小石川駕籠町から下落合への目白ヶ丘教会。

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 先日、目白ヶ丘教会Click!の牧師・野口哲哉様にお声がけいただき、同教会の100周年記念で出版された資料類などをいただいた。当日は教会開放の「オープンチャーチ」の日で、模擬店なども出てたいへん賑やかだったが、所用があったのでうしろ髪を引かれながら目白駅へと向かった。ずいぶん以前、遠藤新Click!設計による教会内部を拝見させていただいたが、資料を拝見すると古賀公一牧師の時代だったろうか。
 目白ヶ丘教会の前身は、1911年(明治44)に小石川区(現・文京区の一部)西原町39番地の民家で小石川バプテスト教会(のち日本バプテスト小石川教会)として誕生している。1921年(大正10)に小石川区駕籠町58番地に会堂用の敷地を確保すると、教会堂や幼稚園舎、宣教師館、牧師館、学舎(寄宿舎)などを建設している。関東大震災Click!をへて、戦時色が強まるキナ臭い昭和期に入ると言論・出版・集会の自由がなくなり、各地のキリスト教会と同様に、小石川教会も当局からさまざまな圧力や嫌がらせを受けることになった。1941年(昭和16)に、全国のキリスト教会が再編されると、日本バプテスト小石川教会はカタカナなしの日本基督教団小石川駕籠町教会へと改名している(させられている)。
 日米戦がはじまると、駕籠町の教会に隣接していた理化学研究所より、兵器増産のために教会敷地を提供するよう迫られている。教会は個人の所有物ではないので、代替地を用意してくれればすぐに移転すると回答したが、移転の話が進まないうちに理化学研究所側は教会敷地へ侵入し、勝手に学舎(寄宿舎)などを占拠しはじめている。しばらくすると、同教会へ特高Click!がやってきて、さっそく恫喝をはじめた。
 その様子を、2013年(平成25)に日本バプテストキリスト教 目白ヶ丘教会から出版された、『宣教100周年記念文集』収録の熊野すま子「思い出すままに」より。
  
 ある日、特高という名の厳しい目つきの人が玄関に現れて、「一日も早く、家を理研に明け渡しなさい」と言いました。「私個人の者(ママ:物)ではない土地と家なのですが、こうした時だから替わりをくだされば引っ越します」と申しますと、「この国賊め、国の命令に従わん奴!」等と、大変な罵詈雑言でした。ところが、急に声をやわらげての「あんたには骨折り料として幾らか貰ってあげる」云々に、今度は熊野(清樹牧師)が声を厳しく「何と言うことですか、そんな不正なことをする人々を取り締まる役があなたの仕事でしょう。わかりました。私の兄の親友で、海軍少将の人が海軍省におられるので、早速訪ねて、相談してきます」と申しますと、急に態度が代わり、「理研と話し合ってきます」と言って立ち去りました。熊野は、早速、海軍省に出かけて、面会を申し込み、幸いお会いして話をする事が出来、「そんなことを国から命令することはない」と伺って、安心して帰宅しました。(カッコ内引用者註)
  
 このあと、熊野夫妻は教会の移転先を探して東京各地を歩きまわるが、最終的には目白駅も近い近衛町35号Click!、すなわち下落合1丁目415番地に建っていた旧・今井清七邸に落ち着くことになった。移転は、戦時下なのでトラックが手配できず、引っ越し荷物を牛車に載せては何度も往復しながら、駕籠町から淀橋区(現・新宿区の一部)下落合へと運んでいる。移転作業は1944年(昭和19)4月7日にスタートし、4月17日にようやく作業が終了するなど10日間もかかった。この近衛町の今井清七について、1932年(昭和7)に刊行された『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)では、次のように紹介されている。
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 今井商店/今井醸造(株)取締役 今井清七  下落合四七五(ママ:四一五)
 新潟県人今井武七氏の三男にして明治十七年十一月を以て出生、昭和四年家督を相続す、先是明治四十一年長崎高等商業学校を卒業し爾来前掲各会社を主宰す、家庭夫人タイ子は同県人師尾市太郎氏の長女である。
  
 今井商店が起こした会社で、もっとも有名なのは北海道出身の方ならピンとくる、道内各地のデパート丸井今井だろう。『落合町誌』には今井清七しか収録されていないが、同邸には父親の今井武七もいっしょに住んでいた。邸内には蔵があり、室内の窓にはステンドグラスがいくつか用いられた、近衛町でもオシャレな洋館だった。ちなみに、同邸は以前から拙記事で詳しくご紹介してきた、あめりか屋Click!がライト風に設計・施工した杉卯七邸Click!(近衛町33号)の南隣りにあたる敷地だ。
 熊野夫妻は、ようやく下落合に落ち着き旧・今井邸を教会堂および牧師館とし、当初の教会名を「日本基督教団目白近衛町教会」と名づけている。だが、敗色が濃い新年を迎えると、二度にわたる山手大空襲Click!の日々が迫っていた。1945年(昭和20)4月13日夜半の空襲では、目白駅Click!と目白通り沿いが爆撃され、同年5月17日に米軍の偵察機F13Click!が撮影した空中写真を参照すると、当時の教会位置(旧・今井邸)から北へ4軒めまで、延焼が迫っていた様子を確認できる。また、北北西側では近衛町通りをはさみ、現在の目白ヶ丘教会が建っている敷地手前まで全焼している。このとき、M69集束焼夷弾Click!の1発が教会の庭に落ちたが不発弾だったらしく、現在でも庭に埋まったままだという。
 二度にわたる山手大空襲Click!の様子を、前出の『宣教100周年記念文集』に収録された、村瀬泰雄「目白ヶ丘教会の思い出」より、少し引用してみよう。
  
