ダット乗合自動車の停留所1935年。

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 以前、1937年(昭和12)現在の、目白通りを走る東京環状乗合自動車Click!停留所Click!や、小滝橋通りから聖母坂上の終点「椎名町」へと通う関東乗合自動車Click!の停留所について記事にしたことがあった。この時代に、目白通りを走っていたのは東環乗合自動車だが、その少し前、合資会社ダット自動車商会が走らせていた、ダット乗合自動車Click!時代の各停留所名が判明したので、その様子を記事にしてみたい。
 今日、バスの停留所名が変わるのは、ルート変更などよほどのことがない限りまれだが、当時は個人経営の私設バスClick!が企業に買収されたり、バス停の名前にしていた施設や店舗が移転したり消滅したりするので、バス停名は頻繁に変更されている。1935年(昭和10)に、帝国鉄道協会から発行された東京府内の乗合自動車路線一覧を参照すると、目白駅から練馬へと向かうダット乗合自動車のバス停名がわかって興味深い。同年は、(合)ダット自動車商会が王子環状乗合自動車(のち東京環状乗合自動車)に買収される直前であり、ダット乗合自動車が運行されていた時代の、最後の停留所名ということになる。
 たとえば、起点である目白駅前を出発した東環乗合自動車は、1937年(昭和12)に目白通りを走ると、目白駅前-貯金銀行前-家庭組合前-落合交番前-東京パン前-郵便局前-中央薬局-椎名町百貨店前-椎名町-松竹館前-青物市場前-五郎窪車庫前-海上グランド前-東長崎……と停車していった。ところが、大正期から運行をつづけてきたダット乗合自動車は1935年(昭和10)現在で、目白駅前-聖公会前-落合交番前-水道部出張所前-郵便局前-中央薬局前-ライオンガレーヂ前-椎名町-松竹館前-青物市場前-海上グランド前-南町交番前-東長崎……という順番で停車している。
 かなりバス停の名称が変わっているが、おそらくバス停の場所はその名称から、同じ位置で動いていないとみられる。ただし、ダット乗合自動車時代には存在した「聖公会前」が、東環乗合自動車時代に変わるとなくなり、代わりに「貯蓄銀行前-家庭組合前」とふたつの停留所に増えている。これは、大正末から昭和初期になると目白駅西側の商業地域が急速に発達し(それ以前は高田四ッ家~雑司ヶ谷界隈が高田町の商業中心地)、金融機関がこぞって駅前に進出しビルを建てはじめたからで、目白聖公会Click!手前の商店街つづきにもうひとつバス停を増やす需要が生じたためとみられる。また、落合家庭購買組合Click!目白中学校Click!の跡地へ開設されており、このころから同中学校跡地Click!の開発(宅地化)が本格化しているからだろう。
 また、ダット乗合自動車時代には東京府の「水道部出張所前」だった停留所が、東環乗合自動車時代では池袋に大きな工場があった東京パン株式会社Click!の提携店舗である「東京パン前」へ、ダット時代には拙記事でもご紹介済みの河合鑛Click!が経営していた「ライオンガレーヂ前」から、東環時代には昭和に入って早々に公設市場Click!としてスタートした椎名町百貨店Click!が開設されたので、「椎名町百貨店前」へと停留所名が変更されている。また、大正期の落合府営住宅Click!目白文化村Click!の開設から、同様に商店街が急速に発達した長崎バス通り(現・南長崎通り)沿いには、ダット時代の「青物市場前-海上グランド前」の間に、東環時代は「五郎窪車庫前」停留所が新設されている。
 目白駅の東側、大正期から川合清次郎が個人運営していた目白駅-江戸川橋間の乗合自動車が、1930年(昭和5)にダット自動車商会に吸収されダット乗合自動車が走りはじめると、新たな停留所が設置されている。当時の目白駅から東京市街へと抜けるには、東京市電が通う江戸川橋または早稲田へと出るのが短絡で効率的だった。
