犬のお巡りさんと迷子の仔猫ちゃんの下落合。

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 下落合1727番地(のち下落合3丁目1728番地)に住んだ佐藤義美の名前は、子どものころに相模湾とのつながりで、どこかで目にした憶えがある。当時、家でとっていた神奈川新聞の紙面でか、あるいは別の新聞か雑誌での紹介記事を目にしたものだろうか。それは、佐藤義美とディンギー(小型ヨット)Click!に関するおぼろげな記憶だ。
 さっそく、佐藤義美について調べると、彼は1966年(昭和41)に逗子市桜山に作品を創作する仕事場を借り、ディンギーを所有していたことがわかった。その紹介記事を、小中学生のわたしはどこかで目にしたのかもしれない。あるいは、相模湾Click!で開催されたディンギーレース記事に、ひょっとすると佐藤義美が出場して紹介されていたものだろうか。その佐藤義美が下落合の住民だと知ったのは、つい最近のことだ。
 それは、彼が早稲田大学に在学中、自身で設計して建てた西洋館の写真を見つけて、下落合の番地とともに強い既視感をおぼえたからだ。(冒頭写真) 彼は、1928年(昭和3)に下落合1727番地へ両親や兄弟姉妹たちと住む自邸を設計している。もちろん、建設資金は親が出し設計のみを担当したとみられる。わたしは佐藤邸を実際に見たわけではなく、既視感があるのは以前、振り子坂沿いに建っていた家々をご紹介Click!した記事や、下落合1986番地の赤尾好夫邸Click!で設立された欧文社(旺文社)について書いたが、その記事の中で山手坂の尾根上に建つ大きな西洋館の印象が強かったからだ。
 わたしは、振り子坂沿いの記事で同邸を「上田」邸と特定したが、それが誤りであることも判明した。1938年(昭和13)に作成された「火保図」によれば、上田邸は佐藤邸の2軒北側であり、1935年(昭和10)ごろに撮影されたとみられる振り子坂沿いの写真では、佐藤邸の右側に見える2階建ての日本家屋が高津邸で、高津邸のさらに右手の屋敷林に囲まれた大きな2階家が上田邸ということになる。当時、下落合の住宅敷地は150~200坪はあたりまえの時代なので見誤り、敷地を特定するわたしの目が狂っていたのだろう。
 また、1932年(昭和7)の淀橋区の成立とともに、下落合でも番地変更が実施され、佐藤邸は下落合1727番地から下落合3丁目1728番地へと変わっている。したがって、たとえば1974年(昭和49)に佐藤義美全集刊行会から出版された『佐藤義美全集』の年譜などに書かれている、「淀橋区下落合三丁目一七二七番地」は佐藤邸の北隣りにあたる高津邸を指すことになり誤りだ。1928~1932年(昭和3~7)が「下落合1727番地」で、1932年(昭和7)10月以降は「下落合3丁目1728番地」という表記が正しい。また、同全集には住所に添えて「通称、目白文化村」とも紹介されているけれど、下落合1727番地は目白文化村Click!のエリアではなく、正確には第二文化村の南側に近接し、いまでは消滅してしまった矢田坂Click!の丘上住宅街に建つ邸……ということになる。
 佐藤義美は、1905年(明治38)に大分県直入郡岡本村(現・同県竹田市)で生まれ、15歳の時に視学(教育現場の監督をする教育委員のような役職)だった父親が転勤し、横浜市本牧町に転居している。横浜では、横浜二中(現・県立翠嵐高校)へ編入し、当時は画家をめざして父親と野外写生によく出かけていた。なお、横浜二中の同級生には作曲家となる高木東六Click!がいて、童謡に親しむきっかけのひとつになったようだ。1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!で横浜の家が全焼し、それまで買い集めていた画道具や描いた作品をすべて失っている。そのかわり、詩や童話などに興味をおぼえ、「童話」「金の星」「赤い鳥」「少女」「コドモノクニ」などへ作品を次々と投稿しはじめるようになった。
 1925年(大正14)、早大第二高等学院文科に合格すると、1927年(昭和2)には早大文学部国文科へ進んでいる。このころから、童話や童謡詩を次々に児童雑誌へ発表し、また伊藤真蒼や渡辺増三、金子みすゞらとともに同人誌「曼珠沙華」に参画、また学友だった石川達三Click!や新庄嘉章らと同人誌「薔薇盗人」を創刊している。さらに、巽聖歌Click!や北島昌訓らと童謡雑誌「紅雀」を創刊、つづいて雑誌「棕櫚」を刊行と、児童文学の分野でめざましい活動をはじめた。ちょうどそのころ、佐藤義美は上述のように自身が設計した下落合1727番地の洋館に、家族全員で転居してきている。
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 1932年(昭和7)に早稲田大学大学院を卒業すると、府立第三商業学校(現・都立第三商業高校)に国語・作文の教師として就職している。このころから、下落合の自邸を発行所とした雑誌「ETUDE」を刊行し、また高原書店から詩集『存在』を出版している。その後、さまざまな雑誌へ物語・童話・詩・童謡などを発表していくことになる。1935年(昭和10)ごろから、神奈川県の海辺などで兄弟そろってディンギーに親しむようになり、1939年(昭和14)に葉山海岸で6年前から知りあっていた青木民と結婚。同時に、下落合の家を出て目黒区上目黒6丁目の静宏荘8号室にふたりで住みはじめるが、母親の健康がすぐれないため2年後の1941年(昭和16)に夫妻は下落合へともどっている。
 同年、佐藤義美は日本出版文化協会の児童課課長補佐に任命され、戦時にそぐわない児童向け出版物の検閲を命じられているが、親しい作家仲間を同課へ招聘して「反戦」を唱える詩歌や童謡、児童文学、物語などへ出版許可を出しては軍部に目をつけられている。当時、秋田雨雀Click!が書いた反戦童話集『太陽と花園』などに出版許可をスルーで出していたのは、彼の「検閲」仕事だ。当然、軍部が介入し圧力を加えるようになり、翌1942年(昭和17)に日本出版文化協会を辞職している。敗戦後、1967年(昭和42)に発表されたエッセイ『人間らしい』で、佐藤義美はこんなことを書いている。
  
