下落合を描いた画家たち・安井曾太郎。

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 下落合404番地の近衛町Click!に住んだ安井曾太郎Click!は、これまで地元の「下落合風景」をモチーフにした作品を描いていないのではないかと考えてきた。ところが、制作時期は不詳だが、『落合風景』(10号)のタブローが現存しているのが判明した。
 『落合風景』を所有していたのは、1978年(昭和53)に物故した三井物産社長をつとめた新関八洲太郎で、1972年(昭和47)に刊行された「東洋経済」7月号(東洋経済新報社Click!)に自身が好きな絵画として所有作品を紹介している。現在でも、同家に『落合風景』があるのかどうかは不明だが、出所がハッキリした安井作品だろう。
 いつごろ入手したのかは書かれていないが、新関八洲太郎はもともと洋画好きだったようなので、戦後、三井物産の役員全員がパージされ、いきなり常務取締役に就任したころかもしれない。それまでの新関は、アジア各国やオーストラリアなど海外勤務ばかりで、敗戦後は1946年(昭和21)の夏にようやく奉天(中国)から引きあげてくるような生活だった。したがって、ゆっくり展覧会や画廊などへ足を運んで絵画を観賞し、気に入った作品を購入できる機会や余裕はなかったように思われる。
 また、これは画題や風景モチーフとも関連するが、安井曾太郎が豊島区目白町2丁目1673番地から岡田虎二郎Click!の娘である岡田禮子Click!が住んでいた下落合404番地の敷地へ、山口文象の設計によるアトリエClick!を建設し転居してくるのは1935年(昭和10)のことなので、『落合風景』を描いているのはそれ以降の時代だと考えるのが自然だろう。
 さて、『落合風景』の画面を仔細に観察してみよう。明らかに東京地方へ大雪が降ったあと、その積雪が溶けはじめた翌日か、翌々日のころに描かれているとみられる。なぜ大雪だったのがわかるのかというと、面積が小さめな棒杭の上の切り口にまで積雪がかなり残っており、中途半端な降りの雪ではこのような残雪の風情が見られないからだ。棒杭が、半ば埋まるほどの積雪だったのではないだろうか。また、なぜ大雪が降った日のあと、それが溶けはじめたころに描いているのがわかるのかというと、周辺の樹木の枝葉には雪がほとんど残っていないからだ。すでに木々に積もった雪が溶けるか、あるいは風で振り落とされるかした、大雪が降った数日後の風景ではないだろうか。
 下落合へ転居した安井曾太郎が、各地を旅行せず比較的アトリエに落ち着いていたころ、あるいは好きな写生旅行が実質的にできにくくなった戦時中、さらには戦後になり1955年(昭和30)に死去するまで、東京に30cmを超える大雪が降った年は東京中央気象台によれば都合6回ある。転居して間もない二二六事件Click!があった1936年(昭和11)と1937年(昭和12)の2月、敗戦色が濃厚になりどこへも出かけられなくなった1945年(昭和20)の1月と2月、戦後にようやく食糧難の時代が終わろうとしていた1951年(昭和26)の2月、そして安井曾太郎が死去する前年の1954年(昭和29)1月の6回だ。
 この中で、1945年(昭和20)の1月に降った大雪の風景作品は、すでに拙記事でもご紹介している。同年1月に制作された、中野区上高田422番地に建つ耳野卯三郎Click!アトリエの丘上に立ち、妙正寺川越しに西落合から下落合に連なる丘陵を眺めた宮本恒平Click!『画兄のアトリエ』Click!だ。戦争も末期なので、すでに旅行は禁止され、軍部への協力に消極的な画家たちは、絵の具やキャンバスなど画材の配給Click!も満足に受けられずに、アトリエにあるストックの絵の具や画布、ときに板などを用いて静物画や肖像画を画室で描くか、アトリエ周辺を散策して気に入った風景を写生するしかなかった。『落合風景』は、安井曾太郎が戦争末期にあわただしく中国にいた関係から戦時中の作品とは考えにくいが、同様に画材が入手しにくく旅行どころではなかった敗戦直後に描かれているのかもしれない。
