下落合に2ヶ所あった岡田七蔵アトリエ。

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 これまで拙サイトには、岡田七蔵Click!のネームが4回ほど登場している。最初は、築地にあった作家で翻訳家の桑山太市朗邸Click!に滞在し、その際、宮崎モデル紹介所Click!からモデルを呼んで、三岸好太郎Click!らとともに裸婦のタブローを描いたエピソードだ。ちょうど草土社が解散して、同社のメンバーが春陽会へ合流した時期と重なり、画家たちは草土社風の画風から脱却しようと試みていた時期にあたる。
 次いで岡田七蔵が登場したのは、鈴木良三Click!が証言する『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』(木耳社/1999年)に記録された、吉田博・ふじをアトリエClick!(下落合2丁目667番地)のある不動谷(西ノ谷)Click!近くにアトリエをかまえていた時期だ。このとき、鈴木良三は鶴田吾郎Click!とともに吉田アトリエを訪問しており、その際に近くの岡田七蔵アトリエのことが話題にのぼったのかもしれない。だが、鈴木良三は会派が異なるため岡田アトリエを訪ねておらず、当時の下落合の住所は不明のままだ。そして、おでん屋を経営していた“むさしや九郎”Click!が語る、しじゅう近くの川へ釣りにでかけていた、ヘボ将棋が好きな岡田七蔵のとぼけた姿だ。
 1896年(明治29)生まれの岡田七蔵が、北海道から東京へやってきたのは1910年(明治43)のことだ。まだ、14歳の少年だった。当初は、日本水彩画会研究所で絵を学んでいたが、途中から本郷絵画研究所へと移籍している。1916年(大正5)には、早くも二科展へ作品を応募しはじめているが、当初は同じ北海道出身の三岸好太郎Click!と同様に、草土社へ岸田劉生Click!ばりの作品を描いては応募していた。
 1922年(大正11)になると、『大森風景』が初めて二科展に入選している。ちょうど、林武Click!『本を持てる女』Click!が二科展へ入選したのと同じタイミングだ。1922年(大正11)に草土社が解散し、そのメンバーが春陽会へと流れると、岡田七蔵も三岸好太郎とともに同会へ参加している。上記の築地にあった桑山邸における三岸とのエピソードは、1923年(大正12)に第1回春陽会展が開かれる前後のことだ。
 また、同年には萬鉄五郎Click!の発案で参集した円鳥会Click!にも、岡田七蔵は参加している。ただし、萬自身は静養中のため茅ヶ崎に滞在し、東京には不在であまり同会での活動はしていない。初期の円鳥会本部は細川護立侯爵邸Click!の近く、小石川区高田老松町4番地(現・文京区目白台1丁目)の埴原久和代邸に置かれている。会員の中には、大正末に1930年協会Click!を結成する画家たちのネームが見えているが、目白中学校Click!の美術教師だった清水七太郎Click!の名前もある。萬鉄五郎と清水七太郎Click!は親しかったようで、萬は下落合584番地に建っていた二瓶等(徳松)アトリエClick!(本人は不在で貸アトリエになっていた)の仲介を清水に依頼している。
 翌1924年(大正13)の第2回春陽会展では、岡田七蔵の作品が初入選している。そして、岡田は見聞を広め新たなモチーフを見いだすためにか、1926年(大正15)には三岸好太郎Click!とともに中国の上海や蘇州へ写生旅行にでかけている。この間、故郷では三岸好太郎や俣野第四郎Click!らとともに、岡田七蔵は北海道美術協会(道展)へ参画している。当時の様子を、1997年(平成9)に北海道教育委員会から出版された『新札幌市史』から引用してみよう。
  