 アメリカが、広島長崎に原子爆弾を投下して一瞬に百万の人間を死傷させた。アメリカの当時の人々を「人間らしくない」とたやすく言うのは、日本の当時の人々を「人間らしい」というためだ。原爆投下の事実には、投下したのと投下されたのとのオモテウラがあるから、そう言えるのだ。これは生者にとっての場合で、死者にとっては、死だけだからオモテウラはない。アメリカ人を「人間らしくない」とすれば日本人も「人間らしくない」。日本人を「人間らしい」とすれば、アメリカ人も「人間らしい」ことになる。(へんな人間だ)。/現在、どこかで、人間が人間を殺している。優秀?な科学兵器を用いて。それを世界の人々は「許している」「とがめていない」(のと同一結果)。このようなバカなことを他の動物はできないし、しないから、それを「人間らしくない」と誰が言えるか。
  
 戦時中、彼の著作はほとんどすべてが「英米的(な思想)」と規定されて発禁処分となり、1943年(昭和18)には最愛の民夫人(27歳)を喪って、はかり知れないダメージを受けている。そして、戦後は「日米戦争の核爆弾で詩人の私は死んだ」という感慨を強く抱くようになった。そして、おもに子どもたちが読む童謡や絵本童話の領域への作品に注力するようになる。戦後1946年(昭和21)に日本児童文学者協会が創立され、佐藤義美は最初の発起人のひとりとして参画している。以降、戦後の活躍と彼の膨大な作品群は、児童向けの詩や児童文学が好きな方なら誰でも周知のことだろう。
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 佐藤義美の詩に曲をつけた童謡は、熊倉一雄や小鳩くるみ、ボニージャックス、真理ヨシコ、宍倉正信、コールmegなど多くの歌手たちが歌いつづけた。中には、知らない人はいないだろうと思われる歌もある。たとえば、1960年(昭和35)に発表されたのが次の詩だ。
  
 いぬのおまわりさんClick!
 まいごの まいごの こねこちゃん あなたの おうちは どこですか
 おうちを きいても わからない なまえを きいても わからない
 にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん
 ないてばかりいる こねこちゃん いぬのおまわりさん こまってしまって
 わん わん わん わん わん わん わん わん (以下略)
  
