「江戸城」と「千代田城」の相違について。

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 過去に拙ブログの記事でも繰り返し書いているが、室町期の「江戸城」と江戸期の「千代田城」を混同して呼称している方が、このごろ“膝元”である東京にも多いので、もう一度ハッキリと規定して書いておきたい。両城の呼称は、時代ちがいの別の城郭だ。
 江戸東京地方にある城郭について、徳川幕府以外の各藩から江戸地方にある城のことを、おしなべて明治初期まで「江戸城」と呼称していたのはそれほど不自然ではないが、当の江戸東京の地元=(城)下町では、300年以上も前の江戸中期から、徳川幕府の城は「千代田城」と呼ばれている。ちょうど会津の街にある城郭は、外部からは一般的に「若松城」と呼ばれているが、地元ではそうは呼ばずに「鶴ヶ城」と呼称しているのと類似するケースだろうか。あるいは「姫路城」と「白鷺城」の関係も、似たような経緯があるのかもしれない。けれども、時代ちがいの感覚とは、また少し異なる“愛称”的な地元の想いのほうが強いだろうか。
 いつの間にか、室町期の城も徳川時代の城もゴッチャにされ「江戸城」と呼ばれるようになり、「千代田城」の名称が霞んでいくように感じられたのは、江戸東京地方以外からの移住者が急増した1960~70年ぐらいからだろうか? 少なくとも、わたしの子ども時代には親の世代や親戚・知人たちの間では、「千代田城」という名前が地元では一般的に使われていた。もともと柴崎村の近くに、小名で「チオタ(千代田)」と呼ばれた地域に建つ城であったことから、室町期の(地元にとっては大昔の)「江戸城」やその城下町と差別化するために、城郭が最終形となった江戸中期ごろから「千代田城」と呼ばれだしたのではないかと推測している。
 そもそも同城のおおもとは、鎌倉幕府へ参画し幕府御家人だった江戸重長が、1180年(治承4)に建設した武家館(やかた=江戸館)からスタートしている。このころから、初期鎌倉に見られたような町に近い集落(のち室町時代の城下町)が、すでに小規模ながらも形成されていたといわれている。江戸氏が統治したエリアは、南が六郷(多摩川)、北は浅草(今戸)から赤塚にかけ、東は隅田川、西は田無にまで及んでいたといわれる広大なものだった。江戸氏が建設した館は、室町期より市街地化が急速に進み位置が不明のままだが、同時代の他の武家館を参照すると、大きめの屋敷に築地と空濠をめぐらしたほどの規模だったとみられる。
 次に、鎌倉の扇ヶ谷(やつ)上杉家の家臣・太田資長(道灌)が、三方を海や湿地帯で囲まれた原日本語でエト゜(江戸=鼻・岬)のつけ根に、「江戸城」を築造したのが1457年(長禄元)のことだ。上杉氏は、江戸城と同時に関東へ複数の城郭を築いている。この史実や経緯から、江戸東京は日本でも最古クラスの城下町ということになるので、これも再度確認しておきたい。
 当時の様子を、1952年(昭和27)に岩波書店から出版された、監修・高柳光壽および岩波書店編集部による『千代田城』(岩波写真文庫58)より引用してみよう。
  
 康正二(一四五六)年扇谷上杉修理大夫定正はその臣太田左衛門大夫資長(入道して道灌といった)に命じて江戸に城を築かせ江戸城といった。(千代田城はもっと後のもので一七〇〇年頃から見えて来る) これは古河公方足利成氏に対抗するために川越・岩槻両城とともに築いたものといわれる。築城は一年余りを費して翌長禄元(一四五七)年に出来上り、資長はその四月に品川の館からこれに移った。時に資長は二十六歳であった。
  
