戦後は、軍部へ意志的に協力しなかった、または協力に消極的だった画家や、特高Click!あるいは憲兵隊Click!によりその反戦的な表現で、監獄に打(ぶ)ち込まれていた画家たちから激しい批判を浴び、その名が忘れ去られた洋画家に村田丹下がいる。村田丹下は、1936年(昭和11)10月から下落合1丁目501番地に住んでいた。
村田丹下が激しい批判を浴びたのは、政府や軍部からの執拗な圧力、あるいは画材配給を止めるなどの脅迫で、やむをえず協力したというような消極姿勢ではなく、当初から積極的かつ主体的に軍国主義思想と侵略戦争に共鳴し、軍部との密接な関係を先頭に立って構築していったからだ。当時は日本の植民地だった朝鮮半島や台湾、「満洲」への植民政策と連動し、日本植民通信社や海外社を通じて絵画や随筆による植民促進の「広報活動」を展開するという、のちの敗戦とともに国家の滅亡と「亡国」状況の招来へ加担した最前線の位置にいた画家だったからだ。しまいには、1942年(昭和17)に当時首相だった東條英機Click!の肖像画を制作するなど、その政治思想を直截的に反映した仕事(美術的ではなく)や、「亡国」思想を体現する一貫した活動を展開していたからだろう。
だが、村田丹下が取り組んだもうひとつの側面として、北海道の大雪山系あるいは層雲峡などをテーマに、さまざまな広報・宣伝活動を行ったことでも、特に地元の北海道では知られていたようだ。この宣伝活動は、彼が南米や中国の「満洲」あるいは朝鮮半島・台湾などで、植民地への移民を促進するために行った宣伝手法を応用した、観光客や登山家などの誘致活動ともいえるべきもので、美術はもちろん文学や音楽など当時のメディアを総動員した、一大PR活動であり観光誘致のプロモーションだった。
村田は、当時の流行作家や音楽家などを招いては、大雪山系と周辺域をみずから案内してまわり、その景観を小説や随筆に、あるいは歌や音楽に取りあげてもらおうと企画している。同時に、自身は大雪山界隈の風景画を多作し、多くの人々の目にとまるようアピールしつづけた。中でも有名なエピソードは、野口雨情を層雲峡に案内し、いまでも語り草になっているらしい『層雲峡小唄』をつくらせたことだろうか。
これほど大雪山系+層雲峡の宣伝に熱心な村田丹下だが、彼は北海道の生まれではない。1896年(明治29)に、岩手県磐井郡花泉町で生まれた彼は、1906年(明治39)の10歳のとき北海道旭川町へと移住している。18歳で東京へとやってきて、和田英作Click!や満谷国四郎Click!に師事して画家をめざしている。1924年(大正13)に朝鮮旅行をし、現地の京成日報社の協力で個展を開くなど、このころから植民地への興味が湧いていたものか、「植民地通信」のようなエッセイを書きはじめている。1925年(大正14)になると南半球旅行に出発し、特に日本人移民が多かった南米に長く滞在しているようだ。
1926年(大正15)に帰国後、北海道を訪れる機会が増えたものか、大雪山系や旭川の層雲峡をモチーフにした作品を描きはじめている。北海道への観光誘致(入植誘致も含む?)に、注力しはじめたのもこのころからだ。1930年(昭和5)には、野口雨情を招き大雪山系の雄大な景色や、層雲峡から黒岳を案内して「黒岳石室」に宿泊させたりしている。また、同年には台湾へ旅行し、朝鮮につづき同地でも個展を開催している。
話が前後するが南米からの帰国後、村田丹下が住んでいたのは1927年(昭和2)現在で赤坂区丹後町103番地(現・港区赤坂4丁目)で、ほどなく小石川区宮下町22番地(現・文京区千石3~4丁目)に転居している。この住居も短く、1933年(昭和8)には豊島区巣鴨3丁目27番地(現・北大塚2丁目)へと転居しているが、ここも2年余しか住んでおらず、すぐに戦前の最終的な住居となる淀橋区下落合1丁目501番地(現・下落合3丁目)に引っ越してきている。
このころの村田丹下の芸術観……というよりは、彼の政治思想あるいは社会思想をよく表した文章が残っている。1939年(昭和14)に詩と美術社から出版された「詩と美術」12月号に掲載された、村田丹下によるエッセイ『思ひ出す儘に』から少し引用してみよう。
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此の時に当たり、文壇の一流どこころ(ママ)の諸氏に依つて、「文芸報国」なる新団体が過般満ビルアジアで結成された。明皇紀二千六百年建国祭を期して、文芸道に一転機を齎さうとしてゐる。現に可成り文壇各層の人々が、時局物を紹介され国策線に添へる仕事をして来たのだが、更に力強く、層一層現文壇界に傑出した新時流の文芸を造り出さうと努めつゝあるのは誠に時宜を得た企てなりと微笑ましく思ふのである。/翻つて我が画壇にも、文壇に比して遅れ走せ乍ら、「美術報国」新団体を、華々しく結成して、新時局に適応した仕事をドシドシやらかしては何うかと願ふ次第である。/最も(ママ)是迄には、事変を反映した物を、さしゑ画家や従軍作家群が社界的(ママ)に紹介に努めて来たのだが、然し実際は今後の新段階に入つて、更に一段と飛躍して報国的な依り(ママ)よい絵画を創作せねば成らぬであらふ事を痛切に希ふ者(ママ)である。
