大震災のあと島田清次郎は下落合にいた。

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 いま、島田清次郎という小説家を知っている方は、はたしてどれぐらいいるのだろうか。大正中期に、新潮社から出版された『地上』という作品が売れ、賀川豊彦『死線を越えて』とともに当時のベストセラーとなった作家だ。そういうわたしも、数年前までは知らず読んだこともなかった。最後は精神を病み、わずか31歳で病没していることも存在を稀薄化させている要因だろうか。戦後の文学全集にも、ほとんど入れられなかった小説家だ。
 当時の“文壇”は、ほとんどが身のまわりの些末なことを書く私小説の作家で占められており、スケールの大きな「虚構」くさい作品、すなわち物語性の強い作品は敬遠され、通俗小説呼ばわりされ高い評価を受けることがなかった。その反動だろうか、若い島田清次郎が書いたロマンチックな『地上』は読者に受け、空前のベストセラーを記録することになる。この1作だけで、新潮社では本社ビルが建てられたとウワサされるほどの売れいきだったという。
 だが、現代の視点で『地上』を読むと、主人公の貧乏な青年「大河平一郎」がたどる恋と、“立身出世”に向けた熱い想いと、徐々に階級観にめざめていく過程は、ことさら衝撃的でもそれほど思想的な作品にも思えず、学生の文芸サークルで提出された習作を読むような表現の幼さや拙さとも相まって、どうしてこの作品がそれほどまでに読まれたのか、ちょっと理解に苦しんでしまう。大正デモクラシーという時代の「自由」のなかで、タガが外れたように“なんでもあり”、あるいはなんでもありそうな次の物語展開を、「英雄的態度」の主人公と読者が一体化してしまい、多くの若者たちはドキドキしながら次々とページをめくっていたものだろうか。
 裏返せば、当時は惹かれる女性が泊って寝ていった蒲団が気になったり、確執がつづいていた父親とようやくヨリがもどせそうになったり、家出をした妻に向けてエンエンと恋情を綴ったりと、そんなことは「日記にでも書いときゃいいじゃん」レベルの、他者にとってはどうでもいい些末的で現代ならことさら反感をかいそうな、限りなく内向する作品が「小説」であり「文学」だと規定されていた時代に、突然現れた島田清次郎の『地上』は、かなり傾向が異なる新鮮な印象を読者に与えたものだろうか。だが、『地上』に描かれた世界は、著者自身が金沢で体験したことをそのままベースにし、誇大妄想を多分に含めた「私小説」にはちがいないのだが。
 島田清次郎は、『地上』の舞台と同じ加賀で生まれ育っている。早くに父親を亡くし、母親の細々とした裁縫仕事でかろうじて暮らす、貧しい家庭環境で育った。金沢市西廓にあった遊郭「吉米楼」で、多感な少年時代をすごしている。彼は小学生のころから、なぜか「おれは神童だ」という自負をもち、特に作文では大人びた表現を見せて教師たちを驚かせている。言動もどこか大人びており、人を威圧するような態度で級長をつとめていたという。金沢の第二中学校に進学するが、祖父が相場で失敗し退学せざるをえなくなった。
 母親とともに東京へ出ると、実業家の屋敷で母は女中頭に、島田清次郎は同屋敷の書生となって明治学院普通部へ転入する。だが、母親の再婚を機に金沢の叔父のもとへもどり、再び金沢二中へ通うようになった。このころから、同級生に対して見下すような態度をとりはじめ、鼻もちならない性格が表面化して孤立することになる。叔父の奨めから金沢商業へ進むが、すぐに退学して株式新聞の記者や出版社、用品店など職を転々とし、「神童」の自分をこのような境遇に陥らせた周囲の人々を呪いつつ、いつか「復讐」を誓うようになる。
 その「復讐」とは、作家として有名になり、自分を見棄て見放した人々を睥睨して笑ってやろうという、自分は「神童」で「大物」なんだという、子どものころから抱いていた妄想の延長線にある、かなり幼い功名心だったようだ。このような稚拙な思いこみは、下落合803番地にアトリエをかまえていた洋画家・柏原敬弘と、どこか共通する性格を思い起こさせる。柏原敬弘の場合は、文展・帝展に入選して有名な画家となり、自分を見棄てて他の男に走った「恋人」(この認識も被害妄想による彼自身の空想なのかもしれないが)に復讐するためだった。
