武蔵野で思わず出会えた蕨手刀。

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 台東区鳥越2丁目にある鳥越神社には、付近の古墳から出土したとみられる蕨手刀が奉納されている。ほかにも、以前から玄室の石棺内にあった副葬品とみられる勾玉や管玉、銀環なども同社に保存されており、早くから農地化や都市化が進んだ江戸東京では、平地にあった古墳を崩した際に出土した遺物を、近くの社に奉納したものとみられる。
 鳥越神社の近くには、古墳群が形成されていたとみられる浅草寺の境内や、同寺の東北東500mほどのところには、鳥居龍蔵の考古学チームが関東大震災の直後に調査した待乳山古墳(群?)も展開していた、東京の平地にはめずらしい古墳エリアだ。また、これらの副葬品は、過去に盗掘をまぬがれたほんの一部の遺物と思われ、江戸の市街地化が進んだ鳥越神社の周囲には、実際にどれほどの古墳が存在していたかは不明のままだ。
 鳥越神社に保存されている蕨手刀は、全長54cm余(鋩が欠損しており実寸はもう少し長い)ほどで、全長70cmを超える岩手県平泉から出土し福島県会津若松で保存されている全長70.6cm(刃長58cm)と、後世の打ち刀における大刀に近い長さには及ばない。一方、武蔵野市にある武蔵野八幡社(同社境内が古墳)から出土した蕨手刀は全長が63cmと比較的長く、鳥越神社のものよりもかなり大振りだ。わたしは、とある展覧会で「武蔵野ふるさと歴史館」へ立ち寄った際、常設展示されていた蕨手刀のレプリカを見て、都内の住宅地で発見された蕨手刀が鳥越神社のものだけではなかったことを、不勉強でうかつなことに初めて知った。
 この蕨手刀が、茎(なかご)に透かしを入れた毛抜透蕨手刀へ進化し、同時に茎が大きく曲がった曲手刀を生み、鋼の加工技術の高度化と相まって、徐々に反りのある日本独自の湾刀=「日本刀」へと進化することになる。最新の研究では、初期の湾刀(日本刀)は東北の餅鉄(河川で摩耗し粒状になった磁鉄鉱)や砂鉄を素材にしており、半地下式あるいは大型長方形箱形の溶炉によるタタラ製鉄で鋼を製錬し、後世の刀工とあまり変わらない仕事をへて、腰に佩く太刀(たち)に近い体配(刀姿)へと近づいていったことが判明している。現在の岩手県南部を中心に発達し、刀剣史では日本刀鍛冶の祖といわれている舞草(=儛草:もくさ)鍛冶の登場だ。
 当時の様子を、1995年(平成平成7)に雄山閣から出版された、石井正國と佐々木稔の共著による『古代刀と鉄の科学(増補版)』より、少し長めだが引用してみよう。
  
 おそらく蕨手刀は、長柄刀や毛抜透刀・太刀に変遷する一方で、曲手刀にも移行していったものと思われる。/次に、毛抜透蕨手刀であるが、これはかなり長寸で重ねが厚く、平棟・平造りの柄曲りの強いもので、切先は浅いフクラを示している。腰部は、鎺(はばき)の代わりに刃部を広幅に張り出し、この部分を鞘に押し込め、固定したものであろう。/これが次第に長寸になり、岩手県西磐井郡平泉の東山から出土した、伝悪路王所佩の毛抜透蕨手刀(図番号略)となる。これは、中尊寺に遺されている。そして同じく東山の出土と推定されるものが、福島県会津若松市の米山高道氏所蔵にある(同略)が、その寸法は、全長七〇・六cm、刃長五八cmと太刀に近づくもので、蕨手刀としては最長である。/最後に、岩手県胆沢郡衣川付近からの出土例がある(同略)。これはやや小振りのもので、その地刃を見るとかなり進化しており、舞草刀工の作品ではないだろうか。/これらの毛抜透蕨手刀は、いずれも九世紀前半頃(平安時代初期)のものとみえる。(中略) 衣川付近出土のものはさらに進化を見せ、小板目がつまり、こまやかな綾杉肌が示され、ぬか肌のような麗しい地鉄がある。/また、焼刃は大小ののたれ刃が示され、切先は直状になり、舞草刀工の作の中でもかなり上位のものとみえる。したがって、九世紀も末葉になると鍛冶屋も進歩して、舞草鍛冶が始まっていたものである。(カッコ内引用者註)
  