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 『落合風景』は、陽光(光源)が明らかに左手から射しているが、棒杭や樹々の影が描かれていないので晴天の日とは思えない。雲を透かした光線から、画面の左手が南側あるいは南に近い方角だろう。棒杭が並ぶすぐ向こう側はけわしい崖地になっているようで、急斜面から生える樹木の枝が左手のすみに描かれている。また、谷とみられる窪地をはさんだ向かい側にも木々が繁っているようで、やはり同じような崖地とみられる少し離れた急斜面に樹木が密に生えている様子が、画面上部の描き方から想定できる。このあたり、さすがに安井曾太郎はバルールが正確だ。このように画面を観察してくると、下落合の特に近衛町にお住まいの方なら、すでに描画ポイントがおわかりではないだろうか。
 安井曾太郎は、自宅を出て『落合風景』を描いてはいない。溶けはじめた雪で、ぬかるんだ道路を無理して歩くような仕事ではなく、自宅西側(おそらく南西端)の庭先にイーゼルを立て、深く落ちこんだ林泉園Click!からつづく谷戸を、南西の方角に向いて写生をしている。また、この作品は死去する直前の1954年(昭和29)の1月に描かれたものでもない。なぜなら、1954年(昭和29)には地下鉄・丸の内線の掘削工事がはじまっており、そのトンネル工事で出た大量の土砂を運び、ちょうど現在のおとめ山公園Click!にある弁天池Click!の北側あたりから安井曾太郎アトリエのある西側にかけ、大蔵省の官舎を建設するために深い谷戸の埋め立て工事が進捗していたからだ。
 この位置の谷戸については、近衛町Click!が開発される直前、1922年(大正11)に中村彝Click!アトリエに立ち寄った清水多嘉示Click!が描いた『下落合風景』Click!や、安井曾太郎アトリエの南隣りに建っていた酒井邸Click!の、庭先で撮影された家族写真などでもすでにご紹介している。安井曾太郎の『落合風景』が、もし1939年(昭和14)以前であれば、谷戸の“対岸”は御留山Click!つづきの相馬孟胤邸Click!であり、1940年(昭和15)以降であれば東邦生命Click!による開発地、すなわち同年に淀橋区へ提出された同社の「位置指定図」Click!をもとにした宅地造成Click!が進んでいたはずだ。
 安井曾太郎の『落合風景』が、戦前・戦中・戦後のいずれの作品かは不明だが、ことさら三井物産の新関八洲太郎が内地へ引きあげたあと、1946年(昭和21)の夏以降に入手したらしい点を考慮すると、戦後に開催された美術展、あるいは個展や画廊などで見かけた作品ではないだろうか。1945年(昭和20)の冬、安井曾太郎は前年から中国へ出かけており、帰国するのは3月をすぎたころで、すかさず同月に埼玉県大里郡へ疎開しているので、同年の大雪の日に『落合風景』を描けたとはタイミング的にも考えにくいのだ。
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 安井曾太郎は下落合に画室を残したまま、1949年(昭和24)には湯河原のアトリエClick!(旧・竹内栖鳳アトリエ)へ移り、下落合ではあまり制作しなくなるが、東京藝大の教授はつづけており、同時に日本美術家連盟会長や国立近代美術館評議員などにも就任しているので、湯河原と下落合を往復するような生活だったろう。したがって、大雪が降った画面の風景は、消去法的に考えれば1951年(昭和26)2月に制作された可能性が高い……ということになるだろうか? このころ、安井曾太郎は『画室にて(夫人像)』『孫』など家族の人物画を多く手がけており、身のまわりの人物や風景にも画因が向きやすかったのではないかと思われる。ただし、そのころの風景画にしては、『落合風景』はかなり写実に寄りすぎているようにも思えるが、画廊に依頼された「売り絵」を意識していたとすれば、出展作品とは異なり気負わず気軽に描いた画面なのかもしれない。
 美術評論家の松原久人は、1956年(昭和31)に美術出版社から刊行された『安井曽太郎と現代芸術』で、安井曾太郎による風景画を第1期から第17期までと分類しているが、それによると『落合風景』が戦後に描かれているとすれば、第16期と第17期の中間あたりに位置するタブローということになるだろうか。第16期は埼玉県大里郡への疎開時代で、下落合へ帰る1947年(昭和22)までであり、第17期は熱海来之宮や湯河原時代で1955年(昭和30)に死去するまでということになるが、この間も下落合のアトリエは存続しており、二度にわたる山手大空襲Click!からも安井邸は焼けずに残っていた。したがって、東京ですごすときは常に下落合の近衛町にいたはずだ。
 また、美術評論家の徳大寺公英は安井曾太郎の死後、同年に出版された『安井曾太郎論集』(美術出版社)収録の、「安井曾太郎氏のレアリスム」で次のようにいう。
  