 また、ダット乗合自動車は川合清次郎の私設バスを買収すると、今日の都バス白61系統のように、江戸川橋から練馬まで一気通貫で乗合自動車を走らせてはいない。あくまでも起点は目白駅前であり、目白駅前-練馬駅前(-豊島園)の路線と、目白駅前-江戸川橋の路線をそれぞれ別々に運行している。つまり、目白駅前停留所は両路線の中継点として存在していた。これは、当時の傾斜がきつい新目白坂を上るには、かなり馬力のでる乗合自動車が必要だったが、目白駅から西側はそれほどの急坂はなく相対的に平坦だったので、路線によって乗合自動車の車種を変えていたのかもしれない。
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 さて、1935年(昭和10)現在のダット乗合自動車が走った目白駅前-江戸川橋間のバス停名をたどってみると、目白駅前-学習院前-目白警察前-千登世橋-鬼子母神前-高田本町-豊川町-女子大前-細川邸通用門-高田老松町-胸突坂-関口台町-音羽九丁目-江戸川橋……という順序だ。今日の都バス白61系統に比べ、やたらバス停が多く細かいことに気づくが、当時は高田本町や雑司ヶ谷、目白台、音羽地域の市街地化が進み、今日と大差ないような住宅街が形成されており、東京市電の江戸川橋電停へ出るために乗降客も多かったとみられる。通勤・通学者が東京市街地から江戸川橋で市電を降り、そこから目白山Click!を上って丘上の目白台や雑司ヶ谷、高田方面へと抜けるには、かなりの体力を要しただろうから、ダット乗合自動車の運行は朗報だったにちがいない。
 ちなみに、今日の都バス白61系統の停留所を目白駅前から挙げると、目白駅前-目白警察署前-鬼子母神前-高田一丁目-日本女子大前-目白台三丁目-ホテル椿山荘東京前-江戸川橋と、8停留所しか存在しない。戦前の14停留所に比べればおよそ半減となっている。ちょっと横道へそれるが、現在の都バスに乗ると「鬼子母神前」の社内アナウンスが、「きし<ぼ>じんまえ」と訛って流されている。標準語Click!の影響からか、あるいは戦後になってそう読めなくなった人たちが増えたものか、江戸東京の鬼子母神は下谷Click!も雑司ヶ谷も同様で、豊島区の各種資料がわざわざルビをふっているように、500年前から「きしもじん」なので都バスのアナウンスも、ぜひ訂正してほしい。
 ついでに、1935年(昭和10)当時の目白駅前から西へつづくダット乗合自動車のバス停も、終点までご紹介しておこう。目白駅前-聖公会前-落合交番前-水道部出張所前-郵便局前-中央薬局前-ライオンガレーヂ前-椎名町-松竹館前-青物市場前-海上グランド前-南町交番前-東長崎-水道局-江古田市場前-二又-武蔵高等学校前-三枚橋-練馬駅前-城南住宅地-豊島園前……という順番だった。この中で、太田道灌Click!江戸城Click!(1457年築)と同じ1400年代に築城されたとみられる、豊島城(練馬城)=豊島園Click!の南側に位置する1924年(大正13)に開発された城南住宅地Click!にも、住宅が増加したのかバス停が設置されていた様子がわかる。
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 今日の都バス白61系統も、だいたい同じような道筋を走っているが、バス停の名称はずいぶん変わっている。目白駅前-下落合三丁目-下落合四丁目-聖母病院入口-目白五丁目-南長崎二丁目-落合南長崎駅前-南長崎五丁目-江原町中野通り-江原町一丁目-新江古田駅前-南長崎三丁目-東長崎駅通り-南長崎六丁目-練馬総合病院入口-江古田二又-武蔵大学前-練馬車庫前-桜台駅前-練馬駅前……。バス停の数は20停留所で同じだが、大きく異なるのは現在の都バスのルートが途中で長崎バス通り(南長崎通り)と十三間通りClick!(西落合1丁目の交差点から新目白通り→目白通り)とに分かれる点だろう。
 練馬から江戸川橋まで走る東環乗合自動車は、その後、さらに路線を延長し、ついには新橋駅まで乗り入れることに成功している。その様子を、1954年(昭和29)に東洋書館から出版された三鬼陽之助『五藤慶太伝』から、少しだけ引用してみよう。
  
