板倉須美子はオアフ島に戦艦を浮かべる。

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 先日、千葉市美術館で開かれていた「板倉鼎・須美子・パリに生きたふたりの画家」展Click!を観にでかけたが、板倉鼎の連れ合いである板倉/昇須美子(いたくら/のぼりすみこ)の面白さに惹かれてしまった。アカデミズムにまったく縛られず、すべて無視した構図や表現に思わず見とれてしまったのだ。夫婦ふたり展だったので夫の表現に比べると、ことさらその自由度や柔軟性の高さが際立っている。もう、絵を描くのが楽しくて面白くてしかたがないという感覚が、画面のそこかしこから溢れでていた。
 須美子の作品の中でも、特に目を惹いた画面があった。1926年(大正15)2月から6月まで、ハワイのホノルルに滞在していたときの情景をモチーフに制作した『ベル・ホノルル』シリーズだが、その中に『ベル・ホノルル23』(1928年)と題して、海岸に生えたヤシの樹間をゆったり散歩する人たちを描いた作品がある。画面を仔細に観察すると、彼女はユーモラスな性格というかかなり“変”で、ヤシの樹の陰に入りこんだ人物の半身や、画面の外(右側)へ歩いていき画角から外れようとしている人物の半身像などを描いている。つまり、風景の中に描かれている人々の姿の多くが、みんな中途半端で半身なのだ。樹の陰などで、前に歩く踏み足の見えない人物が、画面に5人も登場しており、おまけに黒いイヌの後足もヤシの陰に隠れて見えない。
 このイヌを連れた、薄いブルーのワンピース姿の女性が顕著な例で、左へ歩いていく女性の顔を含めた前半分がヤシの陰になって見えず、イヌは樹のさらに左側から姿を現わしている。同様に、画面右手の枠外へ歩み去ろうとしている、白いコットンスーツにストライプのシャツ姿をしたラフな男は、画家に視線を送りつつ身体の左半分しか描かれていない。当時の画家だったら、こんな構図や表現はまったくありえないだろうという、画面の“お約束”をまったく無視した「タブー」で非常識だらけの仕上がりなのだ。
 そして、中でももっとも目を惹かれたのは、ホノルル沖に停泊している濃い灰色をした巨大な船だ。この軍艦とみられる艦影は、手前に描かれたヨットのサイズと比較すると、ゆうに200mを超えそうな大きさをしている。しかも、この軍艦も樹影で断ち切られており、異様に長い艦尾が手前のヤシの右側から、ちょこんと顔を見せているようなありさまだ。戦前に生まれた方、あるいは艦船マニア(プラモマニア含む)なら、2本の煙突のうち前方の煙突が独特な形状で後方に屈曲しているのを見たら、絵が制作された1928年(昭和3)現在、想定できる軍艦は世界で2隻しか存在していないことに気づかれるだろう。
 軍縮時代の前、八八艦隊構想をもとに建造され「世界七大戦艦」と呼ばれた日本海軍の長門型戦艦の1番艦と2番艦、戦艦「長門」Click!「陸奥」Click!だ。排煙が前檣楼(艦橋)に流れこんでしまうため、第1煙突が屈曲型に改装されたのは第1次改装時で、「陸奥」が1925年(大正14)、「長門」が1926年(大正15)のことだ。以降、1934年(昭和9)の大規模な第2次改装までの約10年間、両艦は屈曲煙突の独特で印象的な艦影をしていた。
 でも、長門型戦艦にしては前檣楼(艦橋)が低すぎて、当時は平賀譲の設計で建艦技術が世界的に注目された軽巡洋艦「夕張」か、あるいはより排水量が大きな古鷹型重巡洋艦のような姿をしている。また、マスト下の後楼も存在しないように見えるし、そもそも40センチ2連装の砲塔4基がどこへいったのかまったく見えない。だが、須美子のデフォルメは大胆かつ“常識”にとらわれないのだ。これほどのサイズの艦船で、屈曲煙突を備えた軍艦は彼女が生きていた当時、戦艦「長門」「陸奥」の2隻以外には考えられない。
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 では、両艦のうちのいずれかが大正末、米太平洋艦隊の本拠地で真珠湾Click!もあるオアフ島のホノルル沖へ親善訪問をしており、須美子はそれを目にしているのだろうか? だが、両艦の艦歴を調べてみても、そんな事実は見あたらないし、そもそも当時は海軍の主力艦で最高機密に属する戦艦(特に「長門」は連合艦隊旗艦だった)が、お気軽に親善航海して海外の人々の目に艦影をさらすとも思えない。しかも、『ベル・ホノルル23』が描かれたのは1928年(昭和3)のパリであり、板倉鼎は落選したが、須美子の『ベル・ホノルル』シリーズのうち2点が、サロン・ドートンヌに入選している。
 『ベル・ホノルル23』に描かれた軍艦の謎を解くカギは、この1928年(昭和3)という年紀にありそうだ。前年の1927年(昭和2)は、大正天皇の葬儀が新宿御苑Click!を中心に行われ、摂政だった昭和天皇が即位した年だった。そして、同年10月30日には海軍特別大演習の実施と同時に、昭和天皇による初の観艦式が横浜沖で開催されている。その際、「御召艦」(天皇が乗る軍艦)の役をつとめたのが、連合艦隊旗艦の戦艦「長門」ではなく、姉妹艦の戦艦「陸奥」だった。観艦式の様子は、日本で発行されている新聞の1面で報道され、天皇が乗る「御召艦」の写真も掲載されている。
