経営者へ転身する前の洋画家・島津一郎。

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 下落合(4丁目)2096番地にある旧・島津一郎アトリエClick!の主であり、島津源吉Click!の長男・島津一郎Click!について、これまであまり触れてこなかったので少し書いてみたい。ただし、彼が島津製作所の取締役になる以前、1932年(昭和7)に東京美術学校西洋画科を卒業し、しばらく洋画家として活動した時期に限定したいと思う。
 島津一郎は、東京美術学校の西洋画科を卒業しているが、卒業後の一時期、同美術学校の彫刻科塑像部へ通っていたらしい様子が、1935年(昭和10)に刊行された『東京美術学校一覧』で確認することができる。だからこそ、美校在学中の1931年(昭和6)に吉武東里Click!の設計で竣工した絵画用のアトリエに近接して、彫刻の作業用アトリエが付属しているのがストンと納得できる美校の記録だ。少し余談だが、島津一郎が卒業した1932年(昭和7)を最後に、東京美術学校の西洋画科は油画科と科名を変更している。
 下落合では、満谷国四郎Click!に師事していた島津一郎だが、美校を卒業した直後から画会の展覧会へは積極的に出品している。東京府青山師範学校の付属小学校を卒業した、洋画家をめざす同窓生で東京美術学校の卒業生および在校生5人が集まり、1932年(昭和7)からスタートした東京の画会「靑巣会」が活動の中心だった。靑巣会の結成時には、島津一郎のほか黒田頼綱、楢原健三、島崎政太郎、そして中山正義が参加していた。少し遅れて木下幹一が加わり、ほどなく会員が6名になっている。なお、東京の画会「靑巣会」と書いたのは、まったく同名の画会「靑巣会」が岡山県にも存在し、昭和初期に展覧会を毎年開催しているので留意する必要があるからだ。
 この画家志望者たちが集った靑巣会について、1933年(昭和8)12月に銀座紀伊国屋で開催された靑巣会第2回展を観賞した、島津一郎と美校を同期卒業の画家・白川一郎の展評を、1934年(昭和9)刊行の「美術」1月号(美術発行社)より引用してみよう。
  
 靑巣会は/「同人は東京美術学校卒業生在学生にて青山師範附属小学校よりの旧友であります。」/と招待文にもある如く、溢れるばかりの親睦と友情とを以て、集へる新人の一団である。/同人諸氏は、此の団楽裡に於て、其の年来の努力を、作品の質と量に夫々具現し、四十六点の画面は、手堅い手法のうちに、温雅の美を、親しみ深く感じしめる。/然し又他面、其の温雅の内に、積極的なるもの――思ひ切つてぶつかつた新人の意気が、今少しあればなどと、将来の飛躍を思ひ、思はないでもない。深く大きいものへの内訌透徹への苦しみ静慄を望む。
  
 このときの島津一郎は、『けし』『室内』『窓』の3点を出品しており、いずれも島津アトリエか島津邸母家の室内あるいは庭園の一画を描いたものだろうか。白川一郎は、「三点共に温かく柔かなる色感、筆触、一寸ボンナールを想はしめる」と評しているが、「ボンナール」は、もちろんフランスの“ナビ・ジャポナール”(日本かぶれ)な画家P.ボナールのことだ。また、3点のうちでは『室内』が力作だとしている。
 なお、靑巣会展は毎年暮れの12月に開催するのが慣例だったようで、会場も銀座紀伊国屋と決めていたようだ。上記の第2回展の前年、1932年(昭和7)の第1回展も12月3日から7日まで銀座紀伊国屋で開かれている。ちなみに、銀座6丁目にあった銀座紀伊国屋は、新宿の紀伊国屋書店の銀座店で1930年(昭和5)にオープンし、本店のギャラリーClick!と同様に2階をレンタルギャラリーとして美術家に開放していた。靑巣会の第1回展を撮影した記念写真が残されているが、銀座紀伊国屋のギャラリーはかなり広かった様子がうかがえる。
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 1934年(昭和9)の靑巣会第3回展ごろから、師事していた満谷国四郎Click!の影響が色濃くなったものか、先輩画家の猪熊弦一郎は「満谷氏のにほひ」が強すぎるとしている。1935年(昭和10)刊行の「美術」1月号より、猪熊の島津一郎評を引用してみよう。
  