 第一回道展は<1925年>十月五日から十八日まで開かれるが、入場料二〇銭、出品目録代五銭で、好天の日曜日には七~八〇〇人の入場者があった。道外在住の札幌関係者では、春陽会員賞を受賞した三岸好太郎、春陽会会員の長谷川昇、岡田七蔵、俣野第四郎などがいた。/岡田七蔵は、明治四十三年に一四歳で上京して二科会を中心に中央の画壇で活躍し、道展発足当時、春陽会に属して「草土社風から文人趣味的『味』の世界へという流れに直面」していた(苫名直子 岡田七蔵の画業について)。俣野第四郎は、結核を悪化させる大正十三年のハルビン行きから帰国し、療養中の沼津から春陽会に出品していた頃である(俣野第四郎 人と芸術)。(< >内引用者註)
  
 文中には以前、三岸好太郎関連の拙記事でお世話になった、苫名直子様Click!のお名前も登場している。なお、1930年(昭和5)には同様に、北海道出身の画家たちを集めた北海道美術家連盟が結成されているが、岡田七蔵は同連盟にも参加している。
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岡田七蔵「石神井の鉄橋」1928.jpg
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 1928年(昭和3)の第6回春陽会展に、岡田七蔵は『富士の見える風景』『石神井鉄橋』『海へ行く道』の3点を出品し、そのうち『石神井鉄橋』(のち『石神井の鉄橋』と改題)が春陽会賞を受賞している。1930年(昭和5)には春陽会会友に推薦され無鑑査となるが、1934年(昭和9)には春陽会を脱退し、しばらくのち1940年(昭和15)には国画会へ『尾の道風景』を出品している。
 また、タブローの制作と並行して小説や児童本の挿画も描いており、特に少年時代からの懇意だった谷崎潤一郎Click!の、1926年(大正15)に刊行された「婦女界」2月号掲載の『一と房の髪』や、1932年(昭和7)刊行の「書物展望」4月号に掲載された『鮫人』などを手がけている。さらに、岡田七蔵の挿画は人気が高かったらしく、1930年(昭和5)の堀辰雄Click!『水族館』をはじめ、中河與一Click!の『機械と人間』や淺原六郎『丸ノ内展情』の挿画も担当している。絵本では、1926年(大正15)に文園社から出版された、太田黒克彦の『ひらがないそっぷ』が代表作だろうか。
 さて、下落合にアトリエをかまえる前後に暮らしていた、岡田七蔵の住所を少し追いかけてみよう。岡田七蔵は、1929年(昭和4)には板橋町中丸831番地(現・板橋区中丸町)に住んでいた。1932年(昭和7)には野方町上沼袋200番地(現・中野区大和町)に住むが、同年には静養のためだろうか、一時的に群馬県の桐生市永楽町へと転居している。だが、翌1933年(昭和8)になると下落合4丁目2080番地にアトリエをかまえている。
 下落合4丁目2080番地といえば、アビラ村Click!を代表するアトリエの密集地帯であり、金山平三Click!をはじめ、新海覚雄Click!永地秀太Click!一原五常Click!名渡山愛順Click!仲嶺康輝Click!(寄宿)、山元恵一Click!(寄宿)たちが同番地内に集合して仕事をしている。この中で、アトリエを貸していた画家に一原五常がいる。一原は、1930年(昭和5)ごろから教職に就くために九州へ転居しているが、下落合のアトリエはそのままに賃貸アトリエとして画家たちに提供していた。前記の名渡山愛順や仲嶺康輝、山元恵一ら沖縄の画家たちも、一原アトリエを中心に集まってきていた。おそらく岡田七蔵は短期間、一原五常アトリエを借りて住んでいるのではないか。
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太田黒克彦「ひらがないそっぷ」1926文園社.jpg 太田黒克彦「ひらがないそっぷ」すっぱいぶどう.jpg
 そして、1934年(昭和9)すぎには、吉田博・ふじをアトリエを訪ねた鈴木良三が、付近にあった岡田七蔵アトリエについてエッセイで触れている。だが、下落合2丁目667番地の吉田アトリエと、下落合4丁目2080番地とは直線距離で810mほども離れている。当時の最短でいける道筋を歩いても、たっぷり15分ほどはかかりそうだ。この距離感を、鈴木良三は「吉田さんの付近」とは表現しないだろう。おそらく、同年には下落合4丁目2080番地のアトリエを引き払い、岡田七蔵は星野通りClick!(八島さんの前通りClick!)沿いのどこか、あるいは吉田アトリエの南東側に口を開けている、谷戸地形の不動谷(西ノ谷)Click!に建っていた、いずれかの借家をアトリエにしていたと思われる。
 1937年(昭和12)になると、岡田七蔵は豊島区池袋3丁目1629番地(現・西池袋3丁目)に転居している。この地番は、江戸川乱歩邸Click!の北隣りの区画だ。江戸川乱歩は、1934年(昭和9)に自邸が竣工して転居しているので、岡田アトリエはその北隣り、または1軒おいて北ならびに建っていたことになる。おそらく、健康はかなり悪化して臥しがちになり、あまり仕事ができなくなっていたのではないか。ほどなく、岡田は終の棲家となる中野区大和町263番地、すなわち5~6年前に住んでいた旧・野方町上沼袋200番地の旧宅近くにもどっている。同地域には、東京での親しい友人たちが住んでいたとみられる。そして、1942年(昭和17)に同住所においていまだ47歳の若さで死去している。
 岡田七蔵の絵を観ながら詠じた歌人に、静岡県浜松市で1935年(昭和10)に没した中道光枝がいる。岡田は、彼女の夫で民俗学研究者の中道朔爾と親しかったようで、ときどき静岡を訪問しては静養中の光枝夫人を見舞っている。中道光枝が死去した直後、1936年(昭和11)に静岡谷島屋書店から出版された歌集『遠富士』(中道朔爾・編)には、岡田の絵にかかわる彼女の作品が残されているので少し引用してみよう。
  