 氏のレアリスムは対象の把握において客観的、合理的ではなく、主観的、情緒的なのである。安井氏は氏自身のレアリスムを自ら説明して「自分はあるものを、あるが儘に現したい。迫真的なものを描きたい。本当の自然そのものをカンバスにはりつけたい。樹を描くとしたら、風が吹けば木の葉の音のする木を描きたい。自動車が通つている道をかくのだつたら、自動車の通る道をかきたい。人の住むことの出来る家、触れば冷い川、灌木の深さまでも表したい。云々」(一九三三年)と述べている。如何にもプリミティヴな言葉である。これによって分るように、氏はモデルニスムの画家の陥つているような観念の過剰を知らない。モデルニスムと日本画との折衷による表現形式自身プリミティヴであり、それは極めて常識的な、日本的な、氏自身の感情に基づく自然観照とその表現なのである。このようにして氏のユニークな絵画様式が打ちたてられたのであり、氏はこれを現代的なレアリスムといつているわけなのである。そして安井氏の絵画のあらゆる限界もここにあるといわなければならないのである。
  
 「モデルニスム」とは聞きなれないワードだが、スペイン語の「Modernismo」(仏語のアールヌーボーと訳される場合が多い)、あるいは英語の「modernism」と同義で用いていると思われ、ここでは「モダンアート」か「近代主義絵画」とでもいうような意味だろう。
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 わたしは、安井曾太郎アトリエを見たことがなく(のちには新築した邸に子孫が住まわれていた)、とうに地下鉄・丸の内線の土砂で埋め立てられ、その上に建つ大蔵省の官舎しか知らないので、『落合風景』の描画位置はこの一画だとピンポイントで規定するのは難しい。

◆写真上:新関八洲太郎が所有していた、安井曾太郎『落合風景』(制作年不詳)。
◆写真中上は、1922年(大正11)に中村彝アトリエのある林泉園つづきの谷戸を描いた清水多嘉示『下落合風景』(清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様による)。は、1931年(昭和6)2月2日に安井曾太郎アトリエの隣家である酒井邸から、庭の家族がいるテラス越しに深い林泉園谷戸を撮影した写真(AI着色)。は、1944年(昭和19)に下落合のアトリエで『安倍能成氏像』を描く安井曾太郎。
◆写真中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる安井アトリエと想定描画ポイント。は、第1次山手空襲直前の1945年(昭和20)4月2日撮影の安井アトリエ。左手(西側)の赤土がむき出しの空き地は、相馬邸を解体し東邦生命が開発する新興住宅地。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる焼け残った安井アトリエ。
◆写真下:1935年(昭和10)撮影の山口文象設計による安井曾太郎アトリエ(2葉AI着色)。

