大正期の「名探偵になるまで」のノウハウ本。

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 大正末から昭和初期にかけ、ベストセラーの実用書に中目黒にあった出版社・章華舎から刊行されていた、「なるまで叢書」シリーズというのがあった。「なるまで」は、そのまま「〇〇になるまで」という、とある職業の「〇〇」になるための方法論やノウハウを記した内容で、「〇〇」は当時のあこがれで人気があった職業名があてられている。1926年(大正15)現在で、すでに50編の叢書が出版されている。
 たとえば、叢書シリーズには『野球選手になるまで』『博士になるまで』『新聞記者になるまで』『囲碁初段になるまで』『将棋初段になるまで』など、それをめざす人なら明日から参考になりそうな実用書もあるけれど、『美人になるまで』『スタアになるまで』『大臣になるまで』など、本人の努力のみではなかなか困難な職業もあったりする。ちなみに、「美人」になるには多彩な勉強や訓練が必要なようだが、もって生まれた容姿はなかなか変化しないので、「美人に(見えるように)なるまで」という、かなり個人差のありそうな主観的な評価のことらしい。
 「なるまで叢書」シリーズの中より、今回は第3編『名探偵になるまで』について少し内容をご紹介してみよう。まず、「名探偵」と呼ばれる職業には警察官(刑事)と私立探偵とがあるが、私立探偵の場合は男女を問わずに就ける職業だと規定している。日本における私立探偵事務所の設立は、1909年(明治42)に岩井三郎が設立した探偵社が嚆矢とされているが、探偵事務所は元手(資本)がほとんど不要なため、関東大震災の直後から東京府内では急増した職業のひとつだ。当時の推理小説ブームと相まって、大正末の警視庁による調査では100社を軽く超えていたという。
 大正時代の大手探偵事務所としては、衆議院(現・千代田区霞が関)に近接した「明審社」と、牛込原町(現・新宿区原町)の「東京探偵社」が広く知られていた。大正後期の探偵事務所には、すでに10人以上の女性探偵がいたと記録されている。当時の探偵仕事は、人物の素行調査や信用調査、結婚の身許調査、弁護士事務所からの証拠調査、家出人(行方不明者)の捜索、不動産の価格調査などがメインだが、今日ではストレートな個人情報漏洩となるので出版されなくなった、各分野の興信録(紳士録)の編集も手がけていた。
 特に身許調査や信用調査などでは、女性探偵が調査にあたると証人もつい気を許して詳細を話してくれたり、素行調査の尾行などでは女性探偵のほうが気づかれにくいという大きなメリットがあった。探偵社に就職すると、まずは試用期間に男女を問わず尾行のテストを数ヶ月間させられたようで、これがうまく達成できないと「キミは探偵に向かないよ」といわれ、正社員には採用してもらえなかったようだ。
 おもしろいエピソードも紹介されていて、とある独身サラリーマンが毎朝電車でいっしょになる美しい女性が気になり、丸ノ内の丸ビルに入る彼女を目撃して、「勤め先を知りたい!」という依頼が探偵事務所にあった。さっそく、新人の中でも優秀な青年探偵が、彼女を待ちぶせして尾行をはじめたのだが、彼女はなぜか丸ビルの1階からエレベーターには乗らず、丸ビルを小走りで通りぬけ隣りの郵船ビルに入ると階段を一気に駆けあがりはじめた。探偵が急いであとを追うが、途中で清掃夫が彼の前に立ちはだかり、その場でボコボコに殴られてしまった。
 彼女は丸ビルに入ると同時に、1階に連なる店舗の鏡面のようになったショウウィンドウに映る、自分を執拗に尾行してくる怪しい男にすでに気づいており、変質者か変態ストーカーだと判断した彼女は(おそらく過去にもそのような事例を経験をしていたのだろう)、すぐに隣りの郵船ビルに逃げこんで清掃夫らに助けを求めたのだった。丸ノ内のOGに尾行をたやすく見破られ、階段でボコボコにされたこの新人で優秀な青年探偵が、その後も事務所で雇用しつづけてもらえたかどうかはさだかでない。同書では男性探偵よりも、むしろ女性探偵のほうが有望であるとしている。
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 第3編『名探偵になるまで』から、女性探偵について少し引用してみよう。
  
