上落合で制作された美しい『鳥類写生図譜』。

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 考えてみますと、3月の年度末はバタバタしそうなので、正月休みのうちにこちらへ移動してしまいました。すべての記事を移行するのに丸1日かかりましたが、なんとか全記事を無事に移し終えたようです。操作系もチューニングも、旧ブログとはまったく異なり、途方に暮れることばかりですが、可能な限りこちらへアーティクルをアップしつづけたいと思います。
  
 上落合には戦前、大勢の日本画家が住んでいた。少し挙げただけでも、上落合421番地の土岡泉(のち土岡春郊)をはじめ、、上落合411番地の東山新吉、上落合425番地の小泉勝爾、上落合466番地の田中針水、上落合583番地の大塚鳥月、上落合608番地の関田華堂など、細かく調べればキリがないほどだ。
 その中で、上落合421番地(現・上落合2丁目6番地)在住の土岡泉(春郊)と、上落合425番地(現・上落合1丁目23番地)の小泉勝爾が協同で面白い企画を起ちあげている。それは、日本に棲息あるいは渡来するおもな野鳥を、美術分野だけでなく自然科学(鳥類学など)の領域でも活用できるよう、写真を凌駕する高精細な写生をして定期的に会員へ頒布するという、それまで誰も試みなかった事業だ。小泉勝爾と土岡泉(春郊)は、そのために当初は上落合407番地(現・上落合2丁目4番地)の土岡泉邸を刊行会事務所にし、鳥類写生図譜刊行会を設立して頒布会の会員を募っていたが、土岡が上落合421番地へ転居すると、上落合407番地はそのまま同刊行会の事務所兼仕事場になっていたようだ。
 1927年(昭和2)7月に、頒布会員へ向けた第1期第1輯「キビタキ/モズ」の刊行を皮きりに、1938年(昭和13)の第4期12輯「ウミネコ/オカメインコ」まで100種の鳥類を紹介しており、約12年間にわたってつづけられた仕事だ。落合地域には、棲息あるいは渡来する野鳥がたくさんいるけれど、『鳥類写生図譜』にはその多くが収録されている。1輯には2種類ずつの野鳥が紹介されており、その各種姿態や生態を描いた画面も付属しているので、100種類の野鳥の紹介には200画面の付図が制作されている。そして、各野鳥には詳細な解説文が添付されており、たいへん地味な仕事だが美しい仕あがりとなった。
 『鳥類写生図譜』刊行の推薦人には、当時の東京美術学校校長の正木直彦をはじめ、同校日本画科教授の川合玉堂、同じく教授の結城素明、帝国美術院の荒木十畝が、また鳥類学会からは日本鳥学会の会頭で鳥の会会長の鷹司信輔、同会役員の黒田長禮などが名前を連ねていた。なお、『鳥類写生図譜』の題字は正木直彦が書き、結城素明が監修役として参画しているが、これは東京美術学校における恩師の結城に相談して、同図譜の刊行を進めているからだろう。刊行ののちも、土岡泉はたびたび結城素明を訪ねてはアドバイスを受けているようだ。
 小泉勝爾は、『野鳥写生図譜』刊行時には東京美術学校の助教授であり、土岡泉(春郊)は鳥の会会員だった。特に土岡は、「鳥の春郊」と呼ばれるほど鳥類の描写に優れており、同図譜に添えられた詳細な解説は、鳥の会会員でもある土岡の仕事だろう。小泉勝爾は1883年(明治16)に荏原郡品川町北品川(現・品川区北品川)生まれだが、土岡泉は1891年(明治24)に福井県武生市(現・越前市)で生まれ、小泉より8歳も年下だった。『鳥類写生図譜』は、鳥好きな土岡が先輩の小泉に協同制作の提案をしたものだろうか。
 土岡泉(春郊)は、1916年(大正5)に東京美術学校日本画科を卒業すると、作品を帝展に出品しつづけている日本画家だ。特に当時は、鳥を描かせたら土岡の右に出る者はないとまでいわれていた。自身も大の鳥好きだったらしく、鳥の会の会合には熱心に出席しており、『鳥類写生図譜』に収録された解説文にみる豊富な野鳥の知識も、同会で学んだ成果なのだろう。ちなみに、土岡泉(春郊)の弟は北陸で独立美術協会展を誘致したり、前衛美術運動を推進した美術評論家の土岡秀太郎だ。
 また、土岡の先輩にあたる小泉勝爾は、1907年(明治40)に東京美術学校日本画科を卒業すると、すぐに美術教師となって茨城県龍ヶ崎中学校へ赴任したが、教職が肌にあわなかったのか翌年には退職している。その後、東京美術学校へともどると1916年(大正5)に助教授に就任し、1917年(大正6)から文展に、翌年からは帝展にほぼ毎年出品しつづけ入選している。1931年(昭和6)の第12回帝展では、『濤の聲』が帝展特選になっている。翌年には帝展無鑑査となり、1934年(昭和9)には帝展審査員となっていた。風景画が得意だったようだけれど、『鳥類写生図譜』では鳥も描いているが、その背景となる草花や樹木などの描写を、おもに担当しているとみられる。
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 刊行会からの頒布がはじまると、『鳥類写生図譜』は国内ばかりでなく海外からも大きな注目を集めている。当時の様子を、1982年(昭和57)に講談社から出版された小泉勝爾・土岡泉『日本鳥類写生大図譜』(原版複写本)の解説文より、少し引用してみよう。
  
