グリーンコート・スタヂオ・アパートメントを拝見。

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 聖母坂の下落合2丁目722番地(のち721番地)に建っていた「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」は、以前にも少しご紹介Click!している。当時は「グリンコート」または「グリン・スタヂオ・アパート」と呼ばれ、最先端の設備を備えたモダンアパートClick!だった。二度の山手空襲Click!からも焼け残り、戦後は名称をちぢめて「グリン亭」あるいは「旅館グリン荘」と改名し、1970年(昭和45)ごろまで建っていた。わたしは1974年(昭和49)以降、同アパートの基礎部や地下階の廃墟を目にしている。
 このアパートの1室を一時期、林芙美子Click!が借りて仕事部屋に使い、また小説家を廃業宣言した志賀直哉Click!が下落合のアトリエにしていたことをご教示いただいたのは、林芙美子記念館Click!「ざくろの会」の吉川友子様からだ。今回は、「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」(以下ネームが長いので戦前に多い「グリンコート」で表記)の内部を拝見してみよう。ちなみに、1939年(昭和14)に仕事部屋を借りていた林芙美子は、「グリンコート」を「グリン・ハウス」と表現している。
 広めの部屋をもつ「グリンコート」が竣工し、入居者の募集を開始したのは1938年(昭和13)の早春あたりからだとみられ、設計は鷲塚誠一で施工は坂本工務所だった。竣工当時の資料によれば、10~14坪の部屋が8室で、「アトリエに通ずる吹抜の大型部屋と独身アパートの三種類」と書かれている。本来の意味からすれば、「スタヂオ・アパートメント」はスタジオやアトリエに使える「ワンルーム」の概念だが、1室の広さが20~25畳大とかなり広く、竣工時の写真から間仕切りされた室もあったようなので、家族連れの利用や事務所、文字どおり写真スタジオなどにも使えそうな仕様だ。基本的には、地下1階・地上2階建てだが、聖母坂沿いに久七坂筋のかよう急斜面に建てられていたため、正面から見ると屋上にも陽当たりのよい部屋がある3階建てのように見える。いま風の表現でいえば、おカネ持ち向けの高級賃貸マンションといったところだろうか。
 外装は、モルタル塗りで外壁は淡いグリーンの塗料を、腰壁はダークオリーブ色の塗料を吹きつけたカラーリングで、木製の部分はオリーブ色の、西陽よけの藤棚は白のペンキ塗りという外観だった。屋上は、雨水を逃がす片面が微妙に傾斜のついた平面で、防水機能のあるモルタル仕上げの施工となっている。
 聖母坂に面したエントランスは、聖母坂による南北の緩傾斜と、東側の久七坂筋の西向き斜面による急傾斜があるため、玄関に向かって階段を上る設計になっており、壁面はモザイクのタイル張りで、入口の壁にはアパートメント内の案内図や告知票などを貼れる、ガラスカバーつきの掲示板が備えられている。以前にも触れたが、中庭にはスイレンの花が咲く「水蓮プール」と呼ばれた蓮池が設置されていた。
 1938年(昭和13)に発行された「建築世界」4月号より、設計者の鷲塚誠一「グリンコート・スタヂオ・アパートメントの設計に就て」から、少し引用してみよう。
  
 敷地は東京の住宅地である下落合の高台で、六間道路表通と一間半裏通に取囲まれた可成不規則な高低と型ではあつたが集合住宅の設計には反へつて面白い設計が出来るものと想つた。又裏通より二階の各室に外部よりの出入口を設け従来の二割強の廊下階段のスペースを、レンタブル、(ママ:・)スペースに替用し得るし、此の種の営利的建物には適すると思つたが此の設計は条令云々で従来の廊下に変更を余儀無くされた。敷地は多辺型で一九二坪。建物は延坪二三二坪で、地階鉄筋コンクリート造り一九坪、壱階一一五坪、弐階一一五坪である。/東京市の人口密集率、交通、地代、等(ママ)の関係から従来のアパート及び長屋建築の間取りに、音楽家、画家向きの吹抜け、大窓アトリエタイプの部屋、出来得るだけ各室の待遇を均等にすべく苦心した。(カッコ内引用者註)
  