 太田道灌の江戸城は、本丸・二ノ丸・三ノ丸を備えた本格的な造りで、城郭を載せた塁の盛り土は高さ10丈(約30m/おそらくひな壇状の土塁構造)を超えていたといわれ、周囲には芝土塁をめぐらし、巨木を伐りだしては城郭をはじめ土塁をまたぐ大橋、鉄製の大手門などを次々と建設している。だが、今日の千代田城とは比較にならないほど規模の小さなもので、江戸城は現在の西ノ丸あたりにあったとする説(新井白石説)や、現在の本丸に近い位置にあったとする説がある。その城郭の場所については、早くも江戸時代から議論されており、すでに曖昧になっていたのがわかる。
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 このときから、江戸城下には平川(現・神田川の原形で日本橋あたりから海へ注いでいた古くからの流れ)沿いには、にぎやかな城下町が形成されており、海沿いには陸海の山海産物を取引する市場をはじめ、それらを運搬する物流拠点の伝馬町や、漁師町、廻船用の湊(港)などが整備されていった。江戸城の当時、城下町には房州産の米穀類、常陸産の茶類、信州産の銅、東北各地産の鉄(鋼)などが集積されていたと記録にみえる。もちろん、城下町には武器を生産する小鍛冶(刀鍛冶・鎧鍛冶)や、生産用の農工具を製造する野鍛冶(道具鍛冶)も数多く参集していただろう。これが、太田道灌が建設した「江戸城」とその城下町の姿だ。
 ちょっと余談だが、この太田道灌の城下町からつづく各地漁師町の漁師たちと、徳川家康が大坂(阪)から新たに招いた漁師たちとの間で、漁場や漁業権をめぐり訴訟沙汰が絶えなくなるのは、以前の記事でも取りあげている。新参の漁民たちは佃島を与えられ、既得権のある室町期からの城下町漁民と対立しないよう、江戸の「外」に住まわせられている。「江戸へいってくら」という佃島に残る慣用句は、こんなところにも遠因があったのかもしれない。
 さて、豊島氏を滅ぼし勢力が強大となった太田道灌が、主君の上杉定正に謀反を疑われ、1486年(文明18)に暗殺されると、江戸城にはすぐさま曾我氏が派遣されたが、その後は上杉氏の直轄支城となって室町末期を迎えている。そして、1524年(大永4)に小田原の北條氏綱(後北條氏)に攻略され、同家の遠山氏が城代として赴任している。この間も、江戸の城下町はそのまま継続しており、物流や生産の拠点だったせいか、「江戸筋」あるいは「江戸廻り」という言葉が同時代に生まれている。さらに、1590年(天正18)に豊臣秀吉により小田原の北條氏が滅ぶと、徳川家康が関八州とともに室町期の江戸城を引き継ぐことになった。
 上州世良田(現・群馬県太田市世良田)が出自の、近接する前・幕府の足利氏とともに鎌倉幕府の有力御家人だった世良田親氏→徳阿弥(信州・江戸居住のち松平家へ婿養子に入り松平親氏)→松平・徳川氏(三河・駿河時代)は、鎌倉幕府が滅亡して以来250年のブランクをへて、ようやく上州世良田のある故地の関東地方にもどれたわけだ。ちなみに、宝永年間より徳川家では「徳川」姓とともに、「世良田」姓を復活させて名のるようになる。
 小田原の北條氏が滅亡した同年に、徳川家康は太田道灌由来の江戸城へ入城している。このとき、家康は戦で荒廃していた外濠を拡張・整備し、西ノ丸の増築をしただけで旧来の本丸・二ノ丸・三ノ丸を活用して居住していた。ここで徳川家康が江戸に入ると、今日の千代田城を建設して入居したようなイメージや錯覚が生じるのだが、家康がいたのは太田道灌由来の江戸城であって、現在の千代田城などいまだ影もかたちも存在していない。
 慶長年間の姿を描いたとされる「江戸始図」(一部不正確)が残されているが、家康が居住したのは道灌が築城した本丸あるいは増築した西ノ丸であり、周囲に展開する室町期以来の丸ノ内(城郭内)や城下町へ、家臣団の屋敷が次々と建設されているものの、基本的には室町期の城郭の姿そのままだった。この経緯から、のちに広大かつ巨大な「千代田城」が築かれたあと、名称を旧来の「江戸城」と差別化する必要が生じたのは自明のことだろう。現在、江戸東京の中心に建っている城は道灌由来の「江戸城」ではなく、徳川幕府が長年月をかけて築造した「千代田城」だ。
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 1600年(慶長5)の関ヶ原の戦に勝利した家康は、城郭の普請ばかりでなく、翌年からおもに城下町の整備をスタートしている。先祖の徳阿弥(=松平親氏)時代からの氏子だった、のち江戸総鎮守と規定される神田明神社を、神田山(現・駿河台)から御茶ノ水の北側へと遷座させ、神田山を崩して海岸線を埋め立て新市街地を形成している。いわゆる現在につながる計画的で本格的な(城)下町の建設だが、大川(隅田川)の河口にあった中洲を埋め立て、日本橋の町を造成したのをはじめ、京橋、尾張町(銀座)、浜町などが続々と誕生している。
 家康が隠居し2代・徳川秀忠の時代になると、このときから太田道灌由来の古い“江戸城大改造プロジェクト”が始動する。本丸・二ノ丸・三ノ丸・西ノ丸の大規模化をはじめ、日本最大の天守閣建設、外濠の再整備(石垣築造)と内濠の掘削だが、広大な北ノ丸はいまだ存在していない。また、1615年(元和元)ごろから、御茶ノ水の駿河台を深く掘削し、平川(現・神田川)の流れを外濠として活用するとともに隅田川まで貫通させ、牛込見附(現・飯田橋駅)に一大物流拠点を設置し、江戸川(現・神田川)を上流まで舟でさかのぼれるようにしている。
 つづいて、徳川家光が3代将軍に就任すると、秀忠に引きつづき城郭全体の大増築を行い、今日の千代田城とあまり変わらない姿へと普請を進めている。以下、同書より再び引用してみよう。
  
