植物学者としての御留山の相馬孟胤。

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 相馬邸の敷地を買収した東邦生命が、戦後、弁天池を「精魚場」(1967年)としていた意味がようやくわかった。生命保険会社が、なぜ魚などを養殖しているのか不思議に思っていたのだが、育てていたのはおそらく当時は人気が高かったニシキゴイだ。
 そして、ニシキゴイの養殖は東邦生命がはじめた事業ではなく、御留山に建つ相馬邸の主(あるじ)だった相馬孟胤が、邸の南側へ深く入りこんだ谷戸沿いの斜面に特別な湧水池をしつらえ、早い時期からニシキゴイの養殖をビジネスとしてはじめている。東邦生命は、そこで養殖されていたニシキゴイを戦後になって東端の弁天池に移し、同様に戦後の庭園でも需要が高かったとみられるニシキゴイの養殖を継続していたのだろう。ちなみに相馬邸の養殖池は、現在のおとめ山公園にあるいちばん西側の湧水池(上の池)よりも、さらに西寄りの斜面上に造られており、開発されていたニシキゴイとともに当時の写真も残されている。
 華族(子爵)の相馬孟胤は多趣味な人物で、丸弁大輪アマリリスの品種改良に取り組んでいたのは以前の記事でもご紹介しているが、西洋ラン(シンビジウムなど)の改良も同時に行なっていた。ランの品種改良は、先代の相馬順胤が取り組んでいた事業であり孟胤の創業ではないが、そのまま仕事を継承していたのがわかる。相馬邸の温室で撮影された、ランの改良に取り組む相馬孟胤の記念写真が残されている。(冒頭写真) 写真は、シャーレで培養されたランの種子の発芽状態を、相馬孟胤がチェックしている様子がとらえられているが、実際の細かな業務は相馬邸に大勢いたとみられる、専門の庭師たちにまかせていたのだろう。
 相馬孟胤がすごした学習院での趣味は、競漕(ボートレース=レガッタ)と柔道、それに自転車だった。自転車は、同級生たちとよく東京郊外へサイクリングに出かけていたようで、いっしょに走ったサイクリング仲間には織田信恒、木戸幸一、木戸小六、長与善郎などがいた。特に長与善郎とは、学習院初等科6年生から学習院高等科を卒業する10年余をいっしょにすごしており、相馬孟胤は理科へ、長与は文科へ進学したため会う機会が徐々に減っていった。また競漕では、相馬孟胤と長与善郎、織田信恒が同チームであり特に親交が深まったようだ。
 このときの競漕チームに、面白いエピソードが残されている。レースへ出場するチームの景気づけに、魚河岸の兄(あん)ちゃんが絞めるような豆絞りの手ぬぐいをそろえ、チーム全員がおそろいのねじり鉢巻きで出場したところ、学習院の学生として「ありえない」姿だと学内外から非難を浴び、やむをえず鉢巻きを廃棄したという。魚屋あるいは鮨屋のような鉢巻き姿で、大川(隅田川)を威勢よく漕ぎまわっていたら、「お坊ちゃまの学習院も、まんざら捨てたもんじゃねえやな」と、江戸東京の町っ子から少しは見直されていたかもしれないのに、まことに残念なことだった。また、相馬孟胤は肋膜で1年間休学し、親友たちとはひとつ下のクラスになってしまったが、もともと同級だった親友たちとともに樺太への冒険旅行にも出かけているようだ。
 もうひとつ、相馬孟胤はゴルフの腕もうまいことで知られていた。御留山にあった相馬邸の芝庭でも練習をしていたのだろう。相馬邸の庭園写真を見ると、なだらかな起伏のある広い芝庭をこしらえたのは、自邸でもゴルフを楽しむためだったのではないか。また、弁天池の周囲も多くの芝を植えていたのは、池越えショットの練習でもするつもりだったのだろうか。のち、1935年(昭和10)ごろになると、弁天池のある周辺は近衛町側から下る坂道が拓かれ、四阿(あずまや)も建てられて遊園地(今日の公園)のような風情になっていった。
 当時の様子を、1936年(昭和11)秋に相馬郷友会から出版された『子爵相馬孟胤閣下追悼録』に収録の、長与善郎『想ひ出すまゝ』から孟胤の人物像について少し長いが引用してみよう。
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 初めは議事堂前の君の邸をよく訪ねて遊び、蓄音機を聴く事を楽しむだ。エルマン、クベリツク、イザイ、メルバ、フアラー、カルーソーなぞ。君は最も早いレコードの蒐集家の一人であつたらうと思ふ。自分でもセロを弾いた。/土屋(義直)君も仲々教養主義者であつたが、織田(信恒)君はピアノを弾き、絵を画き、君はセロを弾き、ボートとか柔道の選手杯とは云ひながらA組仲間は存外見かけによらぬ芸術的雰囲気を多少は持つてゐたと云ひ得る。悪戯腕白の程度も激しかつたがそればかりではなかつた。思へば余程仲はいゝものであつた。学校へ行くことはこれらの一味徒党とも云ふべき元気なる朋輩に会いに行くために楽しみであつた。殊に君、土屋、織田及び僕の四人は兎角一つのグルをなしてゐた。ボートで勝てば早速翌日から四人で箱根へ出かけて一二泊し、毎晩晩く(ママ:遅く)まで宿屋の迷惑も関はず、大声で唄を唄ひ、又語り笑ひ、騒いだもので、その頃はよく僕も乱暴に酒など飲んで、内幸町の君の家に泊りこみ、二日酔ひして君の家に御迷惑をかけたりした。(カッコ内引用者註)
  
