「近衛新町」の名称はいつまで使われたか。

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 1922年(大正11)6月17日に、東京土地住宅Click!三宅勘一Click!が下落合東部の「近衛町」Click!の分譲を開始すると、翌6月17日には早くも近衛町の西側に隣接する「近衛新町」Click!の販売もスタートしている。けれども、わずか1ヶ月半後の同年7月29日に、東京土地住宅は近衛新町の分譲を突如中止している。
 その理由は、東邦電力の社長だった松永安左衛門が、近衛新町の分譲地を自邸や役員邸の敷地、および従業員たちの社宅用地として、ほぼすべてを買い占めてしまったからだ。それまで、近衛家が「落合遊園地」Click!と名づけていた、泉や湧水池がある武蔵野の自然がよく保たれた谷戸は、東邦電力によって「林泉園」Click!と名づけられ、同谷戸の南側に形成された東邦電力の関係者宅は「林泉園住宅地」Click!と呼ばれるようになる。
 近衛新町は、分譲開始からわずか43日間で販売を中止したが、その間に現地を見学に訪れた西巣鴨町池袋(現・豊島区池袋)の住民がいた。下野幽波という人は、1922年(大正11)6月22日に下落合の現地を見学しているから、分譲開始からわずか5日後に様子を見にやってきたことになる。おそらく、以前から落合地域の目白文化村Click!や近衛町などの宅地開発に注目し、自邸を建設して転居する計画でも立てていたのだろう。
 下野幽波という人は、ふだんから里謡(俚謡・巷謡・俗謡・端唄など)の創作を趣味としており、帰宅後にさっそく一節詠んでいる。1930年(昭和5)に小春社から出版された、『俚謡正調集成・第35巻/大正十一年前集』の6月22日より、作品を引用してみよう。
  近衛新町目をひく目白、ちょい下見に来る螢
 なんとなく、細竿Click!の音色が聴こえてきそうな調子だが、いかにも武蔵野の自然が色濃く残る近衛新町(と谷戸地形)の風情を写している。おそらく、目白駅Click!から現地を訪れているのか、駅名と下落合に多い野鳥メジロをひっかけ、現地見学(下見)に訪れた自身と、谷戸に多く棲息していた江戸期からのホタルの名所としての「落合蛍」Click!とを重ねて洒落のめしているのだろう。だが、せっかく見学に訪れた下野幽波だが、東邦電力の敷地買い占めで分譲地の入手はかなわなかったと思われる。東京土地住宅も、人手と手間をかけて個別に敷地を販売するよりも、東邦電力にまとめて売ったほうが、同社が陥っていた当時の経営状況から見ても有利だと判断したにちがいない。
 近衛新町の開発は、従来の近衛町のようにイニシャルコストをできるだけかけず、すなわち森林伐採や整地、縁石・擁壁の設置、上下水道・ガスなどの生活インフラを整備せずに三間道路だけを敷設し、敷地が売れるとようやく樹木の伐採や各種整備の作業に入る販売方式とは異なっていた。イニシャルコストを抑えるのは、当時、東京土地住宅の経営状況が悪化しはじめており、銀行から大口の借入れが困難になっていたからだが、すべての整備作業を終えた更地状態で販売し、購入すると翌日から住宅建築が可能だった目白文化村とは大きなちがいであり、セールス上の決定的な不利点でもあった。
 そこで、近衛新町の開発ではあらかじめ宅地にかかる樹林を伐採し、販売広告によれば「道路、下水、水道、電気、瓦斯、倶楽部等の文化的設備」を、「深い研究と周到な用意と」で整えてから分譲を開始したとしている。まさに、箱根土地Click!の広告をそのまま書き写したような表現だ。この中で、目白文化村と同様に町内の住民たちが利用できる「倶楽部」を設置したと書いているけれど、この建物は近衛新町のどこにあったものだろうか。大正期の、おシャレな洋館建築だったと思われる「倶楽部」だが、わたしは近衛新町とその周辺に住む地元の方からも、また東京土地住宅の関連資料からも、この「倶楽部」については見聞きしたことがない。おそらく、のちの東邦電力による林泉園住宅地の開発に呑みこまれてしまったか、あるいは東邦電力が近衛新町を買収した直後に解体されているのだろう。
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 近衛町につづく近衛新町という名称は、いったい誰がネーミングしたのだろうか。下落合の「近衛町(このえまち)」は、学習院の中等部で同窓生だった近衛文麿Click!と三宅勘一が、分譲を決定した段階で相談してつけた名称だろう。もちろん、京都市上京区室町通下長者町下ルの「近衛町(このえちょう)」にちなんでつけていると思われるが、「近衛新町」もまたふたりが打ち合わせをして名称を決めているのではないだろうか。なぜなら、同じ上京区の近衛町(このえちょう)の近くに「近衛新町(このえしんまち)」が江戸時代からあり、文献などにも記録されているのを、近衛文麿Click!や元・記者だった歴史好きな三宅勘一は、あらかじめ知っていた可能性が高いからだ。
 少なくとも江戸中期の正徳年間には、すでに京で近衛新町が成立していた様子が判明している。1714年(正徳4)に、当時の地図には「近衛新町」が登場していた記録が残っていた。1915年(大正4)に平安古考学会から出版された碓井小三郎・編『京都坊目誌・上京之部・乾/上巻之首-五』より、近衛新町が記載された箇所を引用してみよう。
  