 発売と同時に内外の反響も大きく「昭和二年秋に来朝されたる仏国鳥学会の権威デラクラー氏(ママ)は、本図譜を見て深く之を賞揚し、遂に著者に嘱して自ら発見したる珍鳥を描かしめたり」、「ベルリンに於ける世界屈指の美術出版業レヲポルドワイス社より本図譜の世界一手頒布権譲受の交渉ありたり」といった記録もあり、昭和六年三月には鳥の会主催の「第十回鳥の展覧会」で名誉賞を授与せられている。(カッコ内引用者註)
  
 現代でも、ヨーロッパ各国の図書館に『鳥類写生図譜』が収蔵されているのは、フランスの鳥類学者ジャン・デラクールが推薦したからだろう。
 6号サイズほどの大判和紙、越前鳥之子紙を採用して印刷しているが、その製版作業は多大な負荷(コストと手間)がかかったらしい。鳥1種目の絵の製版作業で、色校に納得がいくまで2~3ヶ月もかかることがめずらしくなく、出費がかさみつづけて採算度外視の仕事となってしまった。また、ちょうど金融恐慌から大恐慌と重なる時期の仕事となったため、刊行第3期の終わりには一度刊行の継続を断念しかかっている。だが、(財)啓明会からの支援で刊行がつづけられ、残り25種の鳥類を続刊することができた。
 『鳥類写生図譜』は、前述のように100種類の鳥を描いた100作品に、付属の姿態図や部分図100点の計200図版が掲載・印刷されているが、より細かく図版を分類すると鳥の姿態写生が540点に、部分写生が150点の計690点にものぼる膨大な図画点数を描いたことになる。その精密・精緻な描写と正確な色彩から、日本画界はもちろん鳥類学会や生物学会から高い評価を受け、鳥類の図鑑としては「首位としての讃辞を賜はつた事は著者の衷心より満足とする処」だと、のちに土岡泉(春郊)は誇らしげに記している。現代でも、その評価は変わっていないのか、鳥類学者や野鳥サークルのお薦め図譜となっている。
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小泉勝爾と土岡泉(春郊)は、『鳥類写生図譜』を刊行するにあたり、次の4つのテーマを主軸にすえている。『鳥類写生図譜』第1期1輯(1927年)より引用してみよう。
  