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 この文章からもわかるように、鷲塚誠一は落合地域の特色を意識したものか、設計時から「グリンコート」の住民に音楽家や画家などを想定していたことがわかる。だからこそ、入居者募集の当初から画家(当時、志賀直哉は小説家を廃業していたので画家に分類する)がアトリエとして、作家が仕事部屋として、さらに音楽家でヴァイオリニストの鈴木共子がスタジオとして借りていたのだろう。
 米国帰りの鷲塚誠一にしてみれば、欧米に見られるアパートのような仕様で設計したかったと思われるが、自治体の条例や消防法、いろいろな規制、建築主からの注文などで思いどおりには設計できなかったのを、同誌の「グリンコート・スタヂオ・アパートメントの設計に就て」で匂わせている。特に、聖母坂の規制(新たに規定された補助45号線Click!の拡幅工事計画予定)により、表通りに面したデザインや設計が想定とは異なったことにも触れている。室内の様子について、同誌の彼の文章からもう少し引用してみよう。
  
 室内面積小なる場合は造作書棚とか小食卓等を付加して平均収得を計つた。既存のアパートの各室が概して六畳間を標準として居る今日、地代と建築主の理解と相俟つて八畳間に向上させ、各室の面する庭園も豊富な芝、植込、水蓮プール等を設けた事は居住者にとつては福音である。/従来此種アパートに改良する余地があり乍ら習慣に捉はれ過ぎて改良し得なかつたものは便所であるが、本設計では和風便所の観念を捨てゝ(和風便器を用ひ乍ら)浴場、洗面場、便所の三つを一つのブロツクに収め、清潔、スペースの整理、使用上の便利等に於て実際上充分効果を上げ得たこと、――此の問題は此種建築に限らず住宅等にも適用されるべきものと思ふ。/アパート生活に関連する設備中重要な要素の一つとして戸締が云はれるが、独身アパートに於ける場合と異なり此種家族アパートに於ては一層戸締り方法も複雑になつて来る。その対案としてダツチドアーを使用したのであるが、扉そのものゝ性能と相俟つて所期の目的は達せられた様である。
  
 米国で暮らした鷲尾誠一としては、洋式便器を設置したかったのだろうが、和式便器にしたのはコストを勘案した建築主との妥協によるものだろうか。浴室やトイレの写真を見ると、座って用を足す洋式便器の設置を前提としたかのような設計になっている。ちなみに、当時の下落合の洋風建築には、かなりの割合で洋式便器が採用されていた。
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 さて、山手大空襲Click!の延焼をまぬがれ戦災をくぐり抜けた「グリンコート」だが、敗戦直後の様子は残念ながらわからない。敗戦とともに、アパートの名称だった「GREEN COURT STUDIO APARTMENTS」をやめ、「GREEN HOUSE」に改名しているのかもしれず、その名称を林芙美子が戦後に記憶していた可能性もあるだろうか。
 1960年(昭和35)作成の「全住宅案内図帳」を参照すると、すでに「グリン亭」という名称に変わっている。今日では料理屋のようなネームだが、このころからアパートを廃業しホテル業(旅館業)へ転換する計画がもち上がっていたのかもしれない。敗戦とともに、所有者が変わっている可能性もありそうだ。1963年(昭和38)の同図では、「旅館グリン荘」と記載されており、宿泊施設になっていたことがわかる。「旅館」という名称から、本来は洋風の板張りだった部屋の多くには、畳が敷かれていたものだろうか。
 当時、聖母坂で旅館を運営するメリットとはなんだったのだろう。国際聖母病院Click!へ長期入院・加療が必要な患者の、家族用の宿泊施設として利用されたのだろうか。また、目の前に全農中央鶏卵センターClick!(現・JA全農たまご株式会社)や保谷硝子本社(現・HOYA株式会社)が建設されたため、仕事やビジネス用のホテル代わりに利用されたものだろうか。下落合駅前にあったホテル山楽Click!のように、東京への修学旅行生たちを泊めたとは、建物の仕様や規模からちょっと考えづらいのだが……。
 1956年(昭和31)に、筑摩書房が撮影した「グリン亭」の写真が残っている。同社が出版した、『日本文学アルバム/林芙美子』に掲載されたもので、「昭和十四年一月に、家から近いグリン・ハウスに仕事場を持った」というキャプションが添えられている。「家から近い」とあるが、当時、林芙美子は下落合4丁目2133番地Click!の自称“お化け屋敷”Click!に住んでおり、自宅からは少し遠い仕事場だったことがわかる。志賀直哉のアトリエがあったため、それに惹かれて借りていたニュアンスも感じられる。
 林芙美子は、五ノ坂下で中ノ道Click!(=下の道Click!/現・中井通り)を東へ450mほど歩き、中井駅から西武線の電車に乗ると2~3分ほどで次の下落合駅に着いた。現在は1分で到着するが、当時の電車はいまほどスピードのでる車両ではなかった。彼女は下落合駅で降りると、西ノ橋Click!をわたってカーブする道なりに、いまだ十三間通りClick!(新目白通り)が存在しない西坂Click!がかよう徳川義恕邸Click!の丘麓にでた。徳川邸の昭和期「静観園」Click!がある斜面を左に見ながら、およそ2~3分で「グリンコート」に着いただろう。もっとも、現在の運行ダイヤほど密ではない当時は、中井駅のホームで電車を待つよりも、そのまま中ノ道を歩いたほうが、1,200m(徒歩12~13分)ほどなので早く着けたかもしれない。
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 林芙美子が坂を上りはじめると、関東乗合自動車Click!が大きなエンジン音と排気ガスをまき散らし、泥だらけのタイヤをきしませながら、彼女を追い抜いて「国際聖母病院前」停留所、次いでターンテーブルのある坂上の終点「椎名町」停留所Click!へ向け上っていった。

