下落合を描いた画家たち・山口諭助。

山口諭助「下落合風景」1925.jpg
 関東大震災のすぐあと、目白文化村近辺を描いた画家がいる。画集では1925年(大正14)の制作となっているが、実際は前年の1924年(大正13)の後半か、ないしは翌年でも比較的早い時期の作品ではないかと推測される。武蔵野の風景を写してまわるのが好きだったらしく、東京郊外を描きつづけた山口諭助の『下落合風景』(冒頭写真)だ。
 山口諭助の“本業”は、哲学・芸術論ないしは芸術評論といった学術領域だった。大学時代に哲学史を専攻された方なら、彼の著作である『真理と其決定』や『白の音に聴く』、『無の芸術』、『個と全』、『哲学』、『倫理学』、『論理の哲学』、『美の日本的完成-「寂び」の究明』など数多くの教科書や参考書などのいずれかをご存じかもしれない。また、エッセイストとしても広く知られており、『スキー夜話』や『幻想の武蔵野』、『雪白き山』などの著作がある。さらに、洋画の制作も玄人はだしで、特に生涯をかけて「武蔵野風景」をモチーフに追いつづけており、1979年(昭和54)には『武蔵野回顧絵画集』を麓山房より出版している。
 1901年(明治34)に新潟で生まれた山口諭助は、1926年(大正15)に東京帝大文学部哲学科を卒業するので、1925年(大正14)制作とされる『下落合風景』は学生時代の作品ということになる。このころから、山口諭助は東京の郊外地域を歩きまわりながら、当時は色濃かった武蔵野の面影を写生してまわっている。ご紹介している『下落合風景』は大正末に近い作品だが、画集を参照すると戦前戦後を通じ武蔵野の各地をモチーフにして、制作しつづけていたのがわかる。下落合や長崎を写生しているところをみると、若いころ(学生時代か?)の一時期、この近くに住んでいたのかもしれない。ただし、1930年(昭和5)現在の住所は本郷区龍岡町27番地に、戦時中から戦後にかけては渋谷区代々木大山町1067番地に住んでいたことが判明している。
 地元の方なら、おそらく冒頭の『下落合風景』を見たとたん、すぐに目白文化村の第一文化村近くに展開した情景だと想定できるだろう。それは、明らかに箱根土地が1922年(大正11)から販売している第一文化村の、すぐ外周域に設置した背の高い水道タンクが描かれているからだ。この地下水を汲みあげて配水する水道タンクが、いつごろ撤去されたのかはハッキリしないが、昭和初期に引かれた荒玉水道(下落合は1928年より通水)よりも、地下から汲みあげた水のほうが清澄かつ美味だったはずで、落合地域では1960年代まで地下水を活用していたお宅も多い。第一文化村の水道タンクは、1936年(昭和11)の空中写真でもいまだに確認することができる。
 1925年(大正14)は、目白文化村では大きな動きが相次いで発生した年でもあった。前年にスタートしていた、第三文化村の販売が一段落すると、今度は落合尋常小学校(のち落合第一尋常小学校)の西側の前谷戸に、一連の分譲販売の最後となる第四文化村の開発が予定されていた。また、下落合の東部で普及しつつあったガス管の敷設も、大きな課題のひとつだったにちがいない。そして、もっとも大きなテーマは、学園都市として中央線沿線に開発中だった国立(くにたち)へ、箱根土地本社を移転する事業計画だった。したがって、目白文化村には本社機能に代わる、箱根土地の開発・営業拠点を新たに設置しなければならなかった。
 目白文化村は、第四文化村の販売でひととおりの開発を終えるが、先述したガス管の全戸配管作業をはじめ、不要になった箱根土地社員用の広大な社宅建設予定地を区画割りし宅地として販売する業務や、住宅未建設の敷地に対する社内建築部の営業アプローチ、さらに既存の住宅や施設・設備に関するメンテナンスなど、開発部隊や営業部隊を残留させる拠点が必須だった。なお、下落合1340番地の箱根土地本社ビルは、当時、実業界でも政界でも堤康次郎と近しかった、駿豆鉄道社長であり研心学園(のち目白学園)の理事長でもあった、中央生命保険の専務取締役・佐藤重遠へ売却し「中央生命保険倶楽部」となるので、箱根土地の開発・営業拠点としては使用できなかった。
五月野茨を摘む1925.jpg
風景1925.jpg
雪景色1926頃.jpg
 以上のような1925年(大正14)当時の状況を踏まえ、山口諭助の『下落合風景』を観るといろいろなことが透けて見えてきそうだ。まず、中央上部に描かれた住宅2軒は、第一文化村の住宅ではないと思われる。前谷戸の谷間へ落ちこむ傾斜地の、中部あるいは上部に建てられていた家々だろう。松下春雄『五月野茨を摘む』(1925年)にも描かれた、水道タンクの左手斜面に見えている、切妻を東西に向けた赤い屋根の家が、いずれかの1軒だと思われる。
 また、左手に描かれた急斜面は目白文化村の住民たちが通称「スキー場」と呼び、雪が降るとスキーやソリ遊びを楽しんでいた場所だ。だが、山口諭助の画面では水道タンクの手前に、横長の作業小屋や飯場、あるいは学校の校舎のような意匠の建物群は、いまだ未建設なのか描かれていない。すなわち、佐伯祐三が1926年(大正15)ないしは翌1927年(昭和2)つづきの冬に描いた、「下落合風景」シリーズの1作『雪景色』に見える多くの建物群が、1925年(大正14)の時点では建設されていないのがわかる。佐伯の『雪景色』では、画面右手の建物と建物との間に、冠雪してにぶく光る水道タンクが薄っすらと描かれている。
 ここまで読まれた方は、もうお気づきではないだろうか。箱根土地本社国立へと移転する前後、第一文化村水道タンクの東側、急斜面の上部に急遽建設された建物群は、目白文化村で仕掛りの開発や営業などの事業を継続する拠点、同社の作業小屋ないしは「下落合営業所」、作業要員たちの宿泊施設(飯場)などだった可能性が高い。もちろん、下落合における箱根土地の仕事は目白文化村だけでなく、同年に経営破綻に陥る東京土地住宅近衛町アビラ村の一部開発も引き受けており、事業を継続する開発・営業拠点の必要性が高かったと思われる。
 山口諭助の『下落合風景』が、1925年(大正14)の早い時期に描かれている可能性が高いと書いたのは、箱根土地本社が同年12月に国立へ移転するのをはさんで建設されているとみられる、これらの建物群が左手の丘上にまったく見られないからだ。おそらく、箱根土地の施設とみられる建物群は、国立へ本社が移転する前後に次々と建てられているのだろう。そしてもうひとつ、1925年(大正14)の早い時期、あるいは前年の写生ではないかと書いたのは、山口諭助が同作の解説文に1923年(大正12)の関東大震災直後から下落合で見られた情景について、あえて記しているからだ。以前から下落合周辺を写生してまわっており、『下落合風景』の画面を最終的にタブローへ仕上げたのが、1925年(大正14)ということなのではないか。
スキー場1.JPG
スキー場2.JPG
タンク.jpg
 1979年(昭和54)に麓山房から出版された山口諭助『武蔵野回顧絵画集』から、『下落合風景』に添えられたキャプションより引用してみよう。
  