 島津一郎君。「曇り日」は情味のある画である。静かな美しさを持つて居るが作画動機の感激が小さい。「みづき」色感は仲々面白いと思つてゐるが味の仕事にならない事を望む。/もつと画面にかぢりついた苦しみの跡も見度いものだ。画面の左方は成巧(ママ:功)してゐるが右方の黄色の花は少々一様になつて平凡に終つてゐる。「磯」は一番佳作だと思つた。「湖畔」及び「早春」は満谷氏のにほひで君のよき処を逃がしては居まいか。
  
 島津一郎は、第3回展では5点の作品を出展しているのがわかる。しかも、前年の第2回展が室内や身のまわりのモチーフばかりだったものが、今回は風景画が主体だったようで、作品のタイトルから画因を探して遠出をしている様子がうかがえる。満谷国四郎にアドバイスを受けたか、あるいは満谷に同行して制作しているのかもしれない。
 以降、靑巣会の展覧会は1936年(昭和11)の第5回展まで開催されているが、それからの記録が見あたらないので、おそらく1937年(昭和12)ごろに解散しているのだろう。第5回展は1936年(昭和11)の少し早め、11月21日から25日の5日間にわたり銀座紀伊国屋で開かれている。同展の様子を、1937年(昭和12)に刊行された「美術」1月号から引用してみよう。この展評には署名がなく、「美術」編集部の文責となっているようだ。
  
 青山師範の附属小学校出身の同窓の五名の集りだが、何処となくゆとりのある飽迄趣味に活きた友情を感ずる(中略) 島津一郎の情熱的な光へのセンシビリテーは、フオーブから更に表現主義へと、朗らかに進展して行かうとする、色彩画家であるが余りに抒情を求めて聊か割切れないレアリズムへの分析に苦慮してゐる所が見える。これは亦、消極的な個性の弱さからであるかも知れない。
  
 読み方によっては、「ゆとりのある飽迄趣味」=プロの画家ではないと痛烈な批判にも解釈できる表現だが、この5回展を最後に靑巣会は活動を停止・解散しているようだ。
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 靑巣会の(おそらく発展的な)解散後、島津一郎のネームはふたつの画会に見ることができる。ひとつは、「立陣社」という画会で島津一郎は13名の同人のひとりとして参加している。1937年(昭和12)7月23日から27日の5日間、立陣社近作洋画小品展が銀座青樹社で開かれているが、彼も小品を出展しているのだろう。銀座青樹社は、画商で実業家の鈴木里一郎が経営していた青樹社画廊のことだ。この展覧会についての展評は記録になく、島津一郎がどのような作品を展示していたのかは不明だ。
 また、もうひとつは1936年(昭和11)創立の画会「銀座美術協会」だ。同画会について、1937年(昭和12)に刊行された『日本美術年鑑』(美術研究所)から引用してみよう。
  
 昭和十一年二月房野德夫の発起にて発会。「芸術発表の合理化、芸術行動の実際化」を趣旨とする。同年四月銀座聯合会公園の下に銀座通両側商店ウインドウにて洋画展を開催す。/[会員]井手坊也、房野德夫、島津一郎、石川滋彦、木下幹一、川端實、富川潤一、三輪孝、沼田一郎、大貫松三、島崎政太郎、副島秀生、黒田頼綱、眞木小太郎、須田壽、千葉樹、笹岡了一
  