 余談だが、わたしの母方の祖父Click!は、このとき横浜沖の観艦式に出かけており、同式典で販売されていた軍艦のブロマイドを購入している。わたしが祖父宅へ遊びにいったとき、その写真を見せてくれたのだが、祖父が購入したのは「御召艦」だった戦艦「陸奥」ではなく、同様に第1煙突が奇妙に屈曲した戦艦「長門」のほうだった。
 当時、日本の新聞がパリへ配送されるのに、どれほどの時間が必要だったかは不明だが、須美子は掲載された写真を見ているのではないか。当時は船便なので、日本の新聞は数週間遅れ(ヘタをすると1ヶ月遅れ)で、パリの日本人コミュニティまでとどいていたと思われるのだが、彼女はその1面に掲載された独特な艦影の戦艦「陸奥」がことさら印象に残り、のちに『ベル・ホノルル23』に描き加えているのではないだろうか。彼女が日本海軍の“軍艦ヲタク”でないかぎり、そう考えるのが自然のように思える。
 須美子は、いつものようにベル(美しい)ホノルル風景を描いていた。海岸にヤシの樹々が並び、その樹間には海辺の散策を楽しむ人々が、面白い配置やポーズで次々と加えられていく。奥に描かれるハワイの海には、いつも夫と同様に白い三角帆のヨットやディンギーばかりを描いてきたが、「そうだわ、たまにはちがう船でも描いてみましょ!」と、以前に新聞で見た横浜沖の観艦式における戦艦「陸奥」の姿をイメージし、彼女にはめずらしく灰色の絵の具で写真を思いだしながら、その姿を再現してみた。
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 でも、彼女は軍艦のことなどよく知らないし、艦影もぼんやりとウロ憶えなので、戦艦の前檣楼をかなり低く描いてしまい、4基の砲塔はそもそもハッキリと記憶にとどめてはおらず、面白いと感じた煙突の鮮明なフォルムばかりが目立ってしまった。軍艦の中央構造部と全長を描いてみて、「こんな、寸詰まりのカタチじゃなかったかも。もっと長くて大きかったはずなのよ」と、右手の海岸に描いたヤシの端から艦尾をちょっとだけのぞかせることにした……。制作時の、そんな情景が想い浮かんでしまう『ベル・ホノルル23』の画面なのだ。ちなみに、同作を制作中の彼女の写真も残されている。
 ほかにも須美子の画面は、東京美術学校の教授や従来の画家たちが観たら、眼を吊りあげていきり立ちそうな、突っこみどころが満載だ。『ベル・ホノルル23』の次作『ベル・ホノルル24』(1928年ごろ)では、「キミ、この人物をタテにした構図の意図はなんだね? 手前のラリッてる半グレの金髪男で、背後の紳士の片足が隠れてるじゃないか。海の虹も2色だしサボテンも変だし、こんなのありえないよ!」と教授に叱責されそうだ。『ベル・ホノルル12』では、「右に歩いていく男の足先がキャンバス外れで欠けてるし、樹から半分のぞく女性は松本清張の『熱い空気』(家政婦は見た)なのか? なんでいつも半分で中途半端で、どこかが欠けてるんだよ!」と、官展の画家から説教されそうだ。w
 『ベル・ホノルル26』では、「キミは、なにか危ない思想にかぶれちゃいないだろうね。特高に尾けられてやしないか? 樹の陰には、それらしい男があちこちウロウロしてこちらをうかがってるよ! 中條百合子Click!なんかと仲よくするんじゃない!」と教授に懸念され、『公園』では「おい、メリーゴーランドの近くにいる人影からするってえと、奥の噴水脇にいる人物は身長5mかい? バッカ野郎!Click! 絵の基礎から面洗って勉強しやがれ!」と、プロの画家あたりに怒鳴られそうなのだ。けれども、彼女の描く絵は面白く、夫の余った絵の具を使ったといわれている色彩感覚もみずみずしくて新鮮だ。
 油絵の具の使い方をはじめ、板倉鼎からなにかとアドバイスを受けて描いているのだろうが、帝展画家の助言など無視して、のほほんと自由に描いているらしいところに、須美子の真骨頂やプリミティーフな魅力がありそうだ。上記の叱責や説教は、戦後の美術界ではほぼ無効になっていることを考えると、彼女は40年ほど早く生まれすぎたのかもしれない。
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 パリで短期間のうちに夫と次女に先立たれ、帰国してからは長女を亡くして、とうとうひとりになってしまった須美子は、1931年(昭和6)から佐伯米子Click!の紹介で有島生馬Click!の画塾に通いはじめている。妙なアカデミズムに染まらないほうが、彼女らしいオリジナル表現が保てるのに……と思うのは、わたしだけではないだろう。同じ境遇の佐伯米子Click!とは親しく交流しているようだが、1934年(昭和9)に須美子はわずか25歳で病没している。