 大正十二年の関東大震災の前後に、目白の文化村に出現した、屋根に赤瓦をのせ、外側を白い漆喰壁と褐色の防腐剤を塗った鎧下見板とで包んで、ガラス戸にカーテンを引いた窓の切ってある、簡易洋風小住宅(当時のいわゆる文化住宅)は、間もなく丘つづきの下落合辺にもポツポツ姿をみせ始めた。/しかし当時の下落合は、まだ住宅もまばらで、畑道のところどころに高い欅や榎の木立が聳え、あちこちに杉林や雑木林が点在した丘や谷の起伏する、東京郊外であった。
  
 「褐色の防腐剤」とは、当時は一般的だった外壁用のクレオソートのことだが、大震災後の下落合での時間的な経過を観察しているようなニュアンスを文面から感じるので、山口諭吉もまた下落合あるいはその周辺域に住んでいた可能性が高いように思う。
 さて、もう一度『下落合風景』の画面を観察してみよう。1925年(大正14)の現在、画面の右手斜面のさらに画面枠外では第四文化村の開発がスタートしていたと思われるが、急斜面へ大谷石で大規模なひな壇状に造成・整地された新たな住宅地は、同作の画角には入っていない。また、それ以前に写生された風景だとすれば、箱根土地本社の南庭である不動園つづきの谷間は、いまだ開発の手があまり加えられておらず、画面に描かれているような「不動園」と同様の、郊外遊園地もどきの風情を漂わせていた可能性もありそうだ。
 湧水源から流れでる谷底の渓流をはさみ、画面右手枠外の丘上には下落合1309番地の落合尋常小学校(のち落合第一尋常小学校)が建っているはずだ。描かれた当時は明治期からの増築を重ねた校舎のままか、新校舎建設のために古い校舎の一部解体が、すでにスタートしていたかもしれない。新校舎および講堂を建設中の同校は、1927年(昭和2)ごろに制作された松下春雄『下落合文化村』で観ることができる。また、画面中央に描かれた2棟の住宅の、さらに右手の遠景に描かれている赤い屋根の住宅地エリアが、第一文化村の敷地東端だとみられる。興味深いのは、手前に描かれた茅葺き屋根を載せたとみられる農家の存在だ。この時期まで、第一文化村に隣接した敷地には、昔ながらの茅葺き農家が残っていたのかもしれない。
 山口諭助の『下落合風景』が面白いのは、同年に水道タンクをモチーフに入れてほぼ同じ場所を松下春雄(『五月野茨を摘む』)が描き、また1926年(大正15)の冬ないしは翌年にかけ佐伯祐三(『雪景色』)が、積雪した画面左手の斜面でソリやスキーに興じる文化村の住民たちを、渓流の対岸斜面から描いている点だろう。いずれの作品も、わずか2年ほどの間の情景だが、関東大震災の直後より東京市街地から郊外への人口流入が急増し、下落合の風景が激変する刹那をとらえた作品たちだ。
前谷戸192705024松下春雄.jpg
水道タンク1935頃.jpg
第四文化村1936.jpg
 ちなみに、落合第一尋常小学校のリニューアルは生徒数の激増に対応したものであり、また山口諭助の『下落合風景』が制作された年は、同小学校では収容しきれなくなった生徒たちに対応するため、上落合745番地に落合第二尋常小学校が竣工(1925年1月)したばかりのころだった。