 家光は華美好きな人で、家康の残した莫大な金銀を使い果たし、幕府財政窮乏の端を開いたほどの放漫政策を行ったが工事に大名を使役することも秀忠の比ではなく、弟の徳川忠長を初めとして三家までもその役に服させて寛永六(一六二九)年から十三年にかけて大増築を行い、ほとんど日本全国の力を合せて、日本史上空前の巨城を完成させたのであった。/大手門を始点として、螺旋状に遠く浅草橋まで江戸市街の大半を囲んでのびた濠の要所要所には城門(今日に残る桜田門と同型式のもの)が設けられ、その総数三十八門に及んだ。これを概数して三十六見附と称した。四谷見附や市谷見附には、今にその石塁の一部が残っている。
  
 これにより、徳川三家や松平諸家ばかりでなく、諸国の大名たちもあらかた金蔵が空になり財政難に陥ったが、見方を変えるなら「江戸御用達」による全国の商工人や農林業の従事者、人足たちの多くが潤い、「史上空前の巨城」(世界最大の城郭建築)の周囲には、すでに都市と呼べるほどの、ありとあらゆる業種や職種の人々が参集し、(城)下町が形成されることになった。北関東で食いっぱぐれたわたしの遠い祖先も、日本橋が埋め立てられてしばらくすると、おそらく刀を棄てて仕事を探しに、江戸へとやってきては糊口をしのいでいたのだろう。
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千代田城1952岩波書店.jpg 田村栄太郎「千代田城とその周辺」1965雄山閣.jpg
藤口透吾「江戸火消年代記」1962創思社.jpg 大江戸八百八町2003江戸東京博物館.jpg
 大江戸(おえど)の巨大都市は「大江戸八百八町」と表現されるが、町の数は808町どころではなかった。「八百八」は無数という概念で、鎌倉の「百八やぐら」や戸塚から落合、大久保にかけての「百八塚」昌蓮伝承と同様のレトリックだ。江戸中期の享保年間には、すでに1,678町に達しており、幕末の町数はゆうに2,000町を超えていたといわれている。(ただし朱引墨引内にあった「村」単位の集落は含まれず、村々まで含めれば名主のいる自治体は膨大な数になるだろう) 人口も増えつづけ幕末には150万人近くと、いつの間にか世界最大の都市へと成長していた。

◆写真上:自然地形を利用したといわれる、西ノ丸に残る江戸城の道灌濠。
◆写真中上は、戦後撮影の汐見坂で、坂上に太田道灌の江戸城の櫓があったといわれる。中上は、汐見坂下にある古い白鳥濠。中下は、慶長年間に作成された「江戸始図」を岩波編集部が作図したもので、道灌由来の江戸城を中心に初期普請の様子がわかる。は、幕末の本丸(跡)。豪壮な本丸建築は焼失しており、見えている三重櫓は富士見櫓。
◆写真中下は、伏見櫓と書院門つづきに架かる手前が前橋でうしろが後橋。当時から二重橋と呼ばれていた。中上は、幕末の鍛冶橋門で現在の八重洲口あたり。中下は、浅草門(浅草見附)で門をくぐると北へ向かう道筋がつづき柳橋から蔵前、駒形をへて浅草へと抜けることができた。は、1942年(昭和17)に制作された竹内栖鳳『千代田城』。
◆写真下は、現在の宮内庁側から写した幕末の富士見櫓と坂下一ノ門(高麗門)。中上は、神田上水の水道橋が架かっているのが見える御茶ノ水あたり。現在は、左手の土手中腹が崩され中央線が走っている。中下は、1952年(昭和27)に出版された高柳光壽・監修『千代田城』(岩波書店/)と、1965年(昭和40)に出版された田村栄太郎『千代田城とその周辺』(雄山閣/)。は、江戸の火災と千代田城について解説した1962年(昭和37)出版の藤口透吾『江戸火消年代記』(創思社/)と、2003年(平成15)に出版された『大江戸八百八町』(江戸東京博物館/)。
おまけ
 北桔橋門から入った天守台の西北角の一部で、大人の身長と比べるとその大きさがわかる。イラストは、寛永年間を想定した日本最大の千代田城天守(3代目)の復元図。高さが約61mあり、遠い先祖が見た天守閣はこのデザインだったろう。下は、朝霞にかすむ富士見三重櫓を本丸側から。
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下落合を描いた落四小の生徒たち。(1)