杉邨ていと久生十蘭の佐伯アトリエ。

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 1枚の興味深い写真(AIエンジンにより着色)が残されている。1934年(昭和9)6月に、三岸好太郎・節子夫妻Click!の野方町上鷺宮407番地Click!にあった旧アトリエClick!で撮影されたものだ。左には、1ヶ月後に急死する三岸好太郎Click!が、右端には当時、山本發次郎Click!が集めた佐伯祐三Click!作品の画集を出版しようと企画中だった編集者の國田弥之輔がいる。そして、中央にいる女性がハーピストの杉邨ていClick!だ。
 おそらく、杉邨ていが國田弥之輔と連れだって三岸アトリエを訪問しているのは、翌々年の1937年(昭和12)に座右寶刊行会から出版される『山本發次郎氏蒐集 佐伯祐三画集』(限定500部)の取材なのかもしれない。1930年協会Click!から独立美術協会Click!への流れで、國田は会員だった三岸好太郎Click!に訊きたいことでもあったのだろうか。三岸アトリエを紹介したのは、三岸節子Click!と知り合いで、当時は芝区新橋1丁目21番地に住んでいた佐伯米子Click!だとみられる。ちなみに画集の出版を引きうけた、座右寶刊行会の社長だった後藤真太郎の住所は下落合2丁目735番地、すなわち昭和初期に自邸の建て替えで一時的に住んでいた、村山知義・籌子アトリエClick!と同一番地だ。
 佐伯祐正・祐三兄弟Click!の姪である杉邨ていは1927年(昭和2)8月、2回めの渡仏である佐伯一家Click!とともに、シベリア鉄道に乗ってパリへと向かっている。すでにご存じかと思うが、1928年(昭和3)の夏に夫と娘をフランスで相次ぎ亡くした佐伯米子Click!は、下落合2丁目661番地のアトリエClick!にもどってきてはいない。帰国直後から前記の芝区新橋1丁目21番地、つまり土橋Click!にあった池田象牙店Click!の実家で暮らしている。夫と娘との想い出が詰まった、下落合のアトリエではすごしたくなかったのだろう。実家暮らしは、「美術年鑑」によれば1936年(昭和11)までつづき、翌1937年(昭和12)には下谷区谷中初音町1丁目20番地に転居している。そして、佐伯米子が下落合のアトリエへもどってくるのは、「美術年鑑」によれば翌1938年(昭和13)になってからのことだ。
 この間、下落合の佐伯アトリエには誰が住んでいたのだろうか? わたしは、杉邨ていが久生十蘭の母親・阿部鑑といっしょに帰国した1932年(昭和7)から、佐伯米子が下落合にもどる直前の1937年(昭和12)までの5年間のどこかで、彼女が借りて住んでいたのではないかと想定している。もちろん、この間に杉邨ていは演奏活動を含め、大阪と東京の間を頻繁に往復していたとみられるが、東京における拠点は下落合の佐伯アトリエではなかっただろうか。大きなハープを置くのに、アトリエの広めなスペースはもってこいだ。これには、もうひとつの重要な証言がある。
 帰国後、東京での住まいの記録がなく、昭和初期にはハッキリしない杉邨ていの暮らしだが、1937年(昭和12)になると牛込区矢来町の牛込荘にいたことが、石田博英の証言から明確になる。つまり、佐伯米子が下落合のアトリエへもどると決意した直後、彼女は矢来町へと転居している可能性が高いことだ。1970年(昭和45)に大光社から出版された石田博英『明後日への道標』には、1937年(昭和12)に杉邨ていと同じ牛込荘に住んでいた石田が、彼女の部屋で巨大なハープと出版されたばかりの國田弥之輔・編『山本發次郎氏蒐集 佐伯祐三画集』を見せられ、以来、芸術(特に美術)に魅せられたと書いている。すなわち、その少し前まで同画集を企画・出版するために、國田弥之輔は佐伯祐三の姪である杉邨ていを東京での足がかりに、佐伯米子の実家である池田家Click!や佐伯の関係者に取材、あるいは原稿を依頼してまわっていた可能性が高いのだ。冒頭の写真も、佐伯米子に紹介されたのか、そのような取材プロセスでの1枚ではないだろうか。
 そして、パリで杉邨ていと交際していたとみられる久生十蘭Click!が帰国するのは、1933年(昭和8)になってからであり、翌1934年(昭和9)にはさっそく新劇の拠点Click!だった早稲田大学Click!大隈記念講堂Click!で「ハムレット」を上演している。以降、久生十蘭は演劇の分野で活躍しているが、1935年(昭和10)前後から小説も発表するようになっていく。それら小説の中には、地域としての「落合」や楽器の「ハープ」、「絵描き」、「アトリエ」などのキーワードをよく見かけるのが、以前から非常に気になっていた。
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 たとえば、1939年(昭和14)に発表された『昆虫図』には、アトリエで暮らす貧乏絵描きたちが登場している。隣り同士のアトリエに住む、一方の絵描きの妻殺しが同作のテーマだが、画家のアトリエが建ち並んでいた落合地域の風情を感じるのはわたしだけではないだろう。戦後の1947年(昭和22)に発表された『予言』では、「落合」と「ハープ奏者」双方のキーワードが登場している。登場人物の「石黒」は、「落合にある病院」をうまく経営しており、絵描きの「安部」はステージ上で「娘がいいようすでハープを奏いている」会場へいき、ピストルで自分の胸を撃って死にかけるが、フランスへは「船はいやだから、シベリアで行く」などと、杉邨ていや佐伯一家のような旅程を病室で語っている。
 そして、1946年(昭和21)に発表された久生十蘭『ハムレット』では、下落合の情景がより詳細に記されている。もっとも、『ハムレット』の原型となった『刺客』(1938年)の舞台は、南伊豆にある「波勝岬」(ママ:波勝崎)にある城のような大邸宅であり、下落合の情景はどこにも登場しない。では、筑摩書房版の『ハムレット』より、少し引用してみよう。
  ▼
 小松の父は外交官として長らく英国におり、落合の邸は日本でただ一つの純粋なアングロ・ロマネスクの建築で、その書庫は大英図書館と綽名されたほど有名なものでしたので、こういうディレッタンティズムを満足させるにはまず十分以上だったのです。(中略) 翌朝早く家を出てバスで落合まで行き、聖母病院の前の通りを入って行くと、突当りに小松の邸が見えだしました。数えてみますとあれからちょうど二十八年たっているわけでしたが、家の正面がすこし汚れ、車寄せのそばに防空壕が掘ってあるほかなにもかもむかしどおりになっていました。
  