◆写真上:1925年(大正14)に制作された山口諭助『下落合風景』(油彩/4号F)。
◆写真中上は、1925年(大正14)制作の第一文化村東端と前谷戸の谷間を描いた松下春雄『五月野茨を摘む』。は、第一文化村の水道タンクを市郎兵衛坂側から描いた同年の松下春雄『風景』。は、1926年(大正15)ごろに「スキー場」を描いた佐伯祐三『雪景色』。
◆写真中下は、前谷戸の谷底から「スキー場」斜面を見あげた現状。山手通りの敷設で斜面上部がかなり削られている。は、丘上から同じ急斜面を見下ろした現状。は、第二文化村の水道タンクを描いた佐伯祐三『タンク』。高さは第二文化村のタンクのほうがかなり低いが、上部のタンク形状は第一文化村のものと同一だと思われる。また、画面奥に拡がる敷地一帯は箱根土地の社宅建設敷地の一部で、昭和期に入ると区画割りのうえ販売されている。
◆写真下は、1927年(昭和2)5月24日に松下春雄が不動園から第四文化村のある谷をはさんで撮影した落合第一尋常小学校の校舎および講堂(左)と第一文化村外れの丘上で、「スキー場」は右手の谷間へ下る急斜面。は、1935年(昭和10)ごろに撮影された空中写真(斜めフカン)にみる第一文化村の水道タンク。は、山口諭助と松下春雄、佐伯祐三による各作品の描画・撮影ポイント。
おまけ
 佐伯祐三の『雪景色』(1926~27年の冬)に描きこまれた、谷戸から見あげた降雪でにぶく光を反射する第一文化村の水道タンクとみられるフォルム。これまで、佐伯は東京郊外の開発地や造成地を象徴するような、第一文化村の水道タンクをなぜ描かなかったのかと不思議に思っていたが、『雪景色』を含め未発見の作品にもモチーフに取り入れて描いているのではないか? 下は、戦後まもなく撮影された目白文化村の住宅で、地下水を汲みあげる貯水タンクが見える(AI着色)。
第一文化村水道タンク1926頃.jpg
目白文化村住宅(戦後).jpg

薩長政府「塚丘は総て廃毀せよ」通達はひどい。

阿佐ヶ谷駅北側1936.jpg
 1876年(明治9)10月10日、内務省は各府県から問い合わせのあった旧「一里塚」に関する処置について、「官令達 乙部第百廿号」を作成し東京府を中心に各府県あてに通達している。旧「一里塚」とは、江戸幕府が各街道沿いに設置した古い里標のことだが、この時期に新政府は改めて新「一里塚」の標杭設置を進めている。
 したがって、早めに新「一里塚」標杭が設置された東京地方の近く、関東および中部の近県では、江戸期の旧「一里塚」の扱いをめぐり薩長政府へ「伺」(うかがい=問い合わせ)をする案件が、明治政府の“膝元”である関東地方を中心に多かった。たとえば、「官令達 乙部第百廿号」が下令される直前、旧「一里塚」について問い合わせをしていた関東近県には茨城県、福島県、静岡県、長野県、石川県、愛知県などがある。
 また、江戸幕府が雇用していたフランス人の専門技師たちを、薩長政府は掲げていた政治思想に反して「攘夷」することもなく、そのままなしくずし的にアドバイザーとして横すべりで雇用しつづけ、フランスのメートル法(1885年採用)の施行をめざすことになるため、新「一里塚」の設置は明治初期のみに限られた施策だったろう。こちらでも、日本初の地形図となる1880年(明治13)に作成された、メートル表示の2万分の1「フランス式彩色地図」をご紹介している。そして、旧「一里塚」が設置されていたのは、主要街道沿いの幕府・各藩直轄地(のち官有地)が多かったため、その扱いについて新政府に「伺」(問い合わせ)をする必要が生じたとみられる。
 当初、政府は近隣府県からの「伺」にいちいち回答をしていたようだが、その手間が面倒になったのか1876年(明治10)に、内務省が各府県に残った旧「一里塚」の課題に対して通達している。ところが、この官令の中には旧「一里塚」とは直接なんの関係もない、明治初期まで残っていた古墳の墳丘についての措置まで含まれていた。いい方を換えれば、旧「一里塚」の「伺」にかこつけ、関東およびその周辺地方に明治期まで残っていた大小古墳を、薩長政府が意図的に破壊し消滅させようとしていた様子がうかがえる。
 1876年(明治9)10月10日の内務省官令達・乙部第120号を、そのまま引用しよう。
  