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 1936年(昭和11)3月から5年間にわたり、下落合1丁目291~292番地の相馬坂に面した落合第四尋常小学校では、生徒の図画や書き方、作文などを集めて収録した児童作品集『おとめ岡』を年度ごとに1冊刊行している。1940年(昭和15)3月の第5号で刊行が打ち切られたのは、物資統制で印刷用紙が高騰して入手がきびしくなったのと、より軍国主義の徹底により翌年から「国民学校」への、教育再編が予定されていたからだろう。
 『おとめ岡』の「おとめ」は、もちろん落四小が建っていた御留山のことで、創刊号では同年に校長だった原田森吉が「創刊の辞」を書いているが、前半は生徒たちを「大日本帝国を背負つて立たねばならぬ国家の至宝」と位置づけ、「日本精神は皇室尊崇と感謝奉仕」で天皇の「忠良な日本臣民」である赤子(せきし)として「仕上げ度いと云ふ親の心は寝ても覚めても片時も忘れられない」など当時の軍国主義あるいは全体主義的な文章をつづり、深川で生まれ育った川田順造の母親やうちの父方の祖母あたりが聞けば、すぐさま「うちじゃ、そんなこと教えていないよ!」と激昂し、きびしい叱責がすかさず飛んできそうな内容となっている。
 その部分はカットすることにして、原田校長の「創刊の辞」の後半部分を引用してみよう。
  
 今度後援会の方々のお骨折りで皆様方の平生勉強されてゐる中から書方、綴方、図画などの一部分を小冊子にまとめて文集を発刊する事になりました。紙の紙合で沢山のせられなかつたことを残念に思ひますが次号からは紙数も増してなるべき(ママ)多く出して上げたいと思ひます。皆様は今からウントよく勉強しておいて立派な成績をドツサリ出して下さい。
  
 「紙の紙合」などという言葉は初めて耳にするが、「紙の丁合」のことだろうか。なんだか、日本語的におかしな文章に感じるが、文中の「後援会」とは落合第四尋常小学校児童後援会のことで、今日でいう父母が集うPTAのような存在の組織だ。
 当時の児童後援会の会長は、下落合2丁目595番地に住んでいた田中浪江で、現在の下落合公園の敷地全体が田中邸だった。会長の田中浪江は、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)にも掲載されており、「落合第四小学校後援会長」とともに「前会計検査院部長」と紹介されている。落合第四尋常小学校に児童後援会ができたのは、まさに1932年(昭和7)なので、このときは会長を5年にわたりつとめていたことになる。田中会長もまた、『おとめ岡』創刊号では「創刊を祝す」という序文を寄せている。
 ところが、田中会長の文章は原田校長とは正反対に、個々人の自立や独立の精神こそが最重要な課題であり、文中にはいっさい「国家」や「大日本帝国」、「御国」「皇室」「臣民」「報国」「奉仕」などといった言葉は登場しない。以下、国家主義でも集団主義でも儒教的な家族主義でもない、旧来の体制や仕組みにとらわず人間の自主独立心や主体性を鼓舞する、あたかも封建主義を打破する資本主義革命(フランス革命)思想の「アンデパンダン」的な文章の結び部分を引用してみよう。
  
