おでん屋が見た聞いた画家たちの素顔生活。

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 落合地域からそれほど遠くないところで、おでん屋を営んでいたとみられる“むさしや九郎”という人物がいたことは、以前に下落合2118番地にあった椿貞雄アトリエClick!の様子とともにご紹介していた。この店には、会派を問わずさまざまな画家たちが立ち寄って、おでんをつまみながら酒を飲み、一種のたまり場と化していたようだ。
 むさしや九郎は、店を離れても画家たちと親しく交流している様子が見てとれるが、来店した画家たちから日本画・洋画界を問わず多種多様なエピソードを仕入れ、それを美術誌「美術新論」の正月号連載エッセイ『謹賀新年妄筆多罪』として書きとめている。中には、書いてほしくなかった出来事までが含まれていたのか、当の画家から編集部へ抗議がとどいたりもしているが、ふだんは表にでることの少ない画家たちの素顔を垣間見られる点では、飾らない貴重な証言記録といえるだろうか。
 以前に書いた記事の末尾でも触れたが、第一文化村Click!北側の下落合1385番地から、上高田422番地にアトリエを移した甲斐仁代Click!中出三也Click!は、バッケが原も近い妙正寺川沿いの空き地で自転車の練習をしている。1933年(昭和8)発行の「美術新論」1月号によれば、昼間はヘタクソな乗り方がみっともないので夜になると練習していたようだが、安売りしていた10円の中古自転車だったせいか乗りにくかったようだ。
 ふたりの練習を知り、すぐ近くの高台にアトリエがあった上高田421番地の耳野卯三郎Click!も、この夜間練習に加わったようだが、ボロ自転車のせいかバランスが悪く、最初に中出三也Click!が転んでケガをし、つづいて耳野卯三郎Click!も転倒して負傷し、最後には甲斐仁代Click!も倒れて傷を負い、3人とも擦り傷だらけになってしまった。あちこち白い包帯だらけの3人は、近くの酒屋の親父に笑われ、むさしや九郎にも笑われたのだろう、「なにしろ付属品共十円で買つた自転車だからな。笑ふなら自転車を笑つてくれよ。畜生」と、中出三也は盛んにこぼしている。
 この「夫婦」がおでん屋にくると、まったく正反対の飲みっぷりだったようだ。1929年(昭和4)発行の「美術新論」1月号(美術新論社)から、ふたりの様子をのぞいてみよう。
  
 さて、わしの店の縄のれんの外に、先づ無地の紅い帯が見え、続いて、しなやかな指先がちよいとのれんにかゝつて、『今晩は。』とやさしい声がしたら、それは甲斐仁代女史の出現にきまつてゐる。大抵は夫君(?)の中出三也先生と御一緒だが、女史の酒の飲み振りのよさは、恐らく閨秀画家の中では東洋一だらう。若し牧野虎雄先生の酒を静かなること林の如しと形容すれば、仁代女史の酒の飲み振りの静かにして且つやさしきは、雨に悩める海棠の風情とも申す可きか。一本、二本、三本、と女子の前に銚子の数が殖えて行く。が、いくら酔うても、女史の手、女史の言葉の、未だ嘗て乱れたるを見た事がない。而も時々ポツリポツリと言葉すくなに話される女史の言たるや凡て鋭く且つ優しい。
  
 甲斐仁代とは対照的に、中出三也は数本の銚子をアッという間に空けると、ベロベロに酔っぱらいそのまま寝てしまったらしい。また、酔うとケンカっ早くなって、相手をポカポカ殴るがすぐに疲れてやめてしまい、相手から逆襲されて殴られるのも早かった。だが、タンカは歯切れがよかったらしく、相手を殴ると「児雷也」のようにドロンとどこかへ雲隠れし、ケンカ相手が立ち直るころにはとうに闇の中へ姿を消していた。
 のちに下落合4丁目2080番地、金山平三アトリエClick!の近くに画室をかまえることになる、下落合の西ノ谷(不動谷)Click!にアトリエ(番地はいまだ不詳)があった岡田七蔵Click!は、大の釣り好きで六郷川(多摩川)や荒川、品川の台場で釣った帰りには、むさしや九郎のおでん屋に寄っては、魚籠(びく)の釣果を自慢しながら一杯やっていたらしい。武蔵野鉄道や西武線を利用して、石神井川の流域にもよく出かけていった。
俣野第四郎「甲斐仁代像」1922.jpg 片多徳郎「N(中出)氏の肖像」1934.jpg
甲斐仁代「睦」「女人藝術」表紙192812.jpg
中出三也「人形」1924.jpg
中出三也「自転車練習」1936.jpg
 その様子を、1929年(昭和4)の「美術新論」1月号から引用してみよう。
  
