気になる加賀藩前田家上屋敷の椿山古墳。

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 少し前、下落合の丘上を大正期に発掘調査した大里雄吉の記事Click!に、東京帝国大学のキャンパスにあった「椿山古墳」が登場していた。もちろん、江戸期から大正期にかけ同学キャンパスは加賀藩前田家上屋敷(明治以降は前田邸)であり、玄室の石材とみられる切石が出土している同古墳は、屋敷庭園の「築山」または「見晴らし台」(江戸後期には「本郷富士」)にされていたとみられる。武蔵野文化協会の会員だった安倍叔(おそらく学生)という人物が、同古墳を簡易調査しており気になったので、きょうは東京帝大キャンパスにあった椿山古墳について少し追いかけてみたい。
 これまで、大名屋敷の庭園にあった築山が、実は古墳期の前方後円墳や円墳であった事例は、拙サイトでも数多くご紹介してきている。たとえば、新宿駅西口にあたる美濃高須藩の松平家下屋敷の庭園築山にされていた新宿角筈古墳(仮)Click!をはじめ、水戸徳川家上屋敷(後楽園)にある大きめな小町塚古墳Click!(現存)、土岐美濃守の下屋敷の庭園にあった亀塚古墳Click!(現存)、尾張徳川家の下屋敷(戸山荘)だった戸山荘庭園の羨道や玄室が露出した古墳群Click!、大名屋敷ではないが寛永寺Click!境内の築山にされていた摺鉢山古墳Click!(現存)をはじめとする古墳群など、多くの拙記事に登場している。
 また、東京帝大の椿山古墳は、江戸期の富士講Click!により「本郷富士」に仕立てられており、明治期に入ってからも周辺一帯は富士町と呼ばれていた。拙サイトでは、富士塚にされていた古墳もいくつかご紹介しており、落合地域の周辺でいえば上落合の落合富士Click!にされていた大塚浅間古墳Click!や、高田富士Click!にされており玄室石材の多くが水稲荷社Click!の本殿裏に保存されている早稲田大学キャンパスの富塚古墳Click!、江古田富士にされていた江古田浅間古墳Click!(現存)などが挙げられる。
 さて、東京帝大キャンパスの椿山古墳について、東京都教育庁社会教育部文化課の記録には、どのように記載されているのかというと、たとえば1985年(昭和60)に都教育庁から出版された『都心部の遺跡-貝塚・古墳・江戸 東京都心部遺跡分布調査報告-』によれば、本郷台地の上部に築造されており、「円墳?」とクエスチョンマークが付されている。なぜなら、同古墳の南側は明治期の前田邸として造成されており、前方部が削られた前方後円墳とも解釈できるからだ。同大学の経済学部校舎(現・赤門総合研究棟)の建設時に湮滅されており、破壊時には玄室の石材とみられる切石(房州石Click!かどうかは不明)が出土しているが、江戸期か明治期に盗掘にあったものか副葬品は記録されていない。
 余談だが、東京都教育庁社会教育部文化課が刊行した『都心部の遺跡-貝塚・古墳・江戸 東京都心部遺跡分布調査報告-』には、古墳期についていえば、すでに寺社や各種施設、あるいは住宅地化などにより湮滅してしまった古墳や、古墳の墳丘と思われる遺跡なども含めて広く記録されており、都市部に存在した古墳(とその疑いが濃厚な小山や丘陵)を調べるには、基本的な情報を提供してくれるベーシックな資料だろう。早くからの都市開発で石棺や副葬品、埴輪片、羨道・玄室の石材などが散逸し確認できない事例も含め、江戸期からの資料も踏まえながら記述しているとみられる。
 同書には、椿山古墳について「5千分の1東京図に墳丘が認められる」と書かれているが、これは1883年(明治16)に作成された「五千分一東京図測量原図」のことを指しているのだろう。同測量原図を参照すると、前田家上屋敷の正門(赤門)Click!を入ってすぐ南側(右手)に、直径が30~40mほどの椿山古墳(後円部?)が確認できる。前方部があったとしても、全長70~80mほどだろうか。いまの東大キャンパスでいうと、東大の赤門総合研究棟(経済学研究科棟含む)あたりだ。赤門を入って右手(南側)にあった、明治期の前田邸が昭和初期に解体され移転すると、医学部や懐徳館などが建設されているが、それまでの前田邸母家の南側にも、まるで双子のような瓢箪型の突起がふたつ採取されている。これも、明治期の前田邸の南側にあたる庭園築山にされていた、小型の前方後円墳×2基なのかもしれない。
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 椿山古墳の山頂には、富士権現の祠が奉られていたようだ。いまでも、東大キャンパスの南側にある狭い敷地に、墳丘から移された富士浅間社が残っている。当時の様子を、1940年(昭和15)に東京帝大庶務課から出版された『懐徳館の由来』から引用してみよう。
  