◆写真上:1928年(昭和3)制作とみられる、板倉/昇須美子『ベル・ホノルル23』。
◆写真中上は、『ベル・ホノルル23』に描かれた軍艦部分の拡大。中上は、第1次改装を終えた1925年(大正14)撮影の戦艦「陸奥」。中下は、竣工間もない1924年(大正13)撮影の軽巡洋艦『夕張』。は、横浜沖で挙行された海軍特別大演習・観艦式を1面で報道する1927年(昭和2)10月30日の毎日新聞夕刊。
◆写真中下は、パリで撮影されたとみられる板倉/昇須美子。スマホのイヤホンで音楽を聴いているような風情から、100年近い年月をまるで感じさせない。中上は、1927年(昭和2)秋に横浜沖で行われた特別大演習・観艦式の戦艦「陸奥」を写した記念絵はがき。中下は、1928年(昭和3)の撮影とみられる『ベル・ホノルル23』を制作する須美子。は、同年ごろ制作された同『ベル・ホノルル24』。
◆写真下は、1927年(昭和2)ごろ制作の板倉/昇須美子『ベル・ホノルル12』(部分)。中上は、1928年(昭和3)ごろ制作の『ベル・ホノルル26』(部分)。中下は、1931年(昭和6)に制作された同『公園』。下左は、2015年(平成27)に目黒区美術館で開催された「よみがえる画家/板倉鼎・須美子」展図録。下右は、(社)板倉鼎・須美子の画業を伝える会Click!代表の水谷嘉弘様よりお送りいただいた著作『板倉鼎をご存じですか?』(コールサック社)。二瓶等(二瓶徳松)Click!の画業に関連し、拙ブログの紹介もしていただいている。
おまけ
 米軍が撮影した、長門型戦艦の写真を探しに米国サイトをサーフしていたら、米国防省から情報公開されたあまり見たことのない写真数葉を見つけたので、ついでにご紹介したい。上の写真は、1944年(昭和19)10月24日の捷1号作戦(レイテ沖海戦)中に、フィリピンのシブヤン海で米空母艦載機と交戦し、回避運動をする戦艦「長門」(手前)と戦艦「大和」Click!(奥)。なお、「長門」の同型艦で板倉/昇須美子がモチーフにしたとみられる戦艦「陸奥」は、1943年(昭和18)6月に広島沖の柱島泊地で謎の爆発事故により沈没している。中の写真は、同海戦で右舷に至近弾を受ける戦艦「武蔵」Click!で、同艦は同日の19時すぎに転覆してシブヤン海に沈没している。下の写真は、母港の横須賀港で係留砲台とされた敗戦時の戦艦「長門」。上空は米軍の艦載機で、敗戦時に唯一海上に浮かんでいた戦艦だった。
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明治期に困窮する刀鍛冶たちのその後。

