小刀で自宅の柱を削る二瓶徳松(二瓶等)。

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 今年も拙サイトをご訪問いただき、ありがとうございました。年末に鼻風邪をひいてしまいましたが、みなさまもお身体に気をつけて、よいお年をお迎えください。
  
 少し前に、夏目利政Click!が借地権をもつ敷地にアトリエを建設した、曾宮一念Click!による『風景』Click!(1920年)について書いた記事で引用したが、洲崎義郎Click!あてに中村彝Click!が1920年(大正9)7月21日付けで書いた手紙の中に、下落合584番地へアトリエClick!を建設して住んでいた二瓶徳松(のち二瓶等・二瓶等観)Click!について触れた箇所がある。
  
 曾宮君は夏目君が借地権を持つて居る地所を借り受けて、そこへ画室を立(ママ:建)てることになりました。二瓶君の画室の少し先の谷の上で大変眺望のいゝ処です。
  
 「二瓶君」こと二瓶徳松は、中村彝『芸術の無限感』Click!には何度か登場し、下落合804番地の鶴田吾郎Click!や下落合800番地の鈴木良三Click!とも親しかった様子が、洲崎義郎あての手紙(1920年4月20日付け)に記録されている。
 中村彝や満谷国四郎Click!を師と仰いだ、文展・帝展系の画家たちと交流した二瓶徳松だが、同時に佐伯祐三Click!とも親しく佐伯アトリエにも頻繁に出入りしており、彼は同アトリエで開かれたクリスマスパーティーClick!にも参加Click!している。佐伯祐三と二瓶徳松は、1918年(大正7)に東京美術学校西洋画科へ入学した級友同士であり、ほかに下落合1599番地の江藤純平Click!山田新一Click!とも同級生だった。
 下落合584番地(のち下落合2丁目584番地)に建っていた二瓶アトリエだが、下落合464番地の中村彝アトリエよりも、かなり大きな建築であることが以前から気になっていた。二瓶徳松は北海道札幌の出身で、北海中学校(現・北海高等学校)を卒業したあと、東京へやってきて美校へ入学しているが、かなり裕福な家庭環境だったのだろうと想像していた。そこで、二瓶徳松の子ども時代のことを、少し詳しく調べてみたくなった。
 1897年(明治30)に札幌で生まれた二瓶徳松は、父親から絵画(というかポンチ絵=漫画)の手ほどきを受けている。祖父も父親も絵画が好きで、正月に揚げる1畳サイズほどの凧(たこ)や、祭りの雪洞(ぼんぼり)などに絵を添えては評判になるほどだったという。そんな親たちの影響を受け、二瓶徳松も幼いころから絵や版画などに親しんで育った。そのころの絵の具は、薬局で売っている顔料(粉絵の具)のみしかなく、それを5~6色ほど手に入れて小皿に水で溶いては画用紙に塗っていた。
 二瓶少年は、家にいるときは絵を描いているか、木板に版画を刻んでいるか、壁にクギを使って“壁画”を描いているか、あるいは小刀で自宅の柱に彫刻するかしてすごしていた。もちろん、壁にキズをつける“壁画”や、柱を削る“彫刻”は親からこっぴどく叱られたが、いくら叱られてもまったく止めなかったため、しまいには親も呆れてなにもいわなくなったという。柱を小刀で削っているとき、もう少しで失明しそうになった事故も起きていた。1940年(昭和15)に新天地社から刊行された「新天地」10月号収録の、二瓶等観『絵画を初める迄で-或る回想』から引用してみよう。
  
 今も残つてゐる眉の傷もこの悪戯の名残だ。其日は丁度夕方から父も母も用事で外出して家には祖母と下男と三人だけだつた。退屈でもありそろそろ例の悪戯が初まつて、柱の節の所が面白いので其廻りを小刀で削り出した。節が堅いので小刀が滑つてなかなか思ふ様に行かない、(ママ:。以下同) 祖母は危いからと再三留めたが、一向きかずに、尚もやつて居る内、下から上に削り上げた途端手もとが狂つて、どう滑つたか、自分の眉毛の少し上の所へ、ぶすつとやつてしまつた。小刀を投げ出して両手でさつと傷を押へたが、血がたらたらと流れてくる、全く驚いた、それこそもうちよつと下つたら、目は遠永(ママ:永遠)に光を感ずる事が出来なかつたわけだ。(カッコ内引用者註)
  