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 こうして、どん底生活の中でも『地上』の原稿をコツコツと書きため、金沢の各新聞社に「僕の傑作」を掲載しろと持ちこんだが、そんな驕慢な態度に新聞社がまともな対応をするはずもなく、島田清次郎は失意のうちに再び東京へやってきて、生田長江に原稿を見てもらう。すると、生田は彼の『地上』を褒め、出版社の新潮社を紹介してくれた。こうして、1919年(大正8)に島田清次郎の『地上』は、生田長江の推薦作品として出版されることになった。
 地主と箱根土地地権対立で、運よく下落合(4丁目)1379番地の目白文化村にタダ同然で住めた秋山清は、戦後、島田清次郎の攻撃的な性格と当時の文学状況について、しごく的確かつ鋭い分析を試みている。1969年(昭和44)に学藝書林から出版された『ドキュメント日本人』第9巻<虚人列伝>収録の、秋山清『天才! 島田清次郎』から引用してみよう。
  
 人を攻撃するときの立場は自分を民主的自由主義的なところに置くが、自分が指導的な位置につけば圧制横暴な弾圧者に変貌する。こういう例はひろく見られるところである。(中略) 島田清次郎の対人関係に見られる一貫した性格は、利用価値のある者にはある程度の礼をつくすが、時至らば弊履のごとく放擲する、その繰返しであった。(中略) 今からまる五十年の昔、当時の日本文学の水準如何という問題がここにある。文学第一流の出版社が、ベストセラーに驚喜して続刊をどんどんうながして病的にまで自負と尊大に自ら目をくらまされた若き天才を損わしめた責任は、売れるにまかせて売りまくり、得意の壇上から奈落の底に落して絶望悲歎のはてに狂気せしめた者にもなければならない。
  
 『地上』が空前のベストセラーとなり、島田清次郎が有頂天になったのも想像に難くない。そして、性格はますます傲岸不遜となって、彼を推薦してくれた生田長江ら周囲の作家たちにも平然と無礼な言動をするようになり、出版社からも見放されるのは時間の問題だった。また、故郷の金沢でも島田清次郎の傲慢さゆえに、ベストセラー作家となった彼を快く迎え入れてはくれなかった。だが、彼の「少年小説」のようなロマンチックな作品は売れつづけた。
 島田清次郎の末路は、1922年(大正11)に欧米をまわる旅行から帰国した翌年、読者でファンだった海軍少将の娘を葉山に誘いだし、監禁して凌辱したとされる事件(「舟木芳江事件」と呼ばれ実際は無実だといわれる)が決定的となった。1923年(大正12)4月、葉山の養神亭で彼は葉山署員に逮捕され、横浜地裁の検事局に連行されている。徳富蘇峰らの奔走で告訴は取り下げられたが、彼の人気はカダ落ちとなった。最初の『地上』発表から、わずか3年半ほどでの凋落だった。
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 1923年(大正12)9月、関東大震災が発生すると本郷にあった島田清次郎の自宅は全焼し、金沢時代のツテを頼って下落合の下宿アパートへ母親とともに避難してくる。残念ながら、この建物がどこにあったのかは不明だ。金沢二中で同窓だった、詩人で漢方医の中山啓の姻戚が経営するアパートだったらしい。中山啓は大震災の混乱が収まると、落合地域が気に入ったのか上落合521番地に自邸をかまえている。この住所は、公楽キネマが開館する区画と同一番地だ。
 下落合での様子を、1927年(昭和2)に精神衛生学会から刊行された「脳」8月号収録の、当時は傲慢な島田と絶交中だった中山啓の、『島田清次郎君の発狂』から少し長いが引用してみよう。
  