 昭和九年三月、東京高速鉄道が設立され、彼(五藤慶太)がその常務取締役として建設に当っていた頃、河西豊太郎がもっていた資本金二百万円の東京環状乗合自動車、通称「黄バス」といって市民に親しまれていたが、これが、椎名町から省線目白駅、女子大学前、音羽通り、江戸川橋、牛込柳町、佐内町(ママ:牛込左内町)から市ヶ谷見附に出て麹町平河町を経、議事堂横を通って新橋駅に至る営業をなしていた。当時としては、いわゆる市内乗入線でもなかなかいい成績を挙(ママ:上)げていた。社長は、いま山梨交通の社長をしている河西の長男の河西俊夫であった。(カッコ内引用者註)
  
 目白駅前から、江戸川橋で東京市電に乗り換えず、そのまま一気に市街地の中心部を通過して新橋駅へと出られるルートは、当時としては画期的で便利だったろう。特に、当時の繁華街だった銀座や日本橋へ向かうにはもってこいの路線だ。
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 帝国鉄道協会刊行の乗合自動車路線一覧(1935年)には、停留所とともに各停留所間の距離(単位km)や料金なども掲載されているので、当時の停留所位置を厳密に規定されたい方には参考になるだろう。わたしにはそこまでの元気がないので、どなたかにお任せしたい。

◆写真上:1941年(昭和16)撮影の目白駅前で、停留所は人が行列している駅舎左手。
◆写真中上:全国を走っていたバスいろいろ。は、1922年(大正11)撮影のフォード製とみられる乗合自動車。は、関東大震災Click!後に800台を緊急輸入したフォードT型東京市営乗合自動車。は、1927年(昭和2)撮影の乗合自動車。
◆写真中下は、1931年(昭和6)撮影と1933年(昭和8)撮影の乗合自動車。は、1935年(昭和10)現在のダット乗合自動車停留所(練馬方面)。
◆写真下は、1937年(昭和12)撮影の乗合自動車。は、1935年(昭和10)のダット乗合自動車停留所(江戸川橋方面)。は、1936年(昭和11)撮影の鉄道省営乗合自動車。
おまけ
 家の知人より、高原に生えるめずらしいハックルベリーの砂糖煮をいただいた。外見はブルーベリーに似ているが、大きさも風味もかなり異なり酸味がやや強い。これはチェリーパイと同様、パイにはぴったりな素材なのでクリスマスにでもこしらえてみようかな。
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戦後はまったく忘れられた洋画家・村田丹下。

