の質や価値は演劇の表現を根本的に左右するものだとして、小山内の考え方を批判していた。岸田国士の戯曲は、フランスの“浪漫的”な表現を取り入れ、従来の日本にはなかった新しい演劇運動をはじめようとしていた。
少しあとの時代になるが、1935年(昭和10)に刊行された「改造」4月号に掲載の岸田国士『歳月』の前書きで、1926年(大正15)上演の『紙風船』について、こんなことを書きとめている。
「目白文化村」と「夏川静江」をキーワードに、10年以上にわたって映画雑誌や映画アーカイブ(旧・フィルムセンター)、映画DBを調べてきたが、それらしい作品がどうしても見つからない。(わたしは娯楽映画ばかりを探していた) ただし、キーワードから「映画」外すと、すぐにも目白文化村を舞台にした夏川静江主演の新劇作品を見つけることができる。1926年(大正15)の5月31日から6月2日にかけ、築地小劇場で上演された原作・岸田国士による『紙風船』の舞台だ。演出は佐々木積で、「妻」役を夏川静江が、「夫」役を御橋公が演じている。
岸田国士の『紙風船』は、目白文化村では第四文化村が販売されていた、1925年(大正14)の早々に辻堂海岸で執筆され、同年に刊行された「文藝春秋」5月号に掲載されている。読者の評判がよかったのか、同年の9月には第一書房から出版された『岸田国士戯曲集』に早くも収録され、翌1926年(大正15)2月には春陽堂から出版された『岸田国士戯曲選集/第2篇』にも収められている。当時としては、よほど人気の高かった戯曲作品なのだろう。そして同年の初夏、おそらく人気絶頂のタイミングで築地小劇場にて上演されている。
以上のような経緯が、どこかで「演劇」と「映画」が入れ替わってしまった要因ではないだろうか。上演される作品の舞台がどのような場所であり環境なのか、演出家や俳優たちが現地を見学しに訪れることはめずらしくないし、また事実、岸田国士はよく第一文化村の友人宅を訪問している。1923年(大正12)にフランスから帰国した岸田国士は、翌1924年(大正13)から法政大学の講師に就任するが、同僚だったドイツ語学の予科教師(のち法政大学教授) 関口存男(つぎお)と親密になり、下落合1321番地(のち下落合3丁目1321番地)の第一文化村に建っていた関口邸を頻繁に訪れていたことが、1987年(昭和62)に鹿島出版会から刊行された山口廣・編『郊外住宅地の系譜』収録の、藤谷陽悦「目白文化村」の証言にみえている。
原作者だった岸田国士が、演出家や俳優たち、劇場の大道具小道具などスタッフたちを引き連れて現地(関口邸)を見学しに訪れていたとしても、なんら不思議ではなく、文化村の近隣住民たちはその一行を垣間見て、特に当時は人気女優だった夏川静江の姿を一行の中に認め、“映画”のロケが行われたと勘ちがいしても、ことさら不自然に感じなかったのではないか。(実は映画の撮影は舞台上演の2年前、すでに関東大震災直後の1924年に行なわれていた)
このころの築地小劇場では、同劇場を主導する小山内薫派と、フランスの最新演劇を学んでもどった岸田国士との間で、戯曲と演劇の解釈をめぐる対立が深まっていた時期にあたる。小山内薫は、戯曲と演劇はまったく別の表現であり、戯曲は文学の一部だとする持論を展開していたが、岸田国士は戯曲と演劇は表裏一体であり、戯曲の質や価値は演劇の表現を根本的に左右するものだとして、小山内の考え方を批判していた。岸田国士の戯曲は、フランスの“浪漫的”な表現を取り入れ、従来の日本にはなかった新しい演劇運動をはじめようとしていた。
少しあとの時代になるが、1935年(昭和10)に刊行された「改造」4月号に掲載の岸田国士『歳月』の前書きで、1926年(大正15)上演の『紙風船』について、こんなことを書きとめている。


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テーマ劇なるものに反対して、故ら筋のないスケツチ劇を試みた次第で、このフアンテジイがわかるかと、内心ちよつと新しがつてみたことは事実である。序ながら、これは結婚以前の作だといふことを勘づく人は勘づくであらうか。さういふところが、浅いと云へば浅いに違ひない。
