
日本には、あと何点の『下落合風景』が残っているのだろう? 頒布会を通じて東京や大阪など都市部に売られた作品は、その多くが戦災で失われていると思われる。また、佐伯祐三の「下落合風景」シリーズには、画面にサインのないタブローも多いので、それとは知らずに廃棄された作品、あるいは佐伯作とは気づかれずに眠っている作品、さらには所有を公表するとまずいケース(相続税対策)なども多々あるのではないだろうか。
いまのところ、残された「制作メモ」のタイトルに該当する画面の見あたらない(現存していない)ものや、友人知人たちが証言している画面、そして現存する画面を数えると70点を超える作品を想定することができるが、下落合のアトリエで用意された手製の画布600枚(渡辺浩三証言)という多さから、わたしはおそらく制作点数のケタがちがうのではないかと考えている。佐伯祐三が下落合の風景へ本格的に取り組んだのは、少なくとも1926年(大正15)の夏からであり、同年9月1日にはそのうちのタブロー1点(10号)がアトリエに置かれていたのを、東京朝日新聞社のカメラマンが撮影した記念写真から確認することができる。
また、「制作メモ」に記載された1926年(大正15)9~10月にかけての30点ほどの作品は、佐伯がたまたま記載したわずか1ヶ月と少しの間の過渡的な制作日誌であり、しまいには飽きちゃったのか記録するのを途中でやめてしまった。だが、降雪後の諏訪谷や目白文化村の“スキー場”の情景、翌1927年(昭和2)初夏に竣工しているとみられる納三治邸を含めて描かれた「八島さんの前通り」などの画面から、その後も継続して描きつづけていたのは明らかだ。いまのところ、残された「下落合風景」シリーズの画面から規定すると、1926年(大正15)7~8月あたりから1927年(昭和2)5~6月までの、およそ1年間を通じて制作しつづけている。
さらに、一度めの渡仏をする以前、下落合に仮住まいをしてアトリエの建設工事を監督していた時期(1920年)に描かれた可能性の高い『林』や、『東京目白自宅附近』(1922年ごろ)、のちに林泉園と呼ばれるようになる谷戸に近衛家が明治期から設置・整備していた「落合遊園地」の可能性がある『秋の風景』(1922年ごろ)、そして『雪景』(1922年)を加えれば、佐伯は下落合にいる時期には絶えず、アトリエ周辺の風景を描いていたことになる。
ところで、山發コレクションの疎開が遅れて数多くのパリ作品が焼失してしまったのと同様に、東京では東京大空襲や山手大空襲により多くの佐伯作品が失われているとみられる。山發コレクションでは、おそらく残された画像から『目白風景』が焼失していると思われるが、東京でも浅尾丁策が入手した佐伯アトリエの厠を描いた『便所風景』や、曾宮一念が証言する40号の『セメントの坪(ヘイ)』なども焼失しているのだろう。「下落合風景」ではないが、鈴木誠と連れだって目白通りの北側で描かれた『長崎風景』も、相変わらず行方不明のままだ。
多くの作品が失われたとみられる空襲だが、佐伯アトリエは奇跡的に焼け残っている。アトリエを囲むように繁った、濃い屋敷林が空襲の延焼を止めたのだ。1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲では鉄道や河川沿い、幹線道路=目白通り沿いの繁華街を中心に爆撃が繰り返されたが、佐伯アトリエでは延焼の炎が周囲の隣家まで迫っていた。1945年(昭和20)5月17日(第2次山手空襲の8日前)に、偵察機F13によって撮影された空中写真をみると、目白通り沿いの家々が軒並み焼失しているのに対し、コンクリート造りの聖母病院(1943年に軍部の命令で病院名の「国際」を外された)のヒンデル本館と佐伯アトリエだけが、ポツンと焼け残っている様子が確認できる。