◆写真上:1938年(昭和13)に撮影された、下落合2丁目722番地の「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」。背後の突きでた屋根は810番地の鈴木邸。
◆写真中上は、同アパートの1階と2階の平面図。中上は、同アパートのエントランス階段部。中下は、薄緑色の外壁と窓。は、通常より広めな廊下。
◆写真中下からへ、同アパート中庭の水蓮プール、バルコニーと大窓、同じく陽当たりのよい仕様のアトリエ、間仕切りのある部屋、そして便所と浴室。なお、同アパートにあった志賀直哉のアトリエについては、改めて記事にする予定だ。
◆写真下は、戦後1947年(昭和22)の空中写真にみる「グリンコート」。中上は、「全住宅案内図帳」の1960年(昭和35)および1963年(昭和38)に記載された「グリン亭」と「旅館グリン荘」。中下は、1956年(昭和31)出版の『日本文学アルバム/林芙美子』(筑摩書房)に掲載された戦後の「グリン亭」。は、聖母坂に面した同アパート跡の現状。

手塚緑敏『下落合風景』を再検証する。

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 以前、キャンバスに重ね描きをしたとみられ、絵画の勉強をはじめて間もないころの習作と思われる、手塚緑敏Click!『下落合風景』Click!をご紹介したことがあった。だが、落合地域の情景が、時代ごとにおおよそ見えるようになった現代の眼からは、同作は下落合の風景ではなく、「上落合風景」であることがわかる。下落合のエリアは、画面左手の一部にほんの少ししか見えていない。
 手塚の『下落合風景』は、少し前にご紹介した椿貞雄Click!が描く『美中橋(美仲橋)』Click!の描画ポイントとは、およそ正反対の位置から上落合の風景を描いている。ただし、美仲橋は画面左手の枠外に外れている。そして、周辺に家々が増えていることから、1925年(大正14)に描かれた『美中橋(美仲橋)』のしばらくのち、上落合の耕地整理が進んだ昭和初期ごろの風景だということも想定できる。手塚緑敏は、1930年(昭和5)に上落合850番地Click!にあった尾崎翠Click!の旧宅2階へ、彼女の仲介で林芙美子Click!とともに転居してきているので、ちょうどそのころに描かれたものだろう。
 では、描かれたモチーフをひとつひとつ検証してみよう。まず、射光からも想定できるように、右手が尾根筋に早稲田通りがとおる南側だ。手前に落葉樹が見える平家は、願正寺と境妙寺の境内つづきの斜面に建てられた、上高田316番地の住宅(住民名不詳)だ。この住宅は、二度の山手空襲Click!をくぐり抜け、戦後まで焼け残っていた。右手に見える、緑の屋根と高い煙突を備えた施設は、上落合897番地の落合火葬場(現・落合斎場)Click!だ。そして、火葬場の煙突から少し離れた、やや遠くに描かれた左側の煙突は、落合火葬場の北東並びにあった上落合895番地の銭湯「吾妻湯」(のち「帝国湯」)だ。
 当時もいまも、落合火葬場(落合斎場)は東京博善社が運営しているが、同社を創立したのは木村荘八Click!の父親・木村荘平Click!であることはすでに記事にしている。江戸期からつづく落合火葬場Click!を、東京博善社が経営しはじめる明治期の様子を、1983年(昭和58)に上落合郷土史研究会が刊行した『昔ばなし』(非売品)から引用してみよう。
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 明治の末頃、この火葬場が独立企業となりそれを機会に、今までのような野天焼をやめてカマを造るようにした。こんな計画を知った私たちの祖父たちは、反対か!賛成か!と考えたが結局これを誘致すると言う(ママ)こととなった。その理由は、(1)今まであったし、今度は今までより施設が良くなる。(2)村に税金が入るから……であった。特に当時は、山手通りから以西は人家は無く、畑と山林であり、煙公害も感じなかったし、煙はみんな上高田の方へ飛んで行ってしまっていた、と云う(ママ)ことであった。/現在は株式会社の博善社と言う(ママ)会社であり、落合と町屋で火葬場を経営している。(カッコ内引用者註)
  
