名画は左光線が多いと三岸好太郎。

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 伊藤廉の子どもが急死したとき、風雨が強い嵐の夜にもかかわらず、3人の画家がいたましい通夜の席に駆けつけている。1932年(昭和7)11月のことで、おそらく遅めの台風でも晩秋にきていた夜なのだろう。このときの伊藤廉アトリエは、のちの佐分眞アトリエをゆずり受けた北区西ヶ原ではなく、下落合のすぐ北側、豊島区長崎南町2丁目2027番地(のち地名番地変更で椎名町3丁目1964番地と同一敷地)に住んでいた。
 改正道路(山手通り)工事の前、伊藤アトリエは聖母坂から長崎天祖社の前を北上し、椎名町駅の南200mほどの位置で西へ左折したあたりの住宅街にあった。1936年(昭和11)の空中写真を見ると、庭木が繁る洋館と見られるアトリエの屋根を確認できる。嵐の中、長崎南町の伊藤アトリエへ駆けつけたのは、宮田重雄里見勝蔵、そして三岸好太郎の3人だった。
 宮田重雄は下落合から徒歩で、おそらく5~6分ほどで着き、里見勝蔵は西武線・井荻より、三岸好太郎は同線の鷺宮より乗車して、西へ移設されたばかりの下落合駅から歩いたのだろう。里見と三岸のふたりは、鷺宮駅で落ち合い連れだって弔問に訪れているのかもしれない。1932年(昭和7)現在の各人のアトリエは、宮田重雄が第三文化村の南にあたる下落合3丁目1447番地、里見勝蔵は下落合から転居した杉並区下井草1091番地、三岸好太郎は中野区上鷺宮407番地の旧アトリエだった。宮田を除き、伊藤と里見、三岸は独立美術協会のメンバーだ。
 このとき、愛児を亡くして憔悴している伊藤廉を見かねて、おそらく三岸好太郎は気をつかったのだろうか、深夜の沈痛な雰囲気の慰めようもない中で、盛んに美術の話題を口にし、伊藤の気をまぎらせようとしている。三岸好太郎が話題にしたのは、「古今の名画は左光線で描かれている作品が圧倒的に多い」という“仮説”だった。
 以下、そのときの様子を1933年(昭和8)に発行された「美術新論」1月号(美術新論社)収録の、むさしや九郎『謹賀新年妄筆多罪』から引用してみよう。
  
 三岸好太郎氏、一つの発見を語るに到りて、忽ち議論沸騰す。三岸氏の曰く、「僕は近頃、絵画に於ける、一つの光線の法則を発見したよ。それは風景画でも人物画でも、大抵の良い絵は、故意か偶然か知らないが、必ず光線(ライト)を向つて左方から採つてあるといふ事だ。恰度、着物を着るのに左前に着てゐると可笑しいやうな具合に、これにも、人間の感覚にある安定感や美感から云つて、何か充分の理由があるんぢやないか。なにしろ大抵の絵が、左方から光りが来てゐるのだ。」 宮田氏曰く、「それぢや、先づクラシツクを調べて見ようぢやないか」
  
 絵の話題になると、どうやら4人とも夢中になるのを見こした三岸好太郎の意図的な話題ふりと、敏感にそれを察した宮田重雄が同調しているように思われるが、真っ先に反応したのは伊藤廉だった。自身のアトリエに入ると、さっそくルーブル美術館のコレクション絵画を集めた写真帖を持ちだしてきている。ページをめくりながら、ルーブルの収蔵作品を次々に確認してみると、左方からの光線作品が30枚、右方からの光線作品7枚が数えられた。つまり、約77%の作品が、左光線で描かれているということになった。
 通夜をしている4人の画家たちはこの仮説に夢中になり、伊藤廉は次々とアトリエから画集を運んできては確認していった。ボナールの画集は、左光線が22点に対して右光線が24点とあまり有意の差が感じられず、「三岸仮説」に当てはまらないことがわかった。次にドラン画集を確認すると、左光線が14点に対し右光線は10点と微妙な結果だった。
 伊藤廉はアトリエを往復して重たい画集を運び、セザンヌの画集では左光線が40点に対し右光線が25点と左光線がかなり優位で、ブラマンク画集を見ると左光線が32点に右光線が28点とやや左光線のほうが多かった。伊藤廉はすっかり夢中になり、気になりはじめたのか、これまでの自身の作品を確認しはじめた。同誌より、つづけて引用してみよう。
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 伊藤氏曰く、「しかし可笑しいなあ。僕はフランスで描いた絵は左方から光を採つてゐるが、日本に帰つて来てから描いたのは皆右からだ。向うでは左傾で、日本に帰れば右傾といふのも可笑いぜ。(ママ) これは何かの便宜のためからぢやないか知ら。」 そこで、便宜説となり、遂に、それは右利きと左利きの関係からではないかといふ疑問に到着し、絵に左方からの光線多く、右方からの光線すくなきは、人に右利き多くして左利きすくなきに因るに非ずや、(後略)
  