佐伯作品を多く収蔵していた山本發次郎邸(神戸)が焼け、佐伯の実家である佐伯祐正の光徳寺=善隣館(大阪)も空襲で焼失し、米子夫人の実家である池田邸も罹災した中で、佐伯アトリエだけがほぼ無傷で残っていた。アトリエの敷地には、いったいどのような樹林が形成されて延焼を食い止めたのかが気になっていたが、日本郵政公社が1958年(昭和33)に刊行した「郵政」10月号に、佐伯米子による『一本のバラ』というエッセイが掲載されていた。アトリエの庭に生えていた植物について書いたもので、少し引用してみよう。
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うちの庭は銀杏の木や棕櫚の木アカシヤなどの大木や竹やぶが廻りを取りかこんでいるので、涼しそうに見えるのですが、案外風通しがわるく第一こまるのは、私の好きな芝生や花壇が思うように育たないということです。それでも春になれば、毎年のようにヒヤシンスが咲きスミレ、パンヂー、ヂヤスミンとそれからそれへと少しながらも、一年中の花日記はつづくのですが、この庭の片隅に、都わすれという薄むらさきのかわいい花の一群があり、その中にいつ植えたものか、のびのびとした一本のバラの木が、これは四季咲きというのでしょうかで、思いもよらない時に、晴れ晴れとした、紅色の花を咲かせるのです。
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イチョウの木が火災を防ぐのは、火事が多かった江戸期から、この街でいわれていた“お約束”だし(ちなみに、いまでも東京都のシンボル樹木はイチョウだ)、米子夫人は「アカシヤ」と書いているが、目白崖線沿いの庭園には明治期から植えられていたとみられる、数多く普及したニセアカシアの木ではないだろうか。ニセアカシアは、「ニセ」などとひどい名前をつけられているが、保水力が高く火災防止や土壌の富栄養化に優れているので庭木として人気が高く、明治期から大正初期にかけ、下落合の農家の庭先や農道の並木としても植えられている。




戦災から焼け残った佐伯アトリエには、佐伯祐三のペンによる『自画像』や、「汝目覚メヨ……」ではじまる有名な青春の決意表明文、前述の「制作メモ」(現在は行方不明)などの遺品が残されていたが、すでにタブローは少なかったとみられる。また、佐伯が近所にプレゼントし戦災をくぐりぬけた作品としては、青柳辰代への『テニス』と笠原吉太郎への『K氏の像(笠原吉太郎像)』以外、残念ながら心あたりがない。特に、連作「下落合風景」は近所を描いている画面が多いため、中には作品を購入した住民もいたのではないかと考えている。
さて、3年ぶりに佐伯祐三の現存する、あるいは想定可能な「下落合風景」作品を収録した、『下落合風景画集』Ver.10ができた。今回の改訂点は、講談社版『佐伯祐三前画集』(1968年)のモノクロ画像で見落としていた『林』(1920年)を新たに加えているのと、ようやく大きな画像が手に入り下落合の須藤福次郎邸の敷地からの描画ポイントを特定できた、山發コレクションの『目白風景』(1926年ごろ)、そして同じく描画場所が第二文化村の北外れに想定できた宇田川邸の『かしの木のある家』を、描画場所の現状写真とともに掲載している。
また、従来はモノクロ画像でしか掲載できなかった作品類を、のちに入手できた、あるいは撮影できたカラー画像に差し替えているのと、AIエンジンでカラー写真化した制作中の佐伯祐三のスナップを2点挿入している。とりあえず、紙媒体ではなくPDF(約4.0MB)化しているので、ご希望の方は従来どおりメールをいただければ添付してお送りしたい。佐伯の『下落合風景』は、今後もどこかで新たに発見されたり、従来はモノクロ写真のみだったものが、実物をカラー画面で観られたりする可能性が高いので、コストを考慮すると紙媒体には印刷しにくいのだ。





佐伯祐三の「下落合風景」シリーズは、戦災で灰になった作品ももちろん多いだろうが、サインもなくモチーフが赤土剥きだしの開発中や工事中の場所ばかりの風景で、殺伐とした東京郊外の新興住宅地に拡がる風景が多いため、それとは気づかれずに廃棄されたものもあるだろう。けれども、想定できる制作点数からいって、まだまだ気づかれずに眠っている作品も多いのではないだろうか。作者が不明で、本来なら「絵にならない」ような風景を描いた作品があれば、大正末に見られた下落合の風景をかなり把握できているので、ぜひ画像をお送りいただければと思う。
◆写真上:改めて編集した、佐伯祐三『下落合風景画集』Ver.10の中扉。
◆写真中上:上は、1985年(昭和60)12月に撮影された冬枯れで木漏れ日がとどいている佐伯アトリエの玄関。中・下は、『下落合風景画集』第10版のページ一部。
◆写真中下:同じく、『下落合風景画集』Ver.10の各ページ部分。
◆写真下:上・中上は、同じく『下落合風景画集』Ver.10の各ページ部分。中下は、1945年(昭和20)5月17日の第2次山手空襲8日前に偵察機F13によって撮影された佐伯アトリエ界隈。下左は、『下落合風景画集』Ver.10表紙。下右は、1926年(大正15)ごろ大阪で撮影された佐伯祐三(AI着色)。
★おまけ
アトリエで焼け残り、戦後は米子夫人が壁に架けていた「汝目覚メヨ……」の有名な決意表明と佐伯祐三のペン画『自画像』。下は、池田家に残された佐伯米子『静物(バラ)』(制作年不詳)。