 画面に描かれた高い煙突だが、戦後、同施設がリニューアルされて落合斎場となり、煙突が廃止されてからすでに久しい。夏目漱石Click!大杉栄Click!など、歴史教科書に登場するそうそうたる人たちが最期に“利用”した同施設だが、わたしもそのうちお世話になるのだろう。排煙は、みんな「上高田の方へ飛んで行っ」たというのはひどい話のように思えるが、上高田側の地域も人家などほとんどなかった明治時代の話だ。
 手塚緑敏は、願正寺あるいは境妙寺へと向かう参道筋の上り坂、あるいはその斜面から東北東を向いて描いているのがわかる。手前の平家住宅の向こう側(東側)には、谷間を妙正寺川へと注ぐ小川(兼灌漑用水)が流れていたが、左手につづく空き地一帯が、のちに牧成社牧場Click!の放牧地あるいは牧草地となる草原だ。火葬場の煙突と、「吾妻湯」の向こう側に見えている木々は、上落合653番地界隈にあった森で、いまだ住宅が少なかった当時は、ここまで商店街(現・上落合銀座通り)は伸びてきていない。
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 また、中央に描かれた茶色い煙突状のものは、1929年(昭和4)現在で上落合銀座通り沿いの南側、上落合635番地にあった火の見櫓のように思えるが、画角からするともう少し右手、銭湯「吾妻湯」の煙突寄りでなければ位置的には合致しないことになる。ただし、同火の見櫓は1935年(昭和10)現在の地図では上落合銀座通りの北側、上落合833番地に移設されているようなので、手塚の『下落合風景』が描かれた1930年(昭和5)以降、すでに移設されたあとの風景をとらえているのかもしれない。
 さて、火の見櫓とみられる突起左手のはるか向こうに見える煙突は、上落合の高台にあった上落合436番地の、残念ながら新型コロナ禍の最中の2021年に閉業してしまった銭湯「梅の湯」のものだ。手塚の描画ポイントから眺めると、いまでは目立たなくなってしまった上落合東部の丘陵地帯の様子がよくわかる。この丘陵左手の谷底を流れているのが妙正寺川だ。そして、その対岸に見えている、木々に覆われたひときわ高い丘陵地が、振り子坂Click!六天坂Click!見晴坂Click!などが通う下落合3丁目界隈(現・中落合1丁目)の翠ヶ丘Click!(山手通り=改正道路工事が計画されると樹木が伐採され、「赤土山」と呼ばれることが多くなる)ということになる。
 下落合の丘の手前にポツンと1軒、オレンジ色の屋根とみられる大きな家屋が描かれている。ちょうど、中井駅Click!落合第二尋常小学校Click!(現・落合第五小学校Click!)のかなり手前に位置するあたりだが、最勝寺の屋根には見えず、鋭角な屋根から西洋館のようだ。この位置に見えそうな大きな建物は、上落合810番地に早くから建てられていたアパート「幸静館」の屋根だろうか。換言すれば、このオレンジ色の屋根をもつ西洋館の右手には、2階建ての落合第二尋常小学校や最勝寺の屋根が遠望されてもよさそうなのだが、手塚緑敏は省略しているのかもしれない。あるいは、同西洋館の右手には、なにやら太い平筆の跡が2本横に入っているので、同作は描きかけのまま放置された未完の画面になるのだろうか。
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 手塚緑敏については、林芙美子Click!の連れ合いだったことが書かれるぐらいで、その画業についてはほとんど資料が存在していない。昭和初期の、落合地域に拡がる風景を描いた画家として、あえて拙サイトで取りあげているぐらいのものなのだが、その人物像については妻が怒鳴ろうが浮気をしようがなにもいわないClick!、「温好な性格」の人物というような印象談しか目にしてこなかった。もっとも、林芙美子と結婚してしばらくすると、どうしても絵が売れずに画家をやめてしまったせいもあるのだが、1940年(昭和15)前後に撮影されたとみられる、松本竣介アトリエClick!で歓談する写真も残されており、絵画への興味を完全に失ってしまったわけではなさそうだ。
 もう少し、その人物像について書かれたものがないか探したのだが、林芙美子の死去した直後の1951年(昭和26)に創元社から出版された松村梢風『近代作家伝・下巻』が、彼についてやや詳しく触れているだろうか。同書より、少し引用してみよう。
  