 町名起源/不詳正徳四年地図に近衛新町とあり。亦世俗鹿ノ子屋ノ辻子と云ふ。維新前此町は上西陣伊佐町組四町の一也。乃ち古町たり。次下伊佐町。硯屋町之に同し。
  
 江戸期には、「上西陣伊佐町組」のうちの1町であり「古町たり」と記されているので、ひょっとすると江戸期以前からあった町名なのかもしれない。
 さて、一般向けにはわずか43日間しか分譲されなかった下落合の近衛新町だが、当時のリアルタイムに発行・出版された地図や新聞・雑誌・書籍などの資料類には、「近衛新町」のネームがそのまま記載されて残ることとなった。また、それら資料を参照して作成されたのちの記事や論文、地誌などにも、「近衛新町」の名称は登場している。では、いつごろまで近衛新町の呼称は使われつづけたのだろうか。
 結果からいえば、新宿区が出版している史的資料(地図類など)を除けば、1981年(昭和56)に北海道企画出版センターから刊行された、杉山寿栄男・編『日本原始工芸概説』(おそらく1928年版そのままの復刻版)がもっとも新しい書籍ということになる。記録されつづけた下落合の「近衛新町」の記載について、年代順に追って見ていこう。
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 まず、近衛新町を改め林泉園住宅地の開発中に、掘削地から埋蔵文化財が発見されている。おそらく1923年(大正12)に発見され、翌1924年(大正13)2月に吉川弘文館から出版された日本歴史地理学会・編『歴史地理』43号に記録されている。
  落合村下落合近衛新町  土器、黒曜石
 おそらく、縄文遺跡の残滓を発掘している可能性が高そうだが、この発掘調査は1923年(大正12)に行われており、下落合464番地のアトリエにいて、いまだ歩きまわることができた中村彝Click!をはじめ、同アトリエを頻繁に訪問していた曾宮一念Click!ら画家たちにも目撃されているのではないか。彼らが書いたエッセイや書簡などに、遺跡調査の記録はなかったかどうか記憶が曖昧でさだかでない。
 また、同発掘調査が在野の考古学研究家だった大里雄吉によって実施されていることも判明している。1928年(昭和3)に岡書院から出版された東京帝国大学・編『日本石器時代遺物発見地名表 追補第1/訂5版』から引用してみよう。
  落合町 下落合 近衛新町  土器  大里雄吉
 同書は「追補第1/訂5版」とあるので、初版は大正後期に出版されている可能性が高い。また、「落合町」という記載から落合村が町制に移行した1924年(大正13)以降も、継続して発掘調査が実施されていたとみられる。この大里雄吉という人物は、当時の「石器時代遺物発見」の第一人者で、鳥居龍蔵Click!と同様に数多くの埋蔵文化財を調査・研究している。現在の都内に残る旧石器・縄文・弥生・古墳遺跡の多くを、住宅街で埋めつくされる以前に研究している点で、考古学的には非常に重要な人物だ。
 つづいて、同じく1928年(昭和3)の資料にも、近衛新町は登場している。工芸美術研究会から出版された、杉山寿栄男・編『日本原始工芸概説』だ。ただし、同時期の『日本原始工芸概説』には、「落合町下落合林泉園敷地」と表記されている修正版も存在している。
  落合町下落合近衛新町  土器、黒曜石
 また、1935年(昭和10)に東京府が編纂した『東京府史 行政篇/第1巻』にも、近衛新町が登場している。ただし、これは過去の記録をそのまま転載したものだろう。
  落合町下落合  土器、打石斧、磨石斧
  落合町下落合近衛新町  土器、黒曜石
 上の行の「落合町下落合」が、下落合のどのあたりのエリアを指しているのか不明だが、昭和初期にはすでに旧石器時代Click!石斧Click!や、縄文時代とみられる土器類の埋蔵物が多数出土している様子が見てとれる。けれども、当時の歴史学会は弥生期以前の遺物・遺跡について、「皇民化」が行なわれていない「夷族・蛮族」が跋扈していた時代であり、まともに研究するのに値しない歴史学以前の「史前学」などと称して、科学とは無縁な「皇国史観」Click!が支配し、数万年に及ぶ自国の歴史へ「自虐」的に泥を塗りつづけていた時代なので、これらの重要な発見も十分に顧みられず、深い研究がなされることはなかった。
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 その後、先述した1981年(昭和56)に北海道で復刻版『日本原始工芸概説』が出版されるが、実質的には1935年(昭和10)に刊行された『東京府史 行政篇/第1巻』が、「近衛新町」のネームが掲載された最後の記録となるのだろう。しかし、昭和期の資料はいずれも大里雄吉が発掘した過去の記録を、そのまま転写しているとみられ、また昭和初期の地図類には「林泉園」の記載が一般化しており、林泉園住宅の名称が普及していたと思われるので、近衛新町の名称が通用したのは、せいぜい大正末ぐらいまでではなかったろうか。