 女探偵は或る場合には男よりも便利であると云はれてゐる。即ち、女の身許を調べるとか、女の家出人を捜すとかいふ場合は女同志(ママ:同士)の方が警戒されず、自然成績も挙るし(ママ)、家出人を匿つた家へ行く場合なども、家族は多く女であるから女同志(ママ)の方が懇意になつて事実を引出すにも便利であり、或る場合は子供を連れて訪問すると、非常に都合がいゝといふ。適任者さへあれば女探偵の仕事は無限にあると云つて差支へない。/一体人間には誰しも探偵的興味のあるものであり、殊に女には男より多いと云はれてゐる位であるし、女は直覚の点では男以上であるから、或る意味に於ては男よりも適任であるかも知れない。日本にも軈(やが)ては女の名探偵が現はれるであらう。(カッコ内引用者註)
  
 著者が、なぜ女性探偵を強く推奨しているのかといえば、実際の探偵業務には小説や映画などにあるようなバイオレンスも、心おどらせるサスペンスも、おどろおどろしいスリリングな場面もほとんどなく、非常に地味で定型的で根気と熱意が必要な仕事だと、あらかじめ同書のはじめで断っているからだ。探偵小説に登場するような、殺人や誘拐、監禁、強盗、傷害などの派手な事件は警視庁の探偵(刑事)の仕事であり、民間の私立探偵が関与できる余地などほとんどないと書いている。ホームズ明智小五郎が活躍する小説を読み、私立探偵にあこがれてなろうとすると、まったく異なる世界であることを読者に納得させたかったのだろう。
 また、元・刑事や警察官も、民間の私立探偵社には「適しない」と書いている。彼らはすぐに「威嚇」をして横柄な態度をとるからで、依頼案件に対する協力者を減らす主因になっていたらしい。「民間探偵として成功するには、最初から民間探偵で行くに限る」とし、男性なら20歳、女性なら18歳ぐらいから修業するのか最適だとしている。
 ちなみに、大正末の私立探偵社の給与は、新人探偵が40円/月ぐらいでベテラン探偵が100円/月ぐらい支給されていたようなので、それほど悪い条件ではなかっただろう。また、依頼者の事案ごとに多少の成功報酬ももらえたようで、経済的に困るような職業ではないとしている。大卒の国家公務員の初任給が50円だった時代であり、ベテランの女性探偵にとってはいい稼ぎになったのではないだろうか。ただし、勤務時間の拘束がないのは警察官といっしょで、依頼があればいつでもどこでも即座に出動しなければならなかった。
 さて、昔の事蹟を調べていると、そんな私立探偵社が足で調べた詳細な資料にぶつかることが多々ある。落合地域について資料を漁っていると、何度となくいきあたるのが「土地評価」のレポート、すなわち不動産価格の現地調査報告書だ。〇〇興信所とか〇〇探偵社が、当該地域の地元不動産屋(周旋屋)や住民(地主など)たちを取材して情報を集めた、おもに地価と周囲の地域環境を記録したレポートだ。落合地域でも、何度となく類似の評価レポートがつくられ、企業や店舗、不動産業者、土地投機家などに活用されていたのだろう。
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 日本橋区坂元町にあった東京興信所が、近衛町目白文化村の販売を開始する1922年(大正11)の3月現在で調べた、「豊多摩郡落合村土地概評価」という報告書が残っている。同報告書では、落合村を上落合・下落合・葛ヶ谷(のち西落合)の大字に分けた章立てで、それぞれの環境と字名ごとの地価を調査しているが、これを参照しながら企業は工場立地などの進出先を、店舗なら開業立地の条件を、不動産業なら開発の可能性を探る検討材料にしていたのだろう。
 その中に、地元不動産屋や住民(地主)たちに取材したとみられる、興味深い記述が残っているのでご紹介したい。それは、同レポートに書かれた落合村の地勢記録だ。
  
 神田上水以北、不動谷以東の高台。此の区域は当村の東部三分の一を占め西郊より目白台を経て東京市と通ずる要路筋に当り目白(東端より約一丁)高田馬場(大島邸附近即ち俗称七曲りより約四丁)の両駅の便あり 最も古くより而して最も発展せる地域にして高台の南部は幾多の窪地を挟みて突出し何れも南面して見晴しを有し(場所によりては西及び東の眺望を兼有す) 優れたる邸宅地となり 此処に相馬邸、近衛邸(字丸山) 大島邸、徳川邸(字本村) 谷邸、川村邸(字不動谷)等あり、北部にも字新田の舟橋邸、中原の浅川邸等あり
  