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 戦後は、軍部へ意志的に協力しなかった、または協力に消極的だった画家や、特高Click!あるいは憲兵隊Click!によりその反戦的な表現で、監獄に打(ぶ)ち込まれていた画家たちから激しい批判を浴び、その名が忘れ去られた洋画家に村田丹下がいる。村田丹下は、1936年(昭和11)10月から下落合1丁目501番地に住んでいた。
 村田丹下が激しい批判を浴びたのは、政府や軍部からの執拗な圧力、あるいは画材配給を止めるなどの脅迫で、やむをえず協力したというような消極姿勢ではなく、当初から積極的かつ主体的に軍国主義思想と侵略戦争に共鳴し、軍部との密接な関係を先頭に立って構築していったからだ。当時は日本の植民地だった朝鮮半島や台湾、「満洲」への植民政策と連動し、日本植民通信社や海外社を通じて絵画や随筆による植民促進の「広報活動」を展開するという、のちの敗戦とともに国家の滅亡と「亡国」状況の招来へ加担した最前線の位置にいた画家だったからだ。しまいには、1942年(昭和17)に当時首相だった東條英機Click!の肖像画を制作するなど、その政治思想を直截的に反映した仕事(美術的ではなく)や、「亡国」思想を体現する一貫した活動を展開していたからだろう。
 だが、村田丹下が取り組んだもうひとつの側面として、北海道の大雪山系あるいは層雲峡などをテーマに、さまざまな広報・宣伝活動を行ったことでも、特に地元の北海道では知られていたようだ。この宣伝活動は、彼が南米や中国の「満洲」あるいは朝鮮半島・台湾などで、植民地への移民を促進するために行った宣伝手法を応用した、観光客や登山家などの誘致活動ともいえるべきもので、美術はもちろん文学や音楽など当時のメディアを総動員した、一大PR活動であり観光誘致のプロモーションだった。
 村田は、当時の流行作家や音楽家などを招いては、大雪山系と周辺域をみずから案内してまわり、その景観を小説や随筆に、あるいは歌や音楽に取りあげてもらおうと企画している。同時に、自身は大雪山界隈の風景画を多作し、多くの人々の目にとまるようアピールしつづけた。中でも有名なエピソードは、野口雨情を層雲峡に案内し、いまでも語り草になっているらしい『層雲峡小唄』をつくらせたことだろうか。
 これほど大雪山系+層雲峡の宣伝に熱心な村田丹下だが、彼は北海道の生まれではない。1896年(明治29)に、岩手県磐井郡花泉町で生まれた彼は、1906年(明治39)の10歳のとき北海道旭川町へと移住している。18歳で東京へとやってきて、和田英作Click!満谷国四郎Click!に師事して画家をめざしている。1924年(大正13)に朝鮮旅行をし、現地の京成日報社の協力で個展を開くなど、このころから植民地への興味が湧いていたものか、「植民地通信」のようなエッセイを書きはじめている。1925年(大正14)になると南半球旅行に出発し、特に日本人移民が多かった南米に長く滞在しているようだ。
 1926年(大正15)に帰国後、北海道を訪れる機会が増えたものか、大雪山系や旭川の層雲峡をモチーフにした作品を描きはじめている。北海道への観光誘致(入植誘致も含む?)に、注力しはじめたのもこのころからだ。1930年(昭和5)には、野口雨情を招き大雪山系の雄大な景色や、層雲峡から黒岳を案内して「黒岳石室」に宿泊させたりしている。また、同年には台湾へ旅行し、朝鮮につづき同地でも個展を開催している。
 話が前後するが南米からの帰国後、村田丹下が住んでいたのは1927年(昭和2)現在で赤坂区丹後町103番地(現・港区赤坂4丁目)で、ほどなく小石川区宮下町22番地(現・文京区千石3~4丁目)に転居している。この住居も短く、1933年(昭和8)には豊島区巣鴨3丁目27番地(現・北大塚2丁目)へと転居しているが、ここも2年余しか住んでおらず、すぐに戦前の最終的な住居となる淀橋区下落合1丁目501番地(現・下落合3丁目)に引っ越してきている。
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 このころの村田丹下の芸術観……というよりは、彼の政治思想あるいは社会思想をよく表した文章が残っている。1939年(昭和14)に詩と美術社から出版された「詩と美術」12月号に掲載された、村田丹下によるエッセイ『思ひ出す儘に』から少し引用してみよう。
  
 此の時に当たり、文壇の一流どこころ(ママ)の諸氏に依つて、「文芸報国」なる新団体が過般満ビルアジアで結成された。明皇紀二千六百年建国祭を期して、文芸道に一転機を齎さうとしてゐる。現に可成り文壇各層の人々が、時局物を紹介され国策線に添へる仕事をして来たのだが、更に力強く、層一層現文壇界に傑出した新時流の文芸を造り出さうと努めつゝあるのは誠に時宜を得た企てなりと微笑ましく思ふのである。/翻つて我が画壇にも、文壇に比して遅れ走せ乍ら、「美術報国」新団体を、華々しく結成して、新時局に適応した仕事をドシドシやらかしては何うかと願ふ次第である。/最も(ママ)是迄には、事変を反映した物を、さしゑ画家や従軍作家群が社界的(ママ)に紹介に努めて来たのだが、然し実際は今後の新段階に入つて、更に一段と飛躍して報国的な依り(ママ)よい絵画を創作せねば成らぬであらふ事を痛切に希ふ者(ママ)である。
  