 同丘<椿山古墳>上に富士神社の小祠が前田家の氏神として祀られてあつたが、前田家が敷地移転の際、これを町会に譲り、町会の有志によつて今尚祭祀を続けられて居る。懐徳館の庭の一部を割いた一角に祀られて居る富士浅間神社といふのが即ちこれである。この丘地が富士権現丘地と呼ばれるに至つたのは、此の社があつた所から出てゐるものであらう。現在では椿山と称へられて本学の一名所となつているのみでなく椿山古墳として原史時代遺蹟の一に数へにれて居る。(指定外史蹟名勝天然記念物・原史時代遺蹟・昭和十一年四月二日発行、東京市公報第二六八五号所載)<カッコ内引用者註>
  
 椿山古墳は、1885年(明治18)に坪井正五郎Click!が調査をしたが、このときは富士権現に向かう石段を少し掘り下げただけで遺物は発見できなかった。玄室の石材とみられる、「切石」が多く発見されるのは、椿山を崩した後世のことだ。
 また、「五千分一東京図測量原図」には、旧・前田家上屋敷の心字池(現・三四郎池Click!)の西側に椿山古墳よりも山頂が高く、直径も60mを超えそうで規模も大きめな円形の丘が採取されている。同地図では「楢」山と記載されているが、その渦巻き状の螺旋形をした丘のかたちから、江戸期より庭園の螺山(さざえやま)とされていた丘だろう。現在のキャンパスでは、文学部3号館や総合図書館のあるあたりだ。
 同地図では、囲いの中に円形のように描かれているが、こちらも南側を当時の校舎で大きく削りとられており、もともとは前方部が削られた100m超の中型前方後円墳だったのかもしれない。現在は墳丘が崩され、中央通り(西側)や弓道場(南側)になっているが、その片鱗は心字池に隣接した西側の森に多少は残っているだろうか。
 螺山(楢山)について、前出の『懐徳館の由来』よりつづけて引用してみよう。
  
 心字池の西側の丘上(略)にもう一つの丘があつた。螺山と呼ばれ、四十米近くの相当に高い丘であつた。前田侯が此の丘の上で江戸中を展望した所だと云はれる。育徳園心字池を掘つた土を盛り上げて副産物として出来た丘だと云はれる。金沢兼六公園の栄螺山を型取つたもので、螺旋状の路を上りつめると、富士山は勿論、品川の海までも一瞳の中に眺められたものであつた。この螺山は明治二十三、四年頃迄はあつたが、其後敷地を拡張する必要上、取崩されてしまつた。(カッコ内引用者註)
  
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 ここでは、尾張徳川家の下屋敷だった戸山庭園のケースと、同じような事例を見ることができる。戸山庭園では、「琵琶湖」に見立てる池を掘った土砂で「箱根山」Click!を築いたとされているが、もともとあった丘状の突起へさらに掘削した土砂を盛りかぶせて、より高度のある丘(箱根山は約45m)を造成したのではないかと疑われているからだ。もともとあった丘状の突起とは、もちろん古墳の墳丘が想定されている。箱根山の場合は、ふたつの丘状突起の上へ新たに土砂がかぶせられているとみられる。
 螺山は、前田家上屋敷の見晴らし台にされていたようだが、上野の寛永寺境内にあった摺鉢山古墳Click!もまた、上野公園内で見晴らし台にされていた事蹟が想起される。見晴らし台にする際は、後円部を大きく削って丘上を平らにしているが、墳丘を削る以前はやはり30~40mほどの高度があったとみられ、ちょうど前田家の螺山と同じぐらいの規模だろう。上野山の摺鉢山古墳(前方後円墳)は現存しているが、前田家の螺山のほうは椿山古墳とは異なり、なんら調査されることなく明治中期には破壊されてしまった。
 また、上記の文中で明らかに誤りなのは、兼六園の栄螺山は1837年(天保8)に築造されており、本郷の前田家にあった螺山は江戸前期(あるいはそれ以前)から存在しているので、金沢兼六園の栄螺山のほうが本郷の螺山をコピーして模したものだろう。1997年(平成9)に執筆された西村公宏の論文『近代日本高等教育機関におけるランドスケープ成立に関する研究』では、螺山消滅はもう少しあとの時代とされている。
  