 各街道一里塚ノ儀里程測定標杭建設既済ノ地方ニ限リ古墳旧跡ノ類ヲ其儘一里塚ニ相用或ハ大樹生立往還並木二連接シ又ハ目標等ニ相成自然道路ノ便利ヲナスモノ等ヲ除之外耕地ヲ翳陰スルカ如キ有害無益ノ塚丘ハ總テ廃毀シ最寄人民へ入札ヲ以テ拂下候積相心得近傍形況及反別等明瞭ノ図面相副可伺出此旨相達候事
  
 つまり、新「一里塚」標杭を設置済みの府県に限り、その目標となる古墳・旧跡や大樹、並木など街道の目標物はそのまま残していいが、耕地開拓などの邪魔になる官有地の「有害無益ナ塚丘」はすべて「廃毀」し、地方地域の「人民」(事業者や地主・農民)に売っ払(ぱら)ってしまえ……という官令だった。もちろん、この新「一里塚」標杭は、1885年(明治18)のメートル法採用で意味をなさなくなり、内務省官令達・乙部第120号は関東地方と、その周辺域の近県のみに多大な影響を及ぼしたことになる。
 明治初期から中期にかけ、利根川沿いに築造されていた大小古墳のほとんどすべてを、政府あるいは自治体が廃毀し、その土砂を利根川の本流をはじめ、長大な流域の河川堤防建設に流用してしまったという茨城県の伝承が、がぜんリアリティをもって認識できる内務省の通達だ。もちろん茨城県(旧・水戸藩側の地方)ばかりでなく、関東地方および中部など近県の目立つ大小古墳は、まったく同様の措置がとられただろう。
官令全書内務省御達乙号之部1876.jpg
阿佐ヶ谷駅北側1941.jpg
阿佐ヶ谷北・天沼1936.jpg
阿佐ヶ谷北・天沼1944.jpg
 いまのところ、関東では最大規模の200mをゆうに超え、周濠(周壕)を入れれば300m超とみられる群馬県の太田天神山古墳も、その大半が崩されて畑地にされていた。崩され破壊されなかったのは、開拓の手が及ばなかったエリア(発見されにくい山中など)の古墳か、なんらかの根強い禁忌やタブー伝説が付随する古墳、あるいは江戸東京のケースだと大名庭園の築山や、寺社の境内や墓域に取りこまれていた古墳富士講による「〇〇富士」にされて残った古墳、公園や庭園の見晴らし台として残された古墳などがほとんどだ。
 だが、20世紀末から考古学が科学技術と連動するようになると、関東では特に明治期から内務省の官令や開発の手が及ばなかった(あえて無視するか逆らった)、千葉県や群馬県、埼玉県など関東各県では次々と大小古墳群が発見され、薩長政府が躍起になって消滅させようとしていた関東の古代史(古墳時代)にもかかわらず、特に千葉県と群馬県は全国でトップクラスの古墳域であることが判明している。特に千葉県は、同じ利根川沿いに展開する数多くの古墳群が健在であり、対岸の茨城県側とは対照的な現状となった。
 この内務省官令により、関東に築造された膨大な大小古墳が破壊され、「関東地方には大型古墳がない坂東夷の豪族レベルが跋扈していた未開地」という、マッチポンプ式の結果論的な皇国史観=薩長政府による「日本史」のイメージづくりが進められたのは、中国・朝鮮半島の儒教思想とその男権思想をわが国へ無理やり根づかせようと、関東の社(やしろ)から巫女(女性神主)を無理やり追放した1873年(明治6)の巫女禁断法令と同一線上にある、古代から連綿とつづいた日本文化つぶしの意図的な策謀だったろう。
 さらに、「日本史」(おもに古代史)を捏造するだけでなく、薩長政府は日本の神々にあろうことか序列(位階)づけを行い、皇国史観に都合の悪い日本の神々の抹殺・廃棄=「日本の神殺し」や、各地の社に奉られた主柱(神々)の入れ替えまで(バチ当たりなことに)やってのけている。これらのテーマへ接するたびに、文化人類学レベルにまで根ざす「“日本”とはなにか?」「オリジナルな“日本文化”とはなにか?」、そして「“ナショナリズム”とはなにか?」を深く考えさせられてしまうのだ。薩長政府は、中国や朝鮮半島など外国の思想や教義を借りて、原日本色が色濃い東日本になにを植えつけようとしていたのだろうか?
 さて、わたしは相変わらず戦前戦後の空中写真や地形図、各地の伝承などをたよりに、東京近郊に展開していたとみられる大型古墳の痕跡探し、いわば「古墳探しの東京散策」をつづけているが、今回は阿佐ヶ谷と大泉学園のふたつの事例を駆け足でご紹介したい。また、友人から最近いただいた1922年(大正11)作成の、東京近郊の地形を精細に記録した3,000分の1地形図は、古墳痕の探索にはもってこいの地図なのが判明したのでとても嬉しい。