 同詩には大中恩が曲をつけて、実に65年後の今日まで唄い継がれてきた。佐藤義美は、同作が掲載された『佐藤義美童謡集』(音楽之友社)の「あとがき」で、自身の詩作を「子どもと私との限界を認めないところで成立させてきた」から、あえて子どもたちが自分の詩を唄っているのを聴くと素直にうれしいと書いている。
 すなわち、作品を発表するのがたまたま児童本や童謡雑誌であったとしても、大人と子どもとの区別をあえてせずに創作をつづけてきたと、改めて宣言しているのだ。換言すれば、採用され掲載されるのが子ども向けメディアであっても、自身の詩はことさら子どもを意識した、対象を子どもに特定する作品とは限らないということだ。
 そのような彼の“想い”や記憶を知ってみると、上掲の「いぬのおまわりさん」もなにやら意味深の詩に思えてくるから不思議だ。「迷子の仔猫ちゃん」は、彼自身の姿を投影したものではないか。「犬のお巡りさん」は、落合地域へ頻繁に出没し戦時中に自身がひどいめに遭った特高警察Click!の「おまわりさん」あるいは憲兵隊Click!で、「ニャンニャンニャン(知らぬ存ぜぬ)」を繰り返して困らせ煙に巻いていたのではないか……などなど、戦争をはさんでいるがゆえに、彼の詩はいろいろな想像をかき立ててくれるのだ。ちなみに、「いぬのおまわりさん」が書かれたのは残念ながら下落合ではなく、当時住んでいた目黒区平町(たいらまち)61番地(現・同区平町1丁目)か、あるいは頻繁に訪れていた相模湾の海辺だろう。
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 面白いエピソードが残っている。1958年(昭和33)に、佐藤義美はミツワ石鹸Click!からの依頼を受け、同社製品のCMソング「しゃぼんのくにの おひめさま」を作詩している。もちろん、仕事を依頼したのは同社の宣伝部長で副社長でもあった、下落合1丁目360番地(現・下落合3丁目)に住む衣笠静夫Click!だろう。同社のCMといえば、「♪わっわっわ~輪が三つ」の衣笠曲が有名だが、同曲は1960年代に入ってからTVで流されたCMソングだ。1950年代末の「しゃぼんのくにの おひめさま」は、はたしてどのような歌だったのか、♪だぁれ~にきいてもわからない、なまえ~をきいてもわからない~、にゃんにゃんにゃにゃ~ん。

◆写真上:1928年(昭和3)竣工の、自身が設計した下落合1727番地の佐藤義美邸。南面する庭では、竣工祝いのパーティーが開かれているようだ。
◆写真中上は、1935年(昭和10)ごろに撮影された佐藤義美邸とその周辺。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同邸。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同邸で周辺は戦災を受けておらず戦前からの住宅がそのまま残る。
◆写真中下は、1932年(昭和7)に下落合の自邸前で撮影された佐藤義美(左から2人目)と家族。中上は、山手坂の尾根上筋にあたる佐藤義美邸跡の現状(右手)。中下は、東京府立第三商業学校の教師時代に撮影された佐藤義美と戦後の散策する同人。
◆写真下は、作曲・大中恩の「いぬのおまわりさん」の楽譜とイラスト。は、ディンギーを気持ちよさそうに操る佐藤義美だが背後は相模湾西部の伊豆半島か? 三浦半島から伊豆半島へ相模湾の横断レースがあるが、その際の記念写真かもしれない。
おまけ
 山手坂沿いの家々を描いた、1930年(昭和5)制作の宮下琢郎『下落合風景』Click!。手前のモダンハウスが佐久間邸で、鎗型フィニアルClick!を載せた佐藤義美邸もとらえられている。下は、ほぼ同時期に改正道路(山手通り)工事予定の赤土山Click!から撮影された写真。宮下の画面と比較すると、和館の3軒が洋館として描かれるなど構成意図がわかって面白い。
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偵察機F13の撮影で作成された米陸軍地図。