 下落合の東部を解説している文章だが、明らかに「不動谷」青柳ヶ原の西側にある谷(西ノ谷)として境界設定し、その東側に拡がる地勢を紹介している。興信所の調査員は、必ず現地を訪れて取材調査しているはずで、この地理に関する認識は地元住民たちの共通認識でもあったとみられる。徳川邸谷邸川村邸は不動谷の出口、現在の聖母坂下の近辺にあった邸であり、また浅川邸は曾宮一念アトリエの東隣り、佐伯祐三「浅川ヘイ」を描いた大屋敷だ。
 この時期、箱根土地の堤康次郎郊外遊園地として設置し、ほどなく目白文化村の開発で消滅し同社の庭園名となった「不動園」の名称が、落合地域に浸透していたとは思えず、また江戸期には中井御霊社にあった中井不動尊は、開発の協業地主である小野田家の屋敷内にあった時代であり、前谷戸のことを「不動谷」と呼ぶ住民は当の開発関係者を除き、ほとんどいなかったのではないか。「不動谷は、どうして西へいっちゃったんでしょうね?」という、下落合東部の古老たちがつぶやかれていた疑問は、上記「落合村土地概評価」の調査に応じた地元の不動産業者や住民(地主)たち、そして取材した当時の調査員(探偵)とも共通する疑問だったのではないか。
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 ちなみに、当時の落合地域でもっとも価格の高い土地は、目白通り(旧・清戸道)で南北に分断された、下落合東部にあたる(字)新田の商業地で60円/坪、そのすぐ西側で江戸期から「椎名町」と呼ばれていた目白通り沿いの(字)中原の同じく商業地が50円/坪、目白駅に近く東京土地住宅の常務・三宅勘一近衛町を開発中の(字)丸山が50円/坪、次いで七曲坂をはさみ丸山の西側で鎌倉時代から村落があったとみられる、鎌倉支道が通う(字)本村が45円/坪という評価順だった。

◆写真上:ロンドンで再現された、シャーロック・ホームズの事務所兼自宅アパート。
◆写真中上は、大正期に章華舎から出版された「なるまで叢書」の一部。は、同シリーズ第3編『名探偵になるまで』の表紙()とその奥付()。
◆写真中下:現実の探偵業務には、こんなワクワクするスリリングな場面はほとんどないし()、そんなドキドキして鼻血が出そうになるエロい美女たちにも出逢えないし()、ましてや、あんなオドロオドロしい恐怖の事件現場にも残念ながら遭遇できない()、ひどく地味で根気のいる仕事だ。このような幻想を否定するのも、同書が書かれた趣意のひとつだろうか。上からシャーロック・ホームズ、明智小五郎、金田一耕助の事件現場シーン。
◆写真下は、1955年(昭和30)に撮影された戦後もっとも有名になった女性探偵の佐藤みどり。戦後、探偵だった父親の仕事をそのまま引き継ぎ日本橋で「佐藤みどり探偵局」を開業しており、事務所で依頼者にわたす調査報告書を作成中のスナップ。は、1922年(大正11)に刊行された東京興信所による「豊多摩郡落合村土地概評価」の調査報告書()とその奥付()。