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 刀剣用語が頻出するが、「小板目」「綾杉肌」は鋼を折り返し鍛錬したあと、刀剣の地肌(平地や棟地)に現れる独特な肌模様のことで、特に「綾杉肌」は同じ東北の古代からつづく月山鍛冶へと直接受け継がれている。「ぬか(糠)肌」は、その地模様がわからないほどよく詰み鍛えられた地肌のことで、近世では肥前刀の地肌として有名だ。「大小ののたれ刃」は、いわゆる起伏がさまざまな乱れ刃のことで、焼き刃の名称としてはより細かな分類がなされる。
 蕨手刀は東北地方や関東の古墳から多数出土しており、しかも形状が湾刀化しているものは、代表的なものに青森県弘前市の熊野奥照神社が収蔵する長寸の蕨手刀(63.5cm)もあるので、少なくとも古墳期から湾刀が造られていたとみることができる。
 いつの時代も同様に、兵器・武器の形状や進化はひとつの例外もなく、戦闘の形態(戦術・戦法)によって規定される。弥生末より朝鮮半島から運びこまれた、あるいは海をわたり大量に移住してきた韓(から)鍛冶によって鍛えられた直刀は、基本的に徒歩(かち)戦による刺突で相手を倒す武器であり、国内でも当初はそれを模倣し古墳期から奈良期を通じて、全国各地で国産の直刀が鍛造されている。現代では、朝鮮半島の鋼で造られたものか、和鉄で鍛えられたものかまで成分分析により解明することができる。(おしなべて弥生末から古墳初期の段階では、西日本は朝鮮半島の鉄鉱石に由来する朝鮮鉄が多く、東日本は河川で採取できる餅鉄や砂鉄を原料とする和鉄が中心だろうか) ところが、5世紀をすぎるころから東北および関東地方で大量の馬が飼育されるようになり、東日本では徒歩戦ではなく騎馬戦が戦闘の中心になっていく。
 そのような戦闘に直刀は不向きで、騎馬同士がすれちがいざまに相手を撫で斬る=斬り抜く湾刀、すなわち日本刀がより戦闘に適した武器として発達していく。早くも縄文時代の後期に、現在の沿海州側から日本海をわたり東北地方へもたらされたといわれる馬は、東北地方から関東地方にかけて広く普及し、牧場で飼育されるようになっていった。中でも馬畔(めぐろ:のちにさまざまな漢字が当てはめられ「免畔」「目黒」などの地名音に残る)=馬牧場の遺跡が多く、古くからつづく“群馬”や“練馬”(練馬は鎌倉時代からの地名といわれるが、地名が定着して記録に残されるには時代をまたぐほどの長期間が必要なので、鎌倉期よりもさらに以前からの呼称ではないか)など馬に関わる地名が数多く残る関東地方では、武装して馬にまたがり太刀打ちをしながら戦う戦法が定着していった。いわゆる鎌倉幕府へとつづく坂東武者の出現、流行のバズワードでいうならサムライ(つわもの)の誕生ということになるだろう。
 おそらく、最初の湾刀は偶然の産物ではなかったろうか。鋼を鍛え、折り返し鍛錬を繰り返して体配を決め、焼き入れをすることで刀は造られるが(もちろんこれほど単純な工程や手順ではなく、数種の硬軟鋼を複雑に組み合わせるケースがほとんどだが)、焼き入れのとき刃側とは反対側の棟側へ反る傾向が鋼の種類の使い分けによっては顕著だ。だから、直刀を造るためにはあらかじめ内反りで鍛えなければ、焼き入れをしたときに真直ぐにはならない。ところが、直刀を造るつもりが棟側、つまり外側へ湾曲してしまったケースが、鍛造の過程で多々あったのではないか。
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 でも、実際に騎馬戦で用いてみると、直刀よりは圧倒的に湾刀のほうが扱いやすく、また威力も大きかったため、それまで主流だった朝鮮由来の直刀技術を棄て、東日本では独自の湾刀を意図的に鍛造する技術へと進化していった。そして、刀剣史では奈良期末ないしは平安初期にかけ、舞草鍛冶の一部が俘囚(俘虜=ドレイ)として近畿地方に送られ、以降、西日本にも湾刀(日本刀)の技術が伝わったものと考えられている。余談だけれど、舞草鍛冶が「都に招かれた」などとしている刀剣書もあるが、当時の倭国=ヤマト(大和)は日高見国(=『旧唐書』でヤマトの東側に位置する日本<ひのもと>国)とは交戦中であり、敵国の鍛冶を招聘するなどありえない。