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 祖母は驚き、あわてて台所に張っていたクモの巣を集めてきて、それを二瓶少年の傷口に貼り包帯をしてくれた。クモの巣が止血にきくとは、ギリシャ時代から世界各地で伝承された民間療法で、実際にクモ糸のタンパク質が血液の凝固作用を促すことが今日の医学でも確認されている。もっとも、清潔で無毒なクモの糸に限られるようだが。
 祖母が大急ぎで集めたクモの糸は、台所の竈(かまど)の上に張っていたものらしく糸には煤(すす)がついていて、傷口から侵入した真っ黒な煤で、眉毛の上には刺青(いれずみ)のような傷跡が残ってしまったという。この大ケガのときは、さすがに両親からひどく怒られ、柱を小刀で削るのを少しは控えるようになったようだ。
 二瓶徳松は、なにかに集中すると周囲の声が聞こえなくなる性格Click!のようで、絵を描いているとき半鐘の音がするので、「また町のどこかで火を出したな」と気にせずに制作をつづけていると、血相を変えた母親が飛びこんできて、二瓶少年を家から外へつまみだした。外へでてみると、自宅の2~3軒隣りが火事だったという逸話が残っている。
 二瓶少年が洋画と接したのは、北海中学校へ進学したあと、北海道帝国大学に「黒白会」という絵画団体があり、その展覧会を観てからだった。その展覧会には、北大予科で教授をしていた有島武郎Click!や弟の有島生馬Click!三宅克己Click!らの作品が展示されており、彼は油彩画に大きな衝撃と感動を受けたと書いている。
 それまで盛んに描いていた水彩画が色褪せて見え、油彩の画道具一式が欲しくなった。当時、札幌にあったいちばん大きな書店のショウウィンドウには、油絵の具(フランス製)が展示されていたが、中学生にはとんでもなく高価で買えなかった。そこで、カネ持ちだった友人に絵筆や油絵の具を買わせ、二瓶徳松は友人も買ったから自分も欲しいと親にせがみ、とうとう油絵の具と絵筆、三脚など画道具一式を手に入れている。このエピソードからしても、二瓶家は札幌でかなり裕福な生活をしていた家庭だと想定できる。
 画道具を手に入れた二瓶少年は、さっそく友人とともにそれらを風呂敷に包んで札幌郊外へ写生に出かけ、気に入った風景を前にして三脚をすえている。けれども、油絵の具を使ったことがない彼らは、水彩絵の具が油絵の具に変わっただけだと「たかをくゝつて」考えていた。だから、描くのは水彩と同じ画用紙であり、布製のキャンバスのことなど知らなかった。そのときの様子を、前記の『絵画を初める迄で』から引用してみよう。
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 サツと色をつけては見たが、油が紙に吸ひ込んで絵具が少しも伸びない。これではいかんと思つてゴテツト絵具を筆に附けてやつて見たがやはり思ふ様に行かない、しようがないから水彩式に水筒の水を入れた、油に水を入れたからたまらない、絵具がブツブツになつて収拾出来なくなつた。実際閉口した、なんとか亦水分を取らなければ筆にも附かない、そこで亦水彩式に、ペロリと筆を舐めたからたまらない、口中油具く(ママ:臭く)なつていくら吐出しても、口を濯いでも駄目だ。今から考へると全く滑稽を通り越して馬鹿げた話だが、其時は大真面目だ、笑ふ所か泣き出しそうだ、二人共すつかりシヨゲて、ろくろく口もきかずに帰つてしまつた。(カッコ内引用者註)
  