 (林芙美子は)野村(吉哉)と漸く別れて当分独り暮しをしてゐたが、親友平林(たい子)が小堀(甚二)と結婚して幸福になつたのを見て、自分もかうしてはゐられないといふ気持になり、画学生であつた手塚緑敏と正式に結婚した。手塚は長野県下高井郡平岡村の人で、郷里も相当の家で毎月四十円位の送金を受けてゐた。手塚は至極温好で善良な人であつたので、彼女にとつて生涯よい夫となつた。初めは堀の内に借家をして新家庭を営んだ。其の家は四五間あつたので、彼女は其の一間を貸すことにした。(中略) 手塚と結婚してからも生活は苦しかつた。手塚も勿論絵は売れない。博覧会のペンキ画をかきに行つたこともある。(カッコ内引用者註)
  
 手塚緑敏は、いまだ妙正寺川の蛇行を修正する整流化工事で水没していない、上落合850番地の家から画道具を手に外へ出ると、南にかよう三の輪通りClick!をめざして歩いていった。通りの交差点で、借家を紹介してくれた左手(東側)にある上落合842番地の尾崎翠が住む2階家を一瞥したあと、交差点のすぐ右手(西側)にある上落合851番地の今西中通アトリエClick!へ立ち寄っているのかもしれない。
 今西中通Click!もまた、1930年(昭和5)に渋谷道玄坂から同地へ転居して間もない時期だった。以来、近所同士の手塚と今西はしばしば訪ねあっては、画業について語りあったり将棋を指す間がらだった。今西中通は、1933年(昭和8)に林芙美子の『放浪記』が出版されると、出版記念祝いとして同家に『春景色』(25号)をプレゼントしている。また、手塚・林家からは今西の結婚祝いに鉄瓶が贈られている。
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 手塚緑敏が訪ねたアトリエに、今西中通はおめあての女性「フサ」がいる喫茶店に出かけて不在だったかもしれない。手塚は、南へ下って上落合銀座通りへ出ると、落合火葬場のある西の方角へしばらく歩いていった。ほどなく火葬場の前をすぎてまわりこみ、境妙寺や願正寺の山門へ抜けられる坂道を上ると、ちょうど「吾妻湯」と火葬場の煙突がややズレて見える斜面にイーゼルをすえてスケッチをはじめた……そんな情景が浮かぶ作品だ。