 また、明治32(1899)年頃に、サザエ(栄螺)山は消滅し、生理・医化学教室の建設が進められており、明治36(1903)年頃には池のある中庭が整備されている。
  
 1929年(昭和4)に前田邸が駒場の東京帝大農学部跡地へと転居移転Click!する際、庭園の南端(現在の懐徳館から医学部3号館あたり)にあった、ふたつの瓢箪型突起の湮滅については記録が残っていないので、おそらくなんら調査もされずに破壊されているようだ。
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 こうして、本郷台地の丘上にあった加賀藩前田家の広い上屋敷内を見てくると、椿山古墳のみならず基盤が古墳とみられる螺山や双子の瓢箪型突起に限らず、早くから東京帝大の下になってしまった敷地には、数多くの古墳があったのではないかと想像できるのだ。

◆写真上:前田家上屋敷の正門(赤門)を入って、すぐ右手(南側)にあった椿山古墳。全景は入らなかったのか、5分の3ほどの墳丘がとらえられている。
◆写真中上は、正門(赤門)の冠木と門戸。は、東京大学の赤門総合研究棟で椿山古墳は画面の右手にあった。下左は、1940年(昭和15)に出版された『懐徳館の由来』(東京帝大庶務課)。下右は、1985年(昭和60)に出版された『都心部の遺跡-貝塚・古墳・江戸 東京都心部遺跡分布調査報告-』(東京都教育庁社会教育部文化課)。
◆写真中下は、1883年(明治16)に作成された「五千分一東京図測量原図」。は、1902年(明治35)に作成された「本郷区全図」で螺山が崩されている。
◆写真下は、東大キャンパスに南接して残る富士浅間社。は、本郷富士塚の記念碑。は、東大の南端につづくレンガ塀で、双子の瓢箪状突起は塀内の右手にあった。

おまけ
 江戸前期に冬の江戸市中へ出まわった、ミカンの原種を手に入れた。左側に置いたいまの紀州ミカンに比べると、小ぶりなユズと見まちがえるほどのサイズだ。紀伊国屋文左衛門が紀州から江戸へ回航していた当時のミカンは、江戸後期の品種改良がなされる以前のもので、このような形態をしていたのだろう。風味は現代のミカンとあまり変わらず、ひと口で食べられてしまうが、種がたくさんあるので食べたあとがたいへんだ。戦前まで、ミカンの北限は神奈川の湘南・二宮といわれており、子どものころは静岡ミカンと並び地元のミカンはよく食べたが、現在は新潟あるいは福島がミカンの北限生産地といわれている。
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【緊急】 佐伯祐正の「善隣館」支援について。

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 大阪市北区中津にある、佐伯祐正Click!が光徳寺で創立したセツルメントClick!社会福祉法人「光徳寺善隣館 中津学園」Click!の園長・渡辺祐子様(旧姓・佐伯祐子様)より、先日ご連絡をいただいた。渡辺様は、佐伯祐正の孫にあたられる方だ。
 現在、同施設は予想される「南海大地震」などに備えて強固な施設の建て替え中とのことだが、施設内に創立者の佐伯祐正および生家である佐伯祐三Click!の思いを伝えるため「アーカイブギャラリー」、および地域の子どもと障がい児たちのための「アートワークショップ」の開催を予定されており、同施設を開設するためのクラウドファンディングのプロジェクトを実施・推進されている。以下、渡辺様よりのコメントをそのまま引用してみよう。
  