 (岡田七蔵の)顔は冬も漁夫のやうに真黒だ。その甲斐あつてか、びくも常に重く、なかなか釣りの名人だ。その代り、此の先生が釣場に立つて、イツタン糸を垂れたとなつたら、もう全心全肉、魚の事より外に何も考へず、其の結果、先生の口付は釣場では魚の口付に似て来るさうだ。これは上野山淸貢先生が牛ばかり写生してゐるうちに牛の顔に似て来、辻永先生が山羊ばかり写生してゐるうちに山羊髭が生へたのと同じ理屈であるからやがて次第に岡田先生の顔が魚の顔に似て来るのも、さう遠い将来ではないかも知れない。さう云へば闘犬に漸く飽きて今度は軍鶏にこり出した深沢省三先生の首の様子が、近頃軍鶏の首に髣髴として来た事実も不思議と云へば不思議である。(カッコ内引用者註)
  
 岡田七蔵は、釣りに没頭すると周囲の音がまったく聞こえなくなったようで、何度呼びかけても反応がなかった。集中力がすごいといえば聞こえはいいが、なにかに夢中になると精神的な“視野狭窄症”あるいはウワの空になってしまい、周囲の状況が耳に(目にも)入らなくなる不器用さははわたしも同じで、これまで少なからぬ失敗Click!を繰り返している。石神井川の土手で、何度も声をかけられているのに岡田七蔵はまったく気づかない。
 声をかけていたのは、石神井川へ写生にきていた友人の小林喜一郎で、「イヨウ、岡田君」と声をかけたのがはじまりで、何度も呼んだがまったく反応がなく、しまいには近づき「もしもし、御遊興中甚だ恐縮なれど」と大声で道を訊ねると、岡田は振り返りもせず簡単な道順を説明するばかりだった。これにじれた小林喜一郎は、耳もとで「岡田七蔵といふ御仁の家をご存知なきや」と怒鳴ると、ようやく浮きから目を離し「なあんだ、君だつたのか」と、ふたりで大笑いをしたようだ。
 岡田七蔵は将棋が趣味で、よく友人の児童文学者・川端伊織を相手に指していた。むさしや九郎が「ヘボ」というぐらいだから、ふたりともかなり弱かったのだろう。ふたりはビールを片手に、一手ずつ「何を此の野郎」「何を此の野郎」とお互いかけ声を上げながら駒を進めたらしいが、双方の駒がそろそろ相手陣に攻めこんでくるころ、いつの間にか王将の駒が消えてなくなっているのに、ふたりともようやく気づいている。盤面にビールをこぼした際、観戦していた小林喜一郎が濡れた箇所を拭きながら、双方の王将をすばやく懐中へ隠してしまったのだが、ふたりはそれに気づかず延々と指しつづけていたというから、これはもう「ヘボ」を通りこした「大ボケ」将棋だろう。
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岡田七蔵「石神井の鉄橋」1928.jpg
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 大正初期から目白駅Click!近くの下落合に住み、しばらく巣鴨町で暮らしたあと、戸塚町下戸塚112番地(のち戸塚町2丁目112番地)へ転居して、熊岡絵画道場(のち熊岡絵画研究所)を開設した熊岡美彦Click!も、おもしろいエピソードを残している。ちなみに、下戸塚112番地は早稲田通りをはさみ戸塚第二小学校の向かい側で、今日ではほとんど高田馬場駅前、JAZZスポット「イントロ」Click!や歌声喫茶「ともしび」があるあたりだ。
 佐伯祐三Click!が一時期そうだったように、熊岡も大工仕事Click!に魅せられてしまったらしい。でも、佐伯が自身で大工道具を使って普請(DIY)したのに対し、熊岡はまるで大工や植木屋を住みこみの弟子のように使いながら、何年にもわたって仕事をさせていたようだ。熊岡美彦の普請ヲタクの様子を、1930年(昭和5)の「美術新論」1月号から引用してみよう。
  