 一、在来の鳥類に関する図譜は余りに絵画化せられて鳥そのものゝ自然の形態、色彩、習性の描写に憾多く、剰へ用筆省略に過ぎ、且つ実物大、実物色のもの少きを以て此等の欠点を補足する為に特に厳密なる写生を基本とすること/一、学術上の参考書は多くは皆一様の標本図にして生気に乏しきを以て、その自然に於ける生活状態及び姿態の運動に依る変化を主眼とすること/一、従来の花鳥参考書が美術上と学術上との研究が併行せず、為に雌雄羽色の差別、幼鳥成鳥老鳥による羽彩の変化、春秋の換羽による相違等を検討不備の為に別種となすが如き誤れる認識を一掃すること/一、其他写生図譜の無味乾燥に流れるの弊を補ふ為に、その鳥と最も密接なる関係にある花卉草木蟲類を配して最も美術的に画き且つ日本画独特の雅致風韻を具備せる花鳥図鑑とすること
  
 要するに、鳥類図鑑としては従来にないほど精密かつ正確にモチーフを表現するが、日本画の美術的な側面も意識して描くので、額装しても軸画にしても鑑賞に耐えうる絵画作品として成立するように制作する……ということだろう。おそらく、何度も色校正が行なわれたであろう越前鳥子紙に印刷された画面は、確かに今日でも色褪せない美しさを保っており、むしろ1982年(昭和57)に講談社から復刻された『日本鳥類写生大図譜』のオフセット印刷のほうが、実際に棲息している鳥類の色彩とは異なる印象を受ける。
 野鳥写生図譜刊行会への入会申込金は2円で、図譜が送られる月ごとの会費は2円50銭だった。したがって、初年はぜんぶで合計32円(送料は別途)ほどが必要だったが、一括で1年分を先払いすると入会申込金は免除され、年間の会費が28円と4円ほど安くなった。当時、どれほどの会員が入会していたのかは不明だが、世の中は金融恐慌から世界大恐慌へ向かっている時期と重なるので、会員数は思うように伸びなかったのではないだろうか。
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 さて、上落合1丁目407番地は光徳寺の北側に位置する三角形の区画で、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、6軒の建物に1ヶ所の空き地を確認できる。おそらく、この中の1軒が刊行会の事務所兼仕事場(元・土岡泉アトリエ)だったのではないだろうか。また、光徳寺の北隣りには同1丁目425番地の小泉勝爾のアトリエが、同寺の西側には同1丁目421番地の土岡泉(春郊)のアトリエがあったので、海外でも話題を呼んだ労作の『鳥類写生図譜』は、上落合のごく限られた街角の一画で制作されていたことになる。

◆写真上:『鳥類写生図譜』の第2期8輯で描かれた、下落合では外出するとほぼ毎日そこいらでつがいを見かけるキジバト(ヤマバト)
◆写真中上は、『鳥類写生図譜』の第1期1輯でいちばん最初に描かれたキビタキとその姿態付図。は、第2期4輯で制作されたホオジロと姿態付図。は、第1期3輯で描かれたコゲラ。いずれも下落合の森や屋敷林ではおなじみの野鳥たちで、特にコゲラは木の幹をコッコッコッと連打する音ですぐにわかる。
◆写真中下は、第3期1輯のバンと姿態付図。神田川や妙正寺川沿いの道でセキレイやカモ、サギ類とともに見かける野鳥。は、落合地域ではヒヨドリオナガとともにポピュラーなメジロと姿態付図。は、相模湾ではおなじみのアオバト。丹沢山塊から群れで湘南海岸の岩場へ飛来し、夕暮れとともに山へ帰る。以前、おとめ山公園にもアオバトが飛来するとうかがって驚いた記憶がある。
◆写真下は、日本画家の小泉勝爾()と土岡泉(土岡春郊/)。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる両画家のアトリエと刊行会事務所があったあたり。下左は、1930年(昭和5)に刊行された『鳥類写生図譜』第2期1輯~12輯の合本。下右は、1982年(昭和57)に講談社から復刻本として出版された『日本鳥類写生大図鑑』。
おまけ
 1945年(昭和20)4月2日に撮影された、第1次山手空襲(4月13日夜半)直前の上落合の様子で、野鳥写真図譜刊行会と土岡泉(春郊)・小泉勝爾が住んでいた両アトリエ周辺の街並み。
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