 会員名を見ると、靑巣会の画家が4名も参加しているのがわかる。銀座通連合会Click!による全面バックアップで、銀座通りのショウウィンドウへ画家たちの作品を並べてしまおうという、これまでにない斬新な企画だった。銀座美術協会の事務所は、銀座4丁目の三和ビル内に置かれ、毎年洋画展覧会というよりは街頭美術イベントが開かれた。
 なぜ、銀座通連合会を巻きこんだ、このような大規模な美術イベントが可能だったのかといえば、顧問や賛助者に高名な画家たちの名前がズラリと並んでいたからだろう。顧問には岡田三郎助Click!、賛助出品者には下落合にアトリエのある大久保作次郎Click!牧野虎雄Click!をはじめ、伊原宇三郎Click!辻永Click!寺内萬治郎Click!柚木久太Click!中村研一Click!安宅安五郎Click!清水良雄Click!高間惣七Click!田辺至Click!中野和高Click!、そして小林萬吾Click!らが名を連ねていた。銀座美術協会の街頭イベントは、その後も1943年(昭和18)まで継続されているが、敗戦色が露わになった翌年から中止になっている。
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 さて、島津一郎の作品(画面)は見つけるのがむずかしかった。1936年(昭和11)刊行の「美術」11月号に掲載された『婦人像』は、靑巣会第5回展に出品されたものだろうか。また、1937年(昭和12)刊行の「美術」5月号に残る『室内』は、1933年(昭和8)の靑巣会第2回展に出品作品と同一のものだろうか。1934年(昭和9)の靑巣会第3回展のあと、風景作品へ積極的に取り組んでいる様子がうかがえるが、特に下落合の西部、島津アトリエがあったアビラ村(芸術村)Click!の風景をモチーフにした画面がないかどうか気になっている。

◆写真上:下落合2096番地の、自身のアトリエの前に立つ島津一郎(AI着色)。
◆写真中上は、1935年(昭和10)刊行の『東京美術学校一覧』の彫刻科塑像部に名が見える島津一郎。中上は、島津一郎が卒業した西洋画科教室。中下は、1932年(昭和7)に銀座紀伊国屋で開かれた靑巣会第1回展の記念写真。印刷が不鮮明だが、後列中央が島津一郎とみられる。は、1937年(昭和12)刊行の『日本美術年鑑』にみる靑巣会の紹介文。当時の同会事務局が、下落合の島津アトリエだったことがわかる。
◆写真中下は、1920年(大正9)に竣工した大熊喜邦Click!吉武東里Click!の設計による島津源吉邸Click!(AI着色)。中上中下は、1931年(昭和6)ごろ竣工した吉武東里の設計による島津一郎アトリエの外観および内観で、島津邸敷地の東側(三ノ坂寄り)に建っていた。おそらく下落合はおろか、日本でも最大クラスのアトリエ建築だろう。
◆写真下は、1936年(昭和11)の「美術」11月号に掲載の島津一郎『婦人像』。中上は、1937年(昭和12)の「美術」5月号に掲載の島津一郎『室内』。中下は、1931年(昭和6)ごろに撮影された刑部人Click!(左)と島津一郎(右)。は、島津一郎アトリエの前で撮影された島津家の記念写真(AI着色)。左から右へ島津一郎、島津源吉、七面鳥Click!、島津とみ、島津源蔵。よく見ると、左端の島津一郎と右端の島津源蔵のズボンの裾や靴が泥だらけだが、刑部人アトリエClick!湧水池Click!周辺を歩き、思わず泥濘にでもはまったのだろうか? なお、島津家の家族写真は刑部人のご子孫である中島香菜様Click!のご提供による。

目白会館から妙齢婦人へハガキばらまき事件。

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 1928年(昭和3)の秋口から翌年にかけ、山手線や中央線沿いに住む若い女性ばかりにあてて、大量のハガキが舞いこみはじめた。差出人は、東京市外落合町目白文化村Click!「目白会館内 木村」と書かれており、意味不明の内容だった。
 ハガキの裏面には、ガリ版(謄写版)刷りで以下のようなことが書かれていた。
  