 なんだか、東條英機の演説草稿を読んでいるような気がしてくるが、要するに芸術は政治(軍部)、あるいはそれによってもたらされた時局(軍国主義)に徹底して隷属しなければならぬという、古くからの独裁国家で繰り返されたプロパガンダを改めて唱えているわけだ。いまの若い子たちにもわかりやすくいえば、現代の中国や北朝鮮における芸術全般の表現環境といえば、およそ理解が早いだろうか。裏返せば、政府や時局に反する表現や作品を創造した芸術家は、発表機会をなくすか配給を止められるか、さらには検挙されて拷問・起訴のうえ監獄へ放りこまれてもしかたがない……ということだ。
 このころから、村田丹下は洋画の画壇では中堅画家としての地位が定着したものか、あるいは当局や軍部の肝いりかは不明だが、国内の個展でも多くの観客を呼べるようになっていく。1938年(昭和13)には、日本橋白木屋Click!(のち日本橋東急百貨店)で「リオデジャネイロ風景画」展を開催している。そして翌1940年(昭和15)になると、みずから率先して従軍画家を志願し中国へ「出征」している。また、個展も国内各地で開催し、東京だけでも丸ビルや三越、銀座「村の茶屋」などが発表の舞台となっている。
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 1941年(昭和16)になると、政府や軍部主導の文化翼賛会に参画し、また在京岩手文化促進会の発足を主導している。同時に、「満洲」の新京では関東軍の肝いりで「日満支親善風景画」展を開催。そして、中国への「出征」からもどった翌1942年(昭和17)には、首相だった東條英機の肖像画を制作している。
 さて、この時期に住んでいた下落合1丁目501番地の村田丹下アトリエは、目白福音教会Click!の東に隣接する区画の住宅だった。自身のアトリエとして、古家を解体し下落合へ新築したものか、それとも一般の住宅(貸家?)を借りたものかはさだかでないが、空中写真で上空から見るかぎりは、屋敷林に囲まれた洋館仕様だったようだ。目白通りから、路地を少し南へ入ったところの右手(西側)に建っていたアトリエで、同アトリエの前からこの路地を道なりに140mほど南へ歩いていくと、中村彝アトリエClick!(当時は鈴木誠アトリエClick!)の前にでて、林泉園Click!への谷戸へと突きあたる。
 村田丹下が、なぜ目白通り沿いのこの位置にアトリエを設定したかは不明だが、恩師だった満谷国四郎Click!を訪ねる際にでも、下落合の街並みになじみができたのだろうか。だが、彼が下落合に転居してきたのは、満谷国四郎Click!が死去した1936年(昭和11)7月から3ヶ月後の、同年10月のことだった。それとも、画家のアトリエが集中していた当時の下落合へ、自身もアトリエをかまえたくなったという単純な理由からだろうか。けれども、画家同士が緊密に交流していた下落合の町内だが、村田丹下の影はきわめて薄い。これまで調べてきた、各時代を通じての多種多様な地元に関する資料にも、「下落合の村田丹下アトリエ」というワードは一度も見かけなかった。
 外地(日本の植民地)や北海道旭川、岩手などへ、しじゅう出かけていた村田丹下は、下落合に住んだ数多くの画家たちには、きわめて影の薄い印象しか与えなかったものだろうか。それとも、芸術至上主義やプロレタリア美術の関係者が多かった落合地域では、政府と密着した軍国主義思想をもつ彼の存在は、周囲の画家たちからことさら忌避され煙たがられて、あるいは強い反感をかい、意識的にオミットされて語り継がれることがなかったのかもしれない。北海道の旭川新聞社にいた、池袋モンパルナスの小熊秀雄Click!流にいえば、「死んでも溶けることを欲しない」(『夜の床の歌』)と、村田丹下は死んでも反抗・抵抗Click!してやりたくなるような人物だったように映る。
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 1945年(昭和20)4月13日夜半の、鉄道駅や幹線道路沿いをねらった第1次山手空襲Click!で、目白通り沿いの村田丹下アトリエは廃塵に帰した。敗戦とともに東京を離れ、岩手県で山岳風景画家あるいは静物画家として制作活動をつづけ、北海道の大雪山系の風景も盛んに描いている。敗戦直後の1947年(昭和22)には、なにごともなかったかのように一関町の福原デパート(現・ふくはら)で個展を開催。1975年(昭和50)には、花巻町から文化功労者として表彰されているようだ。戦争で文化財を破壊し国家滅亡へ扶翼した「亡国」論者が、なぜ「文化功労者」なのかまったく意味不明で理解不能だが、再び東京にもアトリエをかまえたようで、1982年(昭和57)に死去するまで世田谷区代田2丁目883番地に住んでいた。