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 江戸時代(おそらく前期)に、雑司ヶ谷金山Click!で鍛刀していたという石堂一派Click!のテーマにからめ、これまで大鍛冶(タタラ製鉄)Click!小鍛冶(刀鍛冶)Click!について、さまざまな角度から事例Click!地域の特性Click!をここで取りあげてきた。
 金山稲荷にいた石堂派は、石堂孫左衛門Click!(おそらく末代)を最後に刀鍛冶を廃業しているとみられる。この石堂一派の初代が、江戸初期に江戸へやってきた石堂守久(秦東連)Click!だと仮定すると、3代ほどで途切れているので、刀剣の需要が極端に落ちこんだ江戸中期には廃業するか、道具鍛冶(野鍛冶)Click!に転向したのかもしれない。そして、最後の人物名が「孫左衛門」Click!として記録されたのではないだろうか。
 江戸後期から幕末に剣術道場が隆盛を迎えると、再び刀剣(新々刀期)の需要が増大していく。だが、歴史学者・平川新の研究によれば、関八州(関東地方)に存在した剣術道場の94%が庶民(町人・農民・職人の道場主)によるものであり、武家の道場はわずか6%にすぎなかったことが判明している。つまり、本来なら脇指しか指して歩けないはずの庶民が、刀剣ブーム(武芸と美術鑑賞Click!の両面から)の招来とともに、大刀の剣術稽古を熱心にしていたことになる。日本橋の呉服商の家に生まれた、長谷川時雨Click!の父親・長谷川渓石Click!が、北辰一刀流の免許皆伝だったのは有名な話だ。
 もちろん、大っぴらに指して出歩かなければ、大刀を所有するのは庶民の勝手であり、江戸後期の刀剣需要はおもに町人や農民たちが支えていたことになる。以前にも触れたが、戦災に遭わなかった京の刀屋の大福帳では、江戸後期の注文や販売の7割以上Click!が町人からのものであり、おそらく大江戸でも大差ない営業状況だったとみられる。しかも、本来なら禁止されているはずの苗字Click!を、これらの道場主たち(農民・町人・職人を問わず)は公然と名のっており、剣術家を紹介する本(『武術英名録』など)では、すべて氏名入りで出版されていたにもかかわらず、幕府はまったく取り締まろうとはしていない。
 このあたり、江戸幕府の“触書(ふれがき)政治”を象徴するような一例でたいへん興味深い。凶悪犯罪はまったく別だが、庶民生活に関する禁止事項を触書で公布し、それに従わない場合は繰り返し何度か触書を発布する。それでも、よほど目にあまる違反行為には、その代表例をスケープゴード的に取り締まるものの、細かなことは自治組織(町役や村役)にまかせるか“自己責任”で……というような感覚だ。
 江戸期は封建主義であり、ガチガチな身分制度のもとで圧政と取り締まりに苦しんだというイメージは、最新の研究では明治につくられた虚像の側面が強く、多種多様な記録や最新データをもとに江戸時代の姿が大きく覆りつつある。その代表が、「士農工商」の身分制度など存在しなかったにもかかわらず、一部の中国思想に忠実な儒学者が唱えた用語で江戸期の封建制を強調したいがため、薩長政府がデッチあげていたのが好例だ。現代では小中高校の日本史の教科書から、「士農工商」の虚構は丸ごと排除されつつある。
 苗字・帯刀・武芸禁止など生活上のさまざまな“御触”(禁令)も、およそ庶民は遵守していない。むしろ、明治期のほうが警察組織による暴力的取り締まりが過酷で厳しい事例が多かったという。圧政や高税に苦しみ怒りを爆発させる農民一揆は、江戸期より明治期のほうが発生件数が多かったという史実は、すでにこちらでもご紹介Click!していた。
 もっとも、明治期の農民一揆は資本主義政治思想の基本理念(議会制民主主義)を踏まえた「自由民権運動」と結びつくケースも多く、時代錯誤な王政復古と公家+藩閥政府に対する反発・抗議運動の性格も強かっただろう。江戸期の“触書政治”の様子を、2008年(平成20)に小学館から出版された『日本の歴史』第12巻より、平川新の文章から引用してみよう。ちなみに、同書はいまから15年以上も前の記述(論証)であり、現代では江戸期(特に都市としての大江戸市内)の研究・分析がさらに進捗している。
  
 幕府による百姓や町人の武芸禁止の触(ふれ)など、ほとんど効果がなかった。そもそも幕藩制国家は、こうした事態に対応できる取り締まり装置を十分にもっていなかったといってよい。これまで幕藩体制は、むきだしの暴力国家として描かれてきたが、最近では、教諭国家としてのイメージを強めつつある。触書だけをみると、庶民に対して、いかにも厳しい取り締まりをしているかのようにみえるが、実際はそれほどでもなかったからである。武芸禁止も、まさに教諭にとどまっていたのであった。
  
