これまで拙サイトには、岡田七蔵Click!のネームが4回ほど登場している。最初は、築地にあった作家で翻訳家の桑山太市朗邸Click!に滞在し、その際、宮崎モデル紹介所Click!からモデルを呼んで、三岸好太郎Click!らとともに裸婦のタブローを描いたエピソードだ。ちょうど草土社が解散して、同社のメンバーが春陽会へ合流した時期と重なり、画家たちは草土社風の画風から脱却しようと試みていた時期にあたる。
次いで岡田七蔵が登場したのは、鈴木良三Click!が証言する『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』(木耳社/1999年)に記録された、吉田博・ふじをアトリエClick!(下落合2丁目667番地)のある不動谷(西ノ谷)Click!近くにアトリエをかまえていた時期だ。このとき、鈴木良三は鶴田吾郎Click!とともに吉田アトリエを訪問しており、その際に近くの岡田七蔵アトリエのことが話題にのぼったのかもしれない。だが、鈴木良三は会派が異なるため岡田アトリエを訪ねておらず、当時の下落合の住所は不明のままだ。そして、おでん屋を経営していた“むさしや九郎”Click!が語る、しじゅう近くの川へ釣りにでかけていた、ヘボ将棋が好きな岡田七蔵のとぼけた姿だ。
1896年(明治29)生まれの岡田七蔵が、北海道から東京へやってきたのは1910年(明治43)のことだ。まだ、14歳の少年だった。当初は、日本水彩画会研究所で絵を学んでいたが、途中から本郷絵画研究所へと移籍している。1916年(大正5)には、早くも二科展へ作品を応募しはじめているが、当初は同じ北海道出身の三岸好太郎Click!と同様に、草土社へ岸田劉生Click!ばりの作品を描いては応募していた。
1922年(大正11)になると、『大森風景』が初めて二科展に入選している。ちょうど、林武Click!の『本を持てる女』Click!が二科展へ入選したのと同じタイミングだ。1922年(大正11)に草土社が解散し、そのメンバーが春陽会へと流れると、岡田七蔵も三岸好太郎とともに同会へ参加している。上記の築地にあった桑山邸における三岸とのエピソードは、1923年(大正12)に第1回春陽会展が開かれる前後のことだ。
また、同年には萬鉄五郎Click!の発案で参集した円鳥会Click!にも、岡田七蔵は参加している。ただし、萬自身は静養中のため茅ヶ崎に滞在し、東京には不在であまり同会での活動はしていない。初期の円鳥会本部は細川護立侯爵邸Click!の近く、小石川区高田老松町4番地(現・文京区目白台1丁目)の埴原久和代邸に置かれている。会員の中には、大正末に1930年協会Click!を結成する画家たちのネームが見えているが、目白中学校Click!の美術教師だった清水七太郎Click!の名前もある。萬鉄五郎と清水七太郎Click!は親しかったようで、萬は下落合584番地に建っていた二瓶等(徳松)アトリエClick!(本人は不在で貸アトリエになっていた)の仲介を清水に依頼している。
翌1924年(大正13)の第2回春陽会展では、岡田七蔵の作品が初入選している。そして、岡田は見聞を広め新たなモチーフを見いだすためにか、1926年(大正15)には三岸好太郎Click!とともに中国の上海や蘇州へ写生旅行にでかけている。この間、故郷では三岸好太郎や俣野第四郎Click!らとともに、岡田七蔵は北海道美術協会(道展)へ参画している。当時の様子を、1997年(平成9)に北海道教育委員会から出版された『新札幌市史』から引用してみよう。
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第一回道展は<1925年>十月五日から十八日まで開かれるが、入場料二〇銭、出品目録代五銭で、好天の日曜日には七~八〇〇人の入場者があった。道外在住の札幌関係者では、春陽会員賞を受賞した三岸好太郎、春陽会会員の長谷川昇、岡田七蔵、俣野第四郎などがいた。/岡田七蔵は、明治四十三年に一四歳で上京して二科会を中心に中央の画壇で活躍し、道展発足当時、春陽会に属して「草土社風から文人趣味的『味』の世界へという流れに直面」していた(苫名直子 岡田七蔵の画業について)。俣野第四郎は、結核を悪化させる大正十三年のハルビン行きから帰国し、療養中の沼津から春陽会に出品していた頃である(俣野第四郎 人と芸術)。(< >内引用者註)
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文中には以前、三岸好太郎関連の拙記事でお世話になった、苫名直子様Click!のお名前も登場している。なお、1930年(昭和5)には同様に、北海道出身の画家たちを集めた北海道美術家連盟が結成されているが、岡田七蔵は同連盟にも参加している。
1928年(昭和3)の第6回春陽会展に、岡田七蔵は『富士の見える風景』『石神井鉄橋』『海へ行く道』の3点を出品し、そのうち『石神井鉄橋』(のち『石神井の鉄橋』と改題)が春陽会賞を受賞している。1930年(昭和5)には春陽会会友に推薦され無鑑査となるが、1934年(昭和9)には春陽会を脱退し、しばらくのち1940年(昭和15)には国画会へ『尾の道風景』を出品している。
また、タブローの制作と並行して小説や児童本の挿画も描いており、特に少年時代からの懇意だった谷崎潤一郎Click!の、1926年(大正15)に刊行された「婦女界」2月号掲載の『一と房の髪』や、1932年(昭和7)刊行の「書物展望」4月号に掲載された『鮫人』などを手がけている。さらに、岡田七蔵の挿画は人気が高かったらしく、1930年(昭和5)の堀辰雄Click!『水族館』をはじめ、中河與一Click!の『機械と人間』や淺原六郎『丸ノ内展情』の挿画も担当している。絵本では、1926年(大正15)に文園社から出版された、太田黒克彦の『ひらがないそっぷ』が代表作だろうか。