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 米軍は、1945年(昭和20)の早い時期から東京市街の空襲Click!準備のため、あるいはコロネット作戦Click!やオリンピック作戦など本土上陸作戦に備えるために、偵察機F13Click!の空中写真をもとに詳細な地図を作成している。特に、東京市街図は各種施設はおろか、大きな個人邸まで記載する精緻なもので、不明だった建物や施設は日本の敗戦後、同年秋から翌1946年(昭和21)にかけ補足記載しているとみられる。
 米国が情報公開法にもとづき、前世紀末から米国陸軍地図サービスで公開されている東京1/25,000市街図は、現代から参照しても舌を巻くほどの正確さで構成・編集されている。二間道路以下の、細かな道路や路地は、ところどころ誤りが見られたり、また不明な道筋は想定で描かれたり、あるいは採取漏れがあったりするものの、おおよそ当時の日本で作成された地図類と比べても遜色がないほどの精緻な出来ばえだ。
 それに対して、当時の日本はどれほど米国の主要都市や軍事施設、重要な工業地帯などの正確な情報を収集・把握できていたのだろうか。偶然性に依拠して、ジェット気流の風まかせ風船爆弾Click!を飛ばしていた国が、1945年(昭和20)の時点で目白文化村Click!弁天社Click!中井不動尊Click!目白松竹館Click!(旧・洛西館Click!)、改正道路(山手通り)工事Click!の進捗状況(1944年末現在ごろ)などまでが正確に記載されている地図を作成できる国を相手に、外交をなおざりにしていかに無謀な戦争をしかけていたのかが実感できる、まさに反面教師的な一級資料だ。
 もし「一億総特攻」「一億玉砕」などとバカげたことを叫びつつ、米陸軍による日本本土上陸作戦が展開されていたとしたら、これらの正確な地図類が戦略上、あるいは戦術上で大きな威力を発揮していたであろうことは想像に難くない。それほど、当時の圧倒的な情報収集力や情報量のちがい、技術力のちがいを改めて見せつけられる1/25,000市街図なのだ。同地図とともに、F13Click!によって撮影された空中写真、そして1945年(昭和20)8月15日の敗戦直後に撮影された爆撃効果測定用の空中写真Click!とあわせ、ぜひ反戦教材や情報の重要性を強調する資料として採用してほしい地図だ。
 では、落合地域とその周辺域(KOISHIKAWA 1/25,000)を中心に、米陸軍作成の地図を具体的に見ていこう。この地図の精密さを確認するには、戸山ヶ原Click!に建設された日本陸軍の各種施設を参照するのが手っとり早いだろうか。一例として、戸山ヶ原の西部域(山手線の西側)、下落合の南側に位置する陸軍科学研究所・陸軍技術本部Click!を見てみよう。地図に採取された建築群と、偵察機F13が1945年(昭和20)4月2日に撮影した、第1次山手空襲Click!(4月13日夜半)直前の空中写真、そして戦後の1946~1947年(昭和21~22)に爆撃効果測定用として記録した空中写真とを比較してみる。
 すると、「Army ordnance technical quarters(陸軍兵器技術所)」と「Scientific research institute(科学研究所)」のネームとともに、構内の極秘だった建物群がきわめて正確に採取されていたことがわかる。これらの情報をもとに、4月13日夜半の空襲では山手線・高田馬場駅の周辺とともに、陸軍科学研究所・技術本部を集中的に爆撃している様子が歴然としている。同時に、山手線東側の戸山ヶ原に展開していた各種陸軍施設Click!も空爆され、鉄筋コンクリート建築を除く多くの建物が消滅している。
 戦後、1947年(昭和22)に撮影された爆撃効果測定用の空中写真では、陸軍科学研究所・技術本部の全焼した北側には、すでに戦後の住宅不足を補うためにバラック仕様の戸山ヶ原住宅地が形成されており、同研究所の敷地内には内部が丸焼けになった、コンクリート建築の廃墟だけが残っているようなありさまだった。同施設の外側に残る戸山ヶ原の空き地は、深刻な食糧不足を補うためにすべて開墾され、畑地化していた様子も見てとれる。
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 次に、下落合の東部を見てみよう。目白駅から下落合へと抜ける豊坂Click!が、米陸軍地図では妙なかたちに描かれている。近衛町通りへ、いきなり斜めに直結する道路として描かれており、川村学園の寮や「近衛町農園」Click!に突きあたり、同坂と近衛町Click!とを結ぶ細いジグザグの道筋が描かれていない。おそらく、地図作成時の空中写真では樹木が繁茂していて、正確な道筋を把握しきれなかったのだろう。
 また、近衛町の北側には1929年(昭和4)に竣工した下落合436~437番地の「Konoe Estate(近衛邸)=近衛新邸Click!が採取されている。同時に、「Rinsen Park(林泉園)」の南側には、相馬孟胤Click!の死去とともに1939年(昭和14)に中野広町Click!へ転居している相馬邸Click!も記載されている。「Sema Estate(シーマ邸?)」と誤記されている同邸だが、同地図を作成する際に米陸軍はF13撮影の空中写真とともに、1939年(昭和14)以前の地図も参照しているのが明らかだ。1945年(昭和20)の時点で、同エリアは東邦生命Click!による宅地造成Click!が進められており、相馬邸はすでに存在していなかった。