◆写真上:1930年(昭和5)すぎの制作とみられる、手塚緑敏『下落合風景(上落合風景)』。
◆写真中上は、同画面の拡大で火葬場と「吾妻湯」の煙突。中上は、同じく遠望する上落合の丘上で開業していた「梅の湯」の煙突。中下は、同じく下落合の丘とアパート「幸静館」とみられる大きな西洋館。は、小川が流れる手前の谷間。
◆写真中下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる描画位置とモチーフ群。中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる画角。中下は、1930年(昭和5)ごろ撮影の手塚緑敏()と、1940年(昭和15)前後に松本竣介アトリエで撮影された同人()。は、1930年(昭和5)ごろ上落合850番地の借家で撮影された手塚緑敏(右)と林芙美子。
◆写真下は、戦後まもなく撮影された上落合850番地。妙正寺川の整流化工事で“水没”し、川中に見える段差の上あたりが850番地の敷地だった。は、上高田第2住宅が建っているので斜面には立てない描画ポイントの現状。は、先ごろ閉業した「梅の湯」。

中村彝『庭(風景)』と大里一太郎『ゆかりの園』。

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 現在では『風景』と題されている、1918年(大正7)ごろに中村彝Click!が制作した1号F(21.0×16.0cm)の小品がある。個人蔵らしく、展覧会ではあまり見ない作品だが、中村彝アトリエの南にある芝庭から藤棚やテラスの東側を描いたものだ。
 1931年(昭和6)の現在、同作のタイトルは『庭』とされていたが、いつの間にか(戦後か?)『風景』というタイトルに入れ替わった。中村彝が、当初から『庭』というタイトルをつけていたのか、あるいは大正末から昭和期にかけ、同作を所有していた大里一太郎がそう名づけたかは不明だが、彝が自身のアトリエの外観を描いた数少ない1作だ。わたしは、1984年(昭和59)に開かれた神奈川県立美術館と三重県立美術館の、「歿後六十年記念/中村彝展」図録に掲載されたモノクロ画面でしか見たことがなかった。
 庭からアトリエを描いた絵には小品が多く、1916年(昭和5)に下落合464番地へアトリエを建てたあとの数年間、美術商や画廊を通じて希望者に頒布する、いわゆる“売り絵”として描かれた小品だろうか。大正末から昭和期にかけ、『庭』(現在は『風景』)を所有していた大里一太郎は、埼玉県粕壁村(現・春日部市)の豪農兼豪商の出自で、当時は多額納税者として知られていた。また、東京駅前にあたる丸の内に土地を所有していたので、大地主としても知られる人物だった。
 大里自身は東京市麹町区に住んでいたので、粕壁(春日部)での農業や商売は差配や小作人たちに運営させていたのだろう。敗戦とともにGHQから土地を没収される、当時の典型的な不在地主のひとりだった。大里一太郎について、2004年(平成16)に発表された「住宅総合研究財'団研究論文集No.31」収録の、『近代建築における建設会社設計部技術者の研究―大友弘の業績を通じて―』(主査・平山育男/委員・松波秀子)から少し引用してみよう。
  
 大里一太郎は昭和時代初期、埼玉県粕壁で農業を営む多額納税者である一方、丸の内周辺に1,000坪を越える土地を所有した地主で、絵画の収集家でもあった。/大里邸は麹町区中六番地10-7、現在の千代田区四番町に大正15(1926)年12月に建てられたもので、敷地には木造平家建78.9坪の主屋と鉄筋コンクリート造3階建22.5坪の倉が建てられた。設計は<清水組の>技師長田中実の下、主任は大友<弘>と宇佐美善太郎が当たり、家具装飾は高島屋装飾部が関わった。なお、主屋の外観は真壁塗で羽目板張の日本家であったが、客室は楢床板張とする洋間で,暖炉等が設備された。(< >内引用者註)
  