◆写真上:東邦電力が開発した、林泉園住宅地の合宿所があったあたりの現状。
◆写真中上は、1922年(大正11)6月17日の東京朝日新聞掲載の近衛新町分譲開始広告。は、1925年(大正14)の「豊多摩郡落合町」地図に記載された近衛新町。は、1922年(大正11)7月29日の同紙に掲載の分譲中止広告。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる松永安左衛門邸と林泉園住宅地。は、1936年(昭和11)と1947年(昭和22)に撮影された空中写真にみる同住宅地で、林泉園のエリアは戦災からも焼け残った。
◆写真下は、1979年(昭和54)撮影の空中写真にみる林泉園界隈。わたしの学生時代には、東邦電力が建てた洋館やテラスハウスの建築がいまだに見られた。は、林泉園の湧水源があったあたり。は、林泉園住宅地側から林泉園へ下りられる古い階段。
おまけ
 1923年(大正12)ごろの林泉園住宅地を描いた中村彝『林泉園風景』Click!で、アトリエから110mほど離れた位置にイーゼルをすえ南南西を向いて描いている。スケッチのタイトルは、中村彝会の会長をしていた鈴木良三Click!によりあとから付加されたとみられ、当時はいまだ近衛新町の印象が強かっただろう。
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鎌倉で「相模湾風景」を描いた有島生馬。

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 かなり前に、鎌倉にあった有島生馬Click!の邸を拠点に、稲村ヶ崎で初夏のキス釣りをする俳優の森雅之と山村聰Click!の記事を書いたことがあった。森雅之は有島生馬の甥だが、その“殿様釣り”に呆れたと山村聰は書いている。
 わたしは1960年代のもの心つくころから現在まで、鎌倉の街や山々は数えきれないほど歩いているけれど、ついぞ有島生馬のアトリエ=「松の屋敷」は記憶にないので、一度も訪れたことがなかったように思う。いまは、屋敷が丸ごと長野市に移築され「有島生馬記念館」となっているようだが、それも訪ねたことはない。親父は、洋画や白樺派の小説にはほとんど興味がなく、わたしはといえば泳いだり山歩き(キャンプ)に忙しかったせいか、有島生馬のアトリエが姥ヶ谷にあったことなど知らなかった。それに気づいたのは、1980年代のはじめごろ長野市への移築がニュースになってからだ。
 横浜の税務官吏の家で生まれた有島生馬は、4年間にわたるヨーロッパ生活のあと、セザンヌを日本に紹介したことで知られているが、拙サイトで多く取りあげているテーマに沿っていえば、「白樺」Click!の同人画家(作家)であったことや、官展と訣別して二科会の創立メンバーに名を連ねたことだろうか。パリでは、こちらでもときどき名前が挙がる安井曾太郎Click!南薫造Click!高村光太郎Click!藤田嗣治Click!梅原龍三郎Click!らといっしょで、ときには交流もしていたようだ。
 寄宿していた鎌倉の新渡戸稲造Click!邸を出て、姥ヶ谷にある生糸商のイタリア人が建てた西洋館を購入したのは、1921年(大正10)12月のことだった。1927年(昭和2)に改造社より出版された、『現代日本文学全集/第27篇』掲載の、自身による年譜から引用してみよう。
  