 皆さん方はだんだん大きくなり学校がすんで世の中へ出るやうになると、独立の精神といふものが最も大切であります。それは自分の為すべきことは自分みづからが為し、人に代つてもらはぬこと、人をたよりにしないことであります。この独立の精神は今から段々養成してゆかなければなりません。ちようど文集の発行はよいをりでありますから、これを手始めとして自分のことは自分でするといふ習慣をつくつてゆかれる様にねがひたいものであります。
  
 おそらく、原田校長と田中会長は思想面ではまったく相いれなかったのではないか。学校当局と後援会とは、少なからずギクシャクしていたのでは?……と考えるのはうがちすぎだろうか。
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 さて、『おとめ岡』創刊号には生徒たちが描いた図画が、小さいながらも数多く収録されている。今井美恵子という4年3組の生徒が描いた風景画は、相馬孟胤邸の谷戸に形成された湧水池のほとりに建つ四阿(あずまや)を描いたものだろう。弁天池の周辺は、昭和期に入ると郊外遊園地のように(おそらく相馬家の好意で)整備され、東の近衛町側からは誰でも入れる坂道や広場が整備されていた。光のあたり具合から、北側から南を向いて描いたように見える。
 どこの家だろうか、大きめな屋敷を描いた6年1組の中原康彦という生徒の作品は、玄関前に植えられた棕櫚の車廻しが印象的な画面だ。高い塀はコンクリート製のようで、近衛町に建っていた邸の1軒だろうか。あるいは、中原邸すなわち自分の家を門前から写生したものだろうか。和館でありながら、どこからかピアノの音色が聴こえてきそうな風情をしている。
 5年1組の武笠邦夫という生徒も、門前からおそらく家の敷地内を画面に描いているようだが、表札がふたつ架かる門の正面は竹垣になっており、丁字路になった左右の道をたどると、それぞれの家へたどり着ける配置だったものだろうか。門柱の表札は読みにくいが、左側の表札にはどうやら「武笠」と書いてあるようだ。また、門の前は道路ではなく右手には家が建っており、この門自体が袋小路の突きあたりにあったようで、武笠家の敷地は旗竿地だったものだろうか。手前の電柱が大きく描かれており、奥にも背の低い電柱が見えるが、竹垣の内側に建物の影は見えないので、広い敷地に建つ自宅だったのかもしれない。
 同様に、電柱が印象的なのは4年1組の高地守という生徒が描いた風景画も、連なる屋根から飛びでた電柱を大きくフューチャーしている。同作は、斜めフカンから住宅街を見下ろして描いたもので、電柱が建つ道筋に建っていた家々や土蔵を描いたものだろう。どこか下落合の東部に通う目白崖線の坂道か、あるいは斜面の空き地にのぼって描いたとみられ、坂下に通っていると思われる電柱の道筋はおそらく雑司ヶ谷道(新井薬師道)だろう。2階家の屋根を見下ろすほどの高度なので、当時の落合第四尋常小学校の校庭南端の崖地など、かなり高い位置からの写生だ。
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 その坂道や斜面で、降雪後にスキーやソリ遊びをする子どもたちを描いた作品もある。3年1組の岩崎磨夫という生徒の作品で、昭和初期は東京にも雪が多かったせいか、坂道や斜面では盛んに雪遊びが流行っていたようだ。1926年(大正15)の冬、佐伯祐三が描いた『雪景色』も、文化村でソリやスキーを楽しむ子どもや大人たちを描いているが、斜面や坂道の多い落合地域では楽しみな冬の娯楽だったのだろう。いまでも、たまに雪が降ると坂道でソリ遊びをしている子どもたちがいるが、ソリの代用品は段ボール箱をつぶしたものだ。
 そのほか、まるで岸田劉生のような花瓶とリンゴをモチーフに静物画を描いた4年2組の古澤正雄という生徒や、おそらく洋画の画塾へ通っていたのではないかとみられる、裁縫箱を写生した5年2組の斎藤スワという女生徒の作品は、掲載されている図画の中では飛びぬけて秀逸だ。デッサンの勉強中だったように思われる、白いポットとティーカップを描いた6年2組の忍洋子という生徒の画面も、ふだんから絵を描きなれていたのではないだろうか。おしなべて、男子生徒は風景画が多く、女子生徒には静物画が多い傾向があったようだ。
 また、『おとめ岡』に掲載されている文集も、たいへん興味深い。下落合(現・中落合/中井含む)の東部で起きたことが、子どもたちの目を通して活きいきと描かれている。戦前は、両親や兄弟姉妹など肉親の死が、すぐ隣りあわせで存在していた様子がわかる。いつか、小泉八雲が序文を書いて紹介した『ある女の日記』は、明治期のとある女性が身のまわりや世相を写した記録だが、昭和初期でもそれほど社会環境は変わっていなかったのがわかる。また、山手らしくピアノもときどき登場するが、昭和初期はペットブームだったせいかイヌやネコ、各種鳥類などが家庭で飼われており、子どもたちは進んで作文のテーマに取りあげている。
 中でも、4年3組の河野邊節子という生徒が書いた作文は秀逸で、そのリリカルな情景描写に思わずウ~ンとうなってしまった。茶の間に集う、夜の家族たちの姿を写した「冬の夜」という詩情あふれるエッセイは、まるで児童文学のプロ作家が書いた文章はだしで舌を巻いてしまった。1936年(昭和11)に小学4年生ということは、敗戦時には18歳か19歳ということになる。なんとか戦争を生きのび、敗戦後は文筆に関連する仕事に就けていればと願うばかりだ。機会があれば、図画だけでなく生徒たちが書いた作文についても、いつか記事にしてみたい。
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 5年間にわたる『おとめ岡』に掲載された数多くの図画は、昭和初期の下落合の風景が、あるいは当時の暮らしがどのようなものであったのかを、飾らず率直に表現してくれている。プロの画家がとらえる、表現や思想を意識した演繹的な眼差しや構図、構成、デフォルマシオンなどが皆無なぶん、ストレートに当時のありのままの情景を切りとって、90年後のわたしたちに見せてくれている。そんな素直な「下落合風景」を、これからも連載形式でご紹介していけたらと思う。