 同地図では、空襲で焼失あるいは焼失しないを問わず大きめな華族屋敷が採取されており、西坂Click!の「Tokugawa Estate(徳川邸)」=徳川義恕邸Click!や、目白通り北側の徳川義親邸Click!も記載され、後者は「Tokugawa Biological Research Station(直訳:徳川生物研究所)」=徳川生物学研究所までが採取される詳細さだ。ちなみに学習院Click!のキャプションは、「Peers School(華族学校)」となっている。また、学習院の南側にある逓信省の逓信省船型試験所(目白水槽)Click!は、「Machine research laboratory(機械研究所)」と艦船に限らない研究所としてネーミングされている。
 下落合駅Click!が聖母坂の下ではなく、下落合氷川明神社Click!の南側に描かれているのも、やはり昭和初期に作成された市街図類を、複数にわたり参照しながら同地図を作成しているのが明らかだ。聖母坂のグリーンコート・スタヂオ・アパートメントClick!の南隣りにあった、「Kanto-Bus Garage(関東バス車庫)」も採取されている。これは交通インフラを破壊するための、重要な目標となっていたからだろう。同様に、省線や私鉄を問わず鉄道駅や変電所はもちろん、郵便局や電信電話局などの通信インフラ、警察署、消防署などの行政施設は位置がもれなく正確に記載されている。
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 次に、現在の下落合駅をはさんだ上落合側を見てみよう。下落合の旧・神田上水沿いも同様だが、上落合の同上水沿いと妙正寺川沿いには、大小の工場群が建ち並んでいた。さすがに、小さな染物工場や工房は収録されていないが、中規模以上の製造工場は攻撃目標としてマークされている。下落合駅のすぐ南側にあった、「Tokyo Rubber Co.(東京護謨会社)」の大規模な工場群Click!は、陸軍科学研究所・技術本部と同様に工場建屋の記載がきわめて正確だ。1937年(昭和12)に開校した、「Myosei Grade School(明星小学校)」=明星尋常高等小学校(国民学校)Click!も採取されている。
 月見岡八幡社Click!の前には、「Yamate Ice Plant(山手製氷工場)」Click!の建屋が描かれ、その南側には都バスの「Bus garage」=小滝橋車庫Click!、「Kannon-ji」=観音寺などが採取されている。小滝橋(おたきばし)を誤って「Kotaki-bashi」と記載しているのは、漢字の一般的な読みをそのまま当てはめただけで、同地図の作成担当者が特に東京の地理・地名に詳しかったわけではなさそうだ。妙正寺川沿いでは、「Kyokuto Lamp Factory(極東電燈工場)」や「Shimoda Knitting Mill(下田メリヤス工場)」など、比較的大きな工場建屋が記載されている。
 また、上落合の「Megumi Kindergarten(めぐみ幼稚園)」まで採取されているのも驚くが、さすがに戦前の市街図には橋名まで記載されたものが少なかったせいか、「Nakai Station(中井駅)」近くの寺斉橋を、ひとつ上流の橋とまちがえて「Sakae-bashi(栄橋)」と誤記している。ちなみに、西武線は「SEIBU ELECTRIC RR.(西武電鉄)」とされており、当時の地図類やマスコミ、地元などで一般化していた名称Click!をもとに英訳されている。上落合の道筋も、おしなべて正確に描かれているが、さすがに細い路地や樹木に覆われて見えなかったとみられる狭い道筋は省略されている。
 さて、下落合の中部から西部を同地図(NAKANO 1/25,000)で見てみよう。こちらは下落合の東部とは異なり、細い道筋や路地はおろか、二間道路や三間道路までが採取漏れとなっているエリアが多い。目白通り沿いの「Prefectural projict houses(公営事業住宅)」=落合府営住宅Click!から目白文化村にかけ、おもな三間道路は描かれているものの、二間道路やときに三間道路までが採取されずに漏れている。これは、軍事的に重要ではない住宅街なので省略したか、あるいは当時は濃かった樹林や屋敷林の緑に邪魔されて、空中写真から正確な道筋を把握できず描けなかった可能性がある。
 特にアビラ村(芸術村)にはその傾向が顕著で、七ノ坂Click!八ノ坂Click!が漏れているほか、坂道を横断する東西道が樹木の陰でつかめなかったせいか、ほぼすべての道筋が描かれていない。おもしろいことに、西落合のエリアまでいくと、道路は細かいところまで正確に採取されている。これは、いまだ住宅が密に建てこんでいないせいと畑地が多く遮蔽物が少なかったせいか、空中写真で道筋がよく観察できたせいではないかとみられる。「Inoue Philosophy School(井上哲学学校)」=井上哲学堂Click!の南側に位置する「Kotoku-in(光徳院)」や、耕地整理を終えたバッケが原Click!の道路も正確に採取されている。
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 日本の地図類は、米国との対立が激化するにつれ戦時の空襲に備え、軍事施設や重要施設を地図上から消すか、表現をカムフラージュ(改竄)している。落合地域からあまり離れていないエリアでは、戸山ヶ原の陸軍施設Click!の消去や淀橋浄水場Click!が改竄の事例だが、空中写真をもとにした米国陸軍地図を見るかぎり、まったく無意味だったことがわかる。おそらく、サイパン島が陥落した1944年(昭和19)の後半から、地図作成プロジェクトがスタートしているとみられ、東京で大規模空襲がはじまる直前には完成の域に達していたと思われる同地図では、軍事施設や重要施設がきわめて精緻な表現により丸見えの状態だったのだ。