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 さて、新たにスタートした薩長政府では、行政の実績やノウハウを備えた人材がまったく足りず、結局は江戸幕府に閣僚や役人として勤務していた幕臣たちを大量に採用して、各領域の事業・業務の継続や新設をはかることになる。拙サイトでは、郵政の前島密Click!や西洋医学の松本順Click!などのケースをご紹介したが、同様に刀鍛冶も幕府からそのままスライドするように雇用が継続している。源清麿Click!の弟子だった栗原信秀は、戊辰戦争ののち1869年(明治2)にさっそく新政府の兵部省から招聘されている。
 また、1873年(明治6)にはウィーン万国博覧会のために、幕府の御用鍛冶だった石堂運寿是一Click!や固山宗次に、美術工芸品としての大刀を各2振り発注している。ふたりのうち、固山宗次は早々に政府から鍛冶の技量をかわれ、目黒火薬庫Click!で鉄砲鍛冶に就任していたという伝承も残っている。また、栗原信秀は刀身彫刻の名人だったので、政府をはじめ日本各地の社(やしろ)から神具や鏡などの制作も依頼されている。
 だが、1871年(明治4)の脱刀令(太政官第399号)につづき、1876年(明治9)には太政官布告38号、いわゆる廃刀令が布告されると、刀鍛冶たちは文字どおり飯の食い上げとなった。それでも、同布告に強く反発した士族からは、しばらく注文がつづいただろうが、刀鍛冶の仕事が先細りなのは目に見えていた。士族たちの反発は根強く、腰に指さなければいいと大刀を手にもって歩いたり、杖やステッキなどに反りの浅い刀を隠して外出したりと、刀剣に対する執着は長期にわたってつづいた。
 余談だが、現在の刑法ではなんらかの明確な目的をもち、登録証とともに美術工芸品として刀剣を携帯・外出するのは適法だが、仕込み杖や仕込みステッキはハナから違法であり、手にして歩いているのが見つかれば銃刀法違反に問われる。
 廃刀令で失業した刀鍛冶の中には、下落合ではおなじみの相馬家Click!中村藩の藩工Click!だった慶心斎直正のように、将来の生活を悲観して自刃した人物もいた。また、源清麿の弟子だった斎藤清人は、故郷の山形県庄内へともどり実家の温泉旅館を継いでいる。だが、先の栗原信秀のように、刀を制作できなくなった多くの刀鍛冶たちは、自身の技術が活かせる別の職業を模索することになる。目白(鋼)Click!の扱いに習熟し、それを加工する高度な技術を修得していることから、道具鍛冶(野鍛冶)へと転身する刀鍛冶も多かった。
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 たとえば、2代・加藤綱俊は、当初は政府の工部省器械場に雇用されたが、仕事がつまらなかったものか辞職し、包丁や小刀などの刃物鍛冶に転身している。石堂運寿是一の次代、8代・石堂是一も同様にハサミや小刀を鍛造する刃物鍛冶に転向し、9代・石堂秀一は大工道具鍛冶になって現代でもその名が知られている。長運斎綱俊(2代)の息子・千代鶴是秀は、優れたカンナやノコギリ、ノミなどの大工道具を鍛造して高名になった。また、左行秀は廃刀令のあとしばらく鉄砲鍛冶をしていたが、やはり仕事がつまらなかったものか大阪、次いで横浜で刀剣商を開業し、同時に刀の研磨Click!も引き受けている。
 また、さまざまな伝法(刀の鍛造法)に通じた腕のよい刀鍛冶たちの中には、偽名刀を制作して密かに刀剣商へ流す人物も現れている。大慶直胤Click!の弟子だった細田平次郎直光(通称「鍛冶平」と呼ばれる)や月山貞一は、その抜群の技量から古刀に似せて刀を打ち、茎(なかご)に偽名を切り錆つけをしては古刀に見せかけ糊口をしのいでいた。これらの偽名刀は、刀の目利きでも見分けがつかないほどの精巧な出来だったようだが、月山貞一はその卓越した技量をかわれ、のちに「帝室技芸員」に任命されている。
 さらに、廃業した刀鍛冶の末裔には、美術分野と緊密な関係を築いた人々もいた。明治期になると、西洋から洋式の彫塑・彫刻表現がもちこまれたが、その彫刻刀を鍛造する仕事で、朝倉文夫や高村光雲Click!光太郎Click!らに重宝された刀鍛冶たちだ。2016年(平成28)に東洋書院から出版された伊藤三平『江戸の日本刀』から、その一部を引用してみよう。
  