◆写真上:おそらく、1935年(昭和10)に描かれた4年3組の今井美恵子『風景』
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる遊園地化された御留山の弁天池と四阿。は、6年1組の中原康彦『風景』は、5年1組の武笠邦夫『風景』
◆写真中下は、崖線から見下ろした4年1組の高地守『風景』は、冬の遊びを描く3年1組の岩崎磨夫『雪景色』は、劉生ばりな4年2組の古澤正雄『静物』
◆写真下は、掲載の図画の中ではピカイチで秀逸な5年2組の斎藤スワ『裁縫箱』は、デッサンを勉強中らしい6年2組の忍洋子『ポットとティーカップ』は、1936年(昭和11)3月に落合第四尋常小学校で創刊された児童作品集『おとめ岡』第1号の表紙()と奥付()。
おまけ
 1936年(昭和11)に撮影された東京市立落合第四尋常小学校の校舎と校庭(と校旗)。空中写真は、同年に撮影された落四小学校。『おとめ岡』の表紙は図画教師だった島田クニの作品だが、下落合の風景ではない。「往々図画の時間と言へば緊張味に欠ける」と、彼女は同文集でこぼしている。
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「国家安康」で浮かんだ江戸東京のアンコウ鍋。

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 このところ、東京にアンコウ(鮟鱇)鍋屋が増えてるのだという。子どものころ、アンコウの専門店といったら、万世橋の近く神田須田町の「いせ源」ぐらいしかなかったと思うのだが、戦前の東京では冬になるとあちこちでアンコウ屋が店開きをしていたらしい。
 尾崎行雄(咢堂)は、娘の清香がアンコウ鍋をつくる日にちを伝えると、わざわざ軽井沢の自宅から下落合の佐々木久二邸までやってきては賞味している。それほど、厳寒にフーフーしながらアンコウ鍋をつっつくのは、江戸東京における冬の風物詩だった。わたしは真冬の出勤途中、道筋にあたる魚屋でアンコウが店先に吊るされていたのを見たことがある。いまでも、真冬に一度はアンコウ鍋というお宅も多いのだろう。魚屋ではなく、スーパーの鮮魚売り場にアンコウの切り身がズラリと並ぶのも、季節を感じさせてくれてうれしい眺めだ。
 アンコウは鍋にするのもいいが、から揚げにしても美味しい。その外見からは想像もできない、風味がよくふんわりとした上品な白身の味わいがやみつきになる。また、新鮮な“あん肝”はフォアグラを凌駕する美味しさだとよくいわれるが、アヒルやガチョウへ無理やり大量のエサを与え、脂肪肝で肥大化して病変した肝臓と、天然の“あん肝”を比べてはアンコウに失礼だろう。また、鍋のあとに白いご飯を追加して、アンコウおじや(雑炊)にして食べるのも昔からの楽しみだ。子どものころから、わが家では冬に3~4回はアンコウ鍋を食べていたけれど、いまも身をちぢめるような寒さになるとアンコウ鍋が恋しくなる。
 皮に近いプリプリした身の部位には、フカヒレやスッポンなどと同様にコラーゲンや豊富なビタミン類、DHA・EPAがたくさん含まれているので、グロテスクな外見とは裏腹に、昔からこの街では好まれる食材だった。いまでも、女性たちにかなりの人気があるのは、美容の維持や老化防止に高い効果が得られるからだろう。この地方では、茨城から北の東北地方の太平洋沿岸で獲れるアンコウが、風味がよくサイズも大きくて最上とされている。もちろん、大江戸の街中でもアンコウ鍋は食べられており、当時は五大珍味のひとつとされていた。
 戦後しばらくは、アンコウ鍋を食べさせる店が神田の「いせ源」だけになってしまったらしいが、そのころに同店を取材したエッセイが残っている。1953年(昭和28)1月から半年間、読売新聞に連載がつづいたエッセイ「味なもの」だが、いせ源を取材しているのは小説家の山岡荘八だ。同シリーズの、『神田に懐しアンコウ鍋』から引用してみよう。
  