 絵の具をペロリと舐めた二瓶少年だが、どうやら猛毒な重金属系の絵の具ではなかったらしく、その後、体調はなんともなかったようだ。
 当時、北海中学校には油絵を描く生徒はひとりもおらず、図画を教えていた教師は日本画が専門だった。また、洋画クラブ「黒白会」のある北大には知り合いもいないし、フランス製の油絵の具を売っていた書店に訊いても、使い方までは誰も知らなかった。せっかく手に入れた油絵の具を抱え、彼らはすっかり途方に暮れてしまった。
 ようやく、油絵の具の使い方が判明したのは、別のクラスにいた生徒の兄が東京で洋画の勉強をしていることを知り、その人物にあてて使い方を手紙で問い合わせ、ようやくとどいた返事を読んでからのことだ。こうして、油絵の具は溶剤となるオイルを用いて薄めることや、画用紙ではなく画布や板へ描くことなどを知ることができた。
 おそらく、それから溶剤やキャンバスを手に入れるために、二瓶少年たちは再び苦労をしたのではないかと思われるが、文章は油絵の具の使い方が判明したところで終わっている。もちろん、いちばん苦労したのは、親を説得して少なからぬおカネをださせることだったにちがいない。また、絵の具を飾っていた書店では売っていなかったらしい溶剤やキャンバスを、どこからか取り寄せることだったろう。
 下落合の二瓶等アトリエは、二度にわたる山手大空襲からも延焼をまぬがれ、戦後もそのままの姿で建っていた。一時期は、目白中学校Click!の美術教師だった清水七太郎Click!の紹介で、萬鉄五郎Click!が茅ヶ崎から転居してくる予定だったが病状の急激な悪化でかなわなかった。もし、萬鉄五郎が下落合に住んでいたら、二瓶等アトリエの柱のあちこちに、やたら小刀による彫刻がほどこされ、壁にはクギで描いた細かな線画が描かれていたのを発見しただろうか。それとも、二瓶徳松の妙な性癖は、中学時代のケガに懲りて消えていただろうか?
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 さて、二瓶徳松(二瓶等)の子どものころの逸話を聞かされた佐伯祐三が、「小刀はあかんで、柱ぎょうさん削んならカンナやないとあカンナ~」と自身のアトリエへ連れていき、細身になった柱Click!を自慢げに見せたかどうか、記録が見あたらないのでさだかでない。

◆写真上:1938年(昭和13)に中国で制作された、二瓶等観『秋(大連風景)』。
◆写真中上は、東京美術学校(現・東京藝術大学美術部)の卒制で描かれた二瓶徳松『自画像』。は、同アトリエ跡の現状。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる下落合584番地の二瓶アトリエ。西隣りまで、延焼の迫っていた様子がわかる。
◆写真中下は、カンナで削られた佐伯アトリエの屋根を支える柱束と方杖。は、1955年(昭和30)制作の二瓶等観『加賀山由子像』。は、戦後に新世紀展へ出品された二瓶等『瓊容像』。戦後は、再び二瓶等観から二瓶等へともどっているようだ。
◆写真下は、1976年(昭和51)にエクアドルで発行された野口英世の記念切手。原画は二瓶等で、角度を変えたバリエーション作品の『野口英世像』Click!を制作していたとみられる。中左は、1940年(昭和15)に発行された二瓶等観のエッセイが載る「新天地」10月号(新天地社)。中右は、二瓶等が挿画を担当した代表的な童話でE.マルロー・著/楠山正雄・訳『少年ルミと母親』(富山房)。は、同童話で数多く描かれた挿画の1枚。

村瀬泰雄証言にみる下落合の近衛町空襲。

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 先日、目白ヶ丘教会へおじゃまし牧師・野口哲哉様Click!からいただいた資料に、近衛町Click!の空襲についての証言記録があったので、きょうは同資料をもとに1945年(昭和20)の4月から5月にかけての惨禍を中心に書いてみたい。証言されているのは、目白ヶ丘教会の牧師館向かいに住んだ村瀬泰雄という方だ。
 落合地域は、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!と、同年5月25日夜半の第2次山手空襲Click!の二度にわたるB29の空襲(いわゆる「山手大空襲」Click!)にさらされている。4月13日から翌日未明にかけての空襲では、鉄道駅(目白駅や高田馬場駅など)や幹線道路(目白通りや早稲田通りなど)沿いに形成された繁華街、あるいは河川(旧・神田上水や妙正寺川)の両岸に集中していた工場地帯を目標に爆撃している。そこから燃え広がった火災が延焼をつづけ、落合地域の住宅街を徐々に焼いている。だが、二度目の5月25日から翌日未明にかけての空襲は、まがりなりにも目標を定めた「精密爆撃」Click!ではなく、東京大空襲Click!と同様の無差別な絨毯爆撃だった。
 両日の空襲の様子を、上掲の村瀬証言から引用してみよう。
  