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なんだか、東條英機の演説草稿を読んでいるような気がしてくるが、要するに芸術は政治(軍部)、あるいはそれによってもたらされた時局(軍国主義)に徹底して隷属しなければならぬという、古くからの独裁国家で繰り返されたプロパガンダを改めて唱えているわけだ。いまの若い子たちにもわかりやすくいえば、現代の中国や北朝鮮における芸術全般の表現環境といえば、およそ理解が早いだろうか。裏返せば、政府や時局に反する表現や作品を創造した芸術家は、発表機会をなくすか配給を止められるか、さらには検挙されて拷問・起訴のうえ監獄へ放りこまれてもしかたがない……ということだ。
このころから、村田丹下は洋画の画壇では中堅画家としての地位が定着したものか、あるいは当局や軍部の肝いりかは不明だが、国内の個展でも多くの観客を呼べるようになっていく。1938年(昭和13)には、日本橋白木屋Click!(のち日本橋東急百貨店)で「リオデジャネイロ風景画」展を開催している。そして翌1940年(昭和15)になると、みずから率先して従軍画家を志願し中国へ「出征」している。また、個展も国内各地で開催し、東京だけでも丸ビルや三越、銀座「村の茶屋」などが発表の舞台となっている。
1941年(昭和16)になると、政府や軍部主導の文化翼賛会に参画し、また在京岩手文化促進会の発足を主導している。同時に、「満洲」の新京では関東軍の肝いりで「日満支親善風景画」展を開催。そして、中国への「出征」からもどった翌1942年(昭和17)には、首相だった東條英機の肖像画を制作している。
さて、この時期に住んでいた下落合1丁目501番地の村田丹下アトリエは、目白福音教会Click!の東に隣接する区画の住宅だった。自身のアトリエとして、古家を解体し下落合へ新築したものか、それとも一般の住宅(貸家?)を借りたものかはさだかでないが、空中写真で上空から見るかぎりは、屋敷林に囲まれた洋館仕様だったようだ。目白通りから、路地を少し南へ入ったところの右手(西側)に建っていたアトリエで、同アトリエの前からこの路地を道なりに140mほど南へ歩いていくと、中村彝アトリエClick!(当時は鈴木誠アトリエClick!)の前にでて、林泉園Click!への谷戸へと突きあたる。
村田丹下が、なぜ目白通り沿いのこの位置にアトリエを設定したかは不明だが、恩師だった満谷国四郎Click!を訪ねる際にでも、下落合の街並みになじみができたのだろうか。だが、彼が下落合に転居してきたのは、満谷国四郎Click!が死去した1936年(昭和11)7月から3ヶ月後の、同年10月のことだった。それとも、画家のアトリエが集中していた当時の下落合へ、自身もアトリエをかまえたくなったという単純な理由からだろうか。けれども、画家同士が緊密に交流していた下落合の町内だが、村田丹下の影はきわめて薄い。これまで調べてきた、各時代を通じての多種多様な地元に関する資料にも、「下落合の村田丹下アトリエ」というワードは一度も見かけなかった。
外地(日本の植民地)や北海道旭川、岩手などへ、しじゅう出かけていた村田丹下は、下落合に住んだ数多くの画家たちには、きわめて影の薄い印象しか与えなかったものだろうか。それとも、芸術至上主義やプロレタリア美術の関係者が多かった落合地域では、政府と密着した軍国主義思想をもつ彼の存在は、周囲の画家たちからことさら忌避され煙たがられて、あるいは強い反感をかい、意識的にオミットされて語り継がれることがなかったのかもしれない。北海道の旭川新聞社にいた、池袋モンパルナスの小熊秀雄Click!流にいえば、「死んでも溶けることを欲しない」(『夜の床の歌』)と、村田丹下は死んでも反抗・抵抗Click!してやりたくなるような人物だったように映る。
1945年(昭和20)4月13日夜半の、鉄道駅や幹線道路沿いをねらった第1次山手空襲Click!で、目白通り沿いの村田丹下アトリエは廃塵に帰した。敗戦とともに東京を離れ、岩手県で山岳風景画家あるいは静物画家として制作活動をつづけ、北海道の大雪山系の風景も盛んに描いている。敗戦直後の1947年(昭和22)には、なにごともなかったかのように一関町の福原デパート(現・ふくはら)で個展を開催。1975年(昭和50)には、花巻町から文化功労者として表彰されているようだ。戦争で文化財を破壊し国家滅亡へ扶翼した「亡国」論者が、なぜ「文化功労者」なのかまったく意味不明で理解不能だが、再び東京にもアトリエをかまえたようで、1982年(昭和57)に死去するまで世田谷区代田2丁目883番地に住んでいた。
◆写真上:下落合1丁目501番地、目白通り沿いの村田丹下アトリエ跡(右手)。
◆写真中上:上は、1925年(大正14)に制作された村田丹下のイラスト『セレナード』。中上は、1929年(昭和4)制作の村田丹下『静物』。中下は、1929年(昭和4)にエッセイに添えられた同『朝鮮風景』。下は、戦前の制作とみられる同『室蘭』。
◆写真中下:上は、1930年(昭和5)に野口雨情(右)を層雲峡から黒岳石室に案内した村田丹下(左)。中上、戦後の1960年(昭和35)に制作された村田丹下『静物』。中下は、戦後の同『大雪山黒岳』(制作年不詳)。下は、同『大雪山』(制作年不詳)。
◆写真下:上は、昭和初期の村田丹下(左)と晩年(右)。中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる村田丹下アトリエ。中下は、1945年(昭和20)4月2日にF13Click!から撮影された村田アトリエ。下は、1945年(昭和20)5月17日撮影の村田アトリエ。建物が残っているように見えるが、4月13日夜半の第1次山手空襲で延焼しているとみられる。