 寒中の鍋はわれわれの少年時代、家庭でもよく用いられた。ところが最近になるとその専門店は東京中に須田町の「いせ源」ただ一軒になったという。/神田で育った私にはいせ源はなつかしい。万世橋の駅前、以前の連雀町にあって、広瀬中佐の銅像と、いせ源の店にかかったあんこうはよく私の足をとめさせた。/しかも当主はわが親友の木村荘十氏と幼友達だという。訪問する日は珍しく朝から雪が降って、まさにおあつらえ向きの「あんこう日和」、店先についてみるとウィンドーになつかしい大人(たいじん)が、陰嚢然として下っていた。(カッコ内引用者註)
  
 わたしは残念ながら、いせ源でアンコウ鍋を食べたことがない。アンコウ鍋は、近所の魚屋さんから新鮮な切り身を買い、家庭で好きな鍋やから揚げに調理して味わうものとして育ったので、わざわざアンコウ鍋を食べに出るという発想がなかった。子どものころの記憶にも、親に連れられ専門店でアンコウ鍋を食べたという場面も味も思いあたらない。親の世代からして、アンコウ鍋は家庭で好きな料理で食うものという習慣になっていたのだろう。
 裏返せば、だからそこ戦後すぐのころ(城)下町のアンコウ鍋屋が、いせ源のみの1軒まで減少してしまったのかもしれない。冷蔵技術や流通経路の発達で、新鮮なアンコウの切り身が近所のスーパーや魚屋で、容易に手に入るようになった影響も大きいのだろうか。でも、一度はプロが味つけした割下で、この街ならではのアンコウ鍋を賞味してみたい。家庭料理とばかり思っていたアンコウ鍋だが、また家の味とはちがった発見があるのだろう。
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 いせ源も、江戸後期(天保年間)から営業している老舗の料理屋だが、店舗の建築も関東大震災から7年後の1930年(昭和5)に建て直されたもので、東京都の歴史的建造物に指定されている。当時の店主の趣味だったのか、正面の見世がまえはガラス戸を障子戸に変えれば、まるで江戸期の料亭のような風情で、上階の座敷も昔の料理屋そのままなのがとてもいい。
 店の上がり口(帳場)の様子は、木村荘八が思いだしながら描いた明治の『牛肉店帳場』によく似ているのも面白い。ただ、通される座敷によっては手すり越しに見える風景が、ビルの側壁になりそうなのは残念だが、いまでは昔からあるどこの料理屋でも、たいていそうなのだからしょうがない。山岡荘八のエッセイを、つづけて引用してみよう。
  
 話しているうちに鍋は煮えた。先ず心臓の一片から口に入れる。トロリとした味はバタを連想させ、皮はさしずめ雷秘臓(脾臓)の臍(ほぞ)とでも言おうか。何しろ食べられないところは大骨だけという大人(たいじん)である。雪白の柳肉は河豚に似ている。/むべなるかな、中川一政、木村荘八等々画壇のお歴々から金馬、三木助、小さんの辱知(じょくち)諸氏、それに亡くなった斎藤茂吉大人なども、よく食べに来られたという。家中にはそれらの人々の書画が多く、当主の子息は大学を出て勤めてみたが最後にいったところが税務署だったよしで、「いや、もうこりごりです。のれんを継ぎます」と真顔でいう。律義で鳴りひびいた当主に後あり、調理の秘訣はと問うと、それは割下にあるらしい。(カッコ内引用者註)
  