 ふつうに考えれば、右利きの画家が左光線の描きやすいのはあたりまえだし、左利きの画家は右光線のほうが描きやすいとすぐに気づくだろうし、また三岸好太郎もそれを十分承知のうえだったと思うのだが、あえてそれをあたかも自分が発見した“新説”のように披露にすることで、伊藤廉が感じている打撃や悲哀を少しでも薄め、慰めようとしているように感じる。「ホラ吹き好太郎」(少年時代の綽名)の、面目躍如といったところだろうか。
 これは、たぶん他の画家たちも途中から気づいていたと思うのだが、あえて実証的に多彩な画集を出させ長時間にわたりページをめくることで、伊藤廉が置かれた子どもの通夜というパニックに近い極限状況の痛みを、少しでもやわらげようとしていたのではないか。また、伊藤廉も利き腕のテーマをとうに気づいてはいたが、あえて三岸の仮説に乗って美術論を交わすことで、かろうじて心のバランスを保っていたようにも思える。
 左利きの画家たちの画集を探して、伊藤廉はアトリエを何度も往復している。
  
 然らば先づ左利の梅原龍三郎画集を調べよ、と取出して見るに、梅原氏の絵の殆ど凡ては右方光線、又、左利のレオナルド画集の絵も、殆ど凡て右方光線なり。こゝに到りて、皆々顔を見合せて呵々大笑、「なーんだ、手紙を書く時だつて、ギツチヨでなければ、誰でも電燈は左の方へ置くぢやないか」 斯くて絵画構成上の左方光線安定説は、其の夜の嵐に吹かるゝ枯葉の如く飛消。但し、伊藤氏は、この説より何事かの暗示を得て目下研究中の由也。こたびは如何なる珍説現はるゝや。
  
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 こういう、状況に応じてとっさに“融通”や“気転”のきくところが、三岸好太郎の才能でもあったのだろう。その“融通”がききすぎて、独立内部で起きたゴタゴタの際は、仲間から「三岸はそういう奴なんだからしょうがない」と諦められ、連れ合いの三岸節子からも「典型的なうそつきでしょうね」などと呆れられもするが、伊藤アトリエにおける愛児の通夜での出来事のように、「そういう奴」の繊細な神経がプラスに働いて、ともすれば底知れず落ちこみ沈鬱になる伊藤廉の心境を、少しでもやわらげようとしていたように見える。このとき、三岸好太郎は函館の湯の川温泉からもどったばかりで、彼が死去するわずか1年と7ヶ月前の出来事だ。
 伊藤廉は、子どもの通夜における「議論」の優しい心づかいを知っていて、ありがたく感じていたものか、三岸好太郎の死後に刊行された美術誌などへ、彼に関する文章や画論を積極的に寄稿している。その中から、三岸好太郎が新アトリエの建設前に逝った直後、1934年(昭和9)刊行の「アトリエ」10月号に収録された伊藤廉『三岸君を憶ふ』から引用してみよう。
  