 目白や下落合の大空襲は四月十五日(ママ)と五月二十五日です。四月の大空襲は江戸川橋あたりから目白・下落合方面に向かって焼けてきて、落合もほとんど丸焼けになりました。ただ目白通りから焼けてきた火が、わが家の三軒前で止まり、学習院昭和寮(現在の日立目白クラブ)を含め、十軒ほどが焼け残ったのです。/五月二十五日の大空襲は南方向の高田馬場方面から焼けてきました。日本軍の高射砲は高空を飛ぶ敵機まで届かず、下の方で破裂していましたが、日本の戦闘機がB29に体当たりして撃墜し、それが今の大正製薬あたりに墜落したのです。大きな敵機の光と小さな日本の戦闘機の光が体当たりする場面まで、よく見えたのを覚えています。
  
 1945年(昭和20)5月17日、4月13日夜半の空襲から約1ヶ月後、5月25日夜半の空襲の9日前に、米軍の偵察機F13Click!によって撮影された空中写真を見ると、下落合1丁目406番地(近衛町45号)の村瀬邸から4軒北側の海東邸(近衛町12号)で、延焼が止まっているのがわかる。また、「十軒ほど」と証言されているが、この時点で近衛町Click!のエリアでは30軒超の家々が焼け残っているのが見てとれる。また、5月25日夜半の空襲後でも、学習院昭和寮Click!を含めて近衛町では村瀬邸も入れ丘上の25軒ほどが延焼をまぬがれている。ここでは、村瀬邸の周辺に建っていた「十軒ほど」の建物のことだろう。
 また、日本の戦闘機が体当たりして撃墜したB29は、当時、松尾徳三様Click!が勤労動員で勤務し飛行機のマグネットを製造していた、学習院下の高田南町2丁目723番地(現・高田3丁目36番地)で操業していた国産電機工場Click!で、現状でいうと大正製薬本社の道路を隔てた北側にあたる敷地に墜落している。一方、体当たりした戦闘機は椎名町6丁目4130番地(現・南長崎4丁目2番地)の銭湯「仲の湯」のち「久の湯」Click!の釜場に墜落しているとみられ、パイロットは脱出したのか搭乗していなかった。
 当時の迎撃戦闘機は、20mmや12.7mmの機関砲では巨大なB29の機体をなかなか撃墜できないため、搭乗した戦闘機をB29に向けて体当たりさせ、パイロットは衝突する直前に操縦席からすばやく脱出して、パラシュートで降下するというきわどい戦法が用いられていた。熟練パイロットは即席で養成できないため、戦闘機は犠牲にしてもパイロットは生還させるという苦肉の策だった。戦後、下落合4丁目2108番地(現・中井2丁目)の旧・吉屋信子邸Click!に住んだ、元・陸軍航空隊飛行244戦隊の隊長で“B29撃墜王”の小林照彦少佐Click!が、同戦法について詳しい証言を残している。
 だが、体当たり攻撃では戦闘機の消耗が激しく、戦争末期には予定されていた「本土決戦」に備えて戦闘機を温存するために、機体の体当たりによるB29の迎撃戦も禁止されている。なお、同夜の空襲では下落合上空につづき、大久保上空でもB29が連続して撃墜され、機体は麹町区麹町1丁目(現・千代田区一番町)へと墜落している。
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 つづけて、村瀬証言から空襲の様子を引用してみよう。
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火が坂下からわが家のある高台の方に燃えてきたので、「女、子供は逃げろ。中学生以上の男は残って火を消せ」という命令でしたが、火を消そうにも消防自動車までボンボン燃えているので消しようがありません。町内会の「防空演習」で教わった「集中注水」「拡散注水」どころか、熱くてかなわないので、防空頭巾の上から防火用水の水をかぶってしのいだのです。大火災というのは空気をひどく乾燥させ、防空頭巾も洋服もあっという間に乾いてしまうのです。
  
 この教訓はわが家にも伝わっており、関東大震災Click!あるいは東京大空襲Click!の際には、大火災のそばにいると衣服が極端に乾燥し、飛んできた火の粉が付着しただけで一瞬のうちに火だるまClick!になった犠牲者が何人もいたという。
 それを防ぐためには、大火災から少しでも早く遠ざかるか、防火水槽があればその水をかぶってから逃げた。また、さえぎるものがない場所での大火災は、急激な空気の膨張による大火流(火事嵐)Click!が起きやすいため、可能なかぎり早く大火災の現場から遠ざかる必要があった。落合地域の近くでは、5月25日夜半の空襲時に付近住民の避難先だった池袋東口の根津山Click!で、人が巻きあげられるほどの火事嵐が発生しているとみられる。
 貴重な村瀬証言から、つづけて5月25日夜半の様子を引用してみよう。
  