 中川一政らの画家や柳家小さんなど噺家たちが贔屓の店だったようで、奇跡的に戦災で焼けてないところをみると、現在でもそれらの書画を目にすることができるのだろう。
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 冒頭で書いたように、東京ではアンコウ鍋屋が増えているそうだ。女性人気もあるのだろうが、家庭の代表的な鍋料理のひとつだったアンコウ鍋も、“おひとり様”では作りにくいせいだろうか。それとも、以前からの江戸東京ブームに乗り、どこかでアンコウ鍋特集でもされたのだろうか。上記のいせ源も、お客が以前より増えて繁昌しているのかもしれない。余談だが、いせ源ではアンコウを素材にした「鮟まん」も売っているというが、一度味わってみたいものだ。
 同じ神田の老舗だった、いつかの水菓子屋(フルーツ店)の「万惣」のように、いせ源も「耐震建築未満」などと規定され、地元のアイデンティティを持たない(持てない)、わけのわからない役人に通達の紙きれ1枚でつぶされないことを祈るばかりだ。こういう江戸東京ならではの老舗料理屋が、1軒でも多く後世まで残っていってほしいと切に願う。以前の繰り返しになるが、古い店が古い建物なのはあたりまえではないか。
 『味なもの』に付随し『「味なものの読者」として』を書いた、“味音痴”を自称するノンフィクション作家で評論家の大宅壮一も、まったく同様のことを心配している。少しだけ引用してみよう。
  
 この世界も、戦時中から戦後にかけて、統制や原料の入手難や戦災などで、一時は完全に荒廃に帰してしまった。江戸時代から知られていた名家や名物もほとんど姿を消してしまった。古い建造物は国宝として、珍しい老樹古木の類は天然記念物として特別に保護されているが、食べもの界の名所旧跡は激しい競争のままに委ねられている。中には戦災の打撃が大きすぎたり、よい後継者がいなかったりして、すでに跡形もなくなっているものも少くない。建物や天然記念物は実物が滅びても模型などで残すという手もあるが“味”のような感覚の世界はそれもむずかしい。
  
 何百年も前からつづく“味”を、ひとつでも多く地元の味として代々受け継いでほしいものだ。
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 子どものころ、練炭の失火で焼ける前の方広寺を訪ねた際、親父が白くマーキングされた梵鐘の一画を指さして、大坂(阪)の豊臣家が滅亡するきっかけとなった「くんしんほうらく・こっかあんこう(君臣豊楽・国家安康)」の文字について解説してくれた。わたしは「あんこう」という語音を聞いたとたんに、もちろん冬場の美味しい「鮟鱇」をすぐに思い浮かべたのだが、ことほどさように昔から食い意地が張っていたわけだ。方広寺を訪ねた日が、春先にしてはたまたま真冬のような寒さだったせいもあるのかもしれない。いまでもアンコウと聞くと、方広寺の焼けてしまった半眼の巨大な大仏の顔を思い出すのは、子ども心に植えつけられた意地きたないオーバーラップのイメージなのだろう。揚げもの好きな徳川家康も、アンコウの天ぷらを食べたのだろうか?

◆写真上:新鮮なアン肝は、フランス料理のフォアグラなどよりもはるかに美味だ。
◆写真中上は、昔から江戸東京の冬の風物詩だったアンコウ鍋。は、冬になると魚屋の店先で吊るし切りされるアンコウ。は、山岡荘八による「いせ源」の挿画。
◆写真中下は、神田いせ源の店前。は、同店の上がり口(帳場)。は、明治期に両国橋西詰めの第八いろは牛肉店の記憶をもとに描いた木村荘八『牛肉店帳場』(1932年)。
◆写真下は、方広寺の梵鐘に刻まれた「君臣豊楽」「国家安康」の文字。は、「アンコウ」と聞くと条件反射で思いだす、1973年(昭和48)に練炭による失火で本堂とともに焼失した方広寺の大仏。東大寺の大仏頭部より巨大だったが、京の大仏は鎌倉の大仏とは異なり“美男におわさない”顔をしていた。小学生のとき、この大仏をカラーで撮影し夏休みかなにかの宿題にした憶えがある。