 三岸君はアトリエを建設しかけてゐた。ことさらら南向きに大きな窓をとつて、冬には室中一杯に太陽が入るやうに設計してゐる。彼はこの冬の太陽をあびながら制作出来る幸福をたのしんで、僕にいろいろ語つた。冬の寒さが全く困るからとか、北向きの窓からとる変らざる光を欲するよりも、うつらうつら温室のやうなものゝ中にゐて制作出来るたのしさの方を欲求する理由などを。三岸君はこの願ひをやうやく実現しかけて、逝つてしまつた。心残りの多いことだらうと察する。僕たちとしても、三岸君が考へてゐる特殊な設計のアトリエの中で、制作させてみたかつた。
  
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 三岸好太郎の葬儀写真には、里見勝蔵と並ぶ左端に白のコットンスーツを着た伊藤廉が写っている。南側の全面に窓ガラスをはめ、陽光が刻々と変化する上鷺宮の三岸アトリエが竣工すると、伊藤廉はさっそく上鷺宮を訪ねただろう。そのとき、「特殊な設計のアトリエ」の北面にも、ちゃんと通常の採光窓が穿たれているのに気づいたにちがいない。

◆写真上:長崎南町2027番地にあった、伊藤廉アトリエ跡の現状(右手)。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」に採取されている長崎南町2027番地の伊藤廉アトリエ。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる同所の伊藤アトリエだが、住所と番地はともに大きく変更され椎名町3丁目1964番地に変更されている。は、戦後に撮影された伊藤廉()と宮田重雄()。
◆写真中下は、1948年(昭和23)に制作された伊藤廉『鳩と静物』。中上は、制作年が不詳の宮田重雄のリトグラフ『公園』。中下は、同じく宮田重雄の『山中秋日』。は、1933年(昭和8)ごろに撮影された三岸好太郎(左)と里見勝蔵(右)。
◆写真下は、1920年(大正9)に制作された里見勝蔵『下落合風景』。中上は、戦後制作とみられる里見勝蔵『スペイン風景(ボーの岩山)』。中下は、1932年(昭和7)に制作された三岸好太郎『水盤のある風景』。は、晩年の1934年(昭和9)に制作された三岸好太郎『海と射光』
おまけ
 1936年(昭和11)に佐分眞はアトリエで自裁するが、のちにそのアトリエを譲り受けて住んでいたのが伊藤廉だった。写真は、北区西ヶ原2丁目12番地に建つ伊藤廉(佐分眞)アトリエ。
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「清戸道」の呼称は江戸時代の初期から。