 一九四五年四月の空襲も五月の空襲も熊野先生、奥様、順子さんと共に燃え盛る炎を防空頭巾の頭から水をかぶり衣服に引火するのを防ぎながら逃げ歩いた鮮明な記憶がございます。幸い二度の空襲で十軒ばかり焼け残った中に牧師館も拙宅も入りました。周囲は全部丸焼です。四月の空襲で現在の教会近くの道路上の大きな家や欅の横のお宅に二百五十キロ爆弾が落ち、その爆風で一メートル四方もある大きな庭石が牧師館に飛んできて屋根を破り床まで落ちたそうです。拙宅にも機関銃の弾や焼夷弾が落ちましたが幸い不発でした。
  
 上記の文中で、「欅の横のお宅」とは大きな旧・藤田本邸Click!の南隣り、下落合1丁目417番地の深田謙介邸のことで、空襲では旧・藤田本邸寄りの北側に250キロ爆弾が直撃し、留守居をしていた女中さんがひとり爆死している。また、深田邸の2軒西隣りにあたる1923年(大正12)築の藤田孝様Click!の和洋折衷館は、強烈な爆風を受けたにもかかわらず大きな被害がなかったとうかがっている。なお、上記の同じ著者による空襲のより詳しい資料も、野口牧師よりいただいているので、次回にでも再度詳細な記事を書いてみたい。
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 敗戦直後から、目白ヶ丘教会は活動を再開している。日本基督教団を離脱した目白ヶ丘教会は、1949年(昭和24)に総会を開き日本バプテスト連盟に加盟することを決議した。また、このころから手狭になった旧・今井邸を牧師館とし、本格的な教会堂を建設する計画が始動している。1949年(昭和24)12月に、下落合1丁目416番地の敷地が用意でき、同年12月18日には起工式が行われている。敷地面積が442.3坪、会堂建坪1階が91.3坪、2階が13.5坪、延べ面積が104.8坪という設計計画だった。また、会堂とは別に教育館71.6坪も同時に建設されている。
 同教会堂を設計したのは、F.L.ライトClick!の弟子のひとり遠藤新Click!だった。鹿島建設が工事を手がけ、総経費が約1.180万円(現代の価値換算で1億円弱)ほどかかったという。その費用を捻出するため、米国からの献金のほか日本バプテスト連盟からの借入金、教会員からの寄付などがあてられた。それでも足りないため、徳川義親邸Click!の講堂を借りて音楽会を開催し、その収益金を建築費にまわしている。
 教会堂の工事中、設計監理にやってきた遠藤新に会った人物の証言が残っている。同じく、『宣教100周年記念文集』に収録された伊藤信夫「思いだすままに」より。
  
 一九五〇年のある日建築中の教会の写真を撮っていると、人力車で建築設計者の遠藤新さんが来られました。早速建築中の会堂をバックに写真撮影をお願いした処、快く応じて下さり、付いて来た方が新さんの服装を整え、後ろに下がって行かれました。後で分かった事ですが、この付き人は、新教育館を設計した新さんの次男の遠藤楽さんだったのです。遠藤新さん、楽さん、後に教育館建設委員となる私と三人で一緒に写真になっていたら面白かった、と新教育(ママ:館)建築中に遠藤楽さんとお話しをしました。
  
 この拙記事では、目白ヶ丘教会堂を建築中のモノクロ写真×2葉を掲載しているが、いずれも上記の著者が撮影したものだ。会堂の竣工後、教会の名称は「日本バプテスト基督教 目白ヶ丘教会」に変更されたが、ほどなく「基督」が読みにくいということで「キリスト」とカタカナ表記にして現在にいたっている。なお、設計者の遠藤新は、翌1951年(昭和26)6月に心臓病で死去しており、自身が設計した目白ヶ丘教会で初の葬儀が行われている。
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 教会堂が竣工するまで、バプテスマ(浸礼・洗礼)用のプールがなかったため、多摩川や丹沢山塊の渓流でバプテスマ式が行われている。教会堂が完成する少し前、1950年(昭和25)3月には積雪の丹沢山塊Click!を流れる渓流で行われたらしいが、まるで深山で行われる山伏の荒行と変わらない。雪中行軍Click!ならぬ雪中バプテスマで、「天は我々を……」と風邪を引かれた方がいなかったかどうか、ちょっと心配だ。w ともあれ、メリー・クリスマス!

◆写真上:1950年(昭和25)に撮影された、下落合に建設中の目白ヶ丘教会。
◆写真中上は、移転前の駕籠町にあった目白バプテスト小石川教会。中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる今井邸。中下は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる目白ヶ丘教会。下左は、2012年(平成24)刊行の『目白ヶ丘教会宣教100年記念誌』。下右は、2013年(平成25)刊行の『宣教100周年記念文集』。
◆写真中下は、F.L.ライトとともに写る遠藤新(左から2人目)。は、目白ヶ丘教会堂と教育館の平面図。は、建築中の目白ヶ丘教会と設計者・遠藤新。
◆写真下は、1950年(昭和25)の竣工直後に撮影された目白ヶ丘教会。は、目白ヶ丘教会堂の現状。は、旧・今井清七邸の跡に建つ目白ヶ丘教会牧師館の現状。
おまけ
 今年は暖かいのだろう、下落合の森のモミジは多くが色づかずに青いままだ。
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