 熊岡美彦先生に一個の道楽あり。道楽よりも病癖とや云はん。住宅の改築病コレ也。蓋し大工と植木屋とは先生の終生の友にして、巣鴨の森、鴉の啼かぬ日はあるとも、カンナの音、ハサミの音の聞こえざる日とてはなく、作りてはこはし、こはしては作り、トンカチトンカチ、十年一日の如し。されば昨日の洋式応接間は今日は変じて日本風の玄関となり、今日の平家建アトリエは明日はセリアガリて二階建の書斎となり、或はバルコンは落ちて地下室を現出し、台所は化けて茶室となり、茶室はまた化けて風呂場となり、かと思へば、いつかまた、もとの通りに逆戻りする事などもあり、改築に逆築に、滄桑の変四時絶ゆる事なし。為めに家人は座るに場所なければ、春夏秋冬、立ちて食事をとり、訪客も年ぢう会ふに部屋なければ、止むなく先生と玄関にて立話す。
  
 1930年(昭和5)の時点でこのありさまだから、下戸塚112番地の高田馬場駅前へ転居して「道場(研究所)」を開設してからは、さらに「病癖」が進んだのではないだろうか。このエピソードは、巣鴨町3丁目26番地のアトリエでの出来事だ。
 ところが、トンカチや庭バサミの音がピタリと止まった時期があり、家族はもちろん、いつも騒音に悩まされていた近所の人たちもホッとした。だが、あまりに熊岡アトリエがシーンとしているので、不審に思った近隣の人が熊岡家を訪ねると、ちょうど1927年(昭和2)から1929年(昭和4)までの2年間、熊岡美彦がフランスに滞在していることがわかった。応接した夫人は、「お蔭で、妾が体重も五貫目ほどふえたり」と答えている。「五貫目」(約18.8kg)は増えすぎで、かなり困った状況ではないだろうか。
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 ところが、熊岡美彦がパリから帰国すると、さっそく居間と茶室、アトリエの改築に同時着手し、家内じゅうあちこちが再び普請中となってトンカチトンカチと「修羅場」に逆もどりしてしまったそうだ。夫人は夫の帰国早々、再び体重が1貫目(約3.8kg)ほど減ったと嘆いている。さて、むさしや九郎が記録した、三岸好太郎Click!里見勝蔵Click!宮田重雄Click!伊藤廉Click!の4人による光線談義も面白いが、それはまた、いつか別の物語……。

◆写真上:むさしや九郎の店には、おでんをめあてに多くの画家たちが集った。
◆写真中上上左は、1922年(昭和11)に制作された俣野第四郎『甲斐仁代像』。上右は、1934年(昭和9)に制作された片多徳郎『N(中出)氏の肖像』。中上は、1928年(昭和3)に制作された甲斐仁代『睦(むつみ)』で、同年の「女人藝術」12月号の表紙に採用された。中下は、『睦』の左側に置かれた同じ日本人形を描いたとみられる1924年(大正13)に制作された中出三也『人形』。は、1935年(昭和10)に制作された中出三也『自転車練習』だが、まだふたりは自転車に乗れなかったのだろうか。w
◆写真中下は、1928年(昭和3)制作の岡田七蔵『石神井川風景』。は、同年制作の同『石神井の鉄橋』。は、1930年(昭和5)制作の同『会瀬の海』。いずれも当時の釣り場ばかりで、遊びだか仕事をしにでかけたのかは不明だ。w
◆写真下は、熊岡美彦()と1936年(昭和11)制作の同『自画像』()。中上は、1935年(昭和10)制作の同『山上の裸婦』。中下は、熊岡自身による戸塚町112番地の「熊岡絵画道場」案内図。は、1937年(昭和12)夏に美術誌へ掲載された同道場の生徒募集広告。
おまけ1
 昭和に入ると画塾を開く画家は多かったが、大正期の画塾時代からつづく下落合537番地の大久保作次郎アトリエClick!に新設された「目白絵画研究所」の生徒募集広告。
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おまけ2
 三岸好太郎の名前が出ているので、アトリエ保存の一報を書いておきたい。三岸夫妻の孫娘にあたられる山本愛子様Click!によれば、とある企業の協力および住宅遺産トラストの支援により、三岸好太郎・節子アトリエClick!保存の目途がどうやらつきそうとのこと、たいへん喜ばしい限りだ。国の登録有形文化財である同アトリエを、末永く保存していただきたい。
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下落合の北隣り戸田康保邸を拝見する。