さて、下落合にアトリエをかまえる前後に暮らしていた、岡田七蔵の住所を少し追いかけてみよう。岡田七蔵は、1929年(昭和4)には板橋町中丸831番地(現・板橋区中丸町)に住んでいた。1932年(昭和7)には野方町上沼袋200番地(現・中野区大和町)に住むが、同年には静養のためだろうか、一時的に群馬県の桐生市永楽町へと転居している。だが、翌1933年(昭和8)になると下落合4丁目2080番地にアトリエをかまえている。
下落合4丁目2080番地といえば、アビラ村Click!を代表するアトリエの密集地帯であり、金山平三Click!をはじめ、新海覚雄Click!、永地秀太Click!、一原五常Click!、名渡山愛順Click!、仲嶺康輝Click!(寄宿)、山元恵一Click!(寄宿)たちが同番地内に集合して仕事をしている。この中で、アトリエを貸していた画家に一原五常がいる。一原は、1930年(昭和5)ごろから教職に就くために九州へ転居しているが、下落合のアトリエはそのままに賃貸アトリエとして画家たちに提供していた。前記の名渡山愛順や仲嶺康輝、山元恵一ら沖縄の画家たちも、一原アトリエを中心に集まってきていた。おそらく岡田七蔵は短期間、一原五常アトリエを借りて住んでいるのではないか。
そして、1934年(昭和9)すぎには、吉田博・ふじをアトリエを訪ねた鈴木良三が、付近にあった岡田七蔵アトリエについてエッセイで触れている。だが、下落合2丁目667番地の吉田アトリエと、下落合4丁目2080番地とは直線距離で810mほども離れている。当時の最短でいける道筋を歩いても、たっぷり15分ほどはかかりそうだ。この距離感を、鈴木良三は「吉田さんの付近」とは表現しないだろう。おそらく、同年には下落合4丁目2080番地のアトリエを引き払い、岡田七蔵は星野通りClick!(八島さんの前通りClick!)沿いのどこか、あるいは吉田アトリエの南東側に口を開けている、谷戸地形の不動谷(西ノ谷)Click!に建っていた、いずれかの借家をアトリエにしていたと思われる。
1937年(昭和12)になると、岡田七蔵は豊島区池袋3丁目1629番地(現・西池袋3丁目)に転居している。この地番は、江戸川乱歩邸Click!の北隣りの区画だ。江戸川乱歩は、1934年(昭和9)に自邸が竣工して転居しているので、岡田アトリエはその北隣り、または1軒おいて北ならびに建っていたことになる。おそらく、健康はかなり悪化して臥しがちになり、あまり仕事ができなくなっていたのではないか。ほどなく、岡田は終の棲家となる中野区大和町263番地、すなわち5~6年前に住んでいた旧・野方町上沼袋200番地の旧宅近くにもどっている。同地域には、東京での親しい友人たちが住んでいたとみられる。そして、1942年(昭和17)に同住所においていまだ47歳の若さで死去している。
岡田七蔵の絵を観ながら詠じた歌人に、静岡県浜松市で1935年(昭和10)に没した中道光枝がいる。岡田は、彼女の夫で民俗学研究者の中道朔爾と親しかったようで、ときどき静岡を訪問しては静養中の光枝夫人を見舞っている。中道光枝が死去した直後、1936年(昭和11)に静岡谷島屋書店から出版された歌集『遠富士』(中道朔爾・編)には、岡田の絵にかかわる彼女の作品が残されているので少し引用してみよう。
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上諏訪 岡田七蔵氏作の絵に題す
高原は秋をはやみかみづうみは 波騒立ちて人かげ見えぬ
秋づきて騒立つ湖やさびさびし 湖畔の柳吹きみだれつつ
夕熱 岡田七蔵氏夫妻より蒲団を賜る
君もいまだ癒えでいますに勿体なし このみ情に泣かざらんとす
わが好む果実も君忘れまさず 蒲団の中に包み賜ひし
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岡田自身も病気がちなのに、友人の妻へ見舞いの品を送っている様子がうかがえる。
不動谷(西ノ谷)の周辺は、吉田博・ふじをと佐伯祐三Click!の印象があまりに強いため、周辺に住んでいた画家たちの印象が薄れがちだが、1935年(昭和10)前後には岡田七蔵アトリエも近くにあったのはまちがいないだろう。同様に、岡田とは北海道の同郷で、佐伯アトリエの「裏」だった中村善策アトリエも影が薄いが、また別の機会にでもご紹介したい。
◆写真上:下落合4丁目2080番地に建っていた、一原五常アトリエ跡(右手角)。
◆写真中上:上は、1928年(昭和3)の第6回春陽会展に出品された岡田七蔵『石神井川の風景』中は、同展で春陽会賞を受賞した同『石神井鉄橋』。下は、1926年(大正15)ごろ撮影の岡田七蔵(左)と、第6回春陽会展の出品目録(右)。
◆写真中下:上は、1923年(大正12)に結成された円鳥会に参加した画家たち。中上は、1928年(昭和3)制作の第6回春陽会展に出品された岡田七蔵『海へ行く道』。中下は、1930年(昭和5)に制作された同『会瀬の海』。下は、1926年(大正15)に岡田が挿画を担当して出版された太田黒克彦『ひらがないそっぷ』(文園社)。
◆写真下:上は、岡田七蔵が挿画を担当した堀辰雄『水族館』(1935年)。中は、岡田の挿画で中河與一『機械と人間』(同年)。下は、同じく淺原六郎『丸ノ内展情』(同年)。