 清水組は今日の清水建設で、同論文は建築士・大友弘の作品について紹介したものだ。大里一太郎が収集した絵画・彫刻・工芸などの美術品は、書かれている「鉄筋コンクリート造3階建22.5坪の倉」に収蔵されていたのだろう。
 3階建ての大きな倉なので、単に作品を保管するだけでなく展示するスペースを設け、コレクションを興味のある訪問者に見せていたのかもしれない。同論文には、麹町中六番地に建っていた大里邸の客室(応接室)をとらえた写真が掲載されているが、絵画の蒐集家だったにもかかわらず、当時は洋風の応接室によく架けられていた洋画作品がまったく見あたらない。おそらく、作品の焼失を怖れた大里は、不燃の倉の中へ所蔵品を収めていたのだろう。また、大里一太郎は中村彝の『エロシェンコ氏の像』Click!を秘蔵しており、東京国立近代美術館へ寄贈したことでも有名だ。おそらく、没落して最後には下落合2丁目707番地(現・中落合2丁目)に住むようになる、今村繁三Click!が手放したのを入手しているのだろう。
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 わたしが、中村彝の描く『庭(風景)』が大里家の蒐集品だと知ったのは、1932年(昭和7)に大里一太郎から帝国図書館(現・国立国会図書館)へ寄贈された画集『ゆかりの園』(私家版)からだった。日本画・洋画を問わず、同書には同家所蔵の彫刻・工芸作品まで収録されているので、画集というより美術集といったほうが適切かもしれない。洋画は、中村彝のほかに岡田三郎助Click!黒田清輝Click!和田英作Click!石井柏亭Click!中澤弘光Click!藤島武二Click!満谷国四郎Click!南薫造Click!安井曾太郎Click!など下落合ゆかりの画家たちも含めた10人で、合計15作品が高精細な画像でページに貼付されている。また、日本画は9点、彫刻・工芸作品が18点ほど同様に収録されている美術集だ。
 大里一太郎は、大正中期ごろから洋画や日本画を収集しはじめているようなので、おそらく中村彝がいまだ存命だった1924年(大正13)12月以前に、『庭(風景)』を手に入れているのではないだろうか。そして現在の『風景』というタイトルではなく、彝自身から『庭』という画題を聞いている可能性が高いように思う。彼の美術集『ゆかりの園』には、もちろん『庭』というタイトルで収録されている。
 さて、わたしが不可解に感じたのは、大里一太郎の所有するおもな美術品が掲載された同美術集が、大里家のコレクションを広く世に紹介・喧伝するために編纂されたのではなく、亡き妻への個人的な追憶集として自費出版されている点だ。死去した人物への追憶(追悼)集といえば、ふつうは故人の思い出を綴った随筆や、ゆかりの人物たちによる亡き人への追悼・追憶文が掲載される書籍形式が一般的だが、『ゆかりの園』はなぜか大里家が収蔵する美術コレクションの写真集なのだ。
 冒頭には、大里一太郎の筆で「わが妻静子を追憶して/一太郎」と入り、序文は鏡花小史(泉鏡花)Click!が書いている。そして、冒頭には1921年(大正10)9月19日に数えで23歳(満22歳)で死去した、大里一太郎の妻・静子の肖像画(岡田三郎助が着彩したもの)が掲載されており、結婚式の祝い着姿の写真をベースにしたものだ。1932年(昭和7)の出版である追悼の美術集『ゆかりの園』は、妻が死去して11年もたってから刊行されていることに違和感を感じるのはわたしだけではないだろう。そして、作品の解説は東京美術学校の教授になっていた下落合2丁目630番地(現・下落合4丁目)の森田亀之助Click!が担当している。ただし、森田は絵画の解説はせず、歴史的な彫刻・工芸コレクションの説明をしているだけだ。
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満谷国四郎「牛小屋」.jpg
 『ゆかりの園』の冒頭に書かれた、鏡花小史(泉鏡花)の序を少し引用してみよう。
  
 あゝ、いかにせむ、新婦すでに亡きなり。胸を疼んで夭しぬ。伉儷僅かに三年、比翼、翼折け、連理、枝裂けぬ。高髷の綿帽子に、朝霞なほ仄かなるに、世上の風は迅く羅綾の袖を襲へるなりとぞ。新郎、いかにしてか、忍んで、この悲傷に堪へむとする。銷魂、断腸、絶せむとし、狂せむとする幾十廻。ひとり遺子一顆の珠あり。死を生に替へ、生を憧憬に換へつゝも、鬱悶の暗雲、昼夜に低迷するところ、胸裡一脈の光明を山の端の月に照らされしより、面影を芸苑の花に求めむが為に、絵画、彫刻の佳品、陶磁、金鋳の名器を集むること、東西殆ど十年。わが美と、彼が精と、また其の哀切悲恋の至情と相俟つて一堂の美術、工芸の各品。個個みな清韻霊容を備へ、紫の雲も靉靆く、関東の藤の名所の曙に、ゆかりの園、ゆかりの室、ゆかりの台を築き成せり。これを、なき人の紀念のために、一帖に合せ聯ねて、ゆかりの園と云ふといふ。
  