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 サクラソウ(桜草)に、「目白台」という品種があるのを初めて知った。明治中期に邸を建設し、目白通りをはさんだ下落合の北隣り、高田町雑司ヶ谷旭出41番地(1937年より目白町4丁目41番地)を中心とする広大な敷地に住んでいた、戸田康保(やすよし)Click!が品種改良を重ねたものだ。川村女学院Click!に建つ第一校舎の屋上から眺めた、関東大震災Click!の際には近隣の住民が大勢避難したという戸田邸の森を初めて目にできたので、改めて戸田康保について記事にしてみたい。
 戸田康保によるサクラソウの品種改良は昭和初期のことだった。おそらく同邸の大温室Click!で、庭師とともに開発へ取り組んだものだろう。開発した草花に当該地名をつけるのは、たとえば大江戸(おえど)のロンドン王立植物園を上まわる当時は世界最大のフラワーセンターで、街々に花卉を供給する染井地区Click!で開発された江戸桜「ソメイヨシノ」のように不自然ではない。でも、サクラソウの新種に邸から東へ1.5kmも離れた地名「目白台」をつけたのはなぜだろうか? 地名をとるなら「高田」か「旭出」、近い駅名をつけるなら「目白」でいいと思うのだが、なぜか「目白台」と名づけている。
 品種改良したサクラソウ「目白台」について、1957年(昭和32)に誠文堂新光社から出版された、石井勇義/穂坂八郎・編『原色園芸植物図譜』第4巻から引用してみよう。
  
 めじろだい(目白台)/昭和2~3年頃に、東京目白台の戸田康保氏が実生で作出し、地名を品種名とした。草姿は見るからに剛壮で生育は旺盛、葉はやや短大で多肉硬質。葉柄はごく太く短く、全草に粗毛を生ずる。花茎、花梗共に短太剛直である。花は表乳白色、裏は薄藤色地に転々と白斑を現わす。広幅、厚平辨、横向咲の大輪で、6辨花が多い。目は盛り上り、赤紫を帯びる。本種はさくらそうとプリムラ・オプコニカとを交配して、最初に成功した唯一の和洋交配種と見られている。
  
 「東京目白台」は「東京高田町雑司ヶ谷旭出」が正確だが、既存の和種と洋種の「トキワザクラ(常盤桜)」を交配したのが、当時としては画期的だったようだ。
 ちょっと余談だけれど、1935年(昭和10)に結成された花卉同好会(戦後は園芸文化協会)には会長に島津忠重が就いているが、副会長には戸田康保と相馬孟胤Click!が就任している。戸田康保はサクラソウの品種改良で高名だったせいだが、下落合の相馬孟胤Click!は「丸弁大輪アマリリス」各種の品種改良で有名だったからだ。相馬孟胤の弟である相馬正胤が、西落合511番地に相馬果実缶詰研究所を設立し、そこで開発されたジャムになぜ「アマリリスジャム」Click!と名づけたのかが了解できた。アマリリスの育成は、相馬家がことのほか注力した品種改良の花卉の代表だったのだ。
 戸田康保邸(冒頭写真)は、1932年(昭和7)ごろまで建っていたようだが、徳川義親Click!が戸田家の敷地9,152坪を購入したのが1930年(昭和5)8月、雑司ヶ谷旭出41番地で徳川義親邸Click!を建設するための地鎮祭が行なわれたのは、翌1931年(昭和6)も押しつまった暮れなので、それまで転居作業を含め戸田康保は同邸にいたとみられる。
 また、徳川義親Click!が桜田町から転居してくるのは1932年(昭和7)11月28日なので、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』Click!(高田町教育会)の曖昧な記述にも合点がいく。同誌は、戸田家が転居作業の最中に編集されていたのだ。なお、戸田康保邸には同じ華族(子爵)で浅野家へ養子にだした実子・浅野忠允(ただのぶ)が同居していたため、浅野家も含めた転居先の決定や引っ越しにも時間がかかったのではないか。
 『高田町史』には、戸田家は高田町雑司ヶ谷旭出から下落合へ転居することになっているが、戸田康保も当初はそのつもりだったのだろう。ところが、おそらく娘のひとりが原因不明の病気で熱が下がらないため、急遽、当時は大森海岸近くの別荘地だった大井伊藤町5921番地への、転地療養に変更している経緯は以前の記事Click!でもご紹介している。
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 さて、冒頭写真の戸田康保邸について建築資料を引用してみる。1954年(昭和29)刊行の「新住宅」10月号(新住宅社)に収録された須藤まがね『新日本住宅のあゆみ(2)』から。
  
 この住宅(戸田邸)も明治初期の暗中模索手法と、その後の安易模倣手法が一目で見較べられるので面白い建物だと思う。それぞれの建築の時や設計者が分らないのは残念である。/上げ下げ窓を持つ漆喰塗の西洋館に、千鳥破風や、唐破風を持ち込んだとこは愉快だが、忽ち軒先の蛇腹で苦しんでゐる。明治初年に二代目清水嘉助や、林忠恕が外人技師から学びとつた構造技術の上に新らしい日本建築を打ちたてようとした気ハクは一寸うかがえる。/右の方の後期の増築と思はれる部分は、もう日本の伝統には何の未練も持つて居ない。ただ2階の張出し部分の櫛形の欄間がベランダーの唐破風とよく釣合ひを保つてゐる。(カッコ内引用者註)
  