 (大震災で自宅に)住めなくなったので、下落合の親戚の家を(ママ:へ)転宅する事になつたが、そこは下宿屋の跡の大きな家であつたので、部屋があいて居た。すると或日叔母に家を借りる約束をして、荷物を持ち込んだ男がある。――見ると島田君だ。/その家には金沢で島田君に二階を貸した、僕の祖母も来て居れば、また島田君をなぐりつけた従弟も来てゐる。島田君は僕達を見ると、顔の色をかへて考へこんでしまつたのである。/然し地震の後だ。お互ひに親切にしあいたい心で一ぱいになつてゐる時であり、僕も島田君の一切を許して、友達になる事になつた。――島田君は舟木事件でひどい目にあつて、すつかりおとなしくなつて、僕や母の云ふ事を、ハイハイとかしこまつて聞いて居る様子が、実におかしい程だつた。/だが島田の母を虐待する癖は、当分の中は無かつたが、二三ケ月すると、そろそろ始つて来出して、或日島田君が母をなぐりつけ、母が逃げるのを追ふて、僕等の住んでゐる棟にやつて来た。丁度その時は、僕が留守であつたが、それを見た僕の従弟が島田君の母をかばいながら、島田君をなぐりつけた。島田君の金ブチの眼鏡はこはれて飛び、更に喰つてかかるのを、廊下から庭へ投げ飛ばしてしまつた。(カッコ内引用者註)
  
 島田清次郎の下落合時代、中山啓はほかにもエピソードをいろいろ紹介しているが、キリがないので機会があればまたご紹介したい。本が売れなくなったこのころ、島田清次郎は同居する母親に対して頻繁に暴力をふるうようになっていた。それまでの、彼の言動を踏まえるなら「こうなったのも、みんなお前のせいだ」と、すべての責任を母親をはじめ他者へなすりつけてまわっていたのだろう。この出来事のあと、彼は下落合のアパートを飛び出してどこかへいってしまった。
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 次に島田清次郎が登場するのは、白山通りを血まみれで人力車に乗っていた彼を、不審に思った警察官が職質して検束した1924年(大正13)7月のことだ。あまりにも言動がおかしく、頻繁に幻聴が聞こえるようなので精神鑑定を受けさせた結果、「早発性痴呆症」と診断され、そのまま巣鴨町庚申塚413番地の巣鴨保養院(巣鴨脳病院)へ収容されている。保養所で病気は徐々に快復したとされているが、1930年(昭和5)に肺尖カタルの症状が悪化し、わずか31歳で死去している。彼は入院中も執筆をつづけていたが、絶筆となった原稿には大泉黒石の訪問したことが記載されていた。

◆写真上:大勢のファンや読者たちに囲まれ、得意の絶頂にある島田清次郎。
◆写真中上は、少年期をすごした金沢市西廓の吉米楼跡とその現状。は、島田清次郎()と1919年(大正8)出版の『地上-地に潜むもの』(新潮社/)。
◆写真中下は、1930年(昭和5)出版の『現代長篇小説全集』第24巻(新潮社)に収録された『地上』の挿画で日本画家・水島爾保市の担当による「冬子」。は、同じく吉倉和歌子を前に「僕だって直におおきくなります」と大言壮語する大河平一郎。は、わずか数年で人相が大きく変わってゆく島田清次郎()と、秋山清『天才! 島田清次郎』が収録されている1969年(昭和44)出版の『ドキュメント日本人』第9巻<虚人列伝>(学藝書林/)。
◆写真下は、1923年(大正12)4月に「舟木事件」を報じる新聞。は、舟木芳江()と島田清次郎()。は、1926年(大正15)作成の「西巣鴨町東部事情明細図」にみる巣鴨保養院。
おまけ
 1957年(昭和32)に脚本・新藤兼人/監督・吉村公三郎で映画化された『地上』(大映)のスチール。大河平一郎を川口浩、吉倉和歌子を野添ひとみが演じ、ほかに田中絹代や三宅邦子、香川京子、清水将夫、佐分利信、滝沢修、信欣三、小沢栄太郎、川崎敬三など豪華キャストが共演した。
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下落合を描いた落四小の生徒たち。(5)

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 1940年(昭和15)3月23日、6年生の卒業式にあわせて発行された児童作品集『おとめ岡』の第5号は、従来になくページの薄い編集内容となっている。第4号の32ページよりもさらに少ない20ページの構成で、図画はわずか9点、書き方(書道)の作品は8点、作文にいたっては36編と、もっとも充実していた1938年(昭和13)の第3号に収録された83編の半分以下と激減している。それだけ物資統制が強化されモノの価格が高騰し、印刷用紙でさえいままでの予算では入手が困難になっていたのだろう。そして、同号が『おとめ岡』の最終号になったとみられる。