 大正十年/極楽寺海岸にて専ら静養、六月同村内にて転居――一月『嘘の果』を新潮社より出版。田邊松坡先生の唐宋詩醇の講義に列す。「十二月の夕陽」「うるめる春」等を二科展へ出品。――十二月姥谷松の屋敷を購入転居す。
  
 文中で「姥谷」とあるのは、現在の七里ヶ浜Click!沿いに建つ鎌倉静養館の前あたりにあった江ノ電の停車場名で、とうに廃止になって存在していない。有島生馬アトリエ=「松の屋敷」は、ちょうど姥ヶ谷駅前にあたる敷地に建っていた。
 わたしは、戦前にあった姥ヶ谷駅などまったく知らないし、もの心つくころ江ノ電に乗ると姥ヶ谷から西側にかけての一帯は、丘陵や森林を片っぱしから切り崩して、赤土とコンクリートや大谷石による擁壁だらけの風景だった。ちょうど、佐伯祐三Click!が描く蘭塔坂(二ノ坂)Click!「切割」Click!のような風情が随所で拡がり、新興住宅地(現・七里ガ浜東住宅地)を造成しているさなかで、山々に囲まれた鎌倉の風情もなにもあったものではなかった。だから、親父も連れ歩いてはくれなかったのだろうが、鎌倉の緑深い丘陵が海辺近くまでせり出した地勢で、有島生馬が「松の屋敷」を購入した大正当時は、鎌倉極楽寺村字姥ヶ谷(現・鎌倉市稲村ヶ崎3丁目)ではなかっただろうか。
 「松の屋敷」を購入した当時、有島生馬は身体を壊しており、落ち着ける土地への転地療養が必要だった。医者が奨めた静養地(避寒地)は、松本順(松本良順)Click!の考えに倣ったものか、相模湾の海辺沿いにある土地だった。上記の年譜と同年の、1927年(昭和2)に改造社から出版された有島生馬『海村』から、そのときの様子を引用してみよう。
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 医師の勧告に従つて、愈々鎌倉極楽寺村の海岸に転地療養を決行したのは、大正九年十一月のことだつた。これといつて悲観しもしなかつたが、前途の成行は自分でも見当がつかなかつた。近親のものなどは私自身より反つて心を痛めてゐたのではなかつたかと思ふ。当時は音無橋の東岸に建つ、新渡戸博士の別荘に寓居してゐたが、翌年の暮から現在の松の屋敷といふ二十年も前に、さる伊太利人の造つた別荘を譲り受けて居住するやうになつた。この屋敷のことは嘗つて「廃屋」と題して、神戸附近のことにして短編を書いたことがある。(中略) それに極楽寺海岸は気候や風景としては至極気に入つていたのであるが、文字でするスケツチの対象としては余り単調で、全くモデルに乏しいものであつた。もしこれが一つの漁村であり、何軒かの漁士(ママ:師)でも住んでゐる村であつたならば、小品の材料はいくらでも得られるだらうにと屡々思つたのである。
  