馬ばかり作って有名になった彫刻家・三井高義。

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 下落合を舞台にしたドラマ『さよなら・今日は』(1973~1974年)で、彫刻家のアトリエを改造し喫茶店「鉄の馬」を開業していたシーンを、期せずして思いだしてしまった。カレーを食べながら、大阪からやってきた緒形拳が「しかし、ここはなんで、こう馬ばっかりあるんやろな?」と訊くと、カウンターで仕事をしていた大原麗子が「でも面白いわよね、馬ばっかり彫って有名になった(彫刻家)なんて」と答えるドラマの初回(1973年10月6日)、以下のシーンだ。
 その「馬」の作品ばかり作って有名になった彫刻家が、実際に下落合でアトリエをかまえていた。下落合1丁目414番地(現・下落合2丁目)、当時の近衛町1号の敷地に住んでいたのは三井高義だ。まさかと思ったけれど、ほんとうに下落合で暮らしており、しかも戦前から戦後にかけ一貫して同住所を動かずににアトリエをかまえていた。同敷地には、近衛町の開発とほぼ同時に、彫刻家で島津マネキンの開発者としても有名な島津良蔵が住んでいたので、ふたりとも東京美術学校の出身であり、ひょっとすると同業のよしみから京都へもどる島津良蔵が、そのまま三井高義へ住宅やアトリエごと譲っているのかもしれない。
 島津良蔵は、1932年(昭和7)まで近衛町の同番地にいたことが、東京美術学校の卒業生名簿で確認できるが、翌1933年(昭和8)の同校名簿には京都市中京区東洞院御池上ルに転居しており、このころにアトリエの住人が三井高義へと交代しているのだろう。島津良蔵は、1926年(大正15)3月に東京美術学校塑造部を卒業しているが、三井高義も1930年(昭和5)3月に同校のやはり塑造部を卒業しているので、学年は島津が三井の5年先輩ということになる。
 ただ、馬ばかり作って有名になった彫刻家の「吉良アトリエ」は、大正期から画家たちが集合して住んでいた薬王院の北西側にあたる、下落合2丁目801番地だと浅丘ルリ子が劇中で証言しているし、同家の居間からは落合第四小学校のチャイムが近くに聞こえ、また出勤する家族たちは相馬坂を下って高田馬場駅まで歩いているので、ドラマの制作者たちは下落合(現・中落合/中井含む)東部のどこか……ということで設定したかったのだろう。w
 三井高義は、1903年(明治36)に東京市の麹町で生まれているが、1987年(昭和62)まで健在だったので、当然ドラマの放映当時は68歳と、いまだ旺盛に作品を制作していた時期にあたる。ひょっとすると、NTV開局20周年記念の同ドラマで小道具として使われた数多くの馬彫刻は、すべて三井高義が協力して提供したものであり、「吉良家」の大きなアトリエつき西洋館は、近衛町の三井アトリエがモデルになっているのかもしれない。NTVの経営陣あるいはドラマのプロデューサーに、三井高義と親しい人物でもいたものだろうか。
 ただし、三井アトリエは1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲で焼けているので、それ以前に建てられた西洋館は戦後まで残っていなかったはずだ。したがって、アトリエ付きの大正建築が舞台だった「吉良邸」とは設定が一致していない。また、島津良蔵の住宅兼アトリエを受け継いだと思われる三井高義は、1936~1938年(昭和11~13)の間に自邸を大幅に増築するか、ないしは建て替えをしている。1936年(昭和11)の空中写真に写る同邸と、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同邸とは、形状がまったく異なっているからだ。
 大正期に近衛町へ建設され、島津良蔵アトリエから三井高義アトリエに引き継がれた、屋敷林に囲まれ門から奥まった位置にある西洋館、あるいは1936年(昭和11)すぎにかなり大きな屋敷へと建て替えられているとみられ、空襲で焼失してしまう戦前の三井アトリエの写真をともに探したが、残念ながら見つけることはできなかった。
 三井高義は、三井財閥における一本松家の裕福な当主なので、他の芸術家たちとは異なり、生涯にわたり生活の心配はなかったと思われる。1930年(昭和5)に東京美術学校を卒業すると、さまざまなものをモチーフに作品を制作しはじめるが、ほどなく多種多様な種類の馬をモチーフにした彫刻づくりに傾倒していく。1987年(昭和62)に立風書房から出版された佐藤朝泰『門閥』より、簡単な紹介文を引用してみよう。
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 一本松家の現当主は三井高義。明治三十六年十月生まれ・昭和五年美校を卒業。馬の彫刻では右に出るものがいないという異色の三井一族。幻の名馬「トキノミノル号」「五冠馬シンザン号」の記念像の製作者としても知られている。
  