 当時の物資統制によるモノ不足は、授業に必要な生徒たちのさまざまな学用品にまでおよんでおり、児童後援会(今日のPTAのような組織)では生徒たちの家庭へも協力を呼びかけている。第5号の巻末に掲載された、「児童後援会便り」より少し引用してみよう。
  
 十五年度は昨年よりも学用品が不足し且つ価格が高騰せる為品質が劣り、分量に於ても配給数を減らさざるを得ざるものあり。然れども学習の不便は最少限度に止むべく努力致し居る次第なれば各家庭に於ても物資愛護に御協力下さる様お願ひ致す次第なり。
  
 子どもたちの学用品にも事欠くような社会で、なぜ欧米諸国と戦争をしようなどという考えに傾いていったのか、また「勝利できる」などという予測判断ができたのか、摩訶不思議としか思えない状況が透けて見える。それに異を唱えた数多くの国民が、「非国民」のレッテルを貼られて殺されるか、起訴されて「有罪」となるか、あるいは拷問・暴力や恫喝・脅迫によって沈黙させられたのは、前号の記事でも触れたとおりだ。
 また、同号の「児童後援会便り」では同後援会の会長交代が報告されている。前会長の相馬閏二は、近衛町に建てた自邸から急遽転居するため、わずか2年間のみ会長をつとめただけで辞任している。後任の会長には、相馬閏二邸から南へ安井曾太郎アトリエ藤田邸など2邸をはさみ、同じ近衛町で下落合1丁目404番地に住む酒井菊雄が就任している。拙ブログの記事では、相馬孟胤邸とは谷戸をはさんだ隣家として、また落合第四尋常小学校(戦時中は落合第四国民学校)の学童疎開を記録したDVDでもご紹介している酒井正義様のお父様だ。
 さらに、この年は1939年(昭和14)の春から着任していた教諭の富永熊次が、落合第四尋常小学校の校歌を作詩した記念すべき年でもあった。その歌詞は、多くの校歌が軍国調の当時としては異例の存在で、軍国主義や国粋主義、皇国史観をなどを象徴するようなワードはまったく含まれておらず、江戸城を築いた太田道灌千代田城を築いた徳川幕府など、室町期からの江戸の事蹟を織りこみながら、落四小が建つ将軍鷹狩り場としての地元・御留山をクローズアップしたもので、現在でも変わらずに歌い継がれている。戦後、幾多の小学校では軍国調の校歌をつくり直さなければならなかったが、落四小ではその必要がなかった。
 さて、第5号に掲載された生徒たちの図画をご紹介していこう。まず、4年1組の廣瀬恒夫という生徒が描いた『風景』から。画面が小さくて粗いため、細かなディテールまでは不明だが、落合第四小学校の校庭あるいは権兵衛山(大倉山)の急斜面あたりから南東を向いて描いた、目白崖線の下に拡がる風景で、旧・神田上水(1966年より神田川)沿いの下落合を描いたものだろう。川沿いには工場や開発研究所が数多く建設されており、以前からご紹介している大黒葡萄酒(現・メルシャンワイン)の壜詰め工場もそのひとつだった。
 画面の少し上を、左から右へ横切っている黒っぽい線状の表現は、山手線の線路土手に設置されていた柵と植えこみとみられる。見えている手前に大きく描かれた煙突は、相馬坂の坂下東寄りに建っていた東製紙株式会社の工場のもので、その右手の少し離れた位置で排煙がのぼる煙突は山本螺旋(ねじ)合資会社の工場、手前の大きな煙突の左側に見えているやや遠景の細い煙突は、亀井薬品合名会社が建設した研究所のものだろう。画面ではわかりづらいが、右手の奥には山手線をくぐる西武線のガードや、旧・神田上水をわたる山手線の鉄橋も描かれているのかもしれない。山手線の向こう側には、早稲田通り沿いに拡がる戸塚町(現・高田馬場)の街並みが拡がっている。
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 次に、3年2組の岡ミノリという生徒が描いた『風景』だ。1939年(昭和14)5月15日から毎月、落合第四尋常小学校では下落合氷川明神社へ参拝して国旗の掲揚が行なわれるようになった。戦災で焼失する拝殿の前に、日の丸が掲げられた光景を写生している。当時の生徒たちによる参拝の様子は、堀尾慶治様が保存していた貴重な写真で見ることができる。下落合氷川社の拝殿・本殿は、敗戦後に比較的早めに再建されているが、戦前の建築とはかなり異なった意匠となっており、戦後の建物のほうがやや規模が大きい。