 あなたは昭和三年九月九日、下関発特急で午前十一時頃品川駅へ下車なすつた方と違ひますか。さうでしたらお知らせ下さい。 落合町目白文化村 目白会館内 木村
  
 なにやら、松本清張Click!の時刻表を駆使した短編小説のプロローグのようだが、これを見た若い女性たちは、わけがわからず薄気味の悪い文面だったので、父親に相談するか、あるいは夫に相談して善後策を検討しただろう。相手には自身の住所がバレており、娘や妻の安全・安心を考慮すれば事件性の臭いさえ漂うハガキだった。けれども、「木村」という差出人は落合町目白文化村の「目白会館」Click!という住所を明記しているので、それほど深刻な状況だとは考えず黙殺した人たちも大勢いたかもしれない。
 のちに判明するが、この不可解な文面の刷られたハガキはゆうに1,000枚を超える量が投函されており、おもに東京市郊外の西部地域にバラまかれていた。1928年(昭和3)の時点で、逓信省が発行するハガキ1枚の値段は1銭5厘なので、たとえば1,500枚を購入するには22円50銭ものカネが必要だったことになる。物価指数にもとづき、今日の貨幣価値に換算すれば1万4,310円となり、ガリ版印刷も街中の印刷所へ依頼していたとすれば、おそらく現在の貨幣価値では2万円を軽く超える出費だったと思われる。当時の大卒初任給は50~60円だったので、その月給の大半がハガキ購入と印刷につぎこまれたことになる。
 目白会館で暮らす住民は、さすが裕福で余裕だ……などと感心している場合でなく、不安に思った娘の親や兄弟、あるいは妻の夫や親族たちが下落合1470番地の目白会館めざして、「木村」にハガキの真意を詰問しようと押しかける事態になっている。訪問するのはハガキを受けとった女性ではなく、必ず「いかつい男」がやってきたという。
 その様子を、報知新聞に連載のコラム「談話室」から引用してみよう。なお、同コラムはのちに千倉書房から『談話室漫談篇』として、1929年(昭和4)に出版されている。
  
 その葉書をもらつた婦人は出向かないで、必ずいかつい男が目白会館を訪問して、/「実に怪しからん。木村といふ人に会はせてくれ給へ」といふ見幕を示す。/目白駅から旧目白中学校の方へ行つて、ライオン・ガレーヂといふ横を左へ折れたところに目白会館がある。なる程あとからあとから奇異な葉書を持つ人が来る。/「木村といふ人はゐるかね」
  
 この時期、目白中学校Click!が練馬に移転Click!してから数年後なので、その跡地はいまだ草ぼうぼうの広い空き地Click!が拡がる原っぱClick!だったろう。
 文中に、「ライオン・ガレーヂ」という店舗が登場するが、大正末から営業している街中に増えはじめた乗用車の整備を引き受ける町工場で、江戸川自動車商会の河合鑛が創立して経営していた。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」を見ると、目白通りから目白会館へ左折し南へ入る東西の角地に自動車整備会社は見あたらないが、目白通りをはさんだ向かいの長崎町の通り沿いを見ると、同じく1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」には、長崎町大和田1963番地にライオンガレージの前身である「二葉自動車(双葉自動車)」のネームを発見することができる。
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 目白通りのライオンガレーヂは、1925年(大正14)に創立されたはずだが、翌年につくられた「長崎町事情明細図」では二(双)葉自動車の旧名のままになっている。ちょっと横道にそれるが、目白通りで双葉自動車やライオンガレーヂを経営した河合鑛について、1932年(昭和7)によろづ案内社から出版された『現代日本名士録』より引用してみよう。
  
 河合鑛 小石川区音羽町九ノ一二 電話牛込四、五四三/江戸川自動車商会総支配人、大正自動車(株)専務、ライオンガレーヂ経営者 明治三二年六月生、東京市
 帝都自動車業界に声望隆々たる氏は、河合清次郎氏の長男として市内芝区に生誕した。当家は代々江戸に住み、徳川幕府の御用を勤め畳表の納入を業としてゐた。(中略) 除隊後更に帝国自動車学校に学んだ。同校卒業後目白自動車商会に勤めたが幾何もなく之を辞し、大正十二年十二月市外長崎町に独力を以て双葉自動車商会を創立し、翌十三年四月匿名組合の江戸川自動車商会を興し、更に同十四年双葉自動車商会を廃して同所にライオンガレーヂを開設し、又江戸川自動車商会の姉妹会社たる大正自動車株式会社の専務に選ばれた。(後略)
  