 上諏訪  岡田七蔵氏作の絵に題す
  高原は秋をはやみかみづうみは 波騒立ちて人かげ見えぬ
  秋づきて騒立つ湖やさびさびし 湖畔の柳吹きみだれつつ
 夕熱  岡田七蔵氏夫妻より蒲団を賜る
  君もいまだ癒えでいますに勿体なし このみ情に泣かざらんとす
  わが好む果実も君忘れまさず 蒲団の中に包み賜ひし
  
 岡田自身も病気がちなのに、友人の妻へ見舞いの品を送っている様子がうかがえる。
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浅原六郎「丸ノ内展情」1935.jpg
 不動谷(西ノ谷)の周辺は、吉田博・ふじをと佐伯祐三Click!の印象があまりに強いため、周辺に住んでいた画家たちの印象が薄れがちだが、1935年(昭和10)前後には岡田七蔵アトリエも近くにあったのはまちがいないだろう。同様に、岡田とは北海道の同郷で、佐伯アトリエの「裏」だった中村善策アトリエも影が薄いが、また別の機会にでもご紹介したい。

◆写真上:下落合4丁目2080番地に建っていた、一原五常アトリエ跡(右手角)。
◆写真中上は、1928年(昭和3)の第6回春陽会展に出品された岡田七蔵『石神井川の風景』は、同展で春陽会賞を受賞した同『石神井鉄橋』。は、1926年(大正15)ごろ撮影の岡田七蔵()と、第6回春陽会展の出品目録()。
◆写真中下は、1923年(大正12)に結成された円鳥会に参加した画家たち。中上は、1928年(昭和3)制作の第6回春陽会展に出品された岡田七蔵『海へ行く道』。中下は、1930年(昭和5)に制作された同『会瀬の海』。は、1926年(大正15)に岡田が挿画を担当して出版された太田黒克彦『ひらがないそっぷ』(文園社)。
◆写真下は、岡田七蔵が挿画を担当した堀辰雄『水族館』(1935年)。は、岡田の挿画で中河與一『機械と人間』(同年)。は、同じく淺原六郎『丸ノ内展情』(同年)。