◆写真上:下落合1丁目501番地、目白通り沿いの村田丹下アトリエ跡(右手)。
◆写真中上は、1925年(大正14)に制作された村田丹下のイラスト『セレナード』。中上は、1929年(昭和4)制作の村田丹下『静物』。中下は、1929年(昭和4)にエッセイに添えられた同『朝鮮風景』。は、戦前の制作とみられる同『室蘭』。
◆写真中下は、1930年(昭和5)に野口雨情(右)を層雲峡から黒岳石室に案内した村田丹下(左)。中上、戦後の1960年(昭和35)に制作された村田丹下『静物』。中下は、戦後の同『大雪山黒岳』(制作年不詳)。は、同『大雪山』(制作年不詳)。
◆写真下は、昭和初期の村田丹下()と晩年()。中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる村田丹下アトリエ。中下は、1945年(昭和20)4月2日にF13Click!から撮影された村田アトリエ。は、1945年(昭和20)5月17日撮影の村田アトリエ。建物が残っているように見えるが、4月13日夜半の第1次山手空襲で延焼しているとみられる。

愛娘のいる下落合が気になる尾崎咢堂。

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 「議会政治の父」あるいは「憲政の神様」といわれた尾崎行雄(尾崎咢堂)Click!は、愛娘を下落合へ嫁がせている。ひとりは、下落合1146番地の衆議院議員だった佐々木久二Click!と結婚した姉の尾崎清香Click!で、もうひとりは下落合から転居したばかりの相馬孟胤邸Click!の長男・相馬恵胤と結婚した妹の尾崎雪香Click!だ。
 華族の相馬家には遠慮したのか、雪香にあてた手紙は少ないが、佐々木家で白百合幼稚園Click!を経営していた清香にあてた手紙は大量に残されており、ほとんど数日おきに投函されていた時期もある。また、尾崎行雄は下落合で清香と緊密だった九条武子Click!とも親しかったらしく、最後に「九条夫人に面会の節は……」というような一筆を添えた、彼女に「よろしくね」的な手紙もいくつか残されている。
 教科書にも載る尾崎行雄(咢堂)について、もはや説明など不要だろう。明治の議会政治にはじまり、一時期は政権与党に所属したものの、あとはすべて野党または無所属で反藩閥政治・憲政擁護を唱え、ヨーロッパ視察を終えて帰国してからは反軍拡・反軍国主義を解き、日中戦争がはじまると軍部を批判し政党から干されて無所属議員となり、五一五事件Click!二二六事件Click!では「国賊」呼ばわりされながら軍の政治介入を批判し、政党政治や議会政治そのものを破壊する近衛文麿Click!東條英機Click!の大政翼賛政治を批判して、多くの学者たちClick!と同様に「不敬罪」をデッチ上げられて検挙され、戦時中は軽井沢の「莫哀山荘」に引きこもるが、1942年(昭和17)に政界から無視され孤立無援で推薦人なしの衆議院議員選挙(翼賛選挙)でも厭戦・反軍国主義の票を集めて当選、敗戦後は連続してトップ当選をはたし一貫して衆議院議員(無所属)だった人物だ。ついでに、いま東京各地で見られる米国のハナミズキ(アメリカヤマボウシ)は、尾崎が東京市長だった大正初期に、ワシントンD.C.へ贈ったソメイヨシノの返礼として東京市へ贈られたものだ。
 関東大震災Click!で品川の自邸が崩壊した尾崎行雄は軽井沢に避難し、そこで「山荘」をかまえ、議会や所用のあるときは東京などへ出て、娘宅や各地のホテルに泊まる生活を送っていた。以下、1956年(昭和31)刊行の『尾崎咢堂全集/第12巻』(公論社)より。
  
 大正十四年六月十二日 軽井沢より下落合へ
 清香殿/拝復 いつ来ますか、歌ハ出来たが来なければ見せません。次に来る時上等の鶏の新しき卵があるなら五つばかり持参して下さい。カヘサセテ(暖めさせる事)見やうと思ひます。/タラは益々美味になりました。/九條様にもタラの味を御話し下さい。/ツツヂが立派に咲きました。一つだけ、/火の如くもゆる杜鵑花に見入りつゝ人の心の色を憐れむ
  