 このあと、河合鑛は1932年(昭和7)に東京の西部を走る武蔵野乗合自動車(現・小田急バス)を創立して社長になり、戦後の1950年(昭和25)には関東自動車工業(現・トヨタ自動車東日本)の社長に就任し、乗用車トヨペットの生産を開始している。また、自動車に関連するさまざまな団体の理事を歴任しているのが資料類に見えている。
 さて、本筋にもどろう。「奇異な葉書」を手に、目白会館へ怒鳴りこんだ「いかつい男」たちは、まず同アパートの主事(管理人)に木村本人が不在であることを告げられる。そして、「あなたの御用件はわかつて居りますから」と、わけ知り顔で応接されることになる。ますます奇怪に感じた男たちは、主事室で次のような話を聞かされることになる。報知新聞調査部が出版した『談話室漫談篇』より、つづきを引用してみよう。
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 葉書差出人の木村といふのは若い製図師であるが、昭和三年九月九日下関からの特急で上京の途中、急に病気になつて苦しみはじめたところを、一人の婦人が親切に介抱してくれた。その時はそのまゝ婦人の名も聞かずに別れたが、今になつて一度は礼を述べたいと思ふと、矢もたてもたまらなくなつて、その婦人が品川駅で下車したといふ記憶をたよりに、多分それは山手線か中央線の沿線にゐる人だらうと、役場やその他で手当り次第に妙齢婦人の名を調べ、かくは葉書を出したのだといふ。
  
 なにやら、数寄屋橋の「君の名は」(菊田一夫Click!)の世界を想起するが、木村という製図師にややパラノイア的な性格を想像してしまうのは、おそらくわたしだけではないだろう。山手線と中央線沿線の町役場を片っ端から訪問し、生年月日を調べて20歳前後の女性の名前と住所を1,000人以上も転記してもち帰り、あらかじめ謄写版で印刷しておいたハガキの表に、アパートの1室でエンエンと毎日、女性あての住所・氏名を書きつづけている男の姿を想像すれば、彼女たちの肉親でなくても不気味な気配や、えもいわれぬ危機感をおぼえるのは、しごく当然ではないだろうか。
 ましてや、娘や妻の住所を確実に知られているので、いつ彼女たちの前に突然現れ危害を加えられないとも限らない……と、周囲の者たちは考え危惧したにちがいない。中には、娘や妻にまとわりつく変質者や尾行者(ストーカー)を疑い、警察にとどけた家庭もかなりあったようだ。さっそく、ハガキを出した各地の警察署から呼びだしを受け、「木村」は仕事どころではなくなり日々警察署へ出頭するのが日課のようになっていく。
 各町の警察署では、あのような奇妙なハガキを妙齢の婦人たちに投函するのは「怪しからん」と叱責されているが、「木村」は逓信省が発行する官製ハガキを使い、助けてくれた恩人を探しているのが犯罪であるというなら、「警察の力で調べてくれるのか?」と逆に取調官へ食ってかかるため、違法行為が見あたらない以上どうしようもなく、二度と同じ警察署には呼ばれなくなったようだ。結局、助けてくれた女性が見つかったかどうかは不明だが、「あっ、わたしのことだ」と心あたりのある女性がいても、ちょっと執拗で気味(きび)の悪い男なので名のりでなかったのではないか。各地の役場をわざわざ訪ね歩き膨大な手間やコストを費やすなら、なぜ新聞各紙の尋ね人欄を利用しなかったのかが不可解だ。
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 「木村」のおかげで新聞ダネとなり、第三文化村の目白会館は東京西部にその名があまねく知れわたったけれど、アパートの主事は「木村さんのお蔭で、私は仕事などする暇もなく、毎日皆さんに事情をお話するので日が暮れます」と、ボヤくことしきりだったという。