 まず、阿佐ヶ谷のケースは、ずいぶん以前から戦前の空中写真を参照するたびに、阿佐ヶ谷駅の北側に並んで残る、いかにも古墳然とした形跡が気になっていた。ひとつは、阿佐ヶ谷駅の北口からすぐのところにある阿佐ヶ谷神明社から世尊院、そして同寺社の南側にあたる大地主が屋敷をかまえていた一帯のかたちだ。古墳が寺社の境内にされている事例は、全国的に無数に存在しているが、ことに後円部らしい屋敷林が色濃く残っていた大地主屋敷(一部は現・杉並第一小学校)のあたりが気になっていた。
 同地の地形は、北側および東側には田圃が拡がり湧水流(灌漑用水)が流れる広めの谷間が口を開け、前方部(阿佐ヶ谷神明社や世尊院)が北北西を向く小高い丘上に位置している。全長は墳丘とみられるかたちだけで300mをゆうに超える鍵穴型のフォルムだが、大正期からの宅地開発が進むまで、なんとかその形状が残されていたとみられる。実際に現地を歩いてみると、大地主の屋敷は解体工事中でマンションでも建設されるのか、もはや地面が平坦にならされたあとであり、また阿佐ヶ谷神明社や世尊院のあたりも、ほとんど墳丘の残滓と呼べるほどの地面の“ふくらみ”を確認することができなかった。おそらく、かなり早い時期に墳丘は崩されているとみられる。
阿佐ヶ谷1.JPG
阿佐ヶ谷2.JPG
阿佐ヶ谷3.JPG
阿佐ヶ谷4.JPG
 阿佐ヶ谷駅北口のフォルムとは対照的に、やはり前方部を北北西に向けたもうひとつの鍵穴型の痕跡は、後円部とみられる位置の中心部に、羨道や玄室に使われていたとみられる大きな房州石が、個人宅(元・地主宅か?)の庭石にされて残っていた。阿佐ヶ谷北2丁目から天沼1丁目にかかる大きなフォルムで、こちらは200m超のサイズだろうか。戦前の空中写真を参照すると、大型の前方後円墳が前方部を北北西に向け、高円寺駅北口のフォルムとあわせ、中央線の北側にふたつ並んで築造されているように見える。また、後円部の墳丘はそのまま土砂を外周へ均すように拡げて宅地開発が行なわれたのだろう、1944年(昭和19)の空中写真では家々がその道筋とともに、円の中心から外周へと向くように建てられている様子が確認できる。
 実際に現地を歩いてみると、前方部(谷間に向いた北北西側)に地面の急激な盛り上がりを一部確認することができた。けれども、後円部は完全に整地(おそらく1940年ごろの宅地開発)がゆきとどいており、正円形を物語る道筋や住宅敷地は残っているものの、地面の突起や“ふくらみ”は確認できなかった。ただし、後円部の中心にあたる住宅地には、大きな房州石が6個ほど庭石として残されているのを確認できたのは先述のとおりだ。
 もうひとつ、練馬区にある大泉学園駅の北側、白子川をはさんだ小泉牧場の北にある丘上に、前方部を東へ向けた前方後円墳の残滓らしい地面(畑地)のフォルムを見つけていた。阿佐ヶ谷に残る痕跡に比べ、こちらは200m弱ほどとやや小さめだが、ところどころに畑地(もちろん練馬ダイコンが中心)が残るエリアだけに、そしてあからさまなフォルムが残っていた練馬地域だけに、大いに期待して散策に出かけた。
 結果からいうと、こちらは前方部が道路や住宅敷地の境界にかたちを残しており、地面の傾斜や“ふくらみ”も一部で視認できた。また、後円部には畑地が残り東南北いずれの方角にも、薄っすらとした盛りあがりを確認することができた。すべてが区画整理で宅地化され、整然とした住宅街として整地されていたら、おそらく残らなかった地面の“ふくらみ”だろう。この古墳跡とみられるフォルムは、白子川が流れる谷間から南側一帯を眺望できる丘の、ちょうど南斜面ギリギリの淵ところに築造されており、古代には白子川流域の集落を見下ろすには格好の位置だったと思われる。
大泉1947.jpg
大泉1941.jpg
大泉1.JPG
大泉2.JPG
 最後に余談だが、丘下へともどる途中で大泉村役場跡(現・大泉中島公園)に寄ったのだが、そこで「石舞台」と刻まれた巨大な石が設置されているのに驚いた。石舞台といえば、奈良の明日香村にある玄室が露出した石舞台古墳(方墳/蘇我馬子の墳墓とされているが不明)をすぐに想起するので、これは丘上から玄室の石材を下ろして村役場の敷地に設置したのか?……と一瞬疑ったが、実は現代彫刻家が制作したオブジェで、神奈川県の真鶴から21tの小松石を運んで刻み「石舞台」と名づけたらしい。それにしても、前方後円墳の痕跡が残る直下に「石舞台」のオブジェとは出来すぎで、制作者は知ってか知らずか面白い偶然があるものだ。