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 江戸川橋から目白坂を上り、目白通りから途中で北西へと向かう南長崎通り(長崎バス通り=ほぼ昔の練馬街道)へと入って、多摩地域の清戸村までつづく街道は、いつから「清戸道」と呼ばれるようになったのだろうか?
 わたしは、『高田村誌』に書かれた「清戸道」のルビにふられたように、「清戸道」は本来「せいどどう」あるいは「せいとどう」ないしは「せいとみち」と呼ばれたのではないかと以前から疑っているが、街道筋の各農村で正月に行われるどんど焼き(江戸東京方言では賽戸祓い・芝灯祓い・道祖神払い=「せいとばれえ」)の火炎が、点々とつづく街道筋を表現したものではないかと考えている。それが、ひとたび後世に「清戸」という漢字が当てはめられると、異なった発音になってしまうのは、地名に見られる「清戸」をはじめ「成都」「西都」「清土」「青土」「青砥」「勢井戸」などと同様のケースのように思われる。
 この「どんど焼き(せいとばれえ)」(関東でも神奈川県南部など、地域によっては「せえとばれえ」と「い」が「え」に転訛して発音される)の火祭り神事は、関東地方では鎌倉時代以前から由来の知れないほどの古(いにしえ)より行われていた正月の催事であり、したがって「賽ノ神」や「賽戸ノ神」、「芝灯」、「道祖神」(江戸期)などが意識される以前から存在し、後世になってからそれらの神々と習合していったのではないか。したがって、「せいと」という地名や道名に当てはめられる漢字も一律ではなく、地域によっては多種多様な漢字が、古より当てはめられてきたとみられる。村々の「入口」に設置された、鎌倉期から室町期に多い石碑は、今日では「板碑」と表現されているが、当時はどのような名称で呼ばれていたのだろう。「賽戸」や「芝灯」は、外からの災厄を防御するファイヤウォールそのものではなかったか。
 どんど焼き(せいとばれえ)の神事が行われるのは事実、街道筋や川筋、海辺など、なにかを運んでくる場所、なにかがやってくる場所で行われるのが通例であり、それは人々が暮らす村落共同体の「入口」であり、素性や得体の知れない「他所」や「外界」との接点でもあったはずだ。換言すれば、道や川、海などを通じて「他所」や「外界」から運ばれてくるであろう災厄や病魔、さまざまな不吉な事象・現象を、ミクロコスモス(村落共同体)は常に敏感に認識して生活していたはずであり、1年間にわたり村内に滞留した、あるいは村内を通過した災厄や病魔を祓う必要性が生じたため、交通(人流・物流)が頻繁な要所では、新年の火祭り神事(どんど焼き=せいとばれえ)が発達した……と捉えることもできる。
 そもそも火炎により災厄や病魔を祓う、または地上に降りた神(善神・悪神)を火炎の力で“神の国”へ帰還させるという行事は、古くから日本列島各地で見られた神事であり、別にどんど焼き(せいとばれえ)は関東地方のみの専売特許ではない。アイヌ民族の神送り火祭(イヨマンテ)も同系統だし、琉球の火の神(ヒヌカン)も近しい存在だろう。この神事を正月に限らず、初めて季節を問わないイベント化したのは江戸幕府の徳川吉宗であり、1732年(享保18)に開かれ両国橋のたもとで打ちあげられた花火大会も、流行した疫病を祓う厄落としから出発している。
 わたしが、初めて「清戸道」という呼称を調べたのは、いまから10年ほど前だったと記憶している。目白駅(地上駅)近くで、目白橋をわたる目白通りと、目白橋の下にあった踏み切り(LEVEL CROSSING 51CN)をわたる清戸道とが、並行する道筋に別れて存在していた時代を調べていたときだ。その際に、残念ながら参照していた直接資料は失念してしまったけれど、江戸時代の初期から「清戸道」の呼称が用いられていたという記述を憶えていた。その根拠となる引用されていた資料は、江戸幕府が実施した検地にまつわる記録だったという、ウロ憶えの印象が残っていた。
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 それから、怠惰なわたしは深く調べもせず、そのままにして放っておいたのだが、友人と「清戸道」に関する議論をしていた際、もう一度改めて詳しく調べてみる気になった。江戸期から明治期にかけての、各種文献を国会図書館で調べていたら、豊島区の北西隣りに位置する練馬地域で、江戸時代の初期から「清戸道」と呼称している事例を見つけることができた。それは、練馬区教育委員会が保存しているとみられる、1674年(延宝2)に作成された「関村検地帳」(井口家文書)だ。同帳が収録されていたのは、1961年(昭和56)に練馬区から出版された『近世練馬諸家文書抄』だった。おそらく、わたしが参照した資料も同記録からの引用だったのだろう。
 「関村検地帳」には、全部で12ヶ所に「清戸道」の記録が登場し、そのうちの10ヶ所および追記の1ヶ所の、計11ヶ所が幕府(勘定所配下の代官所)による検地の記録だ。
  
 清戸道/下畑九畝廿九歩  弐拾八間半/拾間半  久太郎
 同所/下畑八畝拾三歩  拾一間/弐拾壱間  同人
 同所/下畑壱畝歩  拾間/三間  同人
 同所/下々畑壱反七畝拾弐歩  弐拾七間半/拾九間  同人
 同所/下々畑壱反四畝七歩  拾四間/三拾間半  同人
 同所/下々畑壱反三畝拾六歩  弐拾九間/拾四間  同人
 同所/下々畑壱反三畝拾歩  弐拾間/弐拾間  同人
 同所/下々畑弐反壱畝廿壱歩  四拾弐間/拾五間半  同人
 同所/下々畑九畝拾歩  弐拾八間/拾間  同人
 同所/下々畑壱反六畝拾五歩  拾八間/弐拾七間半  同人
 清戸道/下々萱弐反壱畝歩  拾八間/三拾五間  久太郎 (追記)
  