出版人より印刷技術者として高名な今井直一。

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 落合地域で東京美術学校Click!を卒業した人物というと、たいがいが画家や彫刻家などの美術関係者だ。だが、美術分野とはあまり関係のない領域で活躍した人物も住んでいる。1919年(大正8)に東京美術学校美術部の製版科を卒業し、当初はなんの興味も湧かなかった印刷の活字に着目し、そのデザイン美に注力した今井直一だ。
 今井直一は、出版界では美校卒で活字デザインのオーソリティというよりも、三省堂の社長として教科書や参考書、多彩な辞書類を刊行した出版人としての印象のほうが強いだろうか。以前、下落合3丁目1986番地(現・中井2丁目)で旺文社Click!を創立した赤尾好夫Click!について書いたが、三省堂も同様に子どものころから学生時代までお世話になった、教科書や参考書、辞書類の出版社としての記憶がほとんどだ。
 彼は、1951年(昭和26)に神田神保町にあった三省堂の社長に就任しているが、1963年(昭和38)に同社顧問として死去するまでの間に企画され出版された辞書類は、その後も版を重ねてわたしも手にしている。岩波の『広辞苑』に対抗して出版された『辞海』をはじめ、『新クラウン英和辞典』、『デイリーコンサイス英和辞典』、『三省堂国語辞典』などは、みんな彼が社長だった時代の仕事だ。また、1968年(昭和43)に刊行された『クラウン百科事典』も、編纂計画は彼の時代からスタートしていたのではないか。
 今井直一は戦後、目白学園Click!の北側、下落合4丁目2247番地(現・中井2丁目)に住んでいた。ちょうど、落合分水(千川分水)Click!が妙正寺川へと流れ落ちていた、西落合との境界にあたる丘上だ。戦前は、牛込区早稲田鶴巻町8番地に住んでおり、東京市本郷生まれの彼はずいぶん以前から、市街地の西北方面に土地勘があったのかもしれない。彼は、1919年(大正8)に東京美術学校を卒業しているが、同期の洋画家には拙サイトでは頻出するおなじみの里見勝蔵Click!をはじめ、武井武雄Click!宮坂勝Click!などがおり、同窓の画家たちがアトリエをかまえた落合地域の風情も、以前から知っていたとみられる。
 彼は美校を卒業後、1920年(大正9)2月に農商務省が募集していた海外実業練習生として、米国のニューヨークへ派遣されている。当初は、美校で学んだプロセス製版やグラビア印刷の研究が目的だったが、当時の三省堂社長だった亀井寅雄の依頼で、活字彫刻機による彫刻技術の研究や習得も留学目的のひとつとなった。
 当時、活字彫刻機の最先端メーカーだった米国ATF社が製造していた、ペイトン母型彫刻機に関する技術や操作を学び、のちに同社の活字彫刻機を日本へ輸入している。だが、ペイトン母型彫刻機はあくまでもローマ字(英語)を彫刻するのに適した製品であり、日本語(ひらがな・カタカナ・漢字)の新たな読みやすい文字をデザインし、同機を用いて活字に彫刻する技術は、まったく別の高い熟練を要する大仕事だったろう。
 1922年(大正11)8月に帰国すると、今井直一はすぐに三省堂へ入社し、さっそく新たな活字の創作に取り組んでいる。また、活字の大きさを表現するのに既存の号数制ではなく、ポイント制(明朝体)を発案して各サイズの活字を制作している。当時の様子を、1949年(昭和24)に印刷学会出版部から刊行された、今井直一『書物と活字』より引用してみよう。
  
 学校を出るとすぐ、プロセスものや、グラビアがやってみたくて、当時、農商務省の海外実業練習生というのがあり、それに応募してあこがれのアメリカに渡った。ニューヨークで印刷工場めぐりをやっている時、たまたま三省堂社長の亀井寅雄氏に会って、活版の重要性をきかされた。/写真製版方面にはみんな注目しているが、活版についてはほとんどかえり見る者がない。美しい、立派な書物を印刷するには、絶対に優れた活字が必要だ。このしごとに一生を打込んでみる気はないか、こういわれた。それから三十年ちかい歳月が流れた。いつか私の生活から、活字は切りはなせない存在になっている。
  