◆写真上:日本全国をくまなく撮影した、ボーイングB29改造型の偵察機F13。
◆写真中上は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された戸山ヶ原の陸軍科学研究所・技術本部。は、1945年(昭和20)に作成された米陸軍地図に見る同所。は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された空中写真にみる同所。
◆写真中下は、1945年(昭和20)4月2日撮影の下落合東部。は、同年の米陸軍地図にみる同所。は、1947年(昭和22)に撮影された空中写真にみる同所。
◆写真下は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された上落合東部。は、同年の米陸軍地図にみる同所。は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された空中写真にみる同所。
おまけ
 山手線東側の戸山ヶ原に建つ陸軍施設の淀橋区詳細図(1941年)の空白化と、米軍による同所の地図。同じく、公園にカムフラージュされた淀橋浄水場(1941年)と米軍地図。下は、米国陸軍地図センターが公開している、落合地域の東部と中部が描かれた「KOISHIKAWA 1/25,000」と同西部が描かれた「NAKANO 1/25,000」。いくら重要施設を改竄や空白化しても、高精細な偵察写真で空襲前から克明にバレバレだったのが歴然としている。
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「人格崩壊」する母親を見つめる高井有一。

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 1944年(昭和19)5月に、下落合へ転居してきた作家がいる。いや、当時はいまだ中学校の生徒で13歳だった。父親は、目白通りの北側の長崎で生まれ、母親は東京市街地=(城)下町Click!生まれの町っ子で、結婚して子どもが生まれると下落合にアトリエをかまえている。父親は、二科の洋画家・田口省吾Click!だった。
 祖父の小説家で美術評論家だった田口掬汀(田口鏡次郎)は、長崎村新井1832番地(現・目白5丁目)の広い敷地に、自邸および美術誌「中央美術」Click!を編集する中央美術社Click!、さらに乳母も同居できる息子のための大きなアトリエを建設している。田口省吾については、宮崎モデル紹介所Click!から派遣されモデルをしていた淡谷のり子Click!(モデル名「霧島のぶ子」Click!)とのエピソードを、これまでいくつかご紹介Click!していた。淡谷のり子Click!も一時期、上落合および下落合で暮らしている。
 田口省吾は吉村信子と結婚すると、夫人とともにフランスへ留学し男の子が生まれているが、その子はパリで病死している。1932年(昭和7)に帰国すると、再び男の子が生まれ哲男と名づけられた。つづいて、女の子も生まれている。夫妻の帰国後、田口一家は1933年(昭和8)現在、下落合3丁目1447番地へと転居してくる。八島さんの前通りClick!(星野通りClick!)を少し西へ入った、第三文化村Click!のすぐ南側に隣接する少し下がった敷地だ。前年まで、ここには宮田重雄Click!がアトリエをかまえていた敷地なので、アトリエ建築もそのまま田口省吾が受け継いだのかもしれない。
 1936年(昭和11)に「中央美術」が12月号で廃刊し中央美術社をたたむと、一家は再び目白通りをはさんだ北側の長崎地域へともどっている。1937年(昭和12)の『日本美術年鑑』(美術研究所)によれば、転居先は「長崎南町一ノ一九四〇」となっているが、1940番地は1丁目ではなく2丁目なので、長崎南町2丁目1940番地が正しいのだろう。現在の、豊島区立富士見台小学校のすぐ西側あたりの敷地だ。このあと、2年ほどして田口一家は杉並区の井荻へと転居している。
 1939年(昭和14)の『美術綜覧』(国民芸術研究所)によれば、田口省吾は杉並区井荻3丁目40番地へ転居している。現在の、東京女子大学のすぐ東側にあたる敷地だ。だが、1943年(昭和18)8月9日に田口掬汀が死去すると、わずか5日後の8月14日には田口省吾が結核で死去している。義父と夫を一度に喪った信子夫人は、息子の哲男と娘を連れて翌年5月に、再び下落合へと転居してくる。
 田口省吾が死去しているので、下落合での住所は不明なのだが、目白通りをはさみ夫と結婚当初から暮らしていた長崎の住所の近く、あるいは以前の第三文化村に隣接していた旧居に近い、目白通り沿いの土地勘のある西洋館だったのではないだろうか。母親の信子夫人と兄妹は、この下落合の家で1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!に遭遇することになる。その様子を、2008年(平成20)9月2日の朝日新聞(夕刊)に掲載された、「追憶の風景・下落合/母が愛した家、一夜に焼失」より引用してみよう。
  