◆写真上:2007年(平成19)に撮影した、第三文化村の目白会館跡(右手)。
◆写真中上は、八つ山橋Click!から撮影した東海道線や新幹線、横須賀線、山手線、京浜東北線などの鉄路が走る品川駅付近。は、1928年(昭和3)ごろに撮影された新宿駅・山手線ホーム。は、1931年(昭和6)ごろにに撮影された中央線。
◆写真中下は、昭和初期に販売されていた1銭5厘の官製ハガキ。中左は、1929年(昭和4)に報知新聞調査部が出版した『談話室漫談篇』(千倉書房)。中右は、1932年(昭和7)に出版された『現代日本名士録』(よろづ案内社)。は、1940年(昭和15)に日本乗合自動車協会が発行した「交通機関懇親会」の出席者名簿。
◆写真下は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみる同町1963番地の二葉(ママ:双葉)自動車だが、すでにライオンガレーヂになっていたはずだ。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる「いかつい男」たちがたどる目白会館クレームコース。は、1931年(昭和6)ごろ目白会館で撮影された妙齢婦人の矢田津世子Click!(AI着色)。

ロケが行われた七ノ坂の大正住宅。

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 下落合(中落合・中井含む)の西部は、下落合の東部や中部に比べ二度にわたる山手空襲Click!の被害をあまり受けてはおらず、近年まで大正期や昭和初期に建てられた住宅がたくさん残っていた。特に、蘭塔坂(二ノ坂)Click!から西側は近代建築の住宅だらけで、学生時代には街角丸ごと登録有形文化財にでもできそうな風情をしていた。
 先日、知人から「新宿の高層ビル群が見える、戦前に下落合の南斜面へ建てられたらしい住宅を使って、全編ロケーションしためずらしいドラマを見つけた!」……と連絡をいただき、さっそく当該の作品を視聴してみる。はい、まちがいなく下落合4丁目(現・中井2丁目)で撮影されたものだ。また、撮影場所もすぐに特定することができた。ドラマの撮影時、この邸宅はハウススタジオとして使用されていたのか、あるいは建て替えの直前に空き家となっていた邸の撮影が許可されたものか、ほとんどのシーンが邸内外のロケであり、室内の様子もよくとらえられている。
 坂道を下った先には、道路に沿って西武新宿線が走り、その線路の向こう側には落合公園の緑地が拡がっている。即座に撮影場所を特定できたのは、道路に面して西武線が平行に敷かれている点と、まるでバームクーヘンのピースのような、アールをきかせた独特な形状のマンション「落合公園ハウス」が、同公園の森の向こう側(旧・下落合5丁目)に見えたからだ。このマンションの円筒形をした建築(エレベーターホール?)が、このような角度で見える目白崖線の斜面は、七ノ坂をおいて他にない。ドラマの撮影は、七ノ坂Click!の中腹にあった今井勝太郎邸でロケが行われている。
 今井邸は戦前どころか、関東大震災Click!からほどなく建てられた大正建築だ。外観は、当時の典型的な日本家屋だが、撮影された内部の様子からすると板張りの洋間もあったのではないかと思われる。1926年(大正15)作成の、「下落合事情明細図」に描かれた七ノ坂にもすでに採取されており、大正末から宅地開発が盛んだった目白学園Click!中井御霊社Click!のすぐ南側にあたる一画で、建設された当時は下落合2152番地(のち下落合4丁目2152番地)の邸宅だ。
 くだんのドラマは、1993年(平成5)に制作された原作・連城三紀彦で監督・南部英夫の『夢の余白』Click!という作品だ。当時は、かなり視聴率が稼げていたとみられる、いわゆる2時間サスペンスドラマの1作で、林美智子や池上季実子、平幹二郎ら芸達者な舞台俳優たちが出演していた。ドラマのストーリーはともかく、昼夜を問わずに登場する七ノ坂の坂上や坂下の光景、今井邸の室内の様子がよくわかる屋内シーンなどに惹きつけられた。サスペンス(?)ドラマではなく、大正期の下落合に建てられた日本家屋の記録映像として観ると、たいへん興味深い画面ではないだろうか。