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 以来、彼は一貫して三省堂に勤務し、活字と活版の技術研究と進化に専念している。戦前戦後を通じ、同社で刊行される書籍や辞書・事典類は、読みやすく工夫された独自デザインの文字による活版印刷で製作された。特に、ペイトン母型彫刻機とインディア用紙の組み合わせで、従来は判が大きく分厚くて重量のあるのが普通だった、ページ数の多い辞書・事典類の小型軽量化に成功し、同技術は三省堂の出版物に限らず、出版業界の全体に多大な影響を与えている。もちろん、今日の各種デバイスに表示される多彩な日本語フォントのデザインにも、大きな影響を与えつづけているだろう。
 今井直一の『書物と活字』は、単に活字製造に関する技術やノウハウの本ではなく、ロゼッタストーンやアッシリア粘土板、パピルス印刷など古代文字にはじまる活字の歴史を通史で概説し、同技術を日本語(ひらがな・カタカナ・漢字)へどのようにカスタマイズしていったか、あるいは日本語の活字を製造する際、それぞれの文字をどのようなデザインで工夫すれば、多くの人々に安心感・安定感を与え、視認しやすく読みやすい印刷物になるのかをわかりやすく解説した秀逸な本だ。
 たとえば、「品」という漢字は下部の2つ並んだ、本来は同サイズの「ロ」のうち、右下の「ロ」の横幅をやや狭くして右端の横棒を若干太くすると、安定感が格段に増すというような、文字のデザインについても具体的に触れている。つまり、「品」という3つの「ロ」をすべて異なるサイズにし、なおかつあえてシメントリーの配置にしないことで、実際の見た目にはかえって左右均衡がとれているように映り、文字自体も引き締まったかたちに感じられるという。
 また、漢字に限らずひらがな・カタカナについても、たとえば「ア」という文字は書いた際に筆を一度止める箇所、ハネクチや肩、点などの箇所に変化のある特徴をもたせ、読みやすさを増幅させる工夫がほどこされている。これらの箇所を、少し誇張気味にデザインして活字を製作したほうが、読みやすさが増してちょうどよく感じるそうだ。長期にわたって取り組んだ、このような日本語の活字に関する読みやすさの追究と、オリジナルのデザインや技術の進化が、既存の活字には依存しない三省堂の出版物には、縦横に活かされていた。
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 戦後、今井直一は取締役から専務取締役、そして1951年(昭和26)に代表取締役社長に就任している。だが、もともと印刷の技術畑ひとすじに歩んできた彼は、神田神保町1丁目1番地の社長室にいるよりも、戦後は三鷹市上連雀990番地にあった三省堂印刷工場の“現場”にいるほうが落ち着いたのではないだろうか。出版界に多大な業績を残したということで、彼は1956年(昭和31)に第4回野間賞を、1961年(昭和36)には印刷文化賞を受賞した。また、晩年には日本印刷学会の会長に就任している。
 印刷文字は永久不変ではなく、時代ごとにその姿を変えていく。戦前と戦後では、印刷文字のデザインやかたちが、ずいぶん異なることに気づく。今井直一は敗戦後、新たに生まれる文字は従来の束縛から解き放たれ、自由でなければならないとしている。そして、日本の活字文化の建て直しが必要だとも説く。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 印刷技術の上にも、ずい分いろいろのことがあった。世の中も変った。しかし活字はほとんど変っていない。変る必要のないほど、もともと完全なものだったというのではむろんない。といってこのみちの改善は、実に容易ならぬことなのである。たとえば活字の規格、それもごく原則的なものをたてようとしても、なかなかむずかしく、かりに規格ができたとしても、その実現には長年月を要し、はたして全般的に完全に行われるかどうか、見通しがつかないというのが、いつわらぬところであろう。/しかし立派な活字を作れという声は、以前から絶えずきくところ、まことに「よい活字」は作りたいものである。ひと口によい活字、立派な活字というが、その条件にはいろいろあって、なかなか簡単にはいえない。だが、せんじつめれば「美しい、読みよい活字」ということにつきると思う。
  