 画家だった父が2年前に結核で亡くなったので、前年(1944年)の5月ごろ、アトリエを構えた杉並の自宅を売り、下落合に家を買って移り住んでいました。れんが造りの暖炉や洋風の鎧戸がある、しゃれた家でした。日当たりもよく、居心地がよかった。東京の下町に育った母の趣味でした。/昭和19年といえば、空襲を避けるために地方に行くのが常識だったんですけれど、母はどんなことがあっても東京を離れたくなかったんですね。夫が死に、子供もまだ小さいので、頼れる親類が下町にいる東京に固執したんです。もし、あの時、田舎に引っ込んでいたら、僕の人生は大きく変わっていただろうと思います。/植木屋に5畳ほどの防空壕を掘ってもらい、警防団に指導されて避難訓練をよく行いました。2月ごろから空襲は激しくなっていました。(カッコ内引用者註)
  
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 信子夫人は、田口家の故郷である秋田県角館町に疎開しようと思えばできたろうが、東京が故郷である彼女には、生まれ育ったなじみ深い土地を離れがたかったのだろう。戦時中は、夫婦どちらかが地方出身者であるケースは疎開先が確保できて、むしろ幸運だったにちがいない。夫婦も、その親たちや祖父たちも東京出身のケースは、どこにも疎開先など存在しなかった。したがって、うちの親父のように1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!で日本橋を逃げまどいClick!、学校の下宿先だった諏訪町(現・高田馬場1丁目)で、4月13日夜半と5月25日夜半の二度にわたる山手大空襲Click!にも遭遇するという、さんざんヒドイめに遭った人々や家庭は少なくない。
 信子夫人は、そのまま井荻にいれば戦災に遭う確率は低かったろうが、夫との思い出がつまった下落合や長崎近辺にもどりたかったのだろうし、また少しでも親戚のいる(城)下町の近くですごしたかったのではないか。しかし、その判断がすべて裏目に出てしまった。4月13日(金)の夜、空襲警報が一度発令されて防空壕に避難した田口一家だったが、東京の別の地域に小規模な空襲があっただけで警報は解除され、すぐに庭の防空壕から母家にもどっている。でも、この小規模な空襲は同夜の前哨戦にすぎなかった。
 同日23時ごろに、再び東部軍管区から空襲警報が発令され、空襲のサイレンが鳴り響くなか、今度はB29の大編隊が下落合上空へ姿を見せた。急いで防空壕へ退避したが、警防団の役員から「逃げろ!」と声をかけられ、外へ出てみるとすでに隣家が焼夷弾で燃えていた。急いで防空頭巾をかぶり、全身に防火水槽の水を浴びると、1kmばかり離れた林へ母親とともに退避している。
 この逃げこんだ1kmほどの林とは、落合地域のどこのことだろう。もし、田口一家が下落合東部に住んでいたとすれば、第一徴兵保険Click!(のち東邦生命Click!)による宅地開発Click!が進んだ御留山Click!の、南側崖地にかろうじて残っていた森林か、薬王院の森は戦時の木材供出で丸裸にされていたが、同院南側の境内斜面に残っていた濃い林、あるいは霞坂Click!の周辺にあったやはり斜面に残った森林だろうか。もし、田口一家の家が下落合の西部にあれば、中井御霊社の杜か西落合に拡がる畑地の、いずれかの林だったのだろう。
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 つづけて、朝日新聞の同記事から引用してみよう。
  
