下落合を描いた落四小の生徒たち。(3)

①前田洋子3-3花摘み.jpg
 下落合の落合第四尋常小学校から、年に一度の頻度で定期刊行されていた児童作品集『おとめ岡』は、1938年(昭和13)3月25日の卒業式にあわせ、生徒たちに第3号を配布している。第2号は前年の1月1日元旦に配布されているので、約3ヶ月遅れの発行となった。学校長の加藤義之助は、『おとめ岡』第3号に対する序文というよりも、卒業する6年生に向けた『卒業生諸君に贈る』という文章を寄せている。また、この年度から児童後援会の会長が下落合2丁目595番地の田中浪江から、下落合1丁目404番地に住む近衛町相馬閏二に変わっている。
 1937年(昭和12)4月から翌年3月にかけての年度で、落合第四尋常小学校では大きな出来事があった。1937年(昭和12)7月25日に、校庭南側の崖下にプールが竣工している。また、グランドピアノの導入と音楽室の充実、電気蓄音機や映写機など“AV機器”の整備、最新の運動器具や理科実験器具、各種教材の購入など、小学校へ真新しい機器の導入が相次いだ。淀橋区からは、プール建設の補助金2,000円、グランドピアノ購入に対する補助金680円が出たが、足りないぶんは他の機器類も含めて児童後援会有志による寄付でまかなわれている。
 『おとめ岡』第3号ではますます戦時色が強まり、掲載されている図画16点のうちの3作品がストレートな“戦争画”で、作文83作品のうち「戦争」や「非常時」「兵隊さん」「銃後」「国威発揚」「慰問袋」などをテーマにしたものが25編も収録されている。その作文の中に、気になる記述があったのでご紹介したい。1年1組の村瀬善久という生徒が書いた『イクサゴツコ(戦ごっこ)』という文章だ。以下、少しだけ引用してみよう。
  
 清水ノハラツパデイクサゴツコヲシマシタ。ボクタチハ、ボクト村田クントヰ口クン、アチラハ、マナベクント木下クントヤスヲチヤン、ワタナベクン。ボクハ、「ススメ。」トイヒマシタ。
  