 彫塑家の朝倉文夫はブロンズで製作していたにも関わらず、<千代鶴>是秀の仕事に惚れ込み、植木の手入れ道具から、釣果を調理する包丁、印を彫る時の篆刻刀まで、身の回りの刃物のほとんどを注文している。(中略) 栗原信秀の娘婿の信親は、明治一二年に大正天皇の誕生を祝して刀剣を献上したが、その後は彫刻刀の製作に関わり、高村光雲、光太郎の親子に高く評価される。高村光太郎が『美について』の中の「小刀の味」で「わたくしの子供の頃には小刀打の名工が二人ばかり居て彫刻家仲間に珍重されていた。切出の信親、丸刀の丸山。(中略) 信親、丸山などになると数が少ないので高い値を払って争ってやっと買い求めたものである。」(< >内引用者註)
  
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 2014年(平成26)に豊島区立郷土資料館から刊行された紀要「生活と文化」第24号には、江戸東京でヤスリ(鑢)を代々鍛造しつづけた、池袋本町の「稲田鍛冶店」についての記録が収録されている。稲田家の家系もまた、江戸期よりつづく刀鍛冶の系譜なのかもしれない。ちなみに、「稲田」というネームは出雲神のクシナダヒメ(櫛稲田姫)Click!と同様の苗字であり、古代の産鉄技術集団(タタラ製鉄)Click!との深い関連も大いに気になるところだ。

◆写真上:明治期に記憶画として描かれた、江戸期の上覧剣術稽古の様子。
◆写真中上は、1897年(明治30)制作の周延『千代田之表 武術上覧』。千代田城内で、武術稽古を見物する将軍を描いている。中上は、栗原信秀の刃文で荒錵(あらにえ)が混じる相州伝の技法を踏襲している。中下は、栗原信秀の刀身彫刻で玉追龍(不動明王)。は、石堂運寿是一の錵の強い互(ぐ)の目のたれの相州伝刃文。
◆写真中下上左は、石堂運寿是一(7代・石堂是一)の肖像。上右は、横浜で刀剣商兼研師になった左行秀。中上は、自刃した相馬中村藩藩工の慶心斎直正の刃文。丁子(ちょうじ)ごころで、小錵のついた広直(ひろすぐ)を焼いている。中下は、生活に困窮し偽名刀を多数手がけたといわれる月山貞一の刃文。匂(におい)出来の小丁子を焼く備前伝だが、のちに「帝室技芸員」となった。は、同じく偽名刀を数多く手がけた細田直光(鍛冶平)自身による偽作押形(おしがた)。専門家でも見分けがつかないほど完成度の高い偽名刀で、鍛冶平自身が公開した本書により、かろうじて彼の偽名刀が識別できる。
◆写真下は、石堂仙寿斎是一のカンナ。は、いまも人気が高い千代鶴是秀のカンナ。下左は、2008年(平成20)出版の『日本の歴史』第12巻(小学館)。下右は、江戸期の刀鍛冶について詳しい2016年(平成28)出版の伊藤三平『江戸の日本刀』(東洋書院)。