 百済の朝鮮王族・豊璋と近しかった天智天皇は、白村江の敗戦のあと中国から押しつけられた蔑称としての「倭(ワ・ヤマト)」の国号を改めるとき(「倭」は「へつらう」「しおれる」の意)、敵対していた日高見国の別名「日本(ひのもと)」国を採用する際、かなりの抵抗感や違和感があったにちがいない。けれども、中国から見て日本列島は東であり、また従来から「倭(ヤマト)国」の東は「日本国」と中国側へ報告していた経緯もあり、さらに敵国「日本」を攻略しつつある情勢から、政治的な判断で便宜的にその名称を“無断”拝借したとみられる。w
 おそらく、倭国(ヤマト)からの使者が中国を訪問し、「悪倭名 更號日本 使者自言 国近日所出 以為名」(『新唐書』より)と宣言した際、従来からのレポートが記録された『旧唐書』では、「日本国者倭国之別種也 以其国在日辺(東) 故以日本為名」と認識していたので、中国側は東の島国で大規模な政変あるいは戦闘があり、倭国(いわゆる近畿地方にあった政権)の東側にあった日本国(日高見国)が、西のヤマト(倭・大和)を滅ぼして併合したと認識したかもしれない。だが、実際には倭国(ヤマト)が日本国(日高見国)を侵略しつづけていたのだが……。そのころには、ナグサトベ女王が治めて南方氏が戦った紀国や、かつてヌナカワ女王が治め20年近くにわたりヤマトの敵対で都(ナラ)に入れなかった継体天皇を輩出した古志国(こし=のちに「越」の漢字が当てられ「えつ」「えち」と発音)、そして出雲国(根国)はどのような状況だったのだろう。
 薩長政府がこしらえた「日本史」では、『新唐書』を根拠に天智天皇の時代に国号「日本」と決められたとしているが、『旧唐書』の記述を「なかったこと」にして、いったいどこへやってしまったのだ? 対立していた、ヤマトの東にある太陽が昇る敵対国が「日本」ではなかったのか? これを踏まえるなら、中国や朝鮮半島由来の直刀を廃した独自の湾刀が「日本刀」と呼ばれるのは、歴史的にも地理的にも正しいということになる。蛇足だが、前世紀末ごろから古代の近畿にあった政権を「ヤマト」とカタカナで表記する文献や論文が急増したが、この「ヤマト」は倭(わ)国のことであり、同時期の日本(ひのもと)国と区別するためだろう。
 少し前の古墳記事でも書いたが、「“日本”とはなにか?」「“日本文化”とはなにか?」、そして「“ナショナリズム”とはなにか?」を深く考えさせられる事蹟だ。わが国の歴史(特に古代史)の捏造を重ねた薩長政府は、そのような政治制度など存在しないにもかかわらず、江戸期には「士農工商」(中国・朝鮮由来の儒教書に見える記述)という過酷な身分制度があったなどとする(今日では全否定され歴史書や教科書からも削除されつつある)近世にいたるまで、明治以降のわずか77年間でこの「日本」になにを植えつけようとしていたのか。
 さて、古代の大鍛冶(タタラ製鉄)小鍛冶(刀鍛冶)は、高品質な素材(砂鉄・餅鉄)に加え、タタラの溶炉技術による鋼(目白)の質のよさ、そして日本ならではの刀工たちの工夫による、硬軟の鋼を組みあわせる独自技術の発達と3拍子そろったところで、直刀(朝鮮刀)に替わる「折れず曲らずよく斬れる」、いわゆる日本刀を創造しつつあった。
 岩手県一関市には、「儛草神社」と名づけられた社(やしろ)があるが、同社の周辺からは大規模な大鍛冶・小鍛冶の遺跡が発見されている。いまも調査が継続中であり、遺跡からはタタラ製鉄にみられる鞴(ふいご)の羽口や鏃、大量の鉄糞(かなぐそ=鉄滓)が出土している。おそらく、東北から関東にかけては、豊富で良質な素材とともに、製鉄技術(大鍛冶)あるいは鍛刀技術(小鍛冶)に優れた専門家集団が数多く居住していたのではないかと思われる。それら技術の積み重ねや継承で、のちに正宗を頂点とする鎌倉鍛冶(相州伝)が形成されたのではないだろうか。現在では、儛草神社の周辺遺跡の一帯が、「日本刀発祥の地」として刀剣史上で位置づけられ記念碑が建立されている。