 つづいて、1年2組の岡ヒトシという生徒が描いた『風景』を観てみよう。ちなみに、上記の岡ミノリという生徒とこの生徒は兄弟だろうか。道路沿いに建っている家並みを描いているらしく、その道沿いに設置された電柱を1本入れて描いている。家々のかたちを観察すると、右手の小さな家はよくわからないが、中央の黒っぽい2階家は一部が店舗のようになっている。このような構えの店舗は、おそらく手前にショウケースを設置したタバコ屋だろう。
 当時、街中のタバコ屋はまったくめずらしくないが、やや広めな道路沿いにある個人住宅兼タバコ屋のような趣きの建物に見える。落合第四尋常小学校の近辺を探すと、雑司ヶ谷道(新井薬師道)に面した下落合1丁目304番地に、住宅兼タバコ屋を見つけることができる。山手線の下落合ガードをくぐり、30mほど西へ歩いた右手に開店していた。なお、わたしの学生時代までこのタバコ屋は営業をつづけており、前世紀末か今世紀に入ってから自動販売機のみが設置され、店舗自体は閉じられたように記憶している。岡ヒトシという生徒は、父親のタバコ買いにつきあって外出した際にでも、スケッチブックへ写生したものだろうか。
 2年3組の山内久子という生徒は、近くの雑木林か草原で遊んでいる女子生徒たちをとらえた『風景』を描いている。この時期、落四小に建つ開校当初からの校舎の北側、従来は傾斜地を含む広い原っぱだった場所では、新たな校舎の建設が進んでおり、1939年(昭和14)12月には完成するので、以前に登場している「清水の原っぱ」のように、小学校から少し離れた別の草地か雑木林で遊ぶ情景だろうか。あるいは、遠足でどこかに出かけた思い出の光景だろうか。モノクロなのでわかりにくいが、手前にはなにか花のようなものが描かれているような気がする。
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 次に、3年1組の青山俊彦という生徒が描いた『遊園地』だが、これは明らかに下落合の風景ではない。休日に、両親とどこかの遊園地へ遊びにいったものか、人を乗せてぐるぐる回転するゴッド・スインガー(回転ブランコ)が描かれている。当初は、落四小の生徒たちがよく遠足で出かける豊島園かと思ったが、周囲に家々が建てこんでいる風情なので、浅草の花屋敷にでも家族で出かけた思い出を描いたものかもしれない。1939年(昭和14)の年度中に遠足は行なわれず、同年10月30日に実施されたのは、全校生徒参加による田無村への芋掘り課外授業だった。
 最後に、1年3組の三品代子という生徒の『防空演習』を観てみよう。防護団(おそらく淀橋区防護団落合第一分団)が実施した、防空演習を写生したものだ。防空頭巾をかぶり、襷(たすき)がけをした主婦たちがバケツリレーをしている様子が描かれている。バケツリレーの中に母親がいるのか、奥で見学をしているおかっぱ頭の少女が三品代子自身なのだろう。防護団の防空演習は、東京への空襲が増えるにつれ頻繁に行なわれるようになっていた。
 だが、いくらバケツリレーと防火ハタキなどで消火しようとしても、B29から投下されるM69集束焼夷弾により、まわりで同時多発的に発生する大火災にはほとんど無力だった。それでも、住宅の敷地が広くて屋敷林や雑木林が多く、延焼スピードが遅かった落合地域における山手大空襲では、多少の効果はあったかもしれないが、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲では、火災を消そうとして火に囲まれ、逃げ遅れてほぼ全滅した消防署員や消防団員、防護団、一般市民たちなど10万人以上が焼死し、一家全滅やひとり住まいの独身者など証言のない行方不明者を含めると、あとどれぐらいの犠牲者がいるのかさえわからない。
 東京都では、戦後80年の現在でも死者・行方不明者の捜索(遺骨収集)がつづいているが、うちの親父のように激しい空襲がはじまると同時に、すぐさま避難した人々が命からがら助かっているのを見ても、バケツリレーやハタキなど防火7つ道具による防空演習が、いかに無力だったのかがうかがえる。以前、町内会の防護団役員でふだんの防空演習などでは威張りちらしていた元軍人が、いざ空襲がはじまると同時に「退避~っ!」と、真っ先に町内の防空壕へ飛びこんで、のちに町民たちから吊しあげを食った東日本橋のエピソードをご紹介していたが、この防護団役員の判断は結果的に正しかったことになる。空襲と同時に直撃弾を避けるために防空壕へ退避し、火災が拡大して迫らぬうちに即座に避難しなければ、とうてい間にあわない危機的な状況だった。