 先に避難した母や姉妹たちが心配で、ようすを見に行ったところ、今の下落合三丁目交番や、近くの道路の真ん中にある二本の大ケヤキ(現在は一本のみ残る)あたりの四月の空襲の焼け跡に、目白ヶ丘教会の熊野(ゆや)牧師の奥様やお嬢様の順子さん、その他大勢の婦女子の皆さんと一緒に、憔悴しきった顔をして地べたにぺたんと座っていたのを見て、本当にホッとしたものです。/幸い、坂の下から焼き尽くしてきた火は、学習院昭和寮(現在日立目白クラブ)敷地内の森に移ってそこで止まったので、四月の空襲で焼け残った昭和寮をはじめ、わが家一帯の十軒ほどは、今度も焼けずに助かったのでした。
  
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 近衛町通りにあった、近衛旧邸Click!の馬車廻しに植えられた2本の大ケヤキは、現在も同じ通りで健在だ。当初は、馬車廻しにあった双子の大ケヤキだが、1955年(昭和30)ごろ西側のケヤキに落雷Click!して樹勢が急激に衰えたため、樹の勢力を回復させるために東側のケヤキを残し、馬車廻しから20mほど南の道端へ移植している。(冒頭写真)
 また、落雷したロータリーの位置に残された東側のケヤキには、雷神の神威が示される幸運にめぐまれた樹木Click!(関東解釈)、ないしは菅公(天神)の怒りがどこまでも近衛家(藤原氏)を追いかけてくる「最凶」のケヤキ(関西解釈)としてw、その後、注連縄が張られることが多くなった。なお、双子の樹木はもちろんケヤキなのだが、なぜか戦前から通称で「二本エノキ」と呼びならわされていたことが伝わている。
 さて、村瀬家の被害はどうだったのだろうか。以前にも証言を一部引用しているが、改めて村瀬邸の向かいにあたる目白ヶ丘教会牧師館の被害も含めて見てみよう。
  
 もちろん、焼夷弾はわが家にも落ちましたが、幸運にもこれは不発弾でした。機関銃の弾は二階の屋根を通して畳で止まり、家族に怪我はありませんでした。さらにB29が撃墜する直前に投下したものか、250キロ爆弾が、先ほど述べた下落合三丁目交番近くの道路の真ん中にある二本の大ケヤキのそばに落ち、その爆風で大きな庭石がわが家のお向かいの目白ヶ丘教会牧師館の庭まで飛んできました。幸い怪我人はなかったんですが、もし人間に当たっていたらおしまいという大石でした。
  
 前回も書いたが、この250キロ爆弾は旧・藤田本邸Click!敷地(近衛町2号)の南隣りに建っていた、下落合1丁目417番地の深田謙介邸(近衛町9号)を直撃し、一家は疎開中だったのだろう、留守居をまかされていたとみられる女中さんがひとり爆死している。その威力はすさまじく、深田邸と牧師館は直線距離で170mも離れているにもかかわらず被害を受けている。また、深田邸から2軒西隣りにあたる藤田孝様Click!(近衛町7号)の邸も強烈な爆風にさらされたが、設計が頑丈な造りだったために倒壊をせずにすんだというエピソードは、すでに初期の拙記事Click!でもご紹介していた。
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 250キロ爆弾の被害については、下落合1丁目404番地(近衛町5号)に住んだ高橋蔦枝という方も記録している。“落合の昔を語る集い”による文集『私たちの下落合』(2006年)に収録された高橋蔦枝「思い出すことあれこれ」によれば、「『二本エノキ』(双子ケヤキ)のすぐ前の深田邸には爆弾が落ち、あとには大きな穴があきました。私の家でも、爆弾の爆風の通り道になった窓のガラスは割れ、障子やふすまが全部倒されました」と証言している。爆弾が着弾した深田邸から高橋邸(田村邸)までは、直線距離で100m弱ほどは離れていた。