 撮影時(1993年)は、七ノ坂の一段下(南側)の住宅敷地に赤い屋根の2階家が建ち、今井邸の1階テラスに面した居間からは、新宿方面の眺めがさえぎられていたが、建築当時はテラスの先にある芝庭から新宿駅西口の一帯にあった淀橋浄水場Click!の光る水面が、よく眺められたのではないだろうか。ドラマでも、おそらく今井邸の2階から、屋上にクレーンを残したままの東京都庁Click!が望見できる。都庁は1991年(平成2)に丸の内から新宿へ移転してきたが、2年後の当時でも、いまだ部分的に工事中だったのだろう。
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 今井邸の室内の柱や床板、ドアなどは黒光りして、大正期の住宅らしいしぶくて落ち着いた色あいを見せており、同邸の西側や北側には大正期のほぼ同時期に建てられたとみられる、灰色の瓦屋根の古い日本家屋とみられる住宅群が何軒かとらえられている。そういえば、下落合4丁目2162番地の仲嶺康輝・林明善のアトリエClick!や、歌手で東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)の教授だった渡辺光子(月村光子)Click!が住んでいた寺尾光彦邸は、今井邸から西へ3軒隣りの八ノ坂に面していた。
 少し細かい余談だが、今井邸のある七ノ坂は、坂上が旧・小野田定次郎邸へT字に突きあたるが、その上にある目白学園を映したシーンは登場していない。ただし、エキストラに同学園の制服を着せたとみられる2名の女子を登場させており、昼間の六ノ坂下=中井4号踏み切り脇でのアクシデントや、夜間の七ノ坂を上がる今井邸の玄関シーン(弓道部の部活帰り?)を撮影している。だが、目白学園の正門は六ノ坂上にあり、同学園生徒が七ノ坂を、しかも夜間に上がるのは不自然だろう。また、今井邸の北西側にある中井御霊社は、境内の杜が冒頭のカメラがパンするシーンでチラリととらえられている。
 大正期から七ノ坂に住んでいた今井勝太郎は、1870年(明治3)に東京市内で生まれ育った、内閣印刷局に勤務する国家公務員だった。1934年(昭和9)に国際公論社から出版された『東京紳士録』によれば、印刷局主事となっており、同時に内閣印刷局総務部経理課会計掛長と用度掛長を兼務していた。1934年(昭和9)の時点で64歳なので、とうに内閣印刷局は定年退職していたとみられるが、そのあとも嘱託として同局に勤めていたのかもしれない。国家公務員のせいか、今井勝太郎は1932年(昭和7)に編纂された『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)には、辞退をしたのか名前が掲載されていない。
 今井勝太郎が、下落合へ自邸を建設して転居するきっかけになったのは、もちろん関東大震災だと思われるが、それ以前には麻布区麻布六本木町に住んでいたものだろうか。当時の短歌を収録した文芸誌に、同姓同名の人物を見つけることができるが、職業が公務員なので作品を発表している人物が同一人物かは不明だ。
 今井邸の2階部分は、部屋が1室ないしは小さめな2室のコンパクトな造りで、1階部分に過重な負荷をかけない設計になっているのも、関東大震災による建築分野への影響のひとつだろう。同様の大正建築は、絵画にも数多く描かれており、例を挙げれば佐伯祐三Click!『テニス』Click!に描かれた第二文化村Click!外れの宮本邸Click!や、同じく佐伯がスケッチブックに残した素描Click!の『屋根の上の職人』あるいは『洋館の屋根と電柱』も、同じような設計・構造で建設された住宅事例だ。
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 震災後、行政により重い瓦葺きの住宅建設が禁止された時期があり、その間に建てられた住宅、または震災被害を修復した住宅の屋根は、スレートかトタンに変更され、あるいは瓦状の屋根の風情を保ちたい住宅には、「布瓦」Click!と呼ばれる石綿で造られた軽量の代用品が用いられている。こちらでも、佐伯祐三アトリエの屋根に一時期葺かれていた布瓦(おそらく石綿瓦Click!)について、過去の記事でもご紹介している。