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 『おとめ岡』第5号には、尋常小学校から中学校へ進学する生徒の入学試験について書いた作文が、2編ほど収録されている。当時は、中学校を通じての5年間の成績しだいで、進学する高等学校(現在の大学教養課程に相当)が決まるので、その緊張度は現在の高校受験ぐらいの感覚だったろうか。ドキドキしながら、受験や合格発表にのぞんでいる様子がうかがえる。だが、1940年(昭和15)3月に落合第四尋常小学校を卒業し中学へ進学した生徒たちは、その大半の年月を勉学などではなく学徒勤労動員のもと、戦時中は工場や農場などの生産現場で働かされることになった。
                                      <了>

◆写真上:目白崖線から山手線をはさみ、戸塚町方面を描いた4年1組の廣瀬恒夫『風景』
◆写真中上は、下落合氷川明神社への参拝日を描いた3年2組の岡ミノリ『風景』は、1932年(昭和7)に撮影された下落合氷川社の旧・拝殿。は、下落合の道路沿いに開店していたタバコ屋を描いたとみられる1年2組の岡ヒトシ『風景』
◆写真中下は、原っぱで遊ぶ女生徒を描いた2年3組の山内久子『友だち』は、街中にある遊園地のゴッド・スインガーを描いたとみられる3年1組の青山俊彦『遊園地』は、防護団による演習を描いた1年3組の三品代子『防空演習』
◆写真下は、1940年(昭和15)3月23日に発行された児童作品集『おとめ岡』第5号の表紙()と奥付()。は、1939年(昭和14)12月に竣工した敷地北側の新校舎。は、1944年(昭和19)12月13日に偵察機F13から撮影された新校舎を含む落合第四国民学校(尋常小学校)の全景。
おまけ
 1955年(昭和30)ごろに撮影された、戦後は早めに再建されている下落合氷川明神社の拝殿。戦前の小さめな拝殿とは異なり、戦後に再建された拝殿は規模が大きくなっている。
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明日ありと思う心の徒桜(あだざくら)。

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 拙ブログでいえば、下落合753番地に住んだ九条武子が信仰していた(と思われる) 親鸞の歌と伝えられている作に、「明日ありと思う心の徒桜(あだざくら)、夜半に嵐の吹かぬものかは」というのがある。最初から余談で恐縮だが、最近、「徒」桜を「仇」桜と「かたき」という字をあてている方が多いのは、いったいどうしたことだろう。桜へ「徒」=「はかない」の意をかぶせた用語だと思うのだが、桜は「かたき」ではないでしょう? 同じように気になるあて字に、「袖振り合うも多少の縁」。確かに多少は縁ができるかもしれないけど、「他生」の縁とは比べものにならないほど、はかなくて薄い「徒縁」にはちがいない。
 歌はみなさんも知るとおり、サクラが満開なので明日にでも花見をしようと思っていたのに、夜半の嵐であらかた散ってしまい「きのう見ときゃよかった!」と後悔してもはじまらないよというような意味あいだろう。転じて、きょうできることはきょうじゅうにやっておけ、明日になったら間にあわないことだってあるんだよ……という、教訓めいた至言にも利用されている。似たような格言には、井伏鱒二が于武陵の漢詩から訳した、「花ニ嵐ノタトヘモアルゾ サヨナラダケガ人生ダ」(1935年)が思い浮かぶ。拙ブログでは、以前に下落合を散歩していた緒形拳のセリフとしてご紹介しているが、こちらは転じて、酒を飲みながら「あなたとすごしている、いまの時間がかけがえのないものなので大切にしよう」というような感覚だろうか。