 有島生馬は当初、明らかに転地療養のために購入した姥ヶ谷の別荘だったはずなのだが、徐々にこの地ですごす時間が多くなり、戦後になると最終的には彼の本邸、すなわち終の棲家として姥ヶ谷の「松の屋敷」に住みつづけることになった。戦後、森雅之と山村聰が釣りの拠点として利用したのは、本邸になってまもない1950年代のことだろう。ただし、美術や文芸の年鑑類には、あくまで本邸は麹町区麹町下六番町10番地(のち六番町3丁目5番地)のままとなっており、麹町の家は東京における仕事の拠点であり、世間と交流する「公邸」だと位置づけていたのかもしれない。
 10代のころから有島生馬の弟子だった東郷青児Click!は、たびたび「松の屋敷」の師邸を訪ねている。戦前は、屋敷の北側に位置する姥ヶ谷駅と江ノ電沿いにつづく道路だけで、南側の海岸沿いを走る自動車道路(ユーホー道路Click!湘南道路Click!)は藤沢止まりで存在せず、南庭と海岸とがつづいていて屋敷から裸のまま海へ入れたと証言しているので、現代の“マイビーチ”のような感覚だったのだろう。
 有島生馬は文中で、スケッチをするには単調すぎて「全くモデルに乏しい」と書いているが、これは小説を創作する際のテーマ性に乏しいという意味あいだ。確かに昭和初期は、稲村ヶ崎と腰越の中間にあたる姥ヶ谷界隈は、人家も乏しく人影を見るのさえまれではなかったろうか。聞こえるのは、しじゅう耳について離れない通奏低音のような相模湾の潮騒と、やわらかくたわみやすいクロマツの枝をわたる風の音ばかりで、人間の営みは昭和初期からブームになる物好きなハイカーたちClick!や、夏になると近くの別荘にやってくる海水浴客Click!だけだったにちがいない。
 だが、「全くモデルに乏しい」のは小説を書くにあたっての話であって、絵画のモチーフとしてはまったく正反対だったようだ。有島生馬は、相模湾沿いに拡がる海辺の風景を大量のタブローやスケッチ類に残している。実は、この記事を書こうと思いついたのは、彼の作品に相模湾の情景が数多く含まれているのに気づいたからだ。
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 「松の屋敷」周辺をモチーフにした風景画は、姥ヶ谷に住みはじめてからまもなく描いた、『岬と海水浴場』(1922年/のちに改題して『稲村ヶ崎』)が最初だろうか。昭和期に入ってからも、引きつづき何点か描いているとみられるが、わたしが目にしたのは戦後になって、「松の屋敷」が本邸となり常住するようになってからの作品群だ。
 たとえば、1948年(昭和23)に稲村ヶ崎から海岸沿いを遠望して描いた『由比ヶ浜』や、1957年(昭和32)に自邸を描いた『真夏の庭』、1961年(昭和36)に江ノ島の夜景を描いた『夜の島』、1969年(昭和44)に再び自邸を描いた『母の日』などだ。また、相模湾沿いに湘南海岸を西へたどり、1969年(昭和44)には『茅ヶ崎の夕富士』などという作品も残っている。夜の江ノ島を描いた『夜の島』は、回転する江ノ島灯台の白と赤の光とともに、その風情がひときわ懐かしい。子どものころ、夏など2階の部屋で寝ていると須賀港(馬入川=相模川河口にある漁港)に設置された灯台の光と、江ノ島灯台のそれとが交互に夜空に映えて見え、潮風の生臭いベランダから飽きもせずに眺めていた。
 「松の屋敷」について、1976年(昭和51)に中央公論美術出版から刊行された有島生馬『思い出の我』収録の、長女・有馬暁子の「あとがき」から引用してみよう。
  
 私は冠木門の扉の上の門額に「松の屋敷」と、鋳物で五分位の厚みのある文字がうちつけてあり、門柱に、「ヴィヴァンティ」という表札のかかっている入口まで、初めて来た時から興味があった。/庭内に入ると松が群生し、月桂樹、枇杷、珊瑚樹、無花果、棕櫚、芭蕉が伸び放題伸び異国情緒にあふれ、少女の私にはすべてが寓話的に見えた。/那智黒が敷かれ、柾に囲まれた小径は玄関まで続いていた。当時壁がベイジュ色、わくを茶のペンキで塗った瓦屋根の総二階で、海側から見ると四角い家屋のように見えるが、北側へ廻ると東西に十七坪ほど翼のように張り出していた。/東側の翼が大震災の時、倒壊したので父は裏庭へ移築した。(中略) 「松の屋敷」の松は残念ながら一九六〇年頃湘南海岸を荒した松食虫に襲われて全滅してしまった。
  