 活字のデザインや、その読みやすさや視認性の高さの追究に生涯を費やした技術者としては、万人にうける普遍的で「美しい、読みよい活字」はこれだと一概に規定できない、エンジニアとしてすごした苦労人の言葉がにじみでているような一文だ。
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 古代からつづく活字文化だが、森林の保護やSDGsによる紙への印刷が年々減りつづけている現状を見たら、今井直一はなにを思うだろうか。文字はデジタルソースとなり、それをベースに表示させるフォント依存になり、さらにそれを表示させるには当該フォントを実装したデバイス依存となった今日、彼は「美しい、読みよい」明朝・ゴシックフォントのオリジナルデザインの開発に注力するのではないか、そんな姿を強く感じさせる人物だ。

◆写真上:下落合4丁目2247番地にあった、今井直一邸跡の現状(右手)。
◆写真中上は、今井直一が導入したベントン母型彫刻機(ATF社製)。中上は、明治初期創業の三省堂書店と混同しがちだが、彼が入社したのは書店ではなく1915年(大正4)に分岐した別法人で出版社だ(同社沿革より)。中下は、同社の代表的な辞書で『新クラウン英和辞典』()と『三省堂国語辞典』()。は、家に残る1961年(昭和36)初版発行で1968年(昭和43)第3刷の『新クラウン和英辞典』のページ。使われている活字には、今井直一のこだわりによる長年の研究成果が活かされているのだろう。
◆写真中下は、三省堂の亀井寅雄()と今井直一()。中上は、1949年(昭和24)に出版された今井直一『書物と活字』(印刷学会出版部)の表紙と奥付。中下は、「美しい、読みよい」活字を製作するための設計デザインにおける工夫例。
◆写真下は、1957年(昭和32)の空中写真にみる今井邸。は、1951年(昭和26)撮影の三省堂三鷹工場。は、1961年(昭和36)に印刷文化賞を受賞する今井直一。