 20年ほど前、身体を壊している友人から、夏の終わりに繰り返しメールをもらい、いろいろ励ましたり元気づけたりしていた。近いうちに見舞いにいこうと思っていたのだけれど、仕事がバタバタと忙しく休日になるとグッタリ昼近くまで寝ていたので、なかなかその機会がなく延びのびになっていた。別に入院しているわけではなく、通院しながら自宅で静養しているということだったので、周囲には家族もいるし大丈夫だろうと、見舞いを先延ばしにしていたのだ。だが、年末に自宅で倒れ、そのまま意識がもどらず友人は年明けに急死してしまった。なぜ、すぐに見舞いにいかなかったのかと、あとで後悔することしきりだった。
 「明日ありと思う心の徒桜」を思い知らされたような出来事で、このとき以来、いまできることはすぐに実行しようと肝に銘じて生きているつもりなわけだが、そこは根が怠惰な性格なので、延びのびになっている案件や約束は、いまでは片手の指の数よりも多くなっている。きっと、危機感や切迫感が徐々に薄れていき、大地震はいつか必ずくるというのに、東京へ高層マンションを建てつづけているゼネコンにも似て、きょうは大丈夫だろう、いましばらくはこのまま平穏無事がつづくだろうという、根拠のない刹那的な楽観論がムクムクと頭をもたげてくるのだ。明日になって、「しまった!」と思ってもあとの祭りで、サクラの花弁が散るぐらいならまだしも、多くの人命が散ってしまってはとり返しがつかない。
 「明日ありと思う心の徒桜」は、どこか茶道の「一期一会」にも通じる思いや情緒もそこはか感じられる。でも、明日の生命(いのち)をも知れない、いつ戦乱で生命を落とすかもしれない室町末期の武士がたしなんだ茶道と、現代の茶道とではまったく意味や意義が異なるだろう。いまの茶道は、「一期一会」どころか形式や作法・しきたり、あるいは道具の価値や景色にこだわりすぎて、「来週はお月謝を忘れずに」としっかり「明日」以降の日常や再会を予定しているしw、「この織部は元和偃武のころですのよ、二つほどしましたの、オ~ホホホ」などという点前あとの道具自慢にいたっては、「あなた、茶道に向いてないかも」と、つい口もとまで出かかってしまう。
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 ここでまた少し余談だが、どうせいつもテーマから外れた文章ばかり書いているので、しばしお許しいただきたい。いつか、わたしは抹茶よりも煎茶が好きだが、たまに喉が渇いたので煎茶のペットボトルを街中で買うと、煎茶の中に「抹茶入り」というおかしな製品を見かけるようになった。なぜ煎茶の中に、あえて抹茶を混入するのか? そのほうが、地域によっては「高級」に感じるのかもしれないが、せっかく煎茶のサッパリと澄んだ風味が、抹茶の粉っぽくて重たい、クドく濁った風味で台なしじゃないか、やめてもらいたい……と記事に書いたことがある。そのとき、煎茶は煎茶、抹茶は抹茶で文化がちがうとも書いた。
 煎茶は、基本的にどこでも好きなときに好きなかたちで楽しめる、手軽で形式ばらない喫茶文化だけれど、抹茶はやはり肩肘が張りよそよそしく少々事情が異なるだろう。家に入った大工さんに、「お茶がはいりましたのでど~ぞ」と抹茶と茶請けをだしたら、「あざ~す」と片手で茶碗をもってすするというようなシチュエーションは考えにくい。鮨屋に入り、「あがりちょうだい」といって抹茶が出たら、「なんのマネだ?」となるだろう。つき合い酒で遅く帰宅し、「茶漬けでいいですよ」といって冷や飯佃煮に抹茶が出たら、「なに考えてんだよ」となるにちがいない。「オレ、なんか悪いこといったかな」と、夫婦関係が心配になるかもしれない。
 こんな思い出もある。学生時代に、藩主の松平不昧で有名な茶室「明々庵」を訪れ、抹茶をふるまわれたときに、茶道の心得がないので「どうやっていただけばいいんですか?」と訊いたら、「もう、ご自由にどんなかたちでお飲みになっても、まったくかまいませんよ」といわれたので、さっそく胡坐をかいて茶請けとともに味わった。ついでに、庭を向いて松江城を眺めながら残りをいただいたろうか。そのとき撮影した写真を、以前の小泉八雲の落合散歩記事に掲載している。つまり煎茶のように、気軽に周囲の景色や風情を楽しみながら飲んだわけだが、作法やしきたりに縛られず、儀式ばらずにいただいた抹茶の味はすなおに美味しかった。
