下落合を描いた落四小の生徒たち。(2)

①中村巳知男2-1バス乗り場.jpg
 1937年(昭和12)1月1日の元旦、落合第四尋常小学校では児童作品集『おとめ岡』第2号が刊行されている。前号と同様に、生徒たちの図画や書き方、作文が収録されているが、創刊号に比べてページ数が6ページほど増えている。刷了したのは、前年の12月25日だったようだが、生徒たちに配られたのは翌年1月1日の登校日だった。
 戦前の小学校では、元旦に登校するのがあたりまえだった。「新年拝賀式」では、「君が代」斉唱のあと「教育勅語」が奉読され、「御真影」(天皇・皇后の写真)への最敬礼、あるいは天皇のいる方角へ遥拝し万歳三唱をするのが、子どもたちが迎える正月の恒例行事だった。今日的な視座でいえば、「将軍様」のいる北朝鮮の児童教育に近似しているが、天皇のために死ねる「赤子(せきし)」=軍国少年少女の「勝ち抜く僕ら少国民」(山中恒)を育成するためには、欠かせない重要な行事だったのだろう。今日、多くの人たちは北朝鮮の洗脳教育を見て眉をひそめるが、わずか80年ほど前まで存在していた大日本帝国における児童教育の実態だ。
 1937年(昭和12)の4月から、落合第四尋常小学校の校長は原田森吉から加藤義之助になっている。加藤校長も、前校長と同じように『おとめ岡』へ序文を寄せているが、前校長とは異なり「日本精神は皇室尊崇と感謝奉仕」とか「忠良な日本臣民」、「大日本帝国」、「皇室」、「奉仕」などといったワードはまったく登場してこない。むしろ、中国や朝鮮半島の儒教思想を象徴するような「父兄(ふけい)」という言葉も用いてはおらず、「お父様やお母様」といった表現でかなり常識のある温厚な教師だったように思われる。ただし、時代が進むにつれその表現も、徐々に変節していっているように感じるのだが……。
 さて、『おとめ岡』第2号に掲載された図画はかなり特徴的なものが多い。まずは、目白駅前の東環乗合自動車(旧・ダット乗合自動車)の乗り場とみられる、2年1組の中村巳知男という生徒が描いた画面だ。当時は、目白駅前を起点に練馬や豊島園方面に向かう路線と、目白駅前から東京市電が通う江戸川橋へと向かう路線の2系統が運行していた。以前、ダット乗合自動車停留所についての記事を書いたが、両路線を2系統に分けたのはバスの車種が異なっていたからだろう。目白駅前-江戸川橋間には、特に傾斜が急できつかった新目白坂があるので、従来より運行していた目白駅前-練馬(豊島園)路線の車種では、エンジンが馬力不足だったとみられる。ちなみに、大正期からあった東京市電の目白駅までの延長誘致だが、目白通りに市電が引けなかったのも、目白崖線に通う同坂の急傾斜が大きな要因だったとみられる。
 画面の乗合自動車は、背景が描かれていないので江戸川橋いきか、あるいは練馬方面いきかは不明だが、当時の駅前停留所は目白駅の東側(目白橋の学習院寄り)にあった。また、山手線と目白市場との間には、目白駅前に到着するバスの駐停車場、あるいは方向転換をする折り返しのスペースが設けられていた。当時の車体は、今日のバスとは比較にならないほど小さかったので、折り返しにはそれほど広いスペースがいらなかった。現在の車体は大きいので、山手線と学習院大学にはさまれた椿坂の途中に、都営バス専用のターンテーブルが設置されている。
目白駅前バス乗り場1941.jpg
目白駅前バス乗り場19441213.jpg
②深野キミ子2-3目白通り.jpg
目白通り1937.jpg
 つづいて、2年3組の深野キミ子という生徒は、目白通りとみられる道路を歩く女性たちの情景を描いている。拡幅されて広くなった目白通りの歩道を、洋装のモダンな女性と和装の女性が散歩しており、その前には飼いイヌとみられる動物が歩いている。夏に描かれたとみられ、洋装の女性は半袖で和装の女性は浴衣姿だろうか。通りには自動車がいきかい、横断しようとしているのか通りの向こう側から少女が歩いてきているようだ。
 通りの向こう側には、商店あるいは住宅とみられる建物が並んでおり、当時の雰囲気からすると目白駅から西へ300~400mほどいった、現在の「下落合三丁目」バス停あたりの情景だろうか。当時の目白駅近くの目白通り沿いは、大きめなコンクリートビルや商業施設がすでに建ち並んでいたので、画面のような小さめな間口の狭い個人商店あるいは住宅が、軒を並べるような風情ではなくなりつつあった。描かれたモチーフからすると、下落合に住んでいる奥様方が気温が上がって暑くなる前に、ペットのイヌを朝の散歩に連れだしたところだろうか。
 次は、1年2組の多田豊四郎という生徒が描いた日の出の情景だ。どこかの社(やしろ)の境内から、昇る太陽を描いているが、おそらく風景を組みあわせた“構成”による想像画だろう。下落合にある地面が平坦な社から、東側の地平線に昇る太陽が見える境内は存在しない。特に、落合第四尋常小学校の学区である下落合(現・中落合/中井含む)の東部は、住宅や屋敷林が稠密なので、社の鳥居や拝殿越しに画面のような日の出が見える場所に心あたりがない。