谷崎潤一郎も滞在したグリンコートの住民たち。

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 「GREEN COURT STUDIO APARTMENTS(和名:グリンコート・スタヂオ・アパートメントClick!)」を調べていると、面白いことがわかる。ほとんどの住民たちが、同アパートの正式名称を名のっていない。それは、自己申告である年鑑や会員名簿、紳士録などを見ると歴然としている。頭の「グリン」だけ残して、省略しているケースも多い。
 仕事部屋にしていた林芙美子Click!は、同アパートをなぜか「グリン・ハウス」と呼んでいたようだが、洋画のアトリエにしていた志賀直哉Click!は特に固有名詞を用いず、単に下落合の「アパートメント」と表現している。同アパートに住んでいた住民で、もっとも多いのは名称の下部をすべて省いた「グリンコート」、あるいは大半を省略した「グリンコート・アパート」だ。それに、「Green」はそもそも「グリーン」のはずなのだが、当初よりアパートのネーミング自体が長音符「―」を無視して省略していた。昔の国鉄(現JR)が「グリーン車」を設置したあと、長音符がどこかに消え失せ「グリン車」と呼ばれるようになったのと同じ、日本語による発音特有の現象だろうか。
 また、同アパートの住所もまちまちだ。わたしが調べた資料類では、その60%超が下落合2丁目722番地となっているが、残りの40%弱は下落合2丁目721番地となっている。これは、同アパートが竣工した1938年(昭和13)の時点では下落合2丁目722番地だったものが、戦争をはさむいずれかの時期に721番地に変更されたものと考えていた。しかし、大きめな敷地自体に721番地と722番地の双方が混在していたとすれば、郵便物はいずれの番地でも配達されていたのかもしれない。なお、1971年(昭和46)に行われた下落合4丁目への住所変更時には、敷地全体が721番地になっていた。
 同アパートを設計したのは、米国帰りの建築家・鷲尾誠一だが、彼はアパートの竣工時から敗戦後の1960年代まで、一貫して住みつづけている。彼は1939年(昭和14)の時点で、すでに自宅住所を「下落合2丁目721番地」としており、722番地は使用していない。戦後、彼は同アパート内に「鷲塚建築設計事務所」を開設しているが、同事務所も721番地でとどけでている。1960年代の初めは、すでに長ったらしい旧・アパート名は廃止され、「グリン亭」と表記されていた時代だ。
 少し余談だが、鷲尾誠一は戦前から戦後にかけ、日米協会(The America-Japan Society, Inc.)の正会員になっている。おそらく、米国から帰国した直後に加盟しているのだろう。したがって、1941年(昭和16)12月に日米戦争がはじまると、さっそく特高Click!の事情聴取と同アパートのガサ入れを受けているのではないだろうか。
 さて、以前の記事で目白文化村Click!の第三文化村に建っていた、目白会館文化アパートClick!(下落合3丁目1470番地)の住民たちClick!について書いたことがあったが、今回は聖母坂沿いに建っていた昭和期の新しいモダンアパート「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」には、どのような人たちが部屋を借りていたのかを調べてみたい。
 1938年(昭和13)春から入居者を募集していた同アパートは、先の小説家を廃業宣言して洋画アトリエに使用していた志賀直哉をはじめ、執筆の仕事部屋として利用していた林芙美子、アレクサンドル・モギレフスキーの門下生で滞仏からもどったヴァイオリニスト・鈴木共子、東京音楽学校のディーナ・ノタルジャコモに師事した声楽家の島本富貴子、同アパートの設計者で建築家の鷲塚誠一、文部省の雇用外国人でフランス語講師のオルトリ・ジャンジョセフ・ルイ、物語作家・翻訳家で戦時中は南洋映画の宣伝課長になる長谷川修二(楢原茂二)、映画女優の志賀暁子、東京帝大文学部を卒業し作家志望だったらしい無職の青山健二など、明らかに芸術分野の匂いがする住民が多く部屋を借りていたのがわかる。
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 そしてもうひとり、ほんの一時的だが谷崎潤一郎Click!も滞在している。1939年(昭和14)に、娘の谷崎鮎子が同アパートを借りていたからで、佐藤春夫Click!の甥にあたる竹田龍兒との結婚式および披露宴に出席するため、神戸市の住吉から帰京してしばらく逗留している。谷崎潤一郎が下落合にやってきたのは、同年の4月だった。当時の様子を、1942年(昭和17)に創元社から出版された谷崎潤一郎『初昔・きのふけふ』から引用してみよう。
  
 ちやうどその月の廿四日に、龍兒と鮎子との結婚式が東京会館で挙げられることになつたので、私達は再び上京し、二人が新婚旅行を終へて下落合のグリーンコートスタヂオアパートに家庭を営なむのを見届けるまで滞在してゐたが、我が子の幸福さうな新婚生活ぶりを見るうれしさは、そのこと自体のめでたさの中にあるし、そのことに依つて自分達夫婦の間にも春が回つて来るやうな感じを受ける所にもある。
  