 この時期、佐々木久二邸の南庭には畑がつくられ、農学校へ通う書生にニワトリClick!も飼わせて、新鮮な卵をとっていた。大正期の佐々木邸は、南庭が妙正寺川へとつづく緩傾斜で、のちに畑地のあとには白百合幼稚園が建設されることになる。また、邸内にあった屋内湧水プールClick!も、建設されるかされないかの時期だろう。手紙にある「タラ」とは、軽井沢でとれる山菜“タラの芽”のことで、九条武子が好きなら送るよ……と書いている。清香によれば、父親は「タラの芽のおしたし」が大好物だったようだ。
 軽井沢にいると、なにやら別荘生活でも送っているように映るが、尾崎行雄は議会がなければ各地での演説会に追われる日々を送っており、軽井沢の自宅へ帰るとさっそく娘に手紙を書いていた。この年の秋は、信州各地をまわっては自宅にもどる生活だった。
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 大正十四年十月八日 軽井沢より下落合へ
 啓、栗は御身帰京の翌日よりバラバラ落始め候。(和歌略) 木の葉も沢山落ち候/山荘の道は落葉に埋れともせゝらぎのみは清く掃ひて/之を自分の仕事に致居候。ヲンドルの工合ハ益々宜しき故今日益田老へ(註、益田孝氏)重ねて謝状を送り候(和歌略)/与謝野氏夫婦ハ紅葉時節に来宿する由、御身ハ手伝ひに参れぬにや。/武子夫人ハ尚在京か
  
 清香が軽井沢を訪ねたあと投函された手紙のようだが、「与謝野氏夫婦」とは与謝野鉄幹Click!与謝野晶子Click!夫妻のことであり、政治・社会思想もそうだが和歌を通じても親しかったのだろう。九条武子Click!も歌詠みなので、「ヲンドルで暖かくしてるから、もし時間があれば遊びにこないかどうか、ちょっと訊いてみて」と、暗に娘へ頼んでいる。華族にもかかわらず、さまざまな社会事業を起ち上げボランティア活動に邁進する彼女に対して、尾崎行雄は常に好意的だ。なお、酷寒の軽井沢でも快適にすごせたせいか、清香は下落合の佐々木邸にも「ヲンドル」を導入している。
 10ヶ月後になるが、多忙な九条武子Click!は親しい清香あてに、グチめいた手紙を寄こしている。1926年(大正)7月2日の九条武子から佐々木清香あての、長文の手紙より。
  
 ほんとに私はつまらなく暮らしてをります。たゞあくせくと/歌も自分でいやだとおもひますのさえ強いて発表しなければならないつらさもつくづくしらされまして、これでは何の為に自分があるのかと、ときどきかへり見て自分で自分を気の毒がつております。まあ他人様に御同情を強ゆるのでなく世話が御座いませんから。/つまらぬこと、しかも本来の乱筆にてかきちらし御ゆるし遊ばしていたゞき度、のみならず、御らむの後はこまかに御きりすて下さいませ何卒。 御機げむよく/たけ子
  
 清香は「こまかに御きりすて」ることなく、彼女の手紙をたいせつに保存していた。上掲の引用は、長文の末尾にあたる部分だが、自身の思想性と特権階級の華族をつづける矛盾とに、ついグチをこぼした九条武子Click!にはめずらしい親友への本音手紙だろう。
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 尾崎行雄は、白百合幼稚園の命名者でもあった。同園創立のころ、1927年(昭和2)の演説会や講演会で多忙なあい間をぬって書かれた、娘への手紙から引用してみよう。
  
 昭和二年二月二十五日 神奈川県金沢町より下落合へ
 復啓 福井名物の魚賞味致居候(中略) 〇幼稚園の命名は困難に候/白百合、すみれ、鈴蘭、昭和、落合/などは如何。雪香にも考へるやう話置候
  