 有島暁子の証言によれば、彼女が初めて「松の屋敷」を訪れたときには、いまだイタリア人生糸商の表札がそのままだったようだ。また、当初から「松の屋敷」という額が架けられており、しかも外観が西洋館にもかかわらず、なぜか北側の玄関先には冠木門がしつらえられていた。文中には、地面が砂地でもよく育つサンゴジュやマサキ、イチジクなど、当時の相模湾沿いに多かった(わが家にもあった)庭木の名前が登場して懐かしい。
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 文中に「松食虫」禍が書かれているが、湘南海岸から鎌倉海岸では1960年代を通じてマツクイムシが猛威をふるった。海岸沿いにつづく防砂林が危機的な状況となり、神奈川県ではヘリコプターから繰り返し殺虫剤を散布している。散布当日は、洗濯物や蒲団を干せずに窓や戸を閉め切って、家内に薬剤が入りこむのを防いでいた。散布されていたのは、いまから見れば猛毒のDDTやBHCだったと思うが、そのせいで子どものころは楽しみのひとつだった、クロマツ林に生えるハツタケの採集Click!を親から禁止されたのが残念だった。

◆写真上:材木座にある光明寺の裏山から、先端に江ノ島がのぞく稲村ヶ崎を眺める。
◆写真中上は、「松の屋敷」を拠点に釣りをしていた森雅之()と山村聰()。中上は、1922年(大正11)制作の有島生馬『岬と海水浴場(稲村ヶ崎)』。中下は、1978年(昭和53)の空中写真にみる有島生馬邸(松の屋敷)。は、同邸の外観。
◆写真中下は、1978年(昭和53)に姥ヶ谷側から撮影された「松の屋敷」。中上は、同年撮影の相模湾が見わたせるテラス。ただし、当時は庭先を国道134号線に断ち切られて海辺には直接下りられず、クルマの騒音もうるさかっただろう。中下は、同邸ですごす晩年の有島生馬。は、1948年(昭和23)制作の有島生馬『由比ヶ浜』。
◆写真下は、1957年(昭和32)制作の有島生馬『真夏の庭』。中上は、1961年(昭和36)制作の『夜の島』。中下は、1969年(昭和44)制作の『茅ヶ崎の夕富士』『母の日』。

私設の乗合自動車が盛んな大正末の東京郊外。

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 これまで、落合地域を横断するダット乗合自動車Click!(のち東京環状乗合自動車Click!)や、落合地域を縦断する関東乗合自動車Click!については、何度か繰り返し記事にしてきた。これらの乗合自動車(バス)が走行していた大正期から昭和初期にかけ、東京近郊にはどのようなバス路線が存在していたのだろうか。1926年(大正15)の時点で、東京の郊外エリアを走るバス路線について少し書いておきたい。
 まず、練馬あるいは豊島園と目白駅Click!とを往復していたのは、ダット乗合自動車Click!(=合資会社ダット自動車商会は1935年に王子環状乗合自動車と合併し、のちに東京環状乗合自動車Click!)だが、大正末になると目白駅から、東京市電Click!が通う江戸川橋間を往復する乗合自動車も現れた。ただし、同バスはいわゆる停留所のある路線バスだったかどうかは不明だ。会社組織ではなく、個人による私設バスで、おそらく停留所は存在せず乗降は客の希望で行われていたとみられる。つまり、乗客が道端で手を挙げればバスは停まり、降客が車掌に知らせれば停車するというような仕組みだ。
 大正後期までは、市電が江戸川橋から目白駅まで延長されるというウワサがしきりに流れていたが、当時の市電車両の馬力では目白坂の急斜面を登ることができず、計画はあったものの途中で頓挫したか、あるいは強い馬力の車両が開発されるまで、市電路線の延長はペンディング状態になったのではないかと思われる。だが、戦後も目白駅には市電が通うことはなく、現在まで都営の路線バス(白61系統など)が運行されている。
 その目白駅から東へ向かうバス路線の嚆矢となったのが、目白駅-江戸川橋間を往復していた、川合清次郎による私設の乗合自動車だった。同バスは、「川合乗合自動車」と名づけられるべきだろうが、いわゆる商法上の匿名組合(TK)形式で個人事業による運営としてとどけられていた。1925年(大正14)の設立時から川合清次郎による経営だが、出資者をTK化することで多くの資金を集めやすくなり、また出資者はほとんど運営管理の手間や経営責任が生じないため、メリットが大きかったのだろう。
 匿名組合による目白駅-江戸川橋間の乗合自動車の様子を、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』Click!(高田町教育会)では以下のように紹介している。
  