高田町を散策する俣野第四郎と三岸好太郎。

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 1922年(大正11)に制作された俣野第四郎Click!の作品に、当時は目白通りの北側にあった学習院馬場Click!の東に接する坂道を描いた『学習院馬場附近』(北海道立近代美術館蔵)がある。描画位置が瞬時にわかるのは、左手に見える現・学習院大学キャンパスの南、目白崖線の山麓に移築されて現存する馬術部の厩舎Click!が見えているからだ。
 この厩舎は、もともと赤坂表町の憲兵分隊内にあったが、学習院が目白駅Click!前に移転する1908年(明治41)ごろ譲りうけ、目白通りの北側に造成された馬場の東端に移築されている。だが、目白通りの拡幅工事=「高田大通り」化が進むにつれ、1927年(昭和2)になると馬場ともども目白崖線の南麓へ再び移築された。同厩舎は空襲からも焼け残って現存しており、国の登録有形文化財に指定されている。
 『学習院馬場附近』は、いまだ幅が狭かった目白通りから、学習院馬場の東端に通う坂道を北北東に向いて描いたものだ。当時の番地でいえば、高田町(大字)高田(字)鶉山24番地あたりの目白通りを、少し北側へ入りこんだところにイーゼルを立てている。この坂からつづく道筋は、丁字路になって突きあたっているように見えるが、実は左手(西側)へ微妙にクラックしてつづいており、ゆるく北東にカーブする道なりに歩いていくと、310mほどで雑司ヶ谷鬼子母神Click!の境内に達することができた。ちょうど、雑司ヶ谷地蔵堂の角地、北辰妙見大菩薩(妙見神)Click!の参道入り口に到着する。当時は、もちろん明治通り(環五)など存在しない時代なので、そのままスムーズに雑司ヶ谷へと抜けられた。
 季節は夏に近い時期のようで、強い西陽があたる坂道には日傘をさした女性や、パナマ帽をかぶった夏服の男が描かれている。学習院馬場は、坂道の左手に描かれた厩舎のさらに西側に拡がっており、その先の目白駅に近い位置には学習院に勤務する教職員たちの、20棟近い官舎が建ち並んでいた。画面では、かなりパースのきいた坂道に描かれているが、現在では昭和初期に行われた目白通りの拡幅工事で坂道がかなり短くなり、ちょうど右手の手前に建つ電柱あたりまでが目白通り(の歩道)になっているだろうか。
 また、坂道自体の幅も拡げられているので、現状ではこれほど奥行きのある斜面には見えない。1927年(昭和2)に、学習院馬場が目白崖線の南麓に移転すると、その跡地には1929年(昭和4)に町立の高田第五尋常小学校が建設された。したがって、現在の同坂道は区立目白小学校の東側に接する短い坂道となっている。
 俣野第四郎が『学習院馬場附近』を描いたのは、目白崖線の南麓にあたる江戸期からの小名「砂利場」Click!と呼ばれる、旧・神田上水北岸の借家に下宿していた時期だ。ちょうど、根性院Click!の南側にあたるエリアだ。札幌から東京へやってきたばかりのころで、親友とともに下宿の周辺を歩きまわりながら風景を写生してまわっていた。札幌から同行した親友とは、札幌第一中学校の同窓で美術クラブ「霞(アネモネ)会」の仲間でもあった三岸好太郎Click!のことだ。三岸の同時代の作品にも、『目白台』というタイトルが見えているので、ふたりは画道具を手に連れだって周辺を散策してまわっていたのだろう。
 俣野第四郎が、高田町砂利場へとやってきた当時の様子を、1969年(昭和44)に日動出版から刊行された、下落合在住の美術評論家・田中譲『三岸好太郎』から引用してみよう。
  
 最初に落ち着いた先は、目白台地の裾を流れる江戸川(ママ)沿いの、じめついた庶民街のなかだった。昔はそのあたりに、江戸川(ママ)をかよった砂利舟が横づけされたものだったそうで、通称は“ジャリバ”。狭い道路に面した洗濯屋の二階だった。二間つづきのそこは、すでに東京の苦学生活を終えて逓信省につとめはじめていた兄俣野第三郎が、第四郎とともに住むために用意した下宿で、好太郎はまもなく住みこみの新聞配達の口にありついた。
  
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 「江戸川」Click!は、旧・神田上水の大洗堰Click!(現在の大滝橋あたり)から、千代田城の外濠までの下流域につけられた名称なので、ここでは旧・神田上水Click!が正しいだろう。この下宿から、ふたりはいずれかの急坂を上って目白通り沿いに出たり、あるいは旧・神田上水に架かる橋をわたって下戸塚(現・西早稲田)側へ抜けたりしながら、各地を写生して歩いていたのだろう。『学習院馬場附近』の描画ポイントから、南東へ直線距離で700mほどの位置に、洗濯屋の2階を借りたふたりの下宿があったことになる。
 以前、画面左手の学習院厩舎へお邪魔をしたが、内部の馬房が小さすぎて現代のサラブやアラブの体格に合わず、中の仕切りを打(ぶ)ち抜いて当時の2頭ぶんの馬房を現在の1頭の馬にあてがっていると、馬術部の教官にご教示いただいた。大正期の写真からもうかがえるが、当時の日本馬は驚くほど小さく、現代人が乗ったらバランスが悪くて、かなり滑稽に見えてしまうだろう。時代劇の合戦シーンでは、いまはサラブレッドが多く用いられているが、当時の日本馬はサラブの3分の2から半分ほどの馬体だった。
 ちょっと余談だが、先日、学生時代にお世話になった大学の馬場へ久しぶりにいってみた。厩舎はほとんど当時のままだが、さすがに教官や学生たちが利用する建物はリニューアルされ、また傾斜面が残っていた馬場の北側も整地されてきれいな平面になっていた。休日で門が閉まっていたため、厩舎には入れなかったが、わたしが毎週通ったころのような農耕馬やヤクザ馬は、さすがに一掃されたのではないだろうか。
 さて、俣野第四郎と三岸好太郎は当時、岸田劉生Click!ばりに草土社風の画面を描いており、作品を春陽会や中央美術Click!が主催する展覧会にそろって出品している。『学習院馬場附近』が制作された1922年(大正11)、俣野第四郎は中央美術展に入選し、翌1923年(大正12)には札幌へ帰省すると俣野に三岸好太郎、さらに小林喜一郎を加えた「三人展」を地元で開催している。また、俣野第四郎は画家になるの反対しつづけていた家族を説得するために、東京美術学校Click!の建築科を受験して合格している。
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 当時の彼について、1992年(平成4)に求龍堂から出版された匠秀夫『三岸好太郎-昭和洋画史への序章』より、俣野第四郎に関する周囲の証言類を引用してみよう。
  