◆写真上:近衛町に残る、近衛旧邸の馬車廻しに植えられた双子の大ケヤキ(通称:二本エノキ)。1955年(昭和30)ごろに西側のケヤキに落雷して衰弱したため、同ケヤキが20mほど南の近衛町通り沿いへ移植されている。以来、落雷地点のロータリーに残る大ケヤキには、神威が宿る樹とされたものか注連縄が張られている。
◆写真中上は、1945年(昭和20)5月25日夜半に下落合上空で戦闘機の体当たり攻撃を受け、学習院下の国産電機へ墜落するB29。小石川に住んでいたカメラマンが、たまたま同夜に撮影していた。は、1931年(昭和6)に撮影された竣工直後の国産電機工場。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる近衛町。
◆写真中下は、1945年(昭和20)4月2日に偵察機F13から撮影された空襲前の最後とみられる近衛町の姿。は、第2次山手空襲直前の同年5月17日に撮影された近衛町の状況。は、敗戦後の1947年(昭和22)撮影の近衛町。
◆写真下は、1955年(昭和30)に撮影された双子ケヤキ。落雷した西側ケヤキに、枝葉の勢いがなく枯死しかけているのがわかる。中左は、下落合1丁目492番地にある日本聖書神学校Click!の寮内に住んでいた堀潔Click!の描く双子のケヤキと目白ヶ丘教会(制作年不詳)。中右は、2006年(平成18)に出版された“落合の昔を語る集い”の文集『私たちの下落合』。は、村瀬邸の向かいに位置する目白ヶ丘教会牧師館(近衛町35号)の現状。
おまけ
 上から下へM69集束焼夷弾、250キロ爆弾(不発弾)、1トン爆弾。焼夷弾と250キロ爆弾はおもに住宅街へ投下されたが、1トン爆弾は工業地帯の空襲に用いられた。なお、下落合では焼夷弾からバラまかれた六角形の燃え殻を、花立てClick!にされていたお宅もあった。
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小石川駕籠町から下落合への目白ヶ丘教会。

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 先日、目白ヶ丘教会Click!の牧師・野口哲哉様にお声がけいただき、同教会の100周年記念で出版された資料類などをいただいた。当日は教会開放の「オープンチャーチ」の日で、模擬店なども出てたいへん賑やかだったが、所用があったのでうしろ髪を引かれながら目白駅へと向かった。ずいぶん以前、遠藤新Click!設計による教会内部を拝見させていただいたが、資料を拝見すると古賀公一牧師の時代だったろうか。
 目白ヶ丘教会の前身は、1911年(明治44)に小石川区(現・文京区の一部)西原町39番地の民家で小石川バプテスト教会(のち日本バプテスト小石川教会)として誕生している。1921年(大正10)に小石川区駕籠町58番地に会堂用の敷地を確保すると、教会堂や幼稚園舎、宣教師館、牧師館、学舎(寄宿舎)などを建設している。関東大震災Click!をへて、戦時色が強まるキナ臭い昭和期に入ると言論・出版・集会の自由がなくなり、各地のキリスト教会と同様に、小石川教会も当局からさまざまな圧力や嫌がらせを受けることになった。1941年(昭和16)に、全国のキリスト教会が再編されると、日本バプテスト小石川教会はカタカナなしの日本基督教団小石川駕籠町教会へと改名している(させられている)。
 日米戦がはじまると、駕籠町の教会に隣接していた理化学研究所より、兵器増産のために教会敷地を提供するよう迫られている。教会は個人の所有物ではないので、代替地を用意してくれればすぐに移転すると回答したが、移転の話が進まないうちに理化学研究所側は教会敷地へ侵入し、勝手に学舎(寄宿舎)などを占拠しはじめている。しばらくすると、同教会へ特高Click!がやってきて、さっそく恫喝をはじめた。
 その様子を、2013年(平成25)に日本バプテストキリスト教 目白ヶ丘教会から出版された、『宣教100周年記念文集』収録の熊野すま子「思い出すままに」より。
  