 いかにも泉鏡花Click!らしい一文だが、どうやらこういうことらしい。大里一太郎のもとに19歳で嫁いできた群馬県佐野町(現・佐野市)出身の小林静(子)という女性は、わずか2年余の22歳で急逝している。子どもを残しているので、出産時に母体が想像以上のダメージを受け、罹患していた結核が急激に悪化して死去しているのかもしれない。
 それを嘆き悲しんだ大里一太郎は、気を紛らわせるためにか、にわかに美術品の熱狂的な蒐集をしはじめ、妻の死から10年ほどたった1931年(昭和6)に、手もとにある主要な美術品の写真や画像を掲載した美術集の出版を思い立ち企画した。同年に、岡田三郎助には亡き妻の結婚当時に撮影した写真への着彩を、泉鏡花には序文を、森田亀之助には工芸品の解説原稿を依頼して、1932年(昭和7)の早い時期に私家版として出版。そのうちの1冊を、亡き妻への献呈を添えて帝国図書館へ寄贈した……という経緯のようだ。
 けれども、結婚して間もなく急逝した妻のため、その後10年かけて蒐集した美術品や工芸品を、豪華な美術集にして出版し追悼するというのは、なんとなく意味あいからすると起きた悲劇との間に距離感をおぼえてしまい、追悼や哀悼からは“遠い”行為のように映る。たとえば、生前に妻が愛した絵画や、愛用した工芸品を集めて記念写真集にするなら理解できる。だが、『ゆかりの園』に集められた作品は、すべて妻の死後に蒐集したもので、彼女はこれら美術品の存在をまったく知らない。
 まあ、人それぞれの“傷心”感覚なのだから、驚くほどの大金をはたいて集めた美術品を亡き妻に捧げること、つまり身を切られるほどの経済的な“痛み”を味わうことで、亡き妻への哀切な気持ちや思慕、あるいは妻への贖罪や慰謝に代替するという感覚は、なんとなくわかるような気がしないでもない。けれども、どれだけ心に痛手を受けたのかを、莫大な散財で表現し代替して見せるという行為は、どう考えても18世紀のヨーロッパ王侯貴族的な感覚で野暮な趣味だと、貧乏人のわたしは感じてしまうのだ。
安井曾太郎「ジユニヤ」.jpg
黒田清輝「フランス風景」.jpg
岡田三郎助「コローの池」.jpg
藤島武二「風景」.jpg
 『ゆかりの園』でも中村彝の図録でも、モノクロでしか観たことがない『庭(風景)』だが、カラー画像あるいは実物を観てみたいものだ。アトリエの南面、テラスの白い観音開きドアが開いており、室内に置かれているモノを確かめてみたい気が以前からしている。

◆写真上:『ゆかりの園』に収録された、1918年(大正7)ごろ制作の中村彝『庭(風景)』。
◆写真中上は、1926年(大正15)12月竣工の大里一太郎邸の客室(清水組)。は、写真に岡田三郎助が彩色した『大里静子像』。は、1932年(昭和7)に出版された大里一太郎『ゆかりの園』表紙()と大里一太郎の亡妻への献呈()。
◆写真中下は、1918年(大正7)ごろの同時期に描かれた中村彝『画室の庭』。左手に、当時はアトリエの裏側に建っていた一吉元結工場Click!の屋根の一部が見えている。中上は、『ゆかりの園』収録の石井柏亭『ナポリの春』。中下は、同じく収録の南薫造『マーガレツトとアネモネ』。は、同じく収録の満谷国四郎『牛小屋』。
◆写真下は、同美術集に収録の安井曾太郎『ジユニヤ』。中上は、同じく収録の黒田清輝『フランス風景』。中下は、同じく収録の岡田三郎助『コローの池』。は、同じく収録の藤島武二『風景』。カラー画像が多い中、中村彝『庭』がなぜモノクロなのかは不明。
おまけ
 1926年(大正15)刊行の「芸天」3月号(芸天社)に掲載された、中村彝画室保存会による頒布会員の募集記事。堀進二Click!遠山五郎Click!鶴田吾郎Click!曾宮一念Click!の4名の作品を1口25円で頒布し、売上を中村彝アトリエの保存に還元する計画だった。
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