 確かに、どこか芝居小屋(歌舞伎座Click!)か昔日の銭湯を思わせる、破風の屋根を載っけたファサードだ。目白通りの正門から入り、西へカーブする道を240mほど進むと車廻しにいたり、画面の左手に見える北面した玄関にたどり着く大邸宅だ。
 明治中期の竣工直後とみられる写真は、車廻し西側の芝庭から東南方向を向いて撮影している。戸田邸の母家が建っていたのは、現在の位置でいうと徳川ビレッジのほとんどの敷地ということになりそうだ。1932年(昭和7)ごろに解体された戸田邸の部材は、その一部が建設会社に売却されたものもあったようで、下落合に建っていた秋山邸Click!は、戸田邸の部材を再利用して昭和初期に建設されたものだとうかがっている。
 戸田康保が、高田町雑司ヶ谷旭出41番地に邸をたてて転居してくるのは明治中期だが、それ以前の住居を調べていて驚いた。日本橋の薬研堀Click!があった南側に接する、日本橋矢倉町(やのくらちょう=現・東日本橋1丁目)だったのだ。わたしの実家があった日本橋米沢町Click!(現・東日本橋2丁目)とは、薬研堀Click!(埋め立て後の大川端は千代田小学校Click!→現・日本橋中学校Click!)をはさみ、わずか200m弱しか離れていなかったことになる。親父は、戸田邸についてはなにも話してはくれなかったが、明治中期に目白停車場Click!近くに転居しているので、親のそのまた親世代でもすでに記憶が薄れていたのだろう。
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 日本橋矢倉町の戸田邸について、1905年(明治38)に出版協会から刊行された出版協会編輯局・編『二十世紀之東京・第弐編/日本橋区』より引用してみよう。
  
 矢の倉は浜町河岸に面した、薬研堀埋立地に踏み込んで四角形の端を噛切つた様な町である、もと矢の倉といふ、米倉の名を其儘に町名に呼んで、松平の下屋敷を合併して出来たもので、大川端最寄は、未だに旧屋敷其儘になつて居るが、薬研堀に面したところは、商店相並んだ、町通りをなして居る。大川端から這入る広場は北に戸田康保氏の邸宅を繞る土塀で、これは昔の屋敷の塀其儘に存して居る。
  
 同書は1905年(明治38)の出版だが、この文章は薬研堀の埋め立てにからめて明治前期か、または記憶をもとに書かれたらしいことがわかる。戸田康保とわたしは、いまの地名でいえば東日本橋の“同郷人”ということになるが、片や1万坪に近い敷地に大邸宅を建てて転居してきているのに、わたしはといえばサクラソウ「目白台」が開発された戸田邸の温室にも満たない、ネコ小屋みたいな家に住んでいるのはどうしたもんだろうか。
 先述の関東大震災の際、広い戸田邸の敷地内の森へ避難した周辺住民で、同級生のひとりを訪ねる一高学生の証言が残されている。1924年(大正13)に六合館から出版された第一高等学校国漢文科・編『大震の日』から、学生の文章を少しだけ引用してみよう。
  
 (前略)家族皆々無事なのを賀して、それから後藤末雄君を訪ふ。君の一家は、戸田邸に避難してゐた。暗い所で君や戸田子爵らにあふ。さつき記者から聞いた事を話すと、この辺の人は何も知らないと見えて非常に驚いた。
  
 「記者から聞いた事」とは、東京市内で早くも流布されはじめていた、「朝鮮人が井戸に毒を投げこんだ」や「朝鮮人が六郷をわたって攻めてくる」、あるいは「無政府主義者や社会主義者が反乱を起こす」など、まったく根も葉もない流言蜚語Click!のことだ。
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 目白駅の周辺域や豊島区に関する刊行物などでは、徳川義親邸については数多くの資料や証言類が紹介されているが、それ以前に住んでいた戸田康保邸についての証言はきわめて少ない。下落合515番地に自邸と能舞台をしつらえていた観世喜之Click!ともかなり親しく交流し、謡曲Click!にも造詣が深い戸田康保については、それはまた、少しあとの物語……。