◆写真上:1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる、阿佐ヶ谷駅(手前右手)の北側。
◆写真中上は、1876年(明治9)10月10日に発令された「達 乙部第百廿号」(『官令全書』1876年より)。中上は、1941年(昭和16)の空中写真にみる阿佐ヶ谷駅北側の様子。中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる阿佐ヶ谷北から天沼にかけてのフォルム。は、1944年(昭和19)の空中写真にみる同フォルムの後円部。森が残る円の中心部あたりに、6個の房州石とみられる大石の残るのが今回の散策で確認できた。
◆写真中下は、阿佐ヶ谷駅北口に近いフォルムの大地主の屋敷があったあたりで建設工事中の現状。中上は、阿佐谷北2丁目と天沼1丁目にまたがるフォルムの後円部から北側の前方部へとカーブを描く道筋。中下は、同フォルムの前方部の北端あたりでいまだ地面の“ふくらみ”が確認できる。は、同フォルムの後円部にあたる中心部に残されていた羨道や玄室の石材に使われた房州石とみられる大石の一部。
◆写真下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる大泉学園の白子川北岸に見えるフォルム。中上は、より古い1936年(昭和11)の空中写真にとらえられた同フォルム。中下は、後円部の東側あたりでやや地面が盛りあがっているのが確認できる。は、帰りぎわに立ち寄った大泉村役場跡(現・大泉中島公園)で見つけてビックリした「石舞台」のオブジェ作品。
おまけ
 もちろん小泉牧場にも立ち寄り、キャップにホルスタインのイラストをあしらった搾りたての「CRAFT MILK’S MILK」(200ml)を手に入れた。この牛乳からは、生クリームもバターも生成できる成分無調整(ノンホモジナイズ製法)の製品で濃厚な風味だ。東京23区で唯一「東京牧場」として残る小泉牧場だが、近々、以前と同様に各種アイスクリームの販売を再開するとうかがったが、ヨーグルトなどの製造も予定しているそうだ。
CRAFTMILK1.jpg CRAFTMILK2.jpg
小泉牧場牛.jpg

大正期の「名探偵になるまで」のノウハウ本。

ホームズ自宅兼事務所.jpg
 大正末から昭和初期にかけ、ベストセラーの実用書に中目黒にあった出版社・章華舎から刊行されていた、「なるまで叢書」シリーズというのがあった。「なるまで」は、そのまま「〇〇になるまで」という、とある職業の「〇〇」になるための方法論やノウハウを記した内容で、「〇〇」は当時のあこがれで人気があった職業名があてられている。1926年(大正15)現在で、すでに50編の叢書が出版されている。
 たとえば、叢書シリーズには『野球選手になるまで』『博士になるまで』『新聞記者になるまで』『囲碁初段になるまで』『将棋初段になるまで』など、それをめざす人なら明日から参考になりそうな実用書もあるけれど、『美人になるまで』『スタアになるまで』『大臣になるまで』など、本人の努力のみではなかなか困難な職業もあったりする。ちなみに、「美人」になるには多彩な勉強や訓練が必要なようだが、もって生まれた容姿はなかなか変化しないので、「美人に(見えるように)なるまで」という、かなり個人差のありそうな主観的な評価のことらしい。
 「なるまで叢書」シリーズの中より、今回は第3編『名探偵になるまで』について少し内容をご紹介してみよう。まず、「名探偵」と呼ばれる職業には警察官(刑事)と私立探偵とがあるが、私立探偵の場合は男女を問わずに就ける職業だと規定している。日本における私立探偵事務所の設立は、1909年(明治42)に岩井三郎が設立した探偵社が嚆矢とされているが、探偵事務所は元手(資本)がほとんど不要なため、関東大震災の直後から東京府内では急増した職業のひとつだ。当時の推理小説ブームと相まって、大正末の警視庁による調査では100社を軽く超えていたという。
 大正時代の大手探偵事務所としては、衆議院(現・千代田区霞が関)に近接した「明審社」と、牛込原町(現・新宿区原町)の「東京探偵社」が広く知られていた。大正後期の探偵事務所には、すでに10人以上の女性探偵がいたと記録されている。当時の探偵仕事は、人物の素行調査や信用調査、結婚の身許調査、弁護士事務所からの証拠調査、家出人(行方不明者)の捜索、不動産の価格調査などがメインだが、今日ではストレートな個人情報漏洩となるので出版されなくなった、各分野の興信録(紳士録)の編集も手がけていた。
 特に身許調査や信用調査などでは、女性探偵が調査にあたると証人もつい気を許して詳細を話してくれたり、素行調査の尾行などでは女性探偵のほうが気づかれにくいという大きなメリットがあった。探偵社に就職すると、まずは試用期間に男女を問わず尾行のテストを数ヶ月間させられたようで、これがうまく達成できないと「キミは探偵に向かないよ」といわれ、正社員には採用してもらえなかったようだ。
 おもしろいエピソードも紹介されていて、とある独身サラリーマンが毎朝電車でいっしょになる美しい女性が気になり、丸ノ内の丸ビルに入る彼女を目撃して、「勤め先を知りたい!」という依頼が探偵事務所にあった。さっそく、新人の中でも優秀な青年探偵が、彼女を待ちぶせして尾行をはじめたのだが、彼女はなぜか丸ビルの1階からエレベーターには乗らず、丸ビルを小走りで通りぬけ隣りの郵船ビルに入ると階段を一気に駆けあがりはじめた。探偵が急いであとを追うが、途中で清掃夫が彼の前に立ちはだかり、その場でボコボコに殴られてしまった。
 彼女は丸ビルに入ると同時に、1階に連なる店舗の鏡面のようになったショウウィンドウに映る、自分を執拗に尾行してくる怪しい男にすでに気づいており、変質者か変態ストーカーだと判断した彼女は(おそらく過去にもそのような事例を経験をしていたのだろう)、すぐに隣りの郵船ビルに逃げこんで清掃夫らに助けを求めたのだった。丸ノ内のOGに尾行をたやすく見破られ、階段でボコボコにされたこの新人で優秀な青年探偵が、その後も事務所で雇用しつづけてもらえたかどうかはさだかでない。同書では男性探偵よりも、むしろ女性探偵のほうが有望であるとしている。
なるまで叢書シリーズ.jpg
なるまで叢書3名探偵になるまで1926.jpg なるまで叢書3奥付.jpg
 第3編『名探偵になるまで』から、女性探偵について少し引用してみよう。
  