▲
戯曲『紙風船』は、台詞の中に下落合の目白文化村が登場するので、実際に読まれた地元の方も多いかもしれないが、劇のストーリーに確とした1本の経糸(テーマ性)を通して構造的に組み立てられた、現実的あるいは物語的なリアリズムとはまったく無縁な、さりげない日常生活を喜劇風にアレンジして軽妙洒脱に表現(演技)した舞台だったようだ。
もちろん、映像や音声に記録されている舞台ではないので、実際に観劇するとまたちがった印象を受けるのかもしれないが、岸田国士は戯曲と舞台(演出や俳優の演技)は切っても切れない関係だと規定しているので、おそらく戯曲から受ける印象と実際の舞台とは、それほどかけ離れたイメージではなかったのではないかと思われる。また、戯曲と舞台は一体だからこそ実際の目白文化村へ舞台関係者と“ロケハン”をしに、わざわざ訪れているのではないか。
いまだ築地小劇場で実際に上演されていない、1925年(大正14)に刊行された「演劇新潮」6月号で、当時は駆けだしだった川端康成が、戯曲『紙風船』についてこんなことを書いている。
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結婚後一年目の日曜を如何にすべきか、つまり会社員の夫と妻とが一日中顔を併せてゐるべき日曜日の処理に困ると云ふことに倦怠を結びつけて書いてあるのが面白い。幕切れの紙風船を出した機智も利いてゐる。新鮮な喜劇。
▲
「新感覚派」と呼ばれた文学領域に身をおく川端康成が、当時の演劇界にはない軽妙で機智にとみ、ストーリー性が希薄で気怠く、流行を追いかけるような日常生活を描いた一幕ものの岸田作品へ敏感に反応するのは、むしろ当然だったのだろう。同様に、第三文化村の目白会館文化アパートに住んだ龍膽寺雄もまた、岸田国士の『紙風船』にはことさら注目し、同劇についてどこかになにか書き残しているのではないか。
テーマ劇なるものに反対して、故ら筋のないスケツチ劇を試みた次第で、このフアンテジイがわかるかと、内心ちよつと新しがつてみたことは事実である。序ながら、これは結婚以前の作だといふことを勘づく人は勘づくであらうか。さういふところが、浅いと云へば浅いに違ひない。
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戯曲『紙風船』は、台詞の中に下落合の目白文化村が登場するので、実際に読まれた地元の方も多いかもしれないが、劇のストーリーに確とした1本の経糸(テーマ性)を通して構造的に組み立てられた、現実的あるいは物語的なリアリズムとはまったく無縁な、さりげない日常生活を喜劇風にアレンジして軽妙洒脱に表現(演技)した舞台だったようだ。
もちろん、映像や音声に記録されている舞台ではないので、実際に観劇するとまたちがった印象を受けるのかもしれないが、岸田国士は戯曲と舞台(演出や俳優の演技)は切っても切れない関係だと規定しているので、おそらく戯曲から受ける印象と実際の舞台とは、それほどかけ離れたイメージではなかったのではないかと思われる。また、戯曲と舞台は一体だからこそ実際の目白文化村へ舞台関係者と“ロケハン”をしに、わざわざ訪れているのではないか。
いまだ築地小劇場で実際に上演されていない、1925年(大正14)に刊行された「演劇新潮」6月号で、当時は駆けだしだった川端康成が、戯曲『紙風船』についてこんなことを書いている。
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結婚後一年目の日曜を如何にすべきか、つまり会社員の夫と妻とが一日中顔を併せてゐるべき日曜日の処理に困ると云ふことに倦怠を結びつけて書いてあるのが面白い。幕切れの紙風船を出した機智も利いてゐる。新鮮な喜劇。