 この中で、最下段の清戸道下々萱耕作地2反1畝歩が、同年による検地帳の追記ということになる。関村の久太郎という人物は、清戸道沿いの耕作地からはやや離れているとみられ、差配や小作人に田畑をまかせた大農家だったか、家業が商家で所有地を人に貸していたかのいずれかだろう。あるいは、鷹狩り場(御留山・御留場)の「筋」表現と同様に、地域を貫く街道「筋」の捉え方で書かれており、清戸道に通じる村内の道筋をそう表現していたか、あるいはこの道も「せいとばれえ」が行なわれる関村の道筋そのもので、そう呼ばれていたのかもしれない。
 あるいは、江戸初期には神送りの火祭り=せいとばれえ(どんど焼き=左義長)を実施する道筋が、一般名称として関東各地でそのように呼ばれていたとすれば、ほかの地域にも「せいと」にさまざまな漢字を当てはめた道路(街道筋)が存在していてもおかしくないし、別の漢字を当てはめられている地域も気になる。たとえば、落合地域の近くでいえば、清戸道の街道筋から分岐し雑司ヶ谷の神田久保の谷間を抜け、護国寺へと向かう道筋が「清土道(せいとどう)」や「清土村」なら、目白台の斜面にあるのも「清戸坂(せいどざか)」だということに気づく。
 江戸時代の初期、1600年代から呼称される「清戸道」だが、この当時の発音が「きよとみち」だったか「せいどどう(せいとみち)」だったのかは不明だ。おそらく、延宝年間に突然「清戸道」と呼ばれだしたのではなく、そのずっと以前、室町期より練馬から江戸城(1457年に太田道灌が江戸岬に建設した城郭)の城下町へと抜ける街道は、「清戸道」と呼ばれていたように思われる。もっとも、「清戸」と「せいと」祓いを結びつけて考えるわたしは地名や道名も含め、さらにもっとずっと以前から、さまざまな漢字を当てはめられて「清戸」ケースに限らず、関東各地で「せいと」と呼ばれていたのではないかと考えている。
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 さて、井口家文書には、幕府に提出した村方書上(かきあげ)とみられる記録を収集した、1720年(享保5)の「村明細帳」も残されている。同文書は、旗本で天領(幕府領)の代官だった会田伊右衛門あてに提出された、練馬地域の各種農作物に関する収穫高を報告した書上で、その中に同地域を通過している街道筋を紹介する一文が記録されている。その中にも「清戸道」は登場しており、すでに書上の提出先である幕府勘定所でも、また練馬の地元でも、江戸川橋から目白坂を上り、小石川村から下高田村(高田村)、下落合村、長崎村を経由して練馬方面へと抜ける街道筋は、「清戸道」と認識されていたのがわかる。
 『近世練馬諸家文書抄』収録の村方書上より、再び引用してみよう。
  
 関邨道筋の儀は青梅道・保谷道・清戸道・小榑道外作付道之寸九尺道と定置候、且大道筋之寸弐間三尺、小榑道九尺右道筋之儀関村拾弐筋道ニ書上仕候、松平九郎左衛門様出役之節申上置候/名主 歌右衛門/年寄 久兵衛
  