 これもいつだったか、母方の大叔母が北鎌倉に住んでいて、母家つづきの鄙びた数寄屋(茶室)をしつらえており、訪ねるたびに親たちはそこで茶の接待を受けたのではないかと思う。煎茶好きな親父は、「まいったな~」と思ったのかもしれないが、そこで供された抹茶や茶請けの味は美味しかったのだろうか? おそらく、作法や形式にこだわり儀式ばって“型”にはまった茶を出され、窮屈に飲んだ抹茶の風味は、あまり美味しくはなかったのではないか。それよりは、早く腰を浮かして北鎌倉の寺社をめぐり、山々のハイキングコースを歩きたかったのではないかと思う。
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 親父は煎茶を飲むとき、かなり使いこんだ高級そうな九谷の湯呑を使っていたが、わたしは子どもが学校の工作時間につくった湯呑を愛用している。少し歪んでいるけれど、轆轤の跡も生々しく味わいがあって楽しい出来だ。高級九谷で飲んでも、子どもの工作茶碗で飲んでも、手ざわりや口あたりこそちがえ煎茶の風味は変わらない。同様に、わたしが明々庵の土産に買った1,500円の茶碗(いまでは販売していないらしく、ネットオークションではけっこうな値段がついている)で飲んでも、300万円の志野の茶碗で飲んでも、手ざわりや口あたりこそちがえ抹茶の風味は変わらない。「この織部は元和偃武のころですのよ、二つほどしましたの」の奥様は、楽しんで茶を飲んでいるのではなく、型や道具立てで茶に「飲まれている」のだ。
 さて、なんでしたっけ? あ、「明日ありと思う心の徒桜」だった。もうひとつ、子ども時代の思い出といえば、学校帰りに文具店のショウウィンドウで見かけたプラモデルがあった。日ごろから艦船ばかり組み立てていたので、たまには飛行機を……と目をつけていたプラモが、双発のスマートな機体が気に入った旧・海軍の爆撃機「銀河」だった。正月のお年玉がたまったら、絶対に手に入れようと思っていたのだけれど、正月の休み明けの下校時にさっそくショウウィンドウをのぞくと「銀河」がなく、かわりに「サンダーバード2号」のプラモに変わっていた。店の人に訊くと、年末に売れてしまったのだという。明日ありと思う心の徒桜。
 中学校に上がり2年生のとき、うしろの席のきれいな女子に、なんとなく会話の延長で告白されたようなのだが、冗談だと思ってそのままにしていたところ、どうしても気になり、あとあと思いきって手紙を差し上げたら、ナシのつぶてでそのままになってしまった。明日ありと思う心の徒桜……と、考えてみたら今日までこんな経験ばかりしてきたような気がする。やはり、きょうできることはきょうじゅうに、鉄は熱いうちに打て、思い立ったが吉日、旨い物は宵に食え、好機逸すべからず、善は急げ、機をみるに敏、先手必勝……と、いろいろな格言が思い浮かぶが、幼いころから中学時代まで海辺で育ったせいか、「待てば海路の日和あり」のほうがしっくりくるわたしの性格は、およそ死ぬまで治りそうもない。
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 井上光晴の小説に、『明日』(集英社/1982年)というのがある。さまざまな想いを抱えた人たちが、明日の約束をしたり予定を立てたりしていく筋立てだ。明日が出産日という妊婦も登場する。1945年(昭和20)8月8日の、長崎の1日をめぐる物語だ。けれども、彼らに「明日」はこなかった。人の生死が絡むと、「明日ありと思う心の徒桜」は「一期一会」と同様、とたんに緊張感をともなうシリアスな格言に豹変する。できるだけその感覚を忘れずに、日々をすごしたいものだ。

◆写真上:江戸川橋から高戸橋までつづく、江戸期の江戸川に起因する神田川の桜まつり。
◆写真中上は、抹茶を出されると気楽に飲めばいいものを周囲を見ながらかまえてしまうクセがある。は、織部の高そうな茶碗と志野茶碗(赤志野)。
◆写真中下は、茶室「明々庵」から撮影の松江城。は、明々庵の土産茶碗。は、親父の愛用品に似ている九谷湯呑だが実際は使いこんで渋い色あいだった。
◆写真下は、旧・海軍の爆撃機「銀河」のプラモイラスト。は、中学時代に「明日ありと思う心の徒桜」の格言を知っていればよかった。は、冒頭写真と同じく神田川の桜まつりの様子。