 (前略) 祐正は道人様も記事に書いてくださったように、イギリスのトインビーホール
を真似て、大阪市北区中津(祐三の生家)の敷地内に「善隣館」を建てました。今年は
祐正が方面委員(今の民生委員)の事務所を敷地内に置き、実質的に福祉事業を始めてか
ら100年が経ちます。
 戦後は、焼け跡に保育園を建設して地域の戦災孤児や戦争未亡人の支援もしてきまし
た。1961年よりは、自宅で育てることが困難な障がい児の福祉型居住施設を運営しおり
ます。63年経ち園舎が老朽化し、雨漏りやひび割れもひどく、まして南海大地震に対し
ての備えも必要なために、建て替えを始めました。
 建物を新しくするのに合わせて、祐正・祐三の思いを伝えるため、アーカイブギャラ
リーを作り、また、地域のこどもと障がい児たちのアートワークショップも開催する予定
です。そのための資金を集めるため、クラウドファンディングを開始しましたが、あまり
広がりを見せず、できたら道人様に拡散していただけないかとメッセージお送りました。
 厚かましいお願いですが、ぜひ支援や拡散をよろしくお願いいたします。
 もし説明が必要であれな、メールや文章で改めて説明させていただきます。
 応募期間:2024年11月1日〜2024年12月16日
 https://camp-fire.jp/projects/758268/view
  (社福)光徳寺善隣館 中津学園
  園長 渡辺祐子
  担当 河﨑洋充
  
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 詳細は、「洋画家佐伯祐三の生家で障がい児と地域のアート拠点とアーカイブギャラリーを作りたい」の、クラウドファンディングページClick!をご参照いただきたい。ほかでは入手できない佐伯祐三のポストカードや複製画、Tシャツなど支援用の楽しいアイテムがいろいろあり、わたしもさっそくポストカードによる支援をさせていただいた。クラウドファンディングの期間が12月16日までと短いため、支援の意志がおありの方は、できるだけお早めにCAMPFIREの上記ページよりご支援いただければと思う。
 「善隣館」が活動をはじめてから、すでに100年もの歳月が流れようとしている。その真摯な活動に共鳴・共感される方、あるいは大正期から盛んになったセツルメント活動に興味のある方(拙記事では、関西地域の「善隣館」や賀川豊彦Click!のケースをご紹介しているが、この地域では東京帝大セツルメントClick!について触れている)、そして佐伯祐三とその芸術がお好きな方は、ぜひクラウドファンディングに協力いただければと思うしだいだ。
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 なお、光徳寺善隣館 中津学園については、「中津学園 園舎建替え工事応援」サイトClick!も開設されているので、興味のある方はこちらもご参照いただければと思う。

◆写真上:昭和初期ごろに撮影された、佐伯祐正のセツルメント「善隣館」。壁面には、佐伯祐三の『滞船』や『薔薇』をはじめ滞仏作品が架けられている。
◆写真中は、セツルメントの研究で渡欧・渡米し、1925年(大正14)の夏にパリの佐伯祐三アトリエで撮影された佐伯祐正。(撮影は佐伯祐三とみられる) は、昭和初期に撮影された「善隣館」のモダンな外観と内部だが、1945年(昭和20)の中津地域への空襲により光徳寺の本堂と境内に付属していた同館は全焼している。
◆写真下:クラウドファンディングCAMPFIREに掲載の、「洋画家佐伯祐三の生家で障がい児と地域のアート拠点とアーカイブギャラリーを作りたい」のトップページ。

バックキャスト的に歴史を想像してみる。

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 ここに拙記事を書きはじめてから、きょうで丸20年を迎えます。いつも拙ブログをご訪問いただき、ありがとうございます。ここ1~2年で、記事へのアクセスカウントが大きく変動しています。佐伯祐三Click!に関する拙記事が、もっともアクセスの多いアーティクルClick!として7万超えのトップになりました。山田五郎教授Click!の講義、「オトナの教養講座」Click!による影響ではないかと思います。(ありがとうございました。>山田様)
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 ……とここまで書いて、来年の3月末にss-blogがとうとう終了するそうです。Seesaaブログへの、記事データの丸ごと移行サービスが予定されているようですが、どのようなものかはいまのところ不明です。すでにfacebookなどとのリンクは切れているようですが、拙サイトが消滅するまで力不足ながら、これからも落合地域をベースに故郷の江戸東京を、そして日本を見わたすような記事が書くことができればと考えています。あと4ヶ月余ほどの期間になりますが、よろしくお願いいたします。
  