 この当時は、南庭には畑のほかにダンスホールを建設して、家族や友人たちで楽しんでいた佐々木邸だが、幼稚園の開設を勧める知人があり、子ども好きな佐々木久二がさっそく役所から開園許可をもらい「白百合幼稚園」と命名している。なお、この時点で尾崎雪香は相馬恵胤との結婚前で、父親といっしょに暮していた時代だ。
 ここで少し余談だが、下落合には白百合幼稚園の出身者が少なくない。空襲で全焼した同幼稚園だが、戦後も同じ敷地に再建され周辺の子どもたちを引きつづき集めていた。園長だった佐々木清香の話も、卒園した人たちからうかがっているが、そこでしばしば話が嚙みあわないことがあった。わたしは、白百合幼稚園が当初開園していた下落合1146番地=佐々木邸のつもりで話していると、卒園者は高良興生院Click!の西隣りにあった移転後の敷地(下落合1820番地)の風情を話される。同幼稚園がいつ移転したのかを調べてみると、どうやら1935年(昭和10)前後らしい。白百合幼稚園の元の場所と、おそらく園児が増えて移転した敷地とは150mほどの隔たりがある。新しい園舎は、「玄米正食」=macrobiotique(マークロビオティク)の創立者で有名な、桜沢如一・里真夫妻Click!がかつて住んでいたマンションの向かいにあたる敷地に建っていた。
 1927年(昭和2)の暮れ、佐々木清香は洗礼をうけキリスト教に入信している。尾崎行雄のネーミング提案から「白百合」を選んだのも、すでに同年の初めからそのような心づもりがあったのかもしれない。だが、父親は政治家で思想家でもあったためか宗教を拒否し、清香は「信仰の話をするとこわい顔をし」たと書き残している。
 このあと、尾崎行雄はヨーロッパの視察旅行に出発しているが、1933年(昭和8)に帰国すると、より頻繁に清香との交流がつづくことになる。手紙にも、仕事の合い間に「ユックリ共に遊びたく候」と書くほど、清香との時間をたいせつにしていたようだ。また、尾崎行雄はアンコウ鍋に目がなかったらしく、娘がアンコウ鍋をつくると聞くと下落合へやってきた。このころ、佐々木邸では父親からの要望で中国からの留学生を預かっており、女子は羽仁吉一・もと子夫妻Click!と相談して自由学園Click!に入学させたりしている。
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天津市長広田弘毅咢堂1939佐々木邸.jpg
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尾崎咢堂全集全12巻1956公論社.jpg
 その後、佐々木家へ「政界の近状朝野共に痛嘆に堪へざるもの多し」と書き送るほど、日本は軍国主義によるファシズム状況を招来し、近衛文麿Click!の日独伊三国軍事同盟に反対し、東條英機Click!の選挙妨害では「不敬罪」をデッチ上げられ検挙(1942年)されるが、一審では有罪だったものの1944年(昭和19)の最終審では無罪判決を勝ちとっている。だが、無罪判決が下りたころには、尾崎行雄が「万一米国と開戦にでもなれば」と懸念しつづけていた国家の破滅・滅亡という、未曽有の「亡国」状況がすぐ目前に迫っていた。

◆写真上:下落合の白百合幼稚園で開催されたクリスマスパーティーで、同園のOB/OGから三角帽をかぶせられ、「………」と憮然とした表情の「憲政の神様」こと尾崎行雄(咢堂)。左が愛娘で同園長の清香と、右が娘婿の佐々木久二。
◆写真中上は、1935年(昭和10)作成の「淀橋区詳細図」にみる下落合1146番地の白百合幼稚園。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合1820番地へ移転後の同幼稚園。は、下落合1820番地の同幼稚園跡の現状(右手)。
◆写真中下は、雑司ヶ谷道(新井薬師道)Click!に面した下落合1146番地の佐々木久二邸正門。は、同邸の母家。は、同邸跡の現状(左手全体)。
◆写真下は、1937年(昭和12)に乗鞍岳の山頂付近で撮影された尾崎行雄。中上は、1939年(昭和14)に撮影された佐々木邸で天津市市長(左)と佐々木久二の学友である広田弘毅(中)と尾崎行雄(右)。中下は、1941年(昭和16)に議会では孤立無援となったころ撮影された尾崎。は、1956年(昭和31)に公論社から出版された『尾崎咢堂全集/全12巻』。
おまけ
 1930年(昭和5)に開かれた白百合幼稚園クリスマス会の記念写真で、沖野岩三郎Click!の孫が写る。沖野は「園長がクリスチャンだったから」と入園させた理由を書いているが、尾崎行雄の長女・清香だったことは知らなかったようで触れていない。沖野の孫の両親=息子夫婦は、ふたりともヨーロッパへ留学中で、孫は沖野岩三郎・ハル夫妻が育てていた。
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