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「新感覚派」と呼ばれた文学領域に身をおく川端康成が、当時の演劇界にはない軽妙で機智にとみ、ストーリー性が希薄で気怠く、流行を追いかけるような日常生活を描いた一幕ものの岸田作品へ敏感に反応するのは、むしろ当然だったのだろう。同様に、第三文化村の目白会館文化アパートに住んだ龍膽寺雄もまた、岸田国士の『紙風船』にはことさら注目し、同劇についてどこかになにか書き残しているのではないか。




劇中で、夫婦が鎌倉に出かけ海浜ホテルへ泊まる空想をするのも、目新しい演劇表現だったのだろう。夫婦が住む「目白文化村」自体が当時は流行の先端生活だが、空想では当時の流行りモノが次々と登場している。山手線の「キヤラメル」、大船駅の「サンドヰツチ」、冷蔵庫でよく冷やした「カルピス」、海浜ホテルの「バスルーム」、散策用の「ステツキ」、近所の「玉突き(ビリヤード)」場……、毎月100円足らずの夫の月給をいかに「盛大」かつ華麗につかうかしか興味のない生活は、「つくづくいやになり」そうなことを夫婦はともに予感している。
ふたりは、「日曜がおそろしい」とまでいいだすのだが、庭に飛びこんできた隣家で遊ぶ子どもの紙風船に気をとられ、突然、夫婦が舞台から消えて幕が下り劇は終わってしまう。当時、築地小劇場に足を運んだ観客は、夫婦が会話をしていた内容に沿って、つづきの第二幕があるものと思い席を立たなかったか、「ハァ? これでお仕舞いかい?」と唖然としたか、「新鮮だ。洒落た新しい表現だ!」と称賛したかのいずれかだったのではないか。
『紙風船』を賞賛した観客の多くは、関東大震災後の東京で目立ちはじめた会社勤めの月給とり(サラリーマン)で、劇中の夫婦が暮らしているとみられる、戯曲冒頭に書かれた「小綺麗なバンガローや荘重なライト式建築、さては、優雅な別荘風の日本建築などが、富士の眺めや樹木に富む高台一帯の晴れやかな環境」に建ち並び、「目白文化村は今日瀟洒たる美しい住宅地」あたりに住みたいと願う、“中産階級”の人々だったのではないだろうか。
川端康成は同作を褒めたが、同じ「新感覚派」といわれた龍膽寺雄は、実際に目白文化村にやってきて住みつき、モダンアパート暮らしをする様子を書き残している。そのきっかけが、『紙風船』の舞台だったかどうかは不明だが、当時の流行を追いかけることが“新しい”生活を生むということ、旧習慣から脱却できる(岸田国士は旧態然の演劇を止揚できる)近道だと考えていた人々へ、大なり小なり影響や感銘を与えたのはまちがいなさそうだ。
でも、そんな憧れを抱いて目白駅から箱根土地の現地見学用のフォード社製バスに乗り、目白文化村を訪れたサラリーマンたちは、すぐにも月給100円(米価換算だと今日の約12万5,000円)ほどの収入では、とても土地や家など手に入らない世界だったことを思い知らされただろう。『紙風船』は、若い夫婦の倦怠感がただよう日曜日の情景を描いているようでいて、実は月給100円前後の若いサラリーマン夫婦には手がとどかない贅沢な生活を描いてみせた、まさに劇全体が夢舞台のように思えるような設定をしている。ちなみに、当時の大卒公務員の初任給は75円だった。
ふたりは、「日曜がおそろしい」とまでいいだすのだが、庭に飛びこんできた隣家で遊ぶ子どもの紙風船に気をとられ、突然、夫婦が舞台から消えて幕が下り劇は終わってしまう。当時、築地小劇場に足を運んだ観客は、夫婦が会話をしていた内容に沿って、つづきの第二幕があるものと思い席を立たなかったか、「ハァ? これでお仕舞いかい?」と唖然としたか、「新鮮だ。洒落た新しい表現だ!」と称賛したかのいずれかだったのではないか。
『紙風船』を賞賛した観客の多くは、関東大震災後の東京で目立ちはじめた会社勤めの月給とり(サラリーマン)で、劇中の夫婦が暮らしているとみられる、戯曲冒頭に書かれた「小綺麗なバンガローや荘重なライト式建築、さては、優雅な別荘風の日本建築などが、富士の眺めや樹木に富む高台一帯の晴れやかな環境」に建ち並び、「目白文化村は今日瀟洒たる美しい住宅地」あたりに住みたいと願う、“中産階級”の人々だったのではないだろうか。