 競馬好きの方なら、一度は耳にしたことのある名馬だと思うが、これらは三井高義が競馬界から依頼され戦後に制作された作品群であり、美校を卒業した彼は、帝展や日仏展、新文展などへ作品を出品し、帝展では7回ほど入選している。全日本彫塑家連盟の会員で、戦時中は日本美術報国会の代議会員にも就任していた。帝展系の彫刻家集団「第三部会」では、特選につづき無鑑査会員となっている。また、自身が中心となって1933年(昭和8)ごろに結成したとみられる「五年会」展でも、定期的に作品を発表しつづけていた。
 三井高義の馬好きは、どうやら父親で三井一本松家の創立者だった三井高信(三井得右衛門)ゆずりのようだ。三井高信には、馬に関するエピソードが数多く残されているが、今日では法規を無視する傍若無人な「上級国民」と批判されそうな逸話も多い。父・高信に関して、落合地域の近くで起きたエピソードがらみでご紹介すると、下落合から2kmほど下流の旧・神田上水にクルマごと転落して事故死した、初代・東京駅長の高橋善一との「馬」エピソードが有名だろうか。1959年(昭和34)に東西文明社から出版された、加東源蔵『東京駅発車 ゆうもあ号』から引用してみよう。
  
 五慶庵の裏は、すぐ講談社の野間さんのお屋敷で、昔の芭蕉庵のあった所である。/初代の東京駅長であった高橋さんが、駅長をやめるとすぐに、渡辺治右衛門さんのお世話でこの芭蕉庵に仮住居をされたのであったが、たまたま自動車の試運転に乗って、江戸川へ落ちて即死をされた。(中略) 三井高義さんのお父さんは、高橋駅長と非常に懇意にしておられたそうであるが、ある時、外国から珍らしい種類の馬を買っておいでになって昔の新橋の駅へ貨車で到着した時に、高橋駅長にたのんで、改札口を通そうとされたところ、若いまじめな改札係が故障をいったので困っておられると、高橋駅長があとからやって来て、/「ああそれは犬だ。通してやれ」/といって、さっさと通してしまったということである。
  
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 三井高義が子ども時代の思い出だが、「野間さん」は目白山(=椿山/現・文京区関口)の胸突き坂を上がったところに現存する、下落合の吉屋信子もお呼ばれしていた野間清治邸(現・野間記念館)であり、「芭蕉庵」は神田上水の工事に従事したといわれている松尾芭蕉が滞在していた関口芭蕉庵のことだ。また、高橋善一がクルマごと転落したのは大洗堰(現・大滝橋あたり)の上流であり、文中には「江戸川」とあるが旧・神田上水が正しい表現だろう。
 高橋善一が事故死したのは1923年(大正12)のことなので、三井高義が父親からこの話を聞いたのは、東京美術学校に入学する以前の中学時代のことだろうか。ちょうどそのころに撮影された愛馬「老松号」にまたがる、三井高義の写真が残されている。(冒頭写真)
 敗戦後、GHQによる財閥解体が進むと、三井高義は競馬の競争馬を制作することが多くなった。また、馬に限らずイヌやニワトリなどの動物彫刻、いわゆる一般に販売する“売り彫刻”も多く手がけるようになり、逆境の家計を支えていたようだ。競馬は、本人も好きだったのかもしれないが、馬彫刻で有名な彼に競馬界からの依頼も増えていったようだ。
 そのような状況のなかで、1回めの東京オリンピックが開かれた1964年(昭和39)に、戦後の日本競馬界を代表するシンザン号の制作を依頼されている。シンザン号は、同年に戦後初となる日本クラシックの三冠馬となり、翌1965年(昭和40)には天皇賞と有馬記念でもつづけて優勝したため、「五冠馬シンザン号」と呼ばれるようになった名馬だ。三井高義は、1964年(昭和39)の三冠馬時代にブロンズで『三冠馬シンザン』を制作している。
 三井高義の制作途上を取材したとみられる、1966年(昭和41)に中央競馬会から刊行された『蹄跡/昭和40年度』収録の、「ブロンズ像/三冠馬シンザン」から引用してみよう。
  
 40年間 馬を彫りつづけた彫刻家が ある日 シンザンを彫ることになった/彫刻家は 見て愕いた 一段上から人間を見下しているような シンザンの風格に/彫刻家は 彫り始めて目を瞠った これほど狂いのない脚があるのかと/彫刻家は 彫りつづけて茫然とした おれは馬に負けてしまったのではないかと/朝に 夕に 彫刻家は シンザンを見た さわってみた 話してみた/彫刻家は 彫りつづけた 負けて似せたくなるのを 懸命に怺えながら/「おれが彫りたいのは シンザンそのもの!」/40日後 彫刻家は ノミを置いた/像を前にして 彫刻家は懐う 「やはり負けた 苦しかった だが 幸せだった――」と
  