 さて、大学の専攻は植物学だった相馬孟胤だが、植物の研究をする相馬邸の大温室はどこにあったのだろうか。1936年(昭和11)撮影の空中写真を参照すると、母家の西側に北端がカギ型に折れ曲がった、長さ50mほどの細長い建屋を見つけることができる。ちょうど、相馬坂と並行するように建設されており、これがおそらく西洋ランやアマリリスを研究・栽培していた大温室だろう。また、この温室では芝生の研究もつづけられていたようだ。
 なぜ、芝にこだわっていたのかといえば、ゴルフ場に用いるエバーグリーン・ターフ(Evergreen Tuef)の研究栽培をつづけていたのだ。現在、エバーグリーン・ターフといえば「人工芝」のイメージが強いが、当時は1年を通じてグリーンの芝生を保持できそうな品種や、年間を通じてグリーンの芝を維持できるよう、季節ごと生育が異なる品種の種子を混合したものが、そう呼ばれていた。相馬孟胤は、いつでもグリーンの芝を実現できるよう、日本の環境に適合する専用芝を研究していたとみられる。これにも、開発エピソードが付随している。
 息子・相馬恵胤の証言によれば、駒沢にあったゴルフ俱楽部が埼玉県の膝折地域への移転が決定した際、新しいコースに敷く芝は従来どおりの高麗芝にするか、日本初となるエバーグリーン・ターフにするかで激論が交わされた。エバーグリーン派の急先鋒は相馬孟胤で、会員たちを説得しようとしたが従来の高麗芝派が多く、またエバーグリーン・ターフが日本で生育するかも不明だったため、逡巡する会員たちが多かった。責任者だった相馬孟胤は、エバーグリーン・ターフの採用を決めてコースを造り、膝折のゴルフ場を「朝霞ゴルフコース」と命名してオープンしている。
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 ところが、酷暑の夏になると芝が弱り雨も降らず、ところどころで枯れはじめるという事態になってしまい、ゴルフをプレーするどころではなかった。相馬孟胤は、芝の具合を確認するために毎日、下落合から腰折まで往復するようになり、最悪の事態に備えて高麗芝も大量に手配している。この間、倶楽部の会員たちからは多くの非難が寄せられたようだ。だが、8月になるとようやく小雨が降りはじめ、花卉職人たちの努力もあってコースは再びグリーン色を回復している。その後も、相馬孟胤は雨が降らず高温の日々がつづくと、必ず腰折へ出かけては芝の状態を確認していたようだが、自身はゴルフをすっかりやめてしまった。周囲には、これ以上プレーをつづけても成績が上がりそうもないからと説明していたが、芝生の問題で多くの会員たちとの間に溝や軋轢が生じてしまったからではないかと、相馬恵胤は推測している。
 温室では、アマリリスやランの研究も盛んに行なわれていた。長与善郎の証言を引用しよう。
  
 ずつと後になつて一度僕は家族同伴目白の君の家を訪ひ、温室の蘭やアマリゝスを見せて貰つた事がある。/君が一方ならず温室に趣味を有つてゐた事は先考からの譲られた趣味であつたと思ふが、学習院の君の如き境遇にある人がさういう最も自分の好む園芸杯に専心することは大いに意味あり、いゝ事だと僕は思つてゐた。徒らにつまらぬ銀行家になつたり会社員になつたりして一かどのビジネスマンになつたとてつまらぬ事である。学習院出のかゝる人はさういふ人だけが為し得る趣味の道に思ひ切つて没頭してこそ意味がある。その点、君や、鷹司信輔、黒田長禮、福羽發三君等はそれぞれ最も適当なる道に入つてその境遇を生かしてゐるものと云ひ得る。/令弟正胤君が近頃果物缶詰の仕事をやつてをられるのも甚だ面白いと思ふ。
  
 「令弟正胤君」の「仕事」とは、やがてアマリリスジャムとして有名になる事業のことだ。1932年(昭和7)ごろ、落合町葛ヶ谷(西落合)511番地に設立した会社は当初、相馬果実缶詰研究所という施設名だったが、ジャムづくりが軌道に乗ると相馬果実製菓所という社名に変更している。
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 イギリスに留学し、果物の加工工場などで働きながら研究を重ねていた弟の相馬正胤は、帰国すると数年間は下落合の相馬邸でブラブラ暮らしていた。40歳近い独身の男が、結婚もせず生業にも就かずに遊んでいるとはケシカランと、さまざまな非難が兄のもとへとどいていたようだが、相馬孟胤は警告や文句の類をひと言もいわなかったという。日本の状況をよく見きわめ、どのような仕事をすれば市場が拓けるのか研究する猶予を与えられたのだと、のちに相馬正胤は解釈している。こうして、満を持して開発・発売されたのが、ヒット商品となるアマリリスジャムだった。

◆写真上:大温室のシャーレで培養された、ランの種子の発芽を確認する相馬孟胤。
◆写真中上は、居間のある南斜面に設置されたニシキゴイの養魚場。すぐ下の谷戸にある湧水源から、ポンプで水を汲みあげて活用していたとみられる。中上は、1915年(大正4)に撮影された竣工直後の相馬邸南斜面。養魚場は、画面左手の下あたりに造られている。中下は、相馬邸で養殖されていたニシキゴイ。は、湧水池(上の池)の現状。
◆写真中下は、1909年(明治42)に撮影された隅田川における学習院競漕チーム。中上は、豆絞り手ぬぐいのねじり鉢巻き。中下は、1908年(明治41)に撮影された学習院高等科時代の相馬孟胤。は、大温室での植物学者・相馬孟胤のプロフィール。
◆写真下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる相馬邸母家と周辺の付属施設。は、ゴルフ場で撮影された練習中の相馬孟胤。は、式部官正装姿の相馬孟胤。