 ある日、特高という名の厳しい目つきの人が玄関に現れて、「一日も早く、家を理研に明け渡しなさい」と言いました。「私個人の者(ママ:物)ではない土地と家なのですが、こうした時だから替わりをくだされば引っ越します」と申しますと、「この国賊め、国の命令に従わん奴!」等と、大変な罵詈雑言でした。ところが、急に声をやわらげての「あんたには骨折り料として幾らか貰ってあげる」云々に、今度は熊野(清樹牧師)が声を厳しく「何と言うことですか、そんな不正なことをする人々を取り締まる役があなたの仕事でしょう。わかりました。私の兄の親友で、海軍少将の人が海軍省におられるので、早速訪ねて、相談してきます」と申しますと、急に態度が代わり、「理研と話し合ってきます」と言って立ち去りました。熊野は、早速、海軍省に出かけて、面会を申し込み、幸いお会いして話をする事が出来、「そんなことを国から命令することはない」と伺って、安心して帰宅しました。(カッコ内引用者註)
  
 このあと、熊野夫妻は教会の移転先を探して東京各地を歩きまわるが、最終的には目白駅も近い近衛町35号Click!、すなわち下落合1丁目415番地に建っていた旧・今井清七邸に落ち着くことになった。移転は、戦時下なのでトラックが手配できず、引っ越し荷物を牛車に載せては何度も往復しながら、駕籠町から淀橋区(現・新宿区の一部)下落合へと運んでいる。移転作業は1944年(昭和19)4月7日にスタートし、4月17日にようやく作業が終了するなど10日間もかかった。この近衛町の今井清七について、1932年(昭和7)に刊行された『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)では、次のように紹介されている。
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 今井商店/今井醸造(株)取締役 今井清七  下落合四七五(ママ:四一五)
 新潟県人今井武七氏の三男にして明治十七年十一月を以て出生、昭和四年家督を相続す、先是明治四十一年長崎高等商業学校を卒業し爾来前掲各会社を主宰す、家庭夫人タイ子は同県人師尾市太郎氏の長女である。
  
 今井商店が起こした会社で、もっとも有名なのは北海道出身の方ならピンとくる、道内各地のデパート丸井今井だろう。『落合町誌』には今井清七しか収録されていないが、同邸には父親の今井武七もいっしょに住んでいた。邸内には蔵があり、室内の窓にはステンドグラスがいくつか用いられた、近衛町でもオシャレな洋館だった。ちなみに、同邸は以前から拙記事で詳しくご紹介してきた、あめりか屋Click!がライト風に設計・施工した杉卯七邸Click!(近衛町33号)の南隣りにあたる敷地だ。
 熊野夫妻は、ようやく下落合に落ち着き旧・今井邸を教会堂および牧師館とし、当初の教会名を「日本基督教団目白近衛町教会」と名づけている。だが、敗色が濃い新年を迎えると、二度にわたる山手大空襲Click!の日々が迫っていた。1945年(昭和20)4月13日夜半の空襲では、目白駅Click!と目白通り沿いが爆撃され、同年5月17日に米軍の偵察機F13Click!が撮影した空中写真を参照すると、当時の教会位置(旧・今井邸)から北へ4軒めまで、延焼が迫っていた様子を確認できる。また、北北西側では近衛町通りをはさみ、現在の目白ヶ丘教会が建っている敷地手前まで全焼している。このとき、M69集束焼夷弾Click!の1発が教会の庭に落ちたが不発弾だったらしく、現在でも庭に埋まったままだという。
 二度にわたる山手大空襲Click!の様子を、前出の『宣教100周年記念文集』に収録された、村瀬泰雄「目白ヶ丘教会の思い出」より、少し引用してみよう。
  
 一九四五年四月の空襲も五月の空襲も熊野先生、奥様、順子さんと共に燃え盛る炎を防空頭巾の頭から水をかぶり衣服に引火するのを防ぎながら逃げ歩いた鮮明な記憶がございます。幸い二度の空襲で十軒ばかり焼け残った中に牧師館も拙宅も入りました。周囲は全部丸焼です。四月の空襲で現在の教会近くの道路上の大きな家や欅の横のお宅に二百五十キロ爆弾が落ち、その爆風で一メートル四方もある大きな庭石が牧師館に飛んできて屋根を破り床まで落ちたそうです。拙宅にも機関銃の弾や焼夷弾が落ちましたが幸い不発でした。
  