 節子夫人、久保守談によると、「色浅黒く細面の理論家肌、頭の切れる男で絵にも鋭いひらめきがあり、後期印象派以降の新しい絵画への理解も深く、彼の語るところは少なからず三岸を啓発した」、ということであり、「美校(註、東京美術学校)建築科を選んだのは、画家になることに反対であった家人をあざむくため」であった。また、「俣野のデッサンは簡潔で新鮮味があり、フォルムに勝れており、東大建築科学生を中心に、わが国でも大正九年から始まったゼセッション運動への関心もあって、建築的な造形美への意識をもっていたせいか、ド・ラ・フレネーに通ずる趣きの絵を描いたが、次第に草土社流の精神性を簡潔な構成に盛り込むようになっていった」という。三岸の書いた「俣野略伝」によると、文章をよくして詩も多く作り、また音楽を好んでギターをよく弾いた。
  
 俣野第四郎は、中学時代から結核の症状がでて休学しているので、もともと身体が丈夫ではなかったようだ。春陽会展や中央美術展に入選を繰り返すが、関東大震災Click!の翌年、1924年(大正13)には静岡県沼津に転地療養している。そして、3年後の1927年(昭和2)に、風邪をこじらせた肺炎がもとで急死している。まだ、24歳の若さだった。
 『学習院馬場附近』制作から1年余、沼津へ転地する前に描かれたとみられる作品に『郊外風景』がある。手前には川の流れとともに、右手に分水流とみられる石組みの護岸が描かれ、その向こうには人家もまばらな中に大きなレンガ造りらしい建築物が描かれている。俣野第四郎は、美校の建築科に進むぐらいだから、少なからず近代建築にも興味があったろう。彼は、旧・神田上水沿いへ1907年(明治40)に建設された、東京電燈駒橋線の早稲田変電所に目を向けなかっただろうか。ひょっとすると、東京へやってきた当初、洗濯屋の2階からも同変電所の建屋がよく見えていたのかもしれない。
 おそらく、旧・神田上水が大きく南北へ蛇行する地点、戸塚町下戸塚244番地あたりから、早稲田変電所のある東を向いて描かれたと思われる画面の構図だが、同建築の正門とファサードは東側を向いており、俣野第四郎は同変電所を裏側から眺めて描いていることになる。画面の手前の右手に分岐している流路は、旧・神田上水の流れを利用して造られた、画面の右手枠外に水をたたえている溜池(用水池)から注ぐ流れだろう。早稲田変電所の裏側も、表側と同様に窓がもう少したくさん穿たれていたと思われるのだが、彼ならではの「簡潔な構成に盛り込」んだ表現なのかもしれない。
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 以前の記事でも触れたが、俣野第四郎は下落合のアトリエにいた甲斐仁代Click!が大好きであり、三岸好太郎とともに彼女を追って我孫子Click!へも写生旅行に出かけているが、当時から中出三也Click!と同棲していた彼女へ、ついに死ぬまでその慕情はとどかなかった。

◆写真上:1922年(大正12)に制作された、俣野第四郎『学習院馬場附近』。
◆写真中上は、1921年(大正10)に作成された1/10,000地形図にみる描画ポイント。中上は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる描画ポイント。中下は、『学習院馬場附近』の現状だが実際の描画ポイントは目白通りの中ほどになる。は、明治末か大正初期に撮影された学習院馬場の様子。右手には、画面に描かれた学習院厩舎がとらえられており、小さな白馬は乃木希典Click!が利用していた「乃木号」。
◆写真中下中上は、学習院厩舎の東側面の現状。中下は、厩舎内の馬房のひとつ。は、明治期の部材がそのまま残る学習院厩舎の天井。
◆写真下は、1921年(大正10)ごろに撮影された俣野第四郎(左)と三岸好太郎。中上は、学習院厩舎の西側面。中下は、現在の学習院馬場で練習をする学生。は、久しぶりに訪れたわたしの大学の馬場。厩舎は右手奥にあり、左手が広い馬場となっている。
おまけ
 画面は、俣野第四郎『郊外風景』(1925年)。写真は、戦前に東側から撮影された早稲田変電所の正面。地図は、1919年の1/10,000地形図で想定する描画・撮影ポイント。
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