 シンザンの彫刻はその後、横浜や北海道、京都など競馬場にゆかりの各地に建立されている。
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 三井高義は、観世流の謡曲(能楽)にも造詣が深かったが、これもまた父親の三井高信から受け継いだ趣味のひとつだった。能雑誌などを参照していると、しばしば三井高義のネームを見かけ、「安達原」や「俊寛」などの舞台で謡っていた記録が残されている。自邸とともに能舞台も併設されていた、近くの観世喜之邸にも親しく出入りしていたのかもしれない。下落合414番地の三井アトリエと下落合515番地の観世邸とは、直線距離でわずか280mほどしか離れていない。

◆写真上:大正末に撮影されたとみられる、愛馬「老松号」に乗った三井高義。
◆写真中上は、下落合414番地に住んだ島津良蔵()と三井高義()。中上は、1945年(昭和20)4月2日の空襲直前に撮影された三井アトリエ。中下は、1933年(昭和8)撮影の「五年社」記念写真(三井高義は中央右)。は、1926年(大正15)制作の三井高義『のり馬』。
◆写真中下からへ、三井高義が制作した『繋がれた馬』(1927年)、『老』(1928年)、『乗馬婦人』(1934年)、『馬車馬』(1957年)の多彩な馬をモチーフにした作品群。
◆写真下からへ、同じく三井高義の制作による『組馬』(1962年)、『放たれた喜び』(1967年)、『組馬コンポヂッション』(1983年)、そしてもっとも有名な『三冠馬シンザン』(1964年)。
おまけ
 1975年(昭和50)の空中写真にみる、近衛町1号(現・下落合2丁目)の三井高義アトリエ。
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下落合を描いた画家たち・古瀬静雄。