 夜明けになって家に戻ったら、まったく何もなかった。父の物だった鉄のトランクさえ跡形もない。窓ガラスは溶けて氷柱(つらら)みたいになっていました。防空壕は直撃を受けていて、もし、あと少しとどまっていたら焼け死んでいたところでした。母と妹とは、何ひとつ言葉を交わしませんでした。/母の妹の家が西荻にあって戦禍を逃れたので、ひと月ほど身を寄せた後、秋田県角館町(現・仙北市)の親類の家に疎開しました。皆が地方に逃げていた時期でしたが、母は行くのが嫌そうでした。
  
 このとき、信子夫人が大切に保存していた田口省吾の遺作や遺品類、パリから持ち帰った思い出の記念品なども、すべて灰になってしまったのだろう。父親の故郷である秋田県仙北郡角館町で、田口兄妹には最大の悲劇が待っていた。
 田口哲男は戦後、共同通信社の記者になり、同時に「高井有一」のペンネームで小説を書きはじめている。1965年(昭和40)に、秋田の角館で厳しい冬に向かう母親(信子夫人)との疎開生活を描いた短編『北の河』で、高井有一は第54回芥川賞を受賞し、同年の「文學界」12月号に同作が掲載されている。そして、10年後の1975年(昭和50)に共同通信社を退社すると、小説の執筆へ専念するようになった。
 以下、『北の河』を参照しつつ、母親の田口信子が「人格崩壊」(高井有一)していく様子を追ってみよう。端緒は、なにものをも創らず展望もない疎開生活など、「生活ではない」というところからはじまった。そして、冬が寒い秋田では暮らせないとこぼし、「もういやになってしまったの。本当にいや。疲れてしまったのよ」と息子(高井有一)に吐露している。息子が、いまはそんなことをいっても仕方がないよ……となだめようとするが、「死ぬのよ。そうすればいいじゃないの」と答えている。
 そのうち近くの川で、まるで子どものように石を投げる母親の姿が、息子にも親戚たちにも目撃されるようになった。疎開先の主婦が怪訝に思い、息子に相談するようになる。1966年(昭和41)に文藝春秋から出版された、高井有一『北の河』から引用してみよう。
  
 「貴方の母さんな(中略) この頃、何時もと様子違うように思わないか。家は貴方の父さんの縁続きだから、母さんの事はそうよくは知らぬよ。ああいう人だと言ってしまえばそれまでの事だけども、何かよく呑み込めない所あるものな」
  
 その直後、冬の気配がしはじめると、母親は入水自殺をして果てた。「母は自宅を焼失した時に人格崩壊を起こしたんじゃないかと思う」と、高井有一はのちに語っている。
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 東京大空襲で、生まれ育った(城)下町の姿が消滅し、下落合で夫の遺品や保存していた作品のすべてを失った時点で、生きる気力をなくしてしまったのだろう。そして、自裁の引き金になったのは、愛着のある生まれ故郷を離れ自分の居場所ではない、帰属意識の皆無な土地で無為に疎開生活を送らねばならなかった、孤独と絶望感からではなかったろうか。

◆写真上:第三文化村から眺めた、道路突きあたり左手の下落合3丁目1447番地(現・中落合2丁目)にあった田口省吾・信子夫妻のアトリエ跡(2007年撮影)。前年まで同住所には、医者で洋画家の宮田重雄がアトリエをかまえていた。
◆写真中上は、大正期から長崎村新井1832番地にあった田口邸(中央美術社+田口省吾アトリエ)跡。は、長崎南町のアトリエで1937年(昭和12)に撮影された田口省吾。は、同年に制作された二科展出品の田口省吾『娘と子供達』。
◆写真中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合3丁目1447番地の田口邸跡。は、46歳で死去する1943年(昭和18)の最晩年に制作された田口省吾『絵を描く女』で、モデルはともにパリへともに留学した信子夫人かもしれない。は、1975年(昭和50)に文藝春秋から出版された高井有一『北の河』()と著者()。
◆写真下は、制作年が不詳の田口省吾『角館の古城山』。は、信子夫人がことさらナーバスになり気鬱になって怖れた角館の冬。は、晩年に書斎で撮影された高井有一。