◆写真上:明治中期に建てられ、和洋の建築様式が合体したような戸田康保邸。
◆写真中上は、戸田康保が品種改良に成功したサクラソウ「目白台」。は、1919年(大正8)に撮影された戸田康保邸内の大温室とその内部。
◆写真中下は、川村女学園の第一校舎屋上から1925年(大正14)に撮影された戸田邸遠望。は、現・徳川黎明会の正門近くにある戸田康保邸跡を記念する小さな石碑。は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる戸田邸。
◆写真下は、1933年(昭和8)作成の市街図にみる戸田邸。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる徳川義親邸。いまだ戸田邸の面影が、敷地内のあちこちに残っている。下左は、1941年(昭和16)に撮影された戸田康保。下右は、1905年(明治38)刊行の出版協会編輯局・編『二十世紀之東京・第弐編/日本橋区』(出版協会)の中扉。
おまけ
 戸田邸の部材を活用して建築されたと伝わる、下落合768番地の秋山邸(解体)。
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「落合風景」を含む1925年の椿貞雄作品。

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 1924年(大正13)から、下落合2118番地に住んでいた椿貞雄Click!は、翌1925年(大正14)の春陽会展に「落合風景」とみられる作品をいくつか出展している。その椿貞雄アトリエを訪問したか、あるいは近所で暮らしていたとみられる同郷の高瀬捷三Click!については、彼の『下落合風景』(1924年ごろ)とともにご紹介している。
 1925年(大正14)3月に、上野公園竹之台陳列館で開催された春陽会第3回展に、椿貞雄は14点の作品を出展している。それらの作品には、下落合の風景を描いたとみられるいくつかのタイトルが読みとれるようだ。春陽会の出品作とは、『晴れたる秋』や『果実図』、『冬日小彩(1)』、『冬日小彩(2)』、『窓外斎日』、『晴れたる冬の道』、『置賜駅前風景』、『美中橋(1)』、『美中橋(2)』、『少女座像』、『江戸川上流の景』、『雪帽子冠れる少女』、『山里』、そして『窓外の道』の14点だ。
 この中で、『置賜駅前風景』『山里』の2作は置賜駅(奥羽本線)のある山形県米沢に帰省したときに描いた画面のようで、『果実図』『少女座像』『雪帽子冠れる少女』の3点は明らかにアトリエ内の仕事だろう。そして、残り9タイトルの風景画が気になるのだ。椿貞雄は、下落合2118番地に建つ住宅を借りてその2階をアトリエにしていたので、『窓外斎日』と『窓外の道』はアトリエの窓から描いた風景画の可能性が高い。また、『晴れたる秋』はアビラ村(芸術村)Click!近辺の風景を写したもので、『晴れたる冬の道』は佐伯祐三Click!と同様に、丘上に通う『アビラ村の道』Click!を描いたものではないだろうか。『冬日小彩(1)』『冬日小彩(2)』の2作も、アトリエ近辺の雰囲気がするタイトルだ。
 明らかに落合地域を描いたとみられる作品としては、『美中橋(1)』と『美中橋(2)』、そして『江戸川上流の景』が挙げられるだろう。「美中橋」は、椿アトリエから「アビラ村の道」を西へ60mほど歩き、岸田劉生が描いた『古屋君の肖像(草持てる男の肖像)』Click!古屋芳雄邸Click!が建つ五ノ坂Click!を一気に下ると、椿アトリエから350mほどで上落合側へわたることができた、妙正寺川に架かる竣工まもない初期型「美仲橋(みなかばし)」Click!ではなかろうか。この『美中橋(1)』『美中橋(2)』のいずれの画面かは不明だが、1925年(大正14)に刊行された「みづゑ」4月春陽会号には画像が収録されているようだ。だが、同号は稀少のせいか画面をいまだ確認できていない。
 『江戸川上流の景』は現在の神田川のことで、大洗堰Click!から千代田城Click!の外濠へと注ぐ舩河原橋までの中流域を江戸川Click!、その上流域を旧・神田上水Click!と呼称していたもので、旧・神田上水と江戸川の呼び名が統合され、現代の「神田川」になったのは1966年(昭和41)のことだ。したがって、「江戸川上流」とは落合地域を流れる旧・神田上水をさすとみられ、あるいは美仲橋を好んでモチーフにしている点を考慮すれば、旧・神田上水の支流(補助水源)である妙正寺川の風景も含まれるかもしれない。
 これらの風景を描いたとみられる作品は、時期的にみて岸田劉生Click!の影響を強く受けていた、いわゆる草土社Click!風の画面だった可能性がきわめて高そうだ。換言すれば、非常にリアリスティック(写実的)で繊細な表現であったことは想像に難くない。したがって、「落合風景」を描いた他の画家たちによるどの画面にも増して、当時の風景が精細かつ正確に記録されているのではないかと思われるのだ。
 大正末ごろの椿貞雄について、1973年(昭和48)に東出版から刊行された『椿貞雄画集』収録の、東珠樹『椿貞雄の画業』から少しが引用してみよう。
  