 上記の文中で、「欅の横のお宅」とは大きな旧・藤田本邸Click!の南隣り、下落合1丁目417番地の深田謙介邸のことで、空襲では旧・藤田本邸寄りの北側に250キロ爆弾が直撃し、留守居をしていた女中さんがひとり爆死している。また、深田邸の2軒西隣りにあたる1923年(大正12)築の藤田孝様Click!の和洋折衷館は、強烈な爆風を受けたにもかかわらず大きな被害がなかったとうかがっている。なお、上記の同じ著者による空襲のより詳しい資料も、野口牧師よりいただいているので、次回にでも再度詳細な記事を書いてみたい。
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 敗戦直後から、目白ヶ丘教会は活動を再開している。日本基督教団を離脱した目白ヶ丘教会は、1949年(昭和24)に総会を開き日本バプテスト連盟に加盟することを決議した。また、このころから手狭になった旧・今井邸を牧師館とし、本格的な教会堂を建設する計画が始動している。1949年(昭和24)12月に、下落合1丁目416番地の敷地が用意でき、同年12月18日には起工式が行われている。敷地面積が442.3坪、会堂建坪1階が91.3坪、2階が13.5坪、延べ面積が104.8坪という設計計画だった。また、会堂とは別に教育館71.6坪も同時に建設されている。
 同教会堂を設計したのは、F.L.ライトClick!の弟子のひとり遠藤新Click!だった。鹿島建設が工事を手がけ、総経費が約1.180万円(現代の価値換算で1億円弱)ほどかかったという。その費用を捻出するため、米国からの献金のほか日本バプテスト連盟からの借入金、教会員からの寄付などがあてられた。それでも足りないため、徳川義親邸Click!の講堂を借りて音楽会を開催し、その収益金を建築費にまわしている。
 教会堂の工事中、設計監理にやってきた遠藤新に会った人物の証言が残っている。同じく、『宣教100周年記念文集』に収録された伊藤信夫「思いだすままに」より。
  
 一九五〇年のある日建築中の教会の写真を撮っていると、人力車で建築設計者の遠藤新さんが来られました。早速建築中の会堂をバックに写真撮影をお願いした処、快く応じて下さり、付いて来た方が新さんの服装を整え、後ろに下がって行かれました。後で分かった事ですが、この付き人は、新教育館を設計した新さんの次男の遠藤楽さんだったのです。遠藤新さん、楽さん、後に教育館建設委員となる私と三人で一緒に写真になっていたら面白かった、と新教育(ママ:館)建築中に遠藤楽さんとお話しをしました。
  
 この拙記事では、目白ヶ丘教会堂を建築中のモノクロ写真×2葉を掲載しているが、いずれも上記の著者が撮影したものだ。会堂の竣工後、教会の名称は「日本バプテスト基督教 目白ヶ丘教会」に変更されたが、ほどなく「基督」が読みにくいということで「キリスト」とカタカナ表記にして現在にいたっている。なお、設計者の遠藤新は、翌1951年(昭和26)6月に心臓病で死去しており、自身が設計した目白ヶ丘教会で初の葬儀が行われている。
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目白ヶ丘教会牧師館.JPG
 教会堂が竣工するまで、バプテスマ(浸礼・洗礼)用のプールがなかったため、多摩川や丹沢山塊の渓流でバプテスマ式が行われている。教会堂が完成する少し前、1950年(昭和25)3月には積雪の丹沢山塊Click!を流れる渓流で行われたらしいが、まるで深山で行われる山伏の荒行と変わらない。雪中行軍Click!ならぬ雪中バプテスマで、「天は我々を……」と風邪を引かれた方がいなかったかどうか、ちょっと心配だ。w ともあれ、メリー・クリスマス!

◆写真上:1950年(昭和25)に撮影された、下落合に建設中の目白ヶ丘教会。
◆写真中上は、移転前の駕籠町にあった目白バプテスト小石川教会。中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる今井邸。中下は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる目白ヶ丘教会。下左は、2012年(平成24)刊行の『目白ヶ丘教会宣教100年記念誌』。下右は、2013年(平成25)刊行の『宣教100周年記念文集』。
◆写真中下は、F.L.ライトとともに写る遠藤新(左から2人目)。は、目白ヶ丘教会堂と教育館の平面図。は、建築中の目白ヶ丘教会と設計者・遠藤新。
◆写真下は、1950年(昭和25)の竣工直後に撮影された目白ヶ丘教会。は、目白ヶ丘教会堂の現状。は、旧・今井清七邸の跡に建つ目白ヶ丘教会牧師館の現状。
おまけ
 今年は暖かいのだろう、下落合の森のモミジは多くが色づかずに青いままだ。
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