 この時期、天領の関村を担当する幕府勘定所の代官が、大旗本の松平九郎左衛門だったことが判明している。また、当時「清戸道」を含む「大道筋」が2間3尺(約4.5m)ほどの道幅だったことが記録されている。これは、明治以降の住宅地にメインロードとして敷設される三間道路よりも、まだ1m弱ほど狭い街道筋だったこともわかる。
 もうひとつ、徳川家の鷹狩りについて調べていた際、先述の検地帳から4年後の1678年(延宝6)に作成された『御鷹場絵図』という図版を、どこかの資料で参照している。同資料のメモは残るが、それが掲載されていた資料名を失念している。きっと、夜中に眠くなってスキャニングするのが面倒になり、そのまま寝てしまったわたしの怠惰な性格のせいだろう。これは練馬区の資料ではなく、同絵図は徳川将軍の鷹狩り「六筋」について書かれたものだったと思うが、その中に「清戸海道(街道)」というネームが挿入されていたのを憶えている。これも、江戸時代の初期に記録された「清戸道」なのだが、後日に国会図書館を調べても原典を見つけることができなかった。
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 江戸初期なので、(城)下町からそれほど離れてはいない鷹狩りの御留場(御留山)絵図が描かれていたと思うのだが、「戸田筋」(長崎・練馬地域側)か「中野筋」(目白・下高田・落合側)かもハッキリしない。ひょっとすると、近くでは最大規模の早大図書館か、東京中央図書館の資料なのかもしれないが、どなたか原典の『御鷹場絵図』(1678年)が収録された書籍、あるいは掲載された地誌本をご存じの方がいれば、ご教示いただきたい。

◆写真上:練馬区教育委員会が設置した、千川通り(栄町)沿いの「清戸道」記念碑。
◆写真中上は、幕末か明治初期の江戸川橋を想定し1932年(昭和7)に描かれた川瀬巴水『暮るゝ雪・江戸川』。中上は、1935年(昭和10)に撮影された鉄筋コンクリートでリニューアルされた江戸川橋。中下は、江戸川橋の現状。は、1932年(昭和7)撮影の練馬志木街道。清戸道も同様に、このような風情だったと思われる。
◆写真中下中上は、1674年(延宝2)作成の「関村検地帳」と同検地帳追記に掲載された「清戸道」。中下は、目白坂と記念プレート。文京区教育委員会が設置したプレートだが、江戸川橋を起点とする「清戸道」の解説が見える。
◆写真下は、清戸道が北西(右手)へと向かう目白通りと南長崎通りの分岐点。中上は、長崎地域を練馬方面へ向けて貫く南長崎通り(清戸道)。中下は、冒頭写真の「清戸道」記念碑の解説プレート。は、「桜の碑」とサクラ並木がつづく千川通り(清戸道)。
おまけ1
 現在の神田川流域の「江戸川」と、東京都と千葉県の境を流れる「江戸川」とを史的に混同されている方が多いので、蛇足ながら付記したい。江戸川橋(の手前の大洗堰=現在の大滝橋のある江戸川公園あたり)から、千代田城の外濠にでる舩河原橋までの神田川は、江戸時代より1966年(昭和41)まで江戸川と呼ばれていた。現在の東京都と千葉県の境を流れる大河は、江戸東京の市街側からは「太井川(ふといがわ)」または「太日川(おおいがわ)」と呼ばれ、神田上水の下流域名だった江戸川とは混同されていない。写真は、葛飾区の金町あたりの現・江戸川(太井川or太日川)。
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おまけ2
 1918年(大正7)に正月の海辺で描かれた、有島生馬の『どんど焼き』(せいとばれえ)。有島武郎の一家とともに、鎌倉町泉ヶ谷(いずみがやつ)へ避寒していた際に描いたもの。
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戦前の落合地域に住んでいた華族は36家。