 上空を飛んでいるのは、カラスあるいはハトの群れだろうか。カラスの群れなら夕暮れのようにも思えるが、手前に描かれた3人の人物たちがバンザイをしているので、やはり日の出の光景なのだろう。描かれた場所に近似する、落合地域の風景を強いて挙げるとすれば、境内の様子はどこか上落合607番地に築造されていた落合富士(=大塚浅間古墳)を含む、浅間社の風情に似ているだろうか。絵を描いた多田豊四郎の祖父あたりが、昔ながらの富士講のひとつ、落合地域に江戸期からつづく「月三講社」の講中だったりすると、その可能性はゼロではないだろう。その場合、右手に描かれているのが落合富士ということになりそうだが、浅間社の境内にしてはかなり広すぎるので、やはり生徒がどこかで見た景色を組みあわせ、空想で描いているのではなかろうか。
③多田豊四郎1-2風景.jpg
大塚浅間社(落合富士).jpg
④泰義男2-2風景.jpg
⑤忍淑子1-3風景.jpg
 次に、2年2組の泰義男という生徒と、1年3組の忍淑子という生徒は、下落合の雑木林と草原④⑤を描いている。絵があまりに幼いので、これではどこを描いたのかはまったく不明だが、落四小の西側に接する位置に、家がほとんど建っていない権兵衛山(大倉山)があった。その山頂や斜面には、雑木林や広い草原などが展開しており、図画の授業でスケッチブックを手にして生徒たちを写生に連れだすのに、ちょうどいい場所だったのではないか。
 特に、権兵衛山の頂上付近には、テニスコートとともに樹林に囲まれた広い草原がいくつかあり、南側の急斜面には神木のカシを含む雑木林が、鎌倉支道である雑司ヶ谷道(新井薬師道)までつづいていた。生徒ふたりの画面は、季節も不明なら樹木の種類もわからないが、ひょっとすると図画教師の島田クニ先生から見て、色づかいが優れた画面だったものだったのだろうか。掲載されたモノクロの画面からは、なぜ両作が『おとめ岡』に入選したのかがわからない。
 夏休みの宿題かなにかに、「自宅周辺の風景を描いてらっしゃい」というような課題でもあったのだろうか。『おとめ岡』第2号にも、門前の道路からおそらく自邸を描いたとみられる作品が掲載されている。5年1組の後藤武彦という生徒は、コンクリート製とみられる門の前から、切妻がハーフティンバー様式の大きな西洋館を描いている。門柱の表札も入れているので、おそらく自宅を描いたものではないだろうか。門から母家までいくらか距離がありそうなので、かなり広めな敷地に建つ西洋館だったのだろう。
 4年2組の安田ミヤ子という生徒は、下落合へ自転車でやってきた紙芝居屋を描いている。紙芝居屋が、飴を売りながら演じる紙芝居は、下落合735番地に住んでいた高橋五山が創案した「教育紙芝居」などではなく、子どもたちが喜びそうなワクワクする筋立てばかりだった。拍子木を合図に集まる子どもたちは、男子なら冒険活劇「黄金バット」やサムライもの、女子なら「しらゆきひめ」などのお姫様ものに人気があったのだろう。季節にあわせ、夏には怪談作品も登場するなど子どもたちには大人気だったようで、今日のアニメに近い娯楽だった。だが、日米戦が近づくにつれ、紙芝居も戦争がらみのキナ臭い内容に変貌していった。
 ちなみに、わたしは紙芝居屋を知らない。東京の(城)下町には戦後、かなりたってからも紙芝居屋がきていたというが、1960年代の後半からはTVアニメと週刊マンガ雑誌が全盛の時代で、紙芝居よりもTVやマンガ本のほうがよほど面白かった世代だ。それでも、幼稚園だか小学校の低学年で「虫歯予防」や「手洗い習慣」などの、教育紙芝居を見せられた記憶がかすかに残っているけれど、“飴”がなかったせいなのか娯楽のイメージがまったくない。
⑥後藤武彦5-1風景.jpg
⑦安田ミヤ子4-2紙芝居.jpg
西落合紙芝居(戦後).jpg
おとめ岡第2号表紙193701.jpg おとめ岡第2号奥付.jpg
 作文では、下落合氷川社の祭礼で山車を引いた子や、遠足で豊島園へ遊びにいった子の文章が掲載されている。また、クリスマスを祝う子どもの作文も紹介されており、数年後に迫った欧米に関する文化や欧米文字に起因するカタカナ用語の、あからさまな排除はいまだ行なわれていない。

◆写真上:目白駅前のバス乗り場を描いたとみられる、2年1組の中村巳知男『バス乗り場』
◆写真中上は、1941年(昭和16)に撮影された目白駅前のバス乗り場。バスのフロント部が見えている背後の森が学習院で、右手が橋上駅の目白駅舎中上は、1944年(昭和19)12月13日に偵察機F13が撮影した目白駅前。戦時中、食糧や日用品が配給制になったせいか目白市場が解体され、バスの折り返し場も含め資材置き場のようになっている。中下は、洋和装の女性たちが描かれた2年3組の深野キミ子『目白通り』は、『おとめ岡』第2号の発行と同年の1937年(昭和12)に撮影された目白通り。目白駅に直近の風景で、通りの両側には東環乗合自動車が2台見えている。奥に写る森は学習院で、目白駅は右手の引っこんだ位置にある。
◆写真中下は、1年2組の多田豊四郎『日の出』中上は、上落合にあった落合富士(大塚浅間古墳)の浅間社境内。中下は、2年2組の泰義男『風景』と1年3組の忍淑子『風景』だが、いずれも下落合の雑木林や草原を描いていると思われる。
◆写真下は、大きな洋館を描いた5年1組の後藤武彦『風景』中上は、4年2組の安田ミヤ子『紙芝居』中下は、戦後に西落合で撮影された紙芝居屋。(『おちあいよろず写真館』より) は、1937年(昭和12)に刊行された『おとめ岡』第2号の表紙()と奥付()。