 乗合自動車/大正十四年四月十日、匿名組合の経営にて、目白江戸川橋間に開通し、八台を以て往復した。昭和五年より、ダツト乗合自動車が開業した。
  
 まず、ここで同誌の記述の誤りと思われる箇所を指摘しておきたい。ダット乗合自動車は大正後期から営業しているのであり、1925年(大正14)現在では目白駅-練馬駅間(のち豊島園まで延長)が運行されている。したがって、同誌が出版されるわずか3年前の「昭和五年より」は明らかな誤記だろう。大正後期に発行されていた、『東京近郊電車案内/附乗合自動車』(鉄道知識普及学会)にも、すでに目白駅-練馬駅間のダット乗合自動車(合資会社ダット自動車商会)による路線は紹介されている。
 ただし、1930年(昭和5)より目白駅(山手線)の西側を走っていた合資会社ダット自動車商会が、目白駅東側を走る川合清次郎の私設バスを吸収し、停留所もいくつか設置してダット乗合自動車を走らせていた……とも解釈できる記述だ。当時のバス事業は、企業組織による吸収・合併や、私設バスの誕生・吸収・消滅など離合集散を頻繁に繰り返しており、川合清次郎による私設バスの廃止がいつだったのかも不明であり、事実、この直後にはダット乗合自動車と王子環状乗合自動車との合併話が急浮上してくる。
 ここでちょっと余談だが、昭和初期に高田馬場駅を起点として早稲田通りを東へたどり、若松町をめぐって新宿駅へと向かうダット乗合自動車株式会社は、目白駅から練馬を往復していたダット乗合自動車(合資会社ダット自動車商会)とは別の会社だ。目白通りのダット自動車商会が合併・吸収され、すぐに東京環状乗合自動車になったあとも、高田馬場駅起点のほうの路線は、変わらずにダット乗合自動車を走らせつづけている。だが、1937年(昭和12)すぎになると、高田馬場駅前を起点にしていたダット乗合自動車株式会社も、上記の合資会社ダット自動車商会と同様に東環乗合自動車へ吸収されているようだ。
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 乗合自動車の路線を、匿名組合(TK)で経営していた川合清次郎だが、どうやら路線沿いの高田地域や落合地域、小石川地域の住民ではない。調べてみると、荏原郡入新井町不入斗1471番地(現・大田区大森北)に住む人物ではないかと思われる。資産家だったのか、さまざまな事業を経営あるいは出資していたようで、目白-江戸川橋間の匿名組合による乗合自動車ビジネスも、その事業多角化の一環だったのだろう。
 当時は会社組織ではない、個人運営の乗合自動車は別にめずらしいケースではなく、落合地域の周辺を見わたしても、新宿駅-多摩墓地を往復していた笹生萬吉による個人経営バス、池袋駅-成増を運行していた大久保暢の私設バス、中渋谷-砧村を走った北林安太郎による個人経営バス、荻窪駅-田無を往復した本橋半七による私設バス、田無-吉祥寺駅を往復した同人による私設バスなど、東京全体で見れば会社経営による路線バスよりも、個人による私設バスのほうが圧倒的に多い。
 たとえば、1926年(大正15)の東京における会社組織で運行されていた路線バスは18路線だが、個人で運営されていた私設バスのルートは36路線で2倍と、圧倒的に個人経営のバスほうが多いのが実情だった。大正末の乗合自動車について、1926年(大正15)に鉄道知識普及学会から刊行された『東京近郊電車案内/附乗合自動車』より引用してみよう。
  
 (東京郊外の発展は)震災の影響即ちこれが其の一、土地会社が郊外に住宅地を設定して都会生活に飽きた人達を田園生活に導く機会を与へたことが其の二、近郊電車の企業熱が勃興して大東京の拡大を予想し交通不便なる郊外に急速に交通の整備を為しつゝあることが其の三であつて、之等の原因が或は因となり或は果となつて郊外発展を助長激成せしめたものと見るべきである。殊に最近に於ける顕著なる傾向は乗合自動車の一大流行であつて東京市内は勿論郊外に於てすら苟(いやしく)も自動車を通じ得べき幹線道路には必ずバスの姿を見ざる所なきまでに全盛を極め、電車の通じない所では郊外居住者唯一の送迎機関となり、電車の通ずる所では其の補助機関として、或は電車の競争機関として盛んに活動して居る。即ち最近に於ては郊外発展の第四原因に乗合自動車の普及発達といふ新らしい項目を加えなければならぬ事になつたのである。(カッコ内引用者註)
  