 そのようにして描かれた椿の作品も、劉生の作品と並べて見ると両者の性格の違いや個性的な相違は歴然としている。東京に生まれ東京に育った劉生の作品が都会的な色調を持ち、米沢生まれの椿の作品が北方的な暗さを持っているということも、宿命的な一例であるが、元来リアリズムという古典的な絵画テクニックに一番個性の相違がはっきりと見られるものである。それはルネサンス以降の絵画でも、同じような描き方をしていながらルーベンスやヴェラスケスやレンブラントの絵は素人にも見分けがつくのに、かえって抽象絵画などの新しい絵画の中に個性の違いが見分けられないものがあることを考えて見ればよくわかる。 (中略) 椿は劉生から多くのものを学んだが、なかでも最も重要なのは、西欧から伝来した油絵具という画材を使って、“日本人の絵”(本文傍点)を描こうとしたことである。
  
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 関東大震災Click!の直後から、岸田劉生Click!は藤沢町の鵠沼海岸Click!から避難して名古屋経由で京都に落ち着いているが、頻繁に東京へと帰郷していた。1924年(大正13)夏にも東京へもどり、下落合のすぐ北側に住んでいた河野通勢Click!(長崎村荒井1801番地)を訪ねている。同じ夏、椿貞雄は米沢で個展を開いているが、劉生が東京にきているのを知ってふたりはどこかで会ってやしないだろうか。長女が生まれたばかりの椿貞雄は、東京で暮らすために新たな住まい探しをしている最中だったとみられる。
 大震災前後の椿貞雄の動向をみると、1923年(大正12)1月に鵠沼の家から東京へ転居し、高田馬場駅近くにアトリエをかまえている。5月に、上野公園で開かれた春陽会第1回展に出品したあと、子どもの夏休みを利用して一家で故郷の米沢に帰省している。9月早々に東京へもどる予定だったのだが、関東大震災で東京の大半が壊滅するともどれなくなり、そのまま米沢に滞在しつづけることになる。同年12月には、大阪毎日新聞社が主催する日本美術展覧会へ出品し、銀杯と賞金千円を受賞している。
 翌1924年(大正13)も、椿貞雄は山形県米沢に滞在しつづけるが、同年3月に日本橋三越Click!で開かれた春陽会第2回展に出品している。このとき、春陽会が客員制を廃止したため、旧・草土社系の岸田劉生Click!木村荘八Click!中川一政Click!、そして椿貞雄の4人は会員になっている。そして、米沢で椿貞雄の個展が開かれた直後に、下落合2118番地の2階家に転居してくるという経緯だ。
 そして、先述した1925年(大正14)3月に、上野公園で開催された春陽会第3回展へ14点もの絵を出品しているが、岸田劉生は同年をもって春陽会を退会している。おそらくこの間も、椿は劉生と密にやり取りをしており、ひょっとすると劉生は下落合を訪れているかもしれない。劉生が鎌倉へ転居する予定を聞いたのか、椿貞雄は同年中に鎌倉町の扇ヶ谷(おうぎがやつ)へ先行して転居している。翌1926年(大正15)3月になると、岸田劉生は京都生活Click!に見きりをつけて、鎌倉町の長谷にアトリエを移している。
 さて、下落合2118番地にあった椿アトリエとは、どのような雰囲気だったのだろうか。近所に住む人たちは、おかしなことに画家が家を借りたのではなく、剣術家が転居してきたのだと思いこんでいたようだ。おもに画家たちが客筋だった、おでん屋を開業していたとされる“むさしや九郎”という人物が、1929年(昭和4)に刊行された「美術新論」1月号で、『謹賀新年妄筆多罪』というエッセイを残しているので、少し長いが引用してみよう。
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椿貞雄「冬枯の道」1916.jpg
椿貞雄「入江(伊豆風景)」1928.jpg
  