 女探偵は或る場合には男よりも便利であると云はれてゐる。即ち、女の身許を調べるとか、女の家出人を捜すとかいふ場合は女同志(ママ:同士)の方が警戒されず、自然成績も挙るし(ママ)、家出人を匿つた家へ行く場合なども、家族は多く女であるから女同志(ママ)の方が懇意になつて事実を引出すにも便利であり、或る場合は子供を連れて訪問すると、非常に都合がいゝといふ。適任者さへあれば女探偵の仕事は無限にあると云つて差支へない。/一体人間には誰しも探偵的興味のあるものであり、殊に女には男より多いと云はれてゐる位であるし、女は直覚の点では男以上であるから、或る意味に於ては男よりも適任であるかも知れない。日本にも軈(やが)ては女の名探偵が現はれるであらう。(カッコ内引用者註)
  
 著者が、なぜ女性探偵を強く推奨しているのかといえば、実際の探偵業務には小説や映画などにあるようなバイオレンスも、心おどらせるサスペンスも、おどろおどろしいスリリングな場面もほとんどなく、非常に地味で定型的で根気と熱意が必要な仕事だと、あらかじめ同書のはじめで断っているからだ。探偵小説に登場するような、殺人や誘拐、監禁、強盗、傷害などの派手な事件は警視庁の探偵(刑事)の仕事であり、民間の私立探偵が関与できる余地などほとんどないと書いている。ホームズ明智小五郎が活躍する小説を読み、私立探偵にあこがれてなろうとすると、まったく異なる世界であることを読者に納得させたかったのだろう。
 また、元・刑事や警察官も、民間の私立探偵社には「適しない」と書いている。彼らはすぐに「威嚇」をして横柄な態度をとるからで、依頼案件に対する協力者を減らす主因になっていたらしい。「民間探偵として成功するには、最初から民間探偵で行くに限る」とし、男性なら20歳、女性なら18歳ぐらいから修業するのか最適だとしている。
 ちなみに、大正末の私立探偵社の給与は、新人探偵が40円/月ぐらいでベテラン探偵が100円/月ぐらい支給されていたようなので、それほど悪い条件ではなかっただろう。また、依頼者の事案ごとに多少の成功報酬ももらえたようで、経済的に困るような職業ではないとしている。大卒の国家公務員の初任給が50円だった時代であり、ベテランの女性探偵にとってはいい稼ぎになったのではないだろうか。ただし、勤務時間の拘束がないのは警察官といっしょで、依頼があればいつでもどこでも即座に出動しなければならなかった。
 さて、昔の事蹟を調べていると、そんな私立探偵社が足で調べた詳細な資料にぶつかることが多々ある。落合地域について資料を漁っていると、何度となくいきあたるのが「土地評価」のレポート、すなわち不動産価格の現地調査報告書だ。〇〇興信所とか〇〇探偵社が、当該地域の地元不動産屋(周旋屋)や住民(地主など)たちを取材して情報を集めた、おもに地価と周囲の地域環境を記録したレポートだ。落合地域でも、何度となく類似の評価レポートがつくられ、企業や店舗、不動産業者、土地投機家などに活用されていたのだろう。
S.ホームズ.jpg
明智小五郎.jpg
金田一耕助.jpg
 日本橋区坂元町にあった東京興信所が、近衛町目白文化村の販売を開始する1922年(大正11)の3月現在で調べた、「豊多摩郡落合村土地概評価」という報告書が残っている。同報告書では、落合村を上落合・下落合・葛ヶ谷(のち西落合)の大字に分けた章立てで、それぞれの環境と字名ごとの地価を調査しているが、これを参照しながら企業は工場立地などの進出先を、店舗なら開業立地の条件を、不動産業なら開発の可能性を探る検討材料にしていたのだろう。
 その中に、地元不動産屋や住民(地主)たちに取材したとみられる、興味深い記述が残っているのでご紹介したい。それは、同レポートに書かれた落合村の地勢記録だ。
  