 よく、歴史を語るのに【もし】というのは禁句などといわれる。だが、それは記録などの資料を積み重ね、過去に起きた事象を実証的に研究ないしは論証・解釈していく、純粋な歴史学の分野や視点には当てはまるかもしれないが、他の学術分野での史的な【もし】という仮説設定は、別に回避されもせずに重要な設定要素のひとつとなっている。【もし】という仮説を設定してシミュレーションを繰り返さなければ、これから起きる事象を予測し、あるべき未来の姿を想像(創造)することができないからだ。
 たとえば、1960年代に米国で起きたといわれている資本主義経済史上では前代未聞のスタグフレーションは、どのような経済政策のもとで、またどのような経済・社会状況のもとで起きているのか? 【もし】、当時の米財務省や中央銀行(連邦準備銀行制度=FED・FRS)が、金融政策Aではなく別の異なる金融政策Bを実施していれば、スタグフレーションは防げたのではないか?……というような過去の選択肢【もし】のテーマは、経済学においては長きにわたって大きな命題のひとつとなっていた。
 これは、別に「あのとき、ああしておけば、こうしておけばよかった!」と悔恨しているわけではなく、将来的に発生する怖れのある、現代の経済学(経済施策)では防止・修正しにくい資本主義経済の破綻のひとつ、スタグフレーションをどうすれば防げるのかを研究するための【もし】+シミュレーションの展開だ。以前のフランスや日本のように、主要な社会インフラや基幹産業の企業の多くを国有化すれば、すなわち社会主義経済的な要素を多く取り入れれば、資本主義は延命できるかもしれないが、米国では政治・社会思想的な素地でそのような施策は受け入れられないだろう。では、どうするのか?……というような【もし】が、これまでいくつも設定されてきた。おそらく、何百通りもの【もし】が設定され、史実とは異なる「ありえた未来」予測が繰り返されてきたのだろう。
 日本についていえば、人材不足から完全失業率は2%台と低いのに、消費は伸びないばかりか物価は上昇してインフレ傾向となっており、賃金も一部の大手企業を除いてはさほど物価にスライドして上昇しているとは思えず、インフレ分を差し引けば実質的に賃金は下落していそうだ。景気は、好景気からはほど遠く消費は伸びずに貯蓄か投資にまわり、インフレ含みの景況で相変わらずの不況感のみがつづいている。これは、いままで誰も経験したことのない、21世紀の新型スタグフレーションではなかろうか?
 【もし】、前世紀のM.フリードマンのような、時代遅れの株主資本至上主義的(新自由主義的)で、一部の大手企業家(資本家)の利益や株主投資価値の最大化をめざし、格差社会を大きく助長させた「アベノミクス」がなければ、【もし】政府財務省や日銀がまったく異なる財務政策や金融施策を打ちだしていたら、かなりちがった経済局面あるいは社会状況を迎えていたのではないか?……というような【もし】は、現代経済学の分野では同じ誤謬やまちがった選択を繰り返さないために、常に設定され検証・議論されつづけるテーマだろう。財源(企業の場合は経営資源)は、どのような目標に対してなにを最大化し、どの領域を最適化するために優先して配分されるべきだったかが常に問わている。
 史的な【もし】は、別に社会科学の分野に限らない。人文科学の哲学分野では、いま風にいえばマルチバース(昔風にいえばパラレルワールド)の設定で、史的な【もし】を前提とした「可能世界意味論」の領域があるだろうか。また、自然科学にも量子力学の「多世界解釈」や、理論物理学の「マルチバース宇宙論」などの分野が関わっているのかもしれない。いずれも、既存・既知の宇宙を、地球を、空間を、時間を、そして人間世界(社会)の事象を超えて、【もし】を設定したうえでの仮説であり研究であり考察だろう。
 現代の経営学あるいは経済学に、バックキャスティングという手法がある。未来の企業経営や国家の経済・社会状況を予測し、めざす目標に向かってどのような事業計画あるいは経済・社会計画を立てれば、理想的な目標に到達できるかを予測する方法論だ。これは、現時点から未来を予測して【もし】を設定するのではなく、30年後・50年後・100年後など未来のある時点を起点とし、その未来の時点に設定(想定)した理想的な目標に達するためには、2025年にはどのような施策を採用し、どのような方向性で企業の将来的な事業計画を、国家の長期的な経済・社会政策を策定し、将来に向けた施策を実施していくべきか?……というような、未来のある時点から逆算(逆予測)していく手法=方法論のことだ。日本では、バックキャスティングという言葉はそれほど古くはないが、このような言葉を用いなくても、企業や官公庁では昔からさまざまな事業計画や経営計画で実施されてきたことだろう。