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 以前、明治期には別荘地だった落合地域に住む、華族たちについてご紹介した記事を書いていた。『落合町誌』(落合町誌刊行会/1932年)をはじめ、戦前の資料類には頻繁に華族が登場するので、改めて地元の資料を参照しながらまとめてみた記事だった。その記事では、落合地域に住んだ15家ほど(雑司ヶ谷旭出=目白町の戸田邸/徳川邸は除く)をご紹介しているが、実はその倍以上の数の華族家が下落合や上落合、葛ヶ谷(西落合)に住んでいたことが判明した。
 明治後期から戦前の華族に、ことさら関心があるわけではないが、下落合775番地の七曲坂に建ち独特なデザインをしていた大島久直邸の、大正期ではなく昭和期の写真がないかどうか探していた際、やたら住所が落合地域の華族たちが目についたからだ。ついでに、それらの華族家をメモしておいたのだが、みるみるその数が増えつづけ、以前の記事でご紹介した15家どころではないことに気がついた。改めて意識的に調べてみると、なんと以前の15家にプラスして21家も住んでいたことが判明している。
 落合地域の地域別に見ると、新たに下落合だけで+15家、上落合で+4家、西落合(葛ヶ谷)で+2家の都合21家だ。また、大正期から昭和初期にかけて落合町葛ヶ谷(西落合)に住んでいたが、途中で下落合に転居してきている家庭もあり、落合地域内での転居も確認できる。やはり、子育て環境としては学習院も近いし、関東大震災を経験して東京郊外のほうがなにかと安全だし、また市街地の喧騒や不健康な環境もないし、明治期から華族たちが住みついた土地で「仲間」が多いから安心だ……というような感覚でもあったのだろうか? わたしの調べるかぎり、落合地域だけで15家+21家で36家の華族邸を確認することができた。これらの家々は、数年でよそへ転居している華族もいれば、戦後まで住みつづけていた家庭も含まれている。
 さすがに、追加の21家について個別に紹介するのは負荷が高いので、それぞれ興味のある方は別途、各家系について調べていただきたいが、まずは一覧表のリストで概観してみよう。やはり、徳川家と藤原家の関連華族が多いだろうか。ちなみに、このリストには以前にご紹介している落合地域×15家+目白地域×2家は含まれていない。また、前回は含めていなかった九条武子邸を、いちおう加えてカウントしている。『華族大観』(華族大観刊行会)や『華族名簿』(華族会館)、『華族銘鑑』(各社)などでは、下落合753番地の九条邸を建前上「九条良致邸」としているが、転居当初から別居中の九条武子のみが住んでいる。なお、華族邸の調査期間は大正末から1940年(昭和15)前後までとしており、明治前期から大正前期ごろまで住んだ華族については、改めて調べていない。また、権兵衛山(大倉山)に伝わる伊藤博文邸は、明らかに後世の誤伝だと思われるので含めていない。
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 リストの中で、飛鳥井雅信邸と藤枝雅脩邸とが同一住所だが、藤枝家が飛鳥田邸に同居していたことによる。下落合1540番地は、目白通り沿いに建つ落合第三府営住宅の中であり、目白文化村の北西側に位置している。下落合505番地の松平親義邸は、目白福音教会平和幼稚園の東側に近接し、村田綱太郎邸と東三条公博邸の下落合1281番地は、前谷戸に造成された第四文化村の南側に位置する敷地だ。下落合330番地の伊藤一郎邸は、同じ華族(男)の箕作俊夫邸と同一住所(現・落合中学校校庭)であり、敷地の一部に自邸を建設したのだろうか。
 下落合473番地の堀田正路邸は、明治末か大正初期に建設された浅田知定邸の広大な敷地内で、敷地が再開発された昭和初期に邸を建設しているのだろう。同敷地内に建っていた、上原桃畝アトリエと同一番地だ。下落合604番地の土井利孝邸は、のちに牧野虎雄アトリエが建設される区画と同じ住所だが、土井邸は佐伯祐三が描いた「浅川ヘイ」の浅川秀次邸が転居したあとに建設された広大な屋敷で、曾宮一念アトリエの道をはさんだ東隣りにあたる。下落合339番地の有馬純尚邸は、現在は落合中学校の北側敷地に含まれているとみられるが、下落合370番地にあった竹久夢二アトリエのすぐ南側に位置している。