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 さて、大正末から昭和初期にかけ、東京の市街地から郊外に拡がるバス路線をもっとも多く経営していたのが、下谷区北稲荷町46番地(現・台東区東上野)に本社があった、渡辺六郎が経営する東京乗合自動車(株)だ。同社は、乗合自動車の東京市における嚆矢的な存在で、大正期から都市におけるバス運行の順位をロンドンやパリ、ニューヨークに次いで世界第4位にまで押しあげた実績をもっていた。
 同社では、上野・浅草・新橋線(新橋-日本橋-神田須田町-上野-雷門-浅草橋-日本橋-新橋)の循環型路線をはじめ、新橋札ノ辻線(新橋-金杉橋-札ノ辻)、押上線(雷門-押上)、洲崎線(大手町-永代橋-洲崎)、神宮線(青山六丁目-明治神宮)など、東京市内では7路線を運行していた。また、郊外の新宿周辺では新宿築地茅場線、すなわち新宿駅-(四谷)大木戸-麹町九丁目-桜田門-東京駅-茅場町-築地を結ぶ、東京を西北から南東へ横断するようなコースでバスを走らせている。さらに、郊外では新宿堀之内線として新宿駅-中野(鍋屋横町)-堀の内にも、路線バスを運行していた。
 また、市街地の乗合自動車としては吾妻橋-玉ノ井間を往復していた玉ノ井線、吾妻橋-鐘淵間の鐘淵線を運行していた隅田乗合自動車があるが、同社と上記の東京乗合自動車の2社で、東京市街地の市電以外による路線網はほぼ整備されていた。ほかにも、たとえば目黒乗合自動車(目黒駅-等々力)、代々木乗合自動車(渋谷駅前-淡島前)、日東乗合自動車(中渋谷-豊沢-世田ヶ谷役場前)、北林乗合自動車(道玄坂上-砧村喜多見)、甲州街道万歳乗合自動車(甲州街道-多摩墓地)など大正末の時点でバス会社は存在していたが、それらの路線はすべて東京郊外を走る乗合自動車だった。ちなみに、甲州街道がなぜ「万歳!」なのか、妙な社名なので調べてみたが意味不明だった。
 さらに、大正末には東京名所をまわる「東都遊覧自動車」=観光バス事業もスタートしている。東京遊覧バス(今日の「はとバス」Click!)は、いくつかのコースに分かれて運行され、上野公園をはじめ、千代田城(宮城)とその周辺、明治神宮とその周辺、高輪泉岳寺、芝増上寺(芝公園)、愛宕神社、日比谷公園、浅草観音、靖国神社などをめぐっていた。
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 ちょうどこのころ、落合町下落合では目白文化村Click!を、東大泉村では大泉学園Click!を、谷保村には国立学園都市Click!を、そして小平村では小平学園都市Click!を開発・経営していた箱根土地Click!も、乗合自動車事業へ進出していた。調べてみると、東京市街地から学園や住民を誘致するために、計画が進捗しつつある開発地のバス事業を多く手がけていたのがわかる。たとえば、国分寺-東村山駅を結ぶバス路線や、練馬-東大泉を結ぶバス路線などだ。昭和期に入ると、箱根土地によるバス路線はもう少し増えているのかもしれない。

◆写真上:都バス路線・白61系統の新宿駅西口から練馬駅までの表示だが、江戸川橋から目白駅経由で練馬駅まではダット乗合自動車とほぼ同じコースを走る。
◆写真中上は、快進社(ダット自動車工場)Click!で生産された「ダット41型応用乗合自動車改装車」。は、1932年(昭和7)に目白通りを走る41型のダット乗合自動車。は、ほぼ同時期の撮影と思われる目白通りを走るダット乗合自動車。
◆写真中下は、昭和初期に撮影されたダット乗合自動車とバスガールたち。(提供:小川薫様Click!) は、1929年(昭和4)に撮影された目白駅前で発車待ちをするダット乗合自動車。は、目白通りを走る現在の東京都バス・白61系統。
◆写真下は、関東大震災Click!直後に東京市が交通機能回復のために800台を緊急輸入したフォードT型バス=「円太郎バス」。は、1926年(大正15)撮影の歌舞伎座Click!前を走る円太郎バス。は、同年撮影の東京遊覧バスだがこれも円太郎バスのようだ。