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 たとえば、ダムや鉄道、空港、道路などの建設を考えればすぐに理解できるのではないだろうか。ダムは、50年・100年単位で活用される建造物だが、裏返せば50年・100年先の未来を予測して建設計画は企画・立案されなければ意味がない。ダムを設置する下流の人口(住民)推移による飲料水の需要はどうか、工業・農業用水の需要はどうか、住宅地や工業地の水力による電力需要はどうか、ダムの設置場所の降雨量はどうか、50年後や100年後でも気象条件が担保できる地形か、将来的な気象変動はどうなのか、それらの条件によってダムの建設予定地や貯水池のスケール、建設予算の規模はどうするのか?……などなど、50年・100年先まで見すえた予測が求められる。
 これがうまくいかないと、せっかく巨費を投入して建設したダムは無駄になってしまうし、また未来予測とは大きく異なる事態(T.クーンが「パラダイム」と呼ぶもの)が招来すれば、状況や条件が大きく変化(チェンジ)をとげて、既存の計画や考え方では間に合わなくなり、少なからぬ破綻が起きてカタストロフを招いてしまうだろう。
 たとえば、この近辺の地域でいえば20世紀後半の神奈川県が好例だろうか。戦後、県の東部における人口の増大や工場建設の増加を予想し、水道水や工業・農業用水、電力などの需要増を予測して1960年(昭和35)に企画・設計され1965年(昭和40)に竣工した津久井ダム(城山ダム)と、馬入川(相模川)Click!沿いの各地に散在する浄水設備だったが、ほどなくパラダイムによる大きな変化が起きている。
 予想もつかなかった急激な戦後復興と高度経済成長で、横浜市の人口がみるまに大阪市を抜いて、東京区部に次ぐ300万を超える第2の大都市にふくれあがり、川崎市を含む京浜の海岸沿いでは工業地帯の拡大とともに、工業用水が絶対的に不足しはじめている。また、高速交通網の整備により東京市街地の「公害」を避け、神奈川県や埼玉県が通勤圏内となって人口が急増するドーナッツ化現象の進捗で、生活に不可欠な飲み水=水道水がまったく不足するという非常事態にまで立ちいたった。同様の爆発的な現象は、先祖が住み着いた江戸初期(1600年代初め)にも起きており、江戸の町に引かれた小石川上水では水道水Click!が絶対的に不足し、大急ぎで小石川上水を包括した神田上水Click!の大工事にかからなければならなかった、徳川幕府の経緯によく似ている。
 そのため、以前にも記事にしたが神奈川県では相模川総合開発Click!の大幅な見直しや修正を繰り返し重ねた結果、1980年代には県東部の水道水や工業用水はようやく充足し、同様に人口の急増で上水道の絶対的な不足に悩んでいた東京西部へ、援助給水するまでになっていた。つまり、当初は津久井ダムの企画設計から50年後の2010年(平成22)を想定してバックキャスティング(当時はこんな言葉はなかった)されていたが、早くも1970年代から80年代の想定を超えるパラダイム(急速な戦後復興と高度経済成長および予想を超えた人口急増)で、計画の大きな変更・修正を余儀なくされたケースだ。
 もちろん、逆のケースもありうる。50年・100年先の未来の目標時点から、楽観的かついい加減でお手盛りのバックキャスティングを行い、ゼネコンのカネにまみれた地元や国の族議員・族官吏(ロビイスト)らが、根拠のない底ぬけに楽観的な採算予測と事業計画で、ダムや鉄道、空港、道路などを誘致・建設し、案のじょう採算があわずに運用管理費だけが膨らみつづけ、わずか10~20年ほどで大赤字の“負の遺産”と化する事業も少なくないからだ。
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 このような、歴史学では用いられない(ありえない)バックキャスティング的な【もし】=予測的な視座からあえて歴史を見なおすと、さまざまなマルチバース(パラレルワールド)を想定することができる。たとえば、1868年(慶応4)の「明治維新」はほんとうに「維新」なのか、近代版平安朝へ復古する時代錯誤なアナクロニズム政治ではないのか? 1925年(大正14)に「治安維持法」Click!が制定されず内務省に特高警察Click!が設置されていなければ、「大正デモクラシー」と呼ばれた日本型の資本主義的自由主義はどのような姿を迎えていたのか? 1931年(昭和6)に日本が「満洲事変」を起こして戦争へ突入しなければ、国民党政権を中心に現代中国はどのような国家に変貌していたのか?
 1945年(昭和20)に国家滅亡の「亡国」を招来したにもかかわらず、敗戦時にあえて米軍を「解放軍」などと規定せず、常にCICやG2を中核とするGHQの謀略や言論工作を検証する眼差しや批判眼が備わっていたとしたら(歴史学上では無理なありえない設定だがバックキャスト的な自在な視座からは意味がある)どうか、またソ連帰りの「共産主義者」のアジテーションやカンパニア的な扇動に乗らなければ、戦後民主主義はより強靭な体制を獲得できていただろうか? またはできなかったのだろうか?……。
 最近、2024年に中央公論社から出版された藪本勝治『吾妻鏡―鎌倉幕府「正史」の虚実―』という本を手にした。その「あとがき」で、著者はこんなことを書いている。
  