 冒頭に登場している、「清水ノハラツパ(清水の原っぱ)」とはどこのことだろうか。空き地や樹木がまばらな雑木林など、住宅が建っていない草原を共通の認識として特定するとき、隣接している個人宅や施設などのネームをつけて呼ぶことは、当時もいまもめずらしくない。拙ブログでは、現在は国際聖母病院が建つ丘上の原っぱを、同病院の建設前には北側に隣接する青柳邸にちなみ、周辺の住民が「青柳ヶ原」と呼んでいたのをご紹介している。
 上記のような慣習を前提に、落合四小を中心に周囲の空き地のある「清水」邸を探していくと、落合第四尋常小学校から西北西に約200m、七曲坂の坂上に下落合2丁目761番地の清水厚邸が建っている。ちょうど『おとめ岡』第3号が刊行されたのと同時期、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、清水邸の東西両側が空き地となっているが、東側の空き地は塀ないしは生垣に囲まれていて入れなかったようなので、「清水ノハラツパ」は西側の広さおよそ300坪ほどの空き地(住宅敷地)のことだろう。空中写真を参照すると樹木も数本生えており、小学1年生の「イクサゴツコ」には最適な原っぱだったと思われる。
 さて、『おとめ岡』第3号に収録された図画について、風景画を中心にご紹介していこう。「清水ノハラツパ」のような草原で遊ぶ女生徒たちを描いた、3年3組の前田洋子という生徒の作品から。(冒頭写真) イヌないしはネコを連れた女子たち4人が、丘の斜面で花を摘んでいる様子を描いたものだろう。丘上に建っている、住宅や電柱が半分ほど隠れているので、下落合のどこかの斜面にある草原での情景だろう。谷内六郎の画面に、ちょっと雰囲気が似ている。
 当時の空中写真や地図を参照すると、新校舎が建設される以前の落合第四尋常小学校の北側、現在の落合中学校が建つ位置に、傾斜がやや急な斜面状の原っぱを見ることができる。斜面の上には、古くから住宅が建ち並んでいるので、当時はこのような風景に見えたのかもしれない。この傾斜がかなりある斜面の原っぱは、御留山相馬孟胤邸内にある谷戸つづきの凹地の地形で、その北側斜面は等高線がかなり密に描かれており、整地される前はかなりの急斜面だったと思われる。もっとも、いまではすべての斜面が落合中学校の敷地となっており、この急傾斜は凹地の底を通る道を隔てた、落四小学校と落合中学校との“敷地段差”として面影をとどめているにすぎない。
清水原っぱ1936.jpg
②加東見栄4-2仲よし.jpg
③梅澤京子2-3雪だるま.jpg
 次に、4年2組の加東見栄という生徒が描いた『仲よし』だ。女子と男子が、仲よく絵本か児童雑誌を見ている情景が描かれている。おそらく近所の幼馴染み同士か、落四小の男女組で仲がよかった生徒同士だろうか。ふたりがいる場所は、垣根や鉢植えがある庭のような場所なので、放課後か休日にどちらかの家を訪ねているのかもしれない。このような「軟弱」な絵は、「風紀を乱す」「ふしだら」「非常時にふさわしくない」などといわれ児童雑誌はおろか、『おとめ岡』のようなメディアにさえ掲載されなくなる時代が目の前に迫っていた。
 男女が肩を並べ、仲がよさそうに街中を歩いているだけで、大日本国防婦人会や警官、軍人たちから白い目で見られるか、ヤクザのようにインネンをつけられるような時代だった。いつだったか、三岸節子がふつうの着物姿で駅を歩いていると、襷がけで割烹着姿の国防婦人会から、さっそく「モンペをはいていない」とインネンをつけられ、気の強い彼女と大喧嘩になり、公衆の面前で「非国民!」とののしられたエピソードをご紹介していた。三岸節子はその後、怒りを爆発させた文章を残しているが、国家を滅亡させる「亡国」思想を体現した国防婦人会の恫喝メンバーを、戦後、探しだして追及したかどうかはさだかでない。
 昭和初期には、相変わらず雪が多かったらしく、2年3組の梅澤京子という生徒は『雪だるま』を描いている。おそらく、近所に住む子どもたち男女が集まって、早朝に雪だるまをこしらえているとみられる。出勤途中とみられる、サラリーマン風の人物が道を歩いているので、平日の登校前に作られた雪だるまなのだろう。当時は、火鉢や暖炉などの暖房用か台所や風呂の焚きつけに用いる薪炭で、雪だるまの目鼻をつけていたのではないか。
 つづいて、2年2組の阿部律子という生徒が描いた『風景』だ。この作品も、美術教師から「自宅周辺の風景を描いてらっしゃい」といわれて描いたものだろうか。丘の麓を通る道路沿いに建つ、2階建ての住宅を描いている。生徒の名前と絵の地形を観て、すぐにどこの風景を描いたのかがわかった。右手の手前の丘は、学習院昭和寮や近衛町がある丘の斜面で、その向こうに見える丘が相馬孟胤邸のある御留山の森だろう。その麓に描かれた2階家は、下落合1丁目304番地に建っていた2階建ての自宅=大きな阿部邸であり、直線状に描かれた道路(実際は左へややカーブしている)は、雑司ヶ谷道(新井薬師道)だと思われる。この女生徒は、山手線の下落合ガードを背にして西を向き、自宅が建つ丘の麓を写生したものだろう。
④阿部律子2-2風景.jpg
阿部邸1936.jpg
⑤木下房子6-2風景.jpg
 もうひとつ、6年2組の木下房子という生徒の描いた不思議な『風景』が掲載されている。4階建てとみられる大きなビルと西洋館が描かれており、日の丸が翻った手前のビルには尖塔のような突起と避雷針が見えている。また、奥の西洋館はデフォルメされているのか妙なかたちをしており、まるで松本竣介『郊外』シリーズの画面を観ているようだ。不思議なことに、手前のビルには梯子のようなものが描かれており、下の道を3人の人物が歩いている。道は、手前から奥に向かって下り坂になっているのだろうか。この画面が、いくつかのモチーフの組みあわせによる“構成”でないとすれば、落合地域でこのような風景には心あたりがない。木下という女生徒は、なにかの絵あるいは写真を見て描いたものだろうか。
 年々増えつづける、戦争画についてもちょっと触れておこう。3年1組の相川誠という生徒が描いた作品は、戦車戦の陸軍演習あるいは中国大陸での戦場を、映画館の「日本ニュース」かなにかで見たのだろうか。戦車の周囲には、抜刀してなにか叫ぶ指揮官や、小銃をかまえて突撃する兵隊たちが描かれている。戦車は中型のようなので、中国戦線へ投入された「九七式中戦車チハ」と呼ばれる三菱重工製の最新型の戦車だろうか。
 6年1組の後藤武彦という生徒は、海軍の駆逐艦をモチーフに作品を描いている。艦影がかなり細部まで描かれているので、海軍が記念に発行していた軍艦ブロマイドなどを参照しながら描いているとみられる。描かれているのは、艦首に「19」とあるので第19駆逐隊の駆逐艦だ。舷側の文字は小さくて読みにくいが、「シキナミ」と読めそうなので第19駆逐隊に所属していた吹雪型駆逐艦で、12番めに竣工(1929年)した「敷波」だろう。ちなみに、1940年(昭和15)ごろから艦首の数字や舷側の艦名、煙突の白線は塗りつぶされていく。戦時には、艦隊の行動が敵へ筒抜けになってしまうため、所属艦隊の番号や艦名などはすべて消去されている。
 蛇足で些細なことだけれど、僚艦と通信する手前の信号手の手旗がちょっとおかしい。左手の「白」が真上で、右手の「赤」が右へ水平という原画(げんかく)は、日本の手旗信号には存在しない。その昔、ボーイスカウトで手旗信号はさんざんやらされたが、旧・海軍の信号と変わらないはずだ。左手の白旗を、頭上で赤旗のほうに曲げれば、カタカナの「ニ」になる。
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 『おとめ岡』第3号の編集後記では、「ドイツ、イタリーといふ西洋の國とお友達になつて、三國で仲よく、真の世界平和の為に盡すやうになつた」と書かれているが、世界情勢の絶望的な見誤りにより国そのものが滅亡してしまう戦争まで、あとわずか3年余の時間しか残されていない。

◆写真上:落合第四小学校の近くで描かれたとみられる、3年3組の前田洋子『花摘み』
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる清水邸の西に拡がる「清水の原っぱ」。は、4年2組の加東見栄『仲よし』は、2年3組の梅澤京子『雪だるま』
◆写真中下は、自邸を描いたとみられる2年2組の阿部律子『風景』は、1936年(昭和11)の空中写真にみる雑司ヶ谷道の阿部邸。は、6年2組の木下房子『風景』
◆写真下は、陸軍の戦闘(演習?)を描いた3年1組の相川誠『戦車戦』中上は、海軍の駆逐艦を描いた6年1組の後藤武彦『シキナミ』中下は、第19駆逐隊に所属した駆逐艦「敷波」。は、1938年(昭和13)3月25日に発行された『おとめ岡』第3号の表紙(左)と奥付(右)。