 神田上水以北、不動谷以東の高台。此の区域は当村の東部三分の一を占め西郊より目白台を経て東京市と通ずる要路筋に当り目白(東端より約一丁)高田馬場(大島邸附近即ち俗称七曲りより約四丁)の両駅の便あり 最も古くより而して最も発展せる地域にして高台の南部は幾多の窪地を挟みて突出し何れも南面して見晴しを有し(場所によりては西及び東の眺望を兼有す) 優れたる邸宅地となり 此処に相馬邸、近衛邸(字丸山) 大島邸、徳川邸(字本村) 谷邸、川村邸(字不動谷)等あり、北部にも字新田の舟橋邸、中原の浅川邸等あり
  
 下落合の東部を解説している文章だが、明らかに「不動谷」青柳ヶ原の西側にある谷(西ノ谷)として境界設定し、その東側に拡がる地勢を紹介している。興信所の調査員は、必ず現地を訪れて取材調査しているはずで、この地理に関する認識は地元住民たちの共通認識でもあったとみられる。徳川邸谷邸川村邸は不動谷の出口、現在の聖母坂下の近辺にあった邸であり、また浅川邸は曾宮一念アトリエの東隣り、佐伯祐三「浅川ヘイ」を描いた大屋敷だ。
 この時期、箱根土地の堤康次郎郊外遊園地として設置し、ほどなく目白文化村の開発で消滅し同社の庭園名となった「不動園」の名称が、落合地域に浸透していたとは思えず、また江戸期には中井御霊社にあった中井不動尊は、開発の協業地主である小野田家の屋敷内にあった時代であり、前谷戸のことを「不動谷」と呼ぶ住民は当の開発関係者を除き、ほとんどいなかったのではないか。「不動谷は、どうして西へいっちゃったんでしょうね?」という、下落合東部の古老たちがつぶやかれていた疑問は、上記「落合村土地概評価」の調査に応じた地元の不動産業者や住民(地主)たち、そして取材した当時の調査員(探偵)とも共通する疑問だったのではないか。
佐藤みどり探偵局1955.jpg
落合村土地概評価1922.jpg 落合村土地概評価奥付.jpg
 ちなみに、当時の落合地域でもっとも価格の高い土地は、目白通り(旧・清戸道)で南北に分断された、下落合東部にあたる(字)新田の商業地で60円/坪、そのすぐ西側で江戸期から「椎名町」と呼ばれていた目白通り沿いの(字)中原の同じく商業地が50円/坪、目白駅に近く東京土地住宅の常務・三宅勘一近衛町を開発中の(字)丸山が50円/坪、次いで七曲坂をはさみ丸山の西側で鎌倉時代から村落があったとみられる、鎌倉支道が通う(字)本村が45円/坪という評価順だった。

◆写真上:ロンドンで再現された、シャーロック・ホームズの事務所兼自宅アパート。
◆写真中上は、大正期に章華舎から出版された「なるまで叢書」の一部。は、同シリーズ第3編『名探偵になるまで』の表紙()とその奥付()。
◆写真中下:現実の探偵業務には、こんなワクワクするスリリングな場面はほとんどないし()、そんなドキドキして鼻血が出そうになるエロい美女たちにも出逢えないし()、ましてや、あんなオドロオドロしい恐怖の事件現場にも残念ながら遭遇できない()、ひどく地味で根気のいる仕事だ。このような幻想を否定するのも、同書が書かれた趣意のひとつだろうか。上からシャーロック・ホームズ、明智小五郎、金田一耕助の事件現場シーン。
◆写真下は、1955年(昭和30)に撮影された戦後もっとも有名になった女性探偵の佐藤みどり。戦後、探偵だった父親の仕事をそのまま引き継ぎ日本橋で「佐藤みどり探偵局」を開業しており、事務所で依頼者にわたす調査報告書を作成中のスナップ。は、1922年(大正11)に刊行された東京興信所による「豊多摩郡落合村土地概評価」の調査報告書()とその奥付()。