 次に、下落合451番地の水谷川忠麿邸は、近衛家の所有地だった広い目白中学校跡地の一部に建っていた。下落合421番地の芳川三光邸は、近衛町通りに面した区画で、同通りにある古くからの交番のすぐ北側にあたる番地だ。下落合1701番地の太秦康光邸は、金山平三アトリエから北側の上ノ道へと出て、勝巳商店地所部が昭和期に開発する「目白文化村」の西隣りに接する敷地だ。下落合830番地の岡春雄邸は、薬王院西側の丘上区画で、下落合800番台に展開した「アトリエ村」のやや南側に位置している。
 つづいて、下落合1218番地の東三条公博邸は、鎌倉支道の雑司ヶ谷道(新井薬師道)沿いの北側に建っていた大きな屋敷だ。同番地の南斜面には、谷千城邸(子)も隣接して建っていた。斜向かいには、外山卯三郎の実家だった外山秋作邸佐々木久二邸があり、東へ140mほど歩けば西坂と徳川義恕邸(男)の丘下へ出ることができた。下落合1207番地の三宅直胖邸は、先の東三条公博邸の西並びであり、三宅邸の道路をはさんだ真ん前が佐々木久二邸という位置関係になる。最後に、下落合753番地の九条良致名義になっていた、オバケ坂(バッケ坂)上の九条武子邸は、これまで何度もご紹介してきているので省略したい。
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 さて、上落合468 番地の千田嘉平邸は、吉武東里邸の東並びの道筋に位置する敷地で、向かいは古代ハスを育成した大賀一郎邸で、2軒北隣りが神近市子邸という位置関係だ。上落合671番地の勸修寺末雄邸は、吉武東里邸の西へと入る細い路地の北側に位置する敷地で、東隣りが古川ロッパ邸(現・上落合公園)だ。同一住所の石河光遵邸は、勸修寺邸に同居していたか、あるいは広めな区画なので同じ敷地内に邸を建てて住んでいたのだろう。先の千田邸とともに、上落合を流れる妙正寺川の北向き段丘上に位置する地形だ。上落合514番地の石山基弘邸は、昭和通り(現・早稲田通り)から公楽キネマの西側にある道を北へ入ると、すぐ左手に建っていた大きな屋敷だ。この住所は、二二六事件の蹶起将校のひとりである竹嶌継夫中尉の実家と同一番地だ。
 次に、大正期までは葛ヶ谷と呼ばれ、昭和初期の耕地整理が終わると地名が西落合に変更されたエリアを見てみよう。まず、華族関連の資料によって、片岡和雄邸は「下落合5丁目15番地」などと書かれているけれど、1932年(昭和7)以降に誕生する下落合5丁目に15番地は存在しない。多くの資料では、落合町葛ヶ谷15番地となっているので「下落合5丁目」は誤記だと思われる。葛ヶ谷(西落合)15番地には、ほかに片岡鉄兵宮地嘉六が住んでおり、時期がズレれていれば、いずれかの住宅に片岡和雄がいた可能性が高い。また、葛ヶ谷15番地は、佐伯祐三が描く『看板のある道』の右手に見えている敷地で、富永哲夫が開業した富永医院へと通じている道筋だ。
 さらに、西落合1丁目281番地の松平賴庸邸は、以前に鬼頭鍋三郎の関連記事でも登場している敷地で、松下春雄アトリエ(のち柳瀬正夢アトリエ)や鬼頭鍋三郎アトリエの、道路を隔てた斜向かいにあたる大屋敷だ。松平家は戦前まで住んでいたようだが、戦後しばらくすると跡地は本田技研工業の本田宗一郎邸が建設されている。
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 こうして見てくると、ポツンと離れている華族邸は別にしても、なんとなく親しい友人同士で連絡を取りあい、近隣に寄り集まって住んでいたような印象を受ける。東京郊外の近所で売りに出ている土地、あるいは貸地があるから近くに越してこないか?……というような“ご近所情報”が、特に関東大震災後の華族会館などで交わされていたのではないだろうか。

◆写真上:下落合への転居前、赤坂離宮の近く麹町区紀尾井町にあった大島久直邸。現在は上智大学のキャンパスになっているが、大島邸の手前の瓦屋根は乃木希典邸で、1940年(昭和15)に藤沢市片瀬の目白山にある湘南白百合学園へ移築されている。ちなみに、片瀬にある目白山も庚申塚(元は荒神塚?)の展開から、タタラ遺跡が眠る可能性が高そうだ。
◆写真中上:下落合の東部および中・西部に展開した華族邸。
◆写真中下:上落合および西落合(葛ヶ谷)に展開した華族屋敷。
◆写真下:これまであまりご紹介してこなかったが、第1次山手空襲で全焼する直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された下落合604番地の土井利孝邸()。空襲から焼け残り、戦後の1947年(昭和22)に撮影された西落合1丁目281番地の松平賴庸邸()。