 掛声の方では、椿貞雄先生の方が、オーソリチイであるかも知れない。先生嘗て都の西北は下落合に閑居されし時、その二階をアトリエにしてゐられたが、朝に夕に、その二階から、エイツ……糞ツ……エイツ……ウン……と掛声が漏れて来るので、近所では剣術の先生が越して来て毎日独り稽古でもしてゐるのかと思ふたさうだが、画家と知るに及んで、一驚し、それでは多分、剣士にして画家を兼ねたる宮本武蔵の子孫だらうと、且つうなづき且つ尊敬したさうだ。未だおでん屋を始めなかつた昔、一日、先生を訪れて拝眉を得た事があつたが、先生の余に問うて曰く、『貴公、囲碁を善くするや?』(中略)そこで、買ひ立ての碁盤が持ち出され、先生白を取り、余黒を取り、パチリ、コツン、と下ろし始めたが、軈て余の先生に抗議して曰く、『暫く待たれよ。先生一石を降ろす度毎に、或はエイツと叫び、或は糞ツと吠え、或はウンと唸り、たゞ一石と雖も掛声なしに打たざると云う事なく、而も其の変声甚だ大にして余の耳をツン裂き、余の霊魂をして宙外に飛ばしむ。為めに余の石動もすれば乱れんとし、充分に実力を発揮するを得ず。乞ふ、以後、掛声を止めよ。』先生、色を成して答へて曰く、『貴公、咄、何を云うか。人生行路凡て力の表現也。而して余の掛声は力の溢ふれて外に発する也。(中略)いざ、勝負を続けむ、其の石、切るぞ。エイツ…糞ツ…』そこで先生の掛声に圧倒されて、碁はさんざんに敗北して帰つた事があつたが、亦、先生は角力をも善くし、人に道で会うと、いきなり相手の肩先に手をかける癖がある。
  
 椿貞雄は、単に烏鷺を囲みながら奇声を発していただけなのだが、「若し余に向つて掛声なしに絵を描けと云う者あらば、そは余に死ねと勧むるに同じ」ともいっているので、制作中にここぞという一筆には気合を入れて大声で叫んだのだろう。近所迷惑な話だが、それが当時の下落合住民には剣術の稽古に聞こえていたらしい。
 この“むさしや九郎”という人物は、当初、美術評論家あるいは作家のペンネームだとばかり思っていたのだが、ほんとうに縄暖簾を架ける“おでん屋”だったようで、どのあたりの地域で店を開業していたのかが気になっている。
 「美術新論」を年代順にたどっていくと、1929年(昭和4)ごろから1933年(昭和8)ごろまで同誌に「やわらかい」エッセイを寄せており、最初は画家たちとの頻繁な交流から、上野あたりの路地裏で開業している店かと思ったのだが、落合地域とその周辺域に住んでいた画家たちがやたら頻繁に登場してくるのだ。しかも、細かな生活の様子までが記録されていたりする。かなり美術通のようで、帝展や二科、1930年協会Click!(のち独立美術協会Click!)、春陽会など親しく交流していた画家たちは多岐にわたっている。
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 たとえば、甲斐仁代Click!中出三也Click!が自転車を練習し、すぐに耳野卯三郎Click!も加わったとか、川口軌外Click!里見勝蔵Click!牧野虎雄Click!片多徳郎Click!深沢省三Click!熊岡美彦Click!三岸好太郎Click!なども登場している。むさしや九郎の店は落合地域の近く、目白駅や高田馬場駅、または東中野駅からほど近いあたりに開店していた可能性もありそうだが、おでん屋が見た聞いた画家たちのエピソード、それはまた、別の物語……。

◆写真上:「アビラ村の道」に面した、下落合2118番地の椿貞雄アトリエ跡(左手角)。
◆写真中上上左は、1915年(大正4)制作の椿貞雄『自画像』。上右は、同年制作の岸田劉生『椿貞雄君』。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる椿貞雄アトリエ跡。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同アトリエ跡。
◆写真中下は、下落合と上落合の境を流れる妙正寺川に大正期から架かる美仲橋の現状。は、1916年(大正5)制作の代々木界隈を描いた椿貞雄『冬枯の道』。は、1928年(昭和3)に制作された椿貞雄『入江(伊豆風景)』。
◆写真下は、1921年(大正10)ごろに鎌倉か鵠沼で撮影された相撲好きの画家3人。左から右へ岸田劉生、椿貞雄、横堀角次郎。は、1925年(大正14)3月に美術誌へ発表された「椿貞雄油絵画会規定」。住所が「下落合中井二,一一八」と書かれているが、コロコロ位置が変わる「中井」Click!の字名は1923年(大正12)ごろまでで、1925年(大正14)現在は下落合(字)小上2118番地が正しい(元にもどった)表記だったはずだ。は、1925年(大正14)に下落合2118番地のアトリエ庭で撮影されたとみられる椿貞雄と朝子。竹垣の向こうに見える住宅との間の道が、のちの吉屋信子邸Click!へとつづくいまだ細い道筋と思われる。