 人間が過去をどのように語り直し、意味づけ、更新してゆくのか、という問題に、私は惹かれ続けている。/過去は現在を支えてくれる。そして進むべき未来を指し示してくれる。未来が見通せるのは、過去から現在に至る筋道が、確たる意味を携えてすっと通っていると感じられるからだろう。だから人間は、未来の見通しに窮するとき、過去を振り返り、現在につながる歴史を再系列化して語り直し、過去像を更新しようとする。(中略) しかし、いや、それゆえに、歴史は虚偽を含んでいる。(中略) そのことにはたと気づかされて戦慄することがしばしばあるのだ。社会環境の中で自然と教え込まれ、常識として内面化していた「正しい歴史」が、(中略) 独自の構想と文脈を備えた物語の一節にすぎなかったのだとわかってしまう衝撃。しかしそこには先入観の束縛から解き放たれるような快楽が付随する。
  
 著者は、鎌倉時代の末期に編纂された『吾妻鑑』の「正史」や、『平家物語』の軍記物、『愚管抄』の史論書などを例に記しているのだけれど、これはあらゆる「常識」といわれる歴史書(正史)にも当てはまることだろう。
 歴史学は“結果論”であり、その解釈の変更や更新を時代とともに追究する学問なのだが、もう一歩進んで歴史的な事象にバックキャスティング的な視点を持ちこみ、もし80年前のパラダイム(時代の流れを変えてしまう大きな出来事)が避けられていたら、もし160年前のパラダイムが存在しなければ、2025年の現在はどのように変革され新たな社会が誕生していたのかを想像するのは、決して無意味でも不毛なことでもなく、「未来を見通せる」新たな「筋道」を発見できる端緒となる可能性を秘めてやしないか。
 もちろん、過去は修正できないが、未来へ向けた選択の動機づけやファクターには十分なりえるだろう。歴史学とは異なり、その時代の狭隘な視野でも当時の限られた価値観でもなく、そんなものはどこかへうっちゃって、より状況を広くとらえ鳥瞰できる現代の視界や価値観から捉えなおすことで、新たなマルチバース(パラレルワールド)に気づき、よりよい(いまよりもマシな)平和で豊かな未来へとつなげることができるのではないか。宮崎駿アニメの観賞眼的ないい方をすれば、歴史的な現実と「ファンタジー」(同時代の並列的かつ自由自在な想い)との緊張関係を認識・維持することが、少なくとも「いつかきた道」を繰り返さず、別の新しい未来を獲得するためのトリガーとなるのではないか、そんな気が強くするのだ。
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 歴史(特に近・現代史)を【もし】で見なおすことは、近未来や少し遠めな未来の予測に直結する……とは、歴史学を除いた学術分野ではよくいわれ繰り返されるフレーズだが、そのようなバックキャスティング的な視座から、若い子たちが少しでもよりよいマルチバースが存在した可能性に“気づき”、また“想像”できるきっかけとなるような要素を含んだ記事が書けているとすれば、拙サイトの存在意味が多少なりともあったといえるのだろうか?

◆写真上:これから人口が急減しクルマが減りつづける中、いまだ計画が廃棄されない池袋の補助73号線(十三間道路=25m道路)。目白3丁目から4丁目を斜めに貫通し、目白通りへと抜ける計画だ。敗戦直後の1946年(昭和21)に都が計画した80年前の道路で、北区十条では住民の集団訴訟による事業取り消し裁判が進行している。
◆写真中上:65年前に計画された、神奈川県の津久井ダム(城山ダム)と津久井湖。
◆写真中下・下:50年・100年先の綿密なバックキャスティングが不可欠な、目先の利益や見栄で建造してはいけない、運用管理費が膨らみつづける建造物の代表格=鉄道と空港。