 谷崎がグリンコートと短縮せず、アパートのエントランスに嵌めこまれた英文のネームを見ているのだろう、「グリーンコート」と長音符を入れて几帳面に読んでいるのがわかる。娘夫婦のアパートは下落合にあったが、谷崎が関西での生活を引き払い東京にもどってくると、同じ目白崖線の斜面に建つ目白台アパートClick!(現・目白台ハイツClick!)で暮らしている。その当時まで、娘夫妻が下落合に住んでいたかどうかは不明だが、グリンコートと目白台アパートはわずか3kmほどしか離れていない。クルマなら10分足らず、歩いても30~40分でたどり着ける距離だ。
 グリンコートが竣工した直後は、芸術分野にかかわる人々が同アパートを利用していたが、戦争が近づくにつれ、徐々に住民たちの職業も変わっていく。公務員や会社員などが増え、美術や文学、音楽に関係する人物の名は見えなくなる。たとえば、今橋鼎(戸塚相互自動車社長)、北郷弘市(日本鉄道会社社員)、下平謙也(パイロット化学工業社員)、阿部光寛(農林省農務局農村対策部)、柴田敏夫(朝日新聞東京本社政治経済部記者のち社長)、深尾立雄(内科医師)、芝三九男(東亜研究所員)などの人々が、同アパートで暮らしていた。
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 グリンコートの賃貸料に限らず、当時のモダンアパートは住みこみで受付管理人(コンシェルジュ)Click!の常駐が普通で、ちょっとした一戸建ての貸家を借りるよりも家賃は高かった。したがって、比較的収入が高めな人々が部屋を借りて住んでいたのがわかる。また、戦争が激しくなるにつれ軍隊への召集や工場などへの勤労動員が増え、あるいは山手空襲Click!が予想されるようになると、故郷や親戚を頼って疎開する住民もいただろう。1940~1945年(昭和15~20)には、だいたい上記のような人々が住んでいたが、この傾向は戦後もそのままつづいている。
 空襲からも焼け残ったグリンコートには、敗戦直後から以下のような人々が暮らしていた。住宅不足が深刻な時期であり、また戦後のインフレも加わって賃貸料はかなり高額になっていただろう。宮田文作(大蔵省専売局経理部)、奥山正夫(著述業)、新居俊男(日本専売公社製造局)、辻原弘市(社会党衆議院議員)、奥山誠(明治製菓総務部)、平垣美代司(全日本教職員組合書記長)、稲村耕男(東京工業大学無機化学教室助教授)、萩原正雄(会社経営)、安東富士夫(職業不詳/大分県県人会会員)などの人々だ。
 特に気づくのは、政治家や官公庁など公務員が目立つことだろう。住宅難で住む家が確保しづらかった当時、市街地にあった議員宿舎や公務員宿舎も焼け、おそらくグリンコートの何部屋かを政府が借りあげていた可能性が高そうだ。
 さらに、1960年(昭和35)前後になると、グリンコート・スタヂオ・アパートメントという長ったらしい名称は廃止され、なぜかレストランのような「グリン亭」というネームに変更されている。また、1960年(昭和35)をすぎると都心へのアクセスが便利なせいか、企業の事務所としても使われはじめている。先にご紹介した、鷲塚誠一の「鷲塚建築設計事務所」もそのひとつだが、北区東十条に本社のある池野通信工業の新宿出張所もアパート内に開業している。
 また、下落合駅へ徒歩2分(当時は十三間通りClick!が存在しない)という立地条件から、賃料も高かったせいか会社員でも取締役クラスの住民が多い。たとえば、秦藤次(日本コーヒー取締役)、竹内誠治(プロパン会社社長)、坂井喜好(協和銀行本所支店次長)といった人々だった。だが、それも1962年(昭和37)までで、同年を境に住民の記録はプッツリとなくなる。グリン亭の全体がリフォームされ、室内もすべてクリーニングがほどこされて、新たに「旅館グリン荘」として生まれ変わったからだろう。けれども、グリン荘が繁昌したかどうかは不明だ。戦後の旅行や旅館関係の資料にも、グリン荘の記録や広告は掲載されていない。
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 同アパートがグリンコート時代あるいはグリン亭時代に、小説家の清水一行は部屋を借りていたか、あるいは誰かを訪ねて頻繁に出入りしていた可能性がある。住民でなかったとすれば、彼が共産党員だった戦後の時代に、同アパートで暮らしていた社会党の代議士・辻原弘市を訪問したか、あるいは日教組左派の平垣美代司を訪ねたものだろうか。彼の作品に登場する、「東京郊外」にある「S駅」近くの「グリーン荘」は、明らかに下落合駅から2分のグリンコートをイメージしたものと思われるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:1941年(昭和16)に撮影された、水蓮プール(蓮池)のあるパティオ。
◆写真中上は、1938年(昭和13)竣工時のグリンコート・スタヂオ・アパートメント。は、1941年(昭和16)と1956年(昭和31)の同アパート。
◆写真中下は、玄関および外壁と窓。は、谷崎潤一郎と長女・鮎子(AI着色)。
◆写真下は、同アパートの廊下。は、画家や写真家をターゲットに設計されたとみられるアトリエ(スタヂオ)タイプの部屋。は、十分な採光が期待できる大きな窓の室内。