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古墳刀(下落合)茎.JPG
 鳥越神社や武蔵野八幡宮の蕨手刀だが、江戸東京地方に埋蔵されていた蕨手刀はこれだけではなかっただろう。古くから盗掘され、あるいは耕地や市街地の開発で消滅した古墳群には、多くの蕨手刀類が眠っていた可能性がある。江戸期には、古墳から出土する錆びた刀剣(鋼)は粉末状にされ、刀剣研磨の磨き粉として“活用”されたりもしたので、「武家の都」の大江戸ではその多くが消滅してしまったのかもしれない。いまのところ、落合地域からは直刀しか出土していないが、この近辺から湾刀(日本刀)へと進化をする、過渡的な古墳刀が発見されやしないかと期待している。

◆写真上:武蔵野ふるさと歴史館に展示されている、武蔵野八幡宮から出土の蕨手刀(レプリカ)。
◆写真中上は、短寸の蕨手刀の拵(こしら)えを復元した模型。中上は、弘前市の熊野奥照神社に保存されている蕨手刀。すでに刀身が大きく湾曲しており、平造りの脇指のような体配をしている。中下は、茨城県の高根古墳から出土した7世紀前半とみられるフクラが枯れぎみな蕨手刀。は、群馬県の宮城村から出土した7世紀末とみられる蕨手刀。いずれの体配も、鎌倉期以降に見られる平造りの刺刀(さすが)や寸伸び短刀のようだ。
◆写真中下は、『古代刀と鉄の科学』(雄山閣)収録の蕨手刀を基本とした湾刀への進化。中上は、毛抜透蕨手刀がさらに進化し長大となった毛抜形太刀。中下は、1995年に出版された石井正國・佐々木稔『古代刀と鉄の科学』(雄山閣/)と、大型本で刀剣の進化も豊富な図版やカラー写真類で参照できる、1989年に出版された刀剣百科辞典のバイブル的な梶原美彦『図説日本刀用語辞典』()。は、舞草鍛冶にも言及し日本(ひのもと=日高見国)側の視点から古代史を描いた2013年出版の中津攸子『東北は国のまほろば』(時事通信社/)と、最新の研究成果も含め古代刀を解説した2022年出版の小池伸彦『古代の刀剣』(吉川弘文館/)。
◆写真下は、埼玉県の将軍山古墳出土の6世紀初めごろの古墳刀で、大板目の肌立ちごころだがよく錬れた地肌をしている。中上は、群馬県の二子山古墳出土の6世紀後半の古墳刀で典型的な綾杉肌をしている。中下は、わたしの手もとにある下落合(現・中落合・中井含む)の目白崖線から出土した古墳刀。平造り・平棟で、研ぎ師に依頼して判明したのだが明らかに柾目ごころの地肌をしている。関東地方で同様の鍛え方は、埼玉県出土の6世紀後半とみられる古墳刀に多いため同時期の作品だろうか。は、同刀の茎(なかご)には柄をかぶせる際に打った目釘が3本(4本?)、茎尻の日本刀では柄頭(つかがしら)にあたる部分へ縦に1本の目釘が錆びついたまま付属している。
おまけ1
 記事では煩雑になるので触れないが、東北各地の古墳から出土する平造りの「立鼓柄刀」。茎に目釘穴がひとつで茎は栗尻、中反り(鳥居反り)に鍛えられ限りなく日本刀に近い体配をしている。
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おまけ2
 江戸時代にもう一度、日本刀は直刀もどきの体配(刀姿)へと回帰する時期があった。大規模な騎馬戦などなくなり、個人vs個人の対戦では剣術の刺突(スポーツの剣道でいう“突き”と呼ばれる技)が、相手に与えるダメージがことさら大きいため、反りが浅く直刀に近い打ち刀(大刀)が大流行した。1660年ごろの寛文年間にはじまる、このブームの中で鍛造された大刀は特に「寛文新刀」と呼ばれ、反りが浅く直刀に近い体配をしている。中曾祢興里入道虎徹の作品(下写真)には、直刀に近い刀姿の作品が多いが、このブームのまっただ中で作刀していたからだ。
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