 七ノ坂沿いの住宅は、大正後期からの開発にもかかわらず、ひな壇の造成に用いられていたのは大谷石Click!による縁石や擁壁ではなく、東京土地住宅Click!から開発を引き継いだ箱根土地Click!が造成したとみられる、蘭塔坂(二ノ坂)Click!と同様にコンクリート造りだった。ドラマが撮影された1993年(平成5)、いまだ坂道(道路)と同じ平面に車庫を設置する邸はほとんどなく、開発当時のコンクリートによる古い擁壁が、そのままよく残された七ノ坂の様子がとらえられている。これは、大谷石による擁壁がほとんどだった少し前の三ノ坂や五ノ坂、六ノ坂の住宅地にもいえることだが、たとえば七ノ坂の今井邸から中井駅までは直線距離で500m余なので、歩いても7~8分ほどで西武線を利用できたため、クルマの必要性をそれほど感じなかったせいもあるだろう。また、どうしてもクルマが欲しい家庭では、七ノ坂の上か下の駐車場を借りて利用していたと思われる。
 さて、これだけ書いてサヨナラではドラマの制作者にあまりにも失礼なので、少しだけ『夢の余白』について触れておきたい。「黒のサスペンス」とショルダーがつけられた同ドラマは、親子2代にわたって愛人をつくり、父親は家を出て愛人と再婚し、息子は家になかなか帰ってこなくなった家庭環境を前提に、家に取り残された仲の悪い嫁と姑がいがみあう、もう七ノ坂がたいへんなことになっているストーリーなのだ。平幹二郎の、優柔不断でなかなか意思決定できない「僕」Click!を連発する父親と、短時間で気持ちが大きく揺れ動く林美智子の演技が秀逸なのが救いだろうか。観ているこっちまでが暗鬱とした気分になる、どこがサスペンスなんだと思ってしまうドロドロの展開だ。
 アルトサックスによるスタンダード『As Time Goes By』Click!が流れるどこかのJAZZバーで、父と子がしみじみと語るシーンは、まるで同曲のハンフリー・ボガートで有名なセリフ「(昨日?)そんな昔のことは忘れた」「(今夜?)そんな先のことはわからないさ」といった、ふたりの刹那的な雰囲気そのままの情景なのだが、バーの次に起きる出来事がサスペンスといえばいえるだろうか。このあとは、ネタバレになるので興味のある方はどうぞ。
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 上落合829番地のなめくぢ横丁Click!で暮らした檀一雄Click!ではないが、「火宅」になってしまった家庭に大正期の落ち着いた和館はあまり似合わない。ドラマではなく、下落合の西部に建てられた大正建築を観察するには、もってこいの映像記録だとは思うのだけれど。

◆写真上:ドラマ『夢の余白』(1993年)のロケ地となった、七ノ坂を坂下から望む。
◆写真中上:同ドラマでとらえられた、30年以上も前の七ノ坂からのパノラマ風景。
◆写真中下:同じく、大正後期に建設された今井勝太郎邸とその周辺。いちばん下の、交通事故寸前のシーンに映る中井4号踏み切り端の床屋だが、その左手にあった六ノ坂下のパン屋で、学生時代の散歩の途中でパンを買った憶えがある。
◆写真下は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる今井邸。中上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる今井邸。中下は、1989年(昭和64)に撮影された空中写真にみる今井邸とその周辺。は、坂上から眺めた七ノ坂の風景。
おまけ
 大正末に佐伯祐三が描く日本家屋。建築中の屋根(素描)と、『テニス』に描かれた第二文化村に隣接する宮本邸。下は、今世紀に入っても残っていた二ノ坂上の和館群。
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