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 古瀬静夫という洋画家については、詳しいことはわからない。野外写生で、よく落合地域にはやってきてはいたようだが、画家は彼の“二刀流”の半面であって、もう半分の顔は農林省の農業総合研究所の研究員で国家公務員だった。
 1960年(昭和35)に農林省を退職するまで、豊島区長崎2丁目23番地(のちの微妙な番地変更で24番地になっているとみられる)に住んでいたようで、現在の豊島区が運営する「中高生センタージャンプ長崎」の界隈だ。その後、ある時期に川崎市幸区の小向西町へ転居していると思われる。所属していた美術団体は「示現会」で、戦後は定期的に日展へ作品を出品しており、街の風景画を得意とする画家だったようだ。
 古瀬静夫の『下落合風景』(冒頭写真)は、1957年(昭和32)に開催された第13回日展に出品されたものだが、このころは毎年日展へ応募していたようで、画面はいずれも東京を中心とした街中の風景だったとみられる。1954年(昭和29)の第10回日展にも作品が入選しており、こちらはそのままのタイトル『ある街かど』という画面で、角(すみ)切りのある丁字路を描いた画面も、やはり東京のどこかの風景だろう。残念ながら、両作ともカラー画像は発見できなかった。
 古瀬静夫の『下落合風景』は、ひと目見たとたんに描いた場所がピンポイントでわかった。いまだリニューアルされる前の、1950年代の田島橋の東側欄干を左手に見て、東京電力の目白変電所前の路上から旧・神田上水(現・神田川)をはさみ、対岸に建っていた戦前からつづく下落合1丁目69番地の三越染物工場内の建屋を描いたものだ。もっとも、当時は三越専属工場(第二クリーニング工場)という名称で事業を継続しており、染物の需要が徐々に減少しつづけていたため、旧・神田上水沿いの多くの染物工場がクリーニング業へ転換したように、三越も染物工場の一部をクリーニング工場として運営していたのだろう。
 画面は、数日前に降雪があった真冬か春先のように見え、橋や路上などには残雪が描かれているようだ。太陽光は画家の背後から射しており、建物などの陰影から時刻はおそらく真昼に近い時間帯だろう。当時の下落合(現・中落合/中井含む)のエリアで、目白崖線南側の谷間を流れる旧・神田上水、あるいは妙正寺川に架かっている橋は数多いが、橋の北詰めが画面のようにかなり急な下り坂になっている橋はたったひとつ、高田馬場駅から栄通りに入り下落合へと向かう、江戸期からつづく田島橋しか存在していない。
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 1960年代に入ると、田島橋のリニューアル工事とシンクロするように、三越専属工場の跡地には巨大な三越マンション(つい先年リニューアルされている)が建設されているが、その際に坂道の傾斜角がかなり修正され、現在の下り坂はこれほど急傾斜ではない。また、1957年(昭和32)当時の旧・田島橋は変わったデザインをしていて、西側に造られた欄干の親柱の上には、南北ともに平べったい立方体をベースに地球儀の北半球のような球体オブジェが載っていたが、東側の親柱にはそれがなく単なる四角柱となっていた。どことなく、大川(隅田川)大橋(両国橋)を想起させるようなデザインだが、大正末から昭和初期に流行った意匠なのだろうか。
 正面に見える三越専属工場の右手(東側)には、下落合1丁目68番地のST化学工業(株)の本社・工場が建っているはずだが、キャンバスの枠外れで描かれていない。同社はいまも健在であり、現在は本社ビルとなっている消臭剤でおなじみのエステー(株)だ。また正面奥に見える、東西に長いビルのように描かれた四角い大きな構造物は、建築中だったとみられる下落合1丁目247番地のアリミノ化学(株)と日本ヘレンカーチス(株)の協業工場だと思われるが、実質はアリミノ化学の本社兼工場だったろう。ヘアワックスやヘアカラーなどで知られる(株)アリミノは、現在も同じ敷地に独特なデザインをしたブルーの本社ビルが建っている。
 アリミノ化学工場の右手(東側)、下落合1丁目番地71番地にはアオガエルを「ミドリガエル」、青々とした葉を「緑々した葉」と呼ばないと許してもらえそうもない、池田元太郎が設立した池田化学工業(株)が建っているはずだが、空襲で全焼したあとに再建された工場の建屋の軒が低かったものか、三角の屋根がかろうじて見えているだけだ。
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 田島橋の北詰め(左側)に見えているコンクリートの塀と門は、防火帯36号江戸川線建物疎開で無理やり解体された、豊菱製氷工場の塀と門の残滓で、当時は内部が広い空き地となっていた。古瀬静夫が『下落合風景』を描いた当時も、また1960年代に入ってからも田島橋北詰めの左手(西側)、製氷工場があった敷地は長く空き地の状態がつづいていた。
 そして、豊菱製氷工場北側の道路沿いにつづく敷地に建っていたのが、戦後、新たな住宅地として開発された区画で、いちばん手前(南側)の家が下落合2丁目212番地の原邸、つづいて北へ向かって同番地のアパート「竜雲荘」、大久保邸(現・ビアンカ大久保)、阿部材木店(現・阿部マンション)という順番に建てられて間もない家々が並んでいた。現在は、製氷工場が建っていた区画のほとんどが、東京富士大学(旧・富士女子短期大学)のキャンパスエリアとなっている。
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 現在の田島橋あたりからは、企業のビルやマンションに遮られて見えないが、『下落合風景』の当時は、もう少し目白崖線の緑がつづく下落合の丘が見えてもいいのかもしれない。だが、それを描くと手前の街並みが際立たなくなるため、画家があえて省略している可能性もありそうだ。

◆写真上:日展に出品された、1957年(昭和32)制作の古瀬静夫『下落合風景』。
◆写真中上は、制作と同年撮影の1957年(昭和32)の空中写真にみる描画ポイント。は、1960年(昭和35)作成の「全住宅案内図帳」にみる同所。
◆写真中下は、1955年(昭和30)に撮影された田島橋と南詰めの東京電力目白変電所。田島橋の西側親柱に載った、半球体オブジェの様子がよくわかる。は、古い三越マンションが解体された直後の田島橋南詰めから北を向いて眺めた現状。左手やや遠めな青いビルがアリミノの本社ビルで、右端の三越敷地のすぐ右側がエステーの本社ビル。
◆写真下は、1954年(昭和29)の第10回日展に入選した古瀬静夫『ある街かど』。は、練馬の石神井公園まで写生にでかけた古瀬静夫『晩秋の三宝池』(制作年不詳)。
おまけ
 旧・神田上水と妙正寺川の合流点から、少し下流にあった一枚岩(ひとまたぎ)にAI着色をしてみた。それなりに木漏れ日があたるリアルな情景になったが、『江戸名所図会』に描かれた一枚岩は田島橋の上流、現在の下落合駅南側に接する変電所のあたりにあった。
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