川端康成は同作を褒めたが、同じ「新感覚派」といわれた龍膽寺雄は、実際に目白文化村にやってきて住みつき、モダンアパート暮らしをする様子を書き残している。そのきっかけが、『紙風船』の舞台だったかどうかは不明だが、当時の流行を追いかけることが“新しい”生活を生むということ、旧習慣から脱却できる(岸田国士は旧態然の演劇を止揚できる)近道だと考えていた人々へ、大なり小なり影響や感銘を与えたのはまちがいなさそうだ。
でも、そんな憧れを抱いて目白駅から箱根土地の現地見学用のフォード社製バスに乗り、目白文化村を訪れたサラリーマンたちは、すぐにも月給100円(米価換算だと今日の約12万5,000円)ほどの収入では、とても土地や家など手に入らない世界だったことを思い知らされただろう。『紙風船』は、若い夫婦の倦怠感がただよう日曜日の情景を描いているようでいて、実は月給100円前後の若いサラリーマン夫婦には手がとどかない贅沢な生活を描いてみせた、まさに劇全体が夢舞台のように思えるような設定をしている。ちなみに、当時の大卒公務員の初任給は75円だった。



築地小劇場で上演された、1926年(大正15)の舞台写真が残されているが、なんとも不思議な光景だ。夫婦を演じた、夏川静江と御橋公はともに和装なのだが、夫が腰かけているのはソファかベッドの端のようで、妻が立っているのはソファの上らしい。この姿で、夫は流行りの「籐椅子」に座りながら新聞を読み、妻は洋間で座布団に座りながらやはり流行の「編み物」をしている。ふたりは寝るとき、浴衣のような寝間着を着たのか、それともパジャマ姿だったのだろうか。
◆写真上:1926年(大正15)5月31日~6月2日に築地小劇場で上演された『紙風船』の舞台写真で、書割には屋敷林に囲まれた隣家の西洋館が描かれているようだ。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる落合町下落合1321番地の関口存男邸。中は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる関口邸界隈。下は、2007年(平成19)に撮影した、第一文化村の関口存男邸跡。
◆写真中下:上は、1930年(昭和5)に制作された長谷川利行『岸田国士像』。中は、舞台『紙風船』に出演した妻役の夏川静江(左)と夫役の御橋公(右)。下は、戦後の「文学立体化運動」を提唱中に撮影されたとみられる文学座の杉村春子と岸田国士。
◆写真下:上は、冒頭の写真と同時期に築地小劇場で撮影された『紙風船』の舞台写真(ゲネプロ中か?)。中は、関口邸の西隣りに建っていた安食勇邸(のち会津八一邸=文化村秋艸堂)。下は、関口邸の東隣りに建っていた末高信邸。残念ながら、関口邸の外観写真は発見できない。最下段に掲載した末高邸の外観写真の左端に、少しだけ軒先が見えているのが関口邸だ。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる落合町下落合1321番地の関口存男邸。中は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる関口邸界隈。下は、2007年(平成19)に撮影した、第一文化村の関口存男邸跡。
◆写真中下:上は、1930年(昭和5)に制作された長谷川利行『岸田国士像』。中は、舞台『紙風船』に出演した妻役の夏川静江(左)と夫役の御橋公(右)。下は、戦後の「文学立体化運動」を提唱中に撮影されたとみられる文学座の杉村春子と岸田国士。
◆写真下:上は、冒頭の写真と同時期に築地小劇場で撮影された『紙風船』の舞台写真(ゲネプロ中か?)。中は、関口邸の西隣りに建っていた安食勇邸(のち会津八一邸=文化村秋艸堂)。下は、関口邸の東隣りに建っていた末高信邸。残念ながら、関口邸の外観写真は発見できない。最下段に掲載した末高邸の外観写真の左端に、少しだけ軒先が見えているのが関口邸だ。