 落合地域にお住まいの方ならすぐにピンとくるが、「聖母病院の前の通り」を(西へ)入っていくと突き当りは第三文化村Click!になる。そこに豪壮な「アングロ・ロマネスク」の意匠をした「小松の邸」が建っていたことになっているが、戦前、そのような建築が第三文化村にあった事実はない。強いていえば、「聖母病院の前の通り」から南北に通う「八島さんの前通り」Click!(星野通りClick!)へとでる手前の左手角地には、落合地域では二度にわたる山手大空襲Click!からも焼け残ることになる、やはり第三文化村のエリア内にあたる石材を多用して堅牢な吉田博・ふじをアトリエClick!が建っていた。
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 同じ筑摩書房の、都築道夫『久生十蘭-「刺客」を通じての史論-』から引用しよう。
  
 改作<『ハムレット』>は東京の落合――聖母病院の前を入ったところ、というから、現在の新宿区中落合二丁目で、いわゆる目白文化村のとば口あたり。昭和二十年五月二十五日の大空襲(あのへんは四月十四日<ママ>にも被害をうけているけれど、作ちゅうの記述から推理すると、その日はとうに過ぎている)の夜が、クライマックスになっている。(< >内引用者註)
  
 「四月十四日」は、4月13日夜半の第1次山手空襲Click!が正確だが、『ハムレット』は5月25日夜半の第2次山手空襲Click!までが物語の終盤となっている。そして、下落合に昔からお住まいの方ならお気づきだろう。第三文化村へと向かう「聖母病院の前の通り」の途中、中島邸Click!(のち早崎邸=旧・鶏舎Click!)と辻邸の間の路地を入ると、40mほどで佐伯アトリエの門前にたどり着けたのは1938年(昭和13)以前のことだった。
 つまり、やたら聖母病院界隈の描写に詳しい土地勘のある久生十蘭が、聖母病院前のバス停(当時は関東乗合自動車Click!「国際聖母病院前」Click!)で降り、聖母坂Click!を少し上ったところを左折して「聖母病院の前の通り」を歩いたとすれば、眼のすみで左手の奥にある大きな吉田博・ふじをアトリエClick!を認めながら、手前で路地を(北へ)右折して佐伯アトリエの門前へと、すぐに立つことができたはずだ。だが、それは1938年(昭和13)以前の話で、それ以降は私道の路地は、旗竿地だった高田邸の門やアプローチとしてふさがれてしまい、佐伯アトリエへは南側(病院側)から入ることができなくなった。
 つまり、この私道だった路地がふさがれる前、それは久生十蘭がフランスから帰国し、杉邨ていが佐伯アトリエを東京の拠点として使っていたとみられる、1933年(昭和8)から1936年(昭和11)までの3年間、久生十蘭にしてみれば通いなれたバス路線であり道筋ではなかったろうか。このふたりが、いつまで付き合っていたのかは不明だが、杉邨ていは1944年(昭和19)に虫垂炎から腹膜炎を併発し31歳で早逝しているので、少なくとも交際は1942年(昭和17)に久生十蘭が結婚する以前までなのだろう。
 どなたか、1935年(昭和10)前後に佐伯アトリエからのハープの音色をご記憶の方、または親世代がそんなことをいっていたという伝承をご存じの方はおられないだろうか?
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 このような観点から『ハムレット』を読み直すと、どこか一部に杉邨ていへのトリビュートを含んでいるように感じてしまうのは、はたしてわたしだけだろうか。もちろん、久生十蘭は1946年(昭和21)に同作を執筆していた際、通いなれた「聖母病院の前の通り」の佐伯アトリエへと右折する路地が、とうにふさがれていたことなど知らなかっただろう。

◆写真上:1934年(昭和9)6月に撮影された、三岸アトリエの杉邨ていと國田弥之輔。
◆写真中上は、1927年(昭和2)8月の渡仏直前に大阪の光徳寺で撮影されたAI着色Click!による14歳の杉邨てい(右)と佐伯米子(左)。は、パリへ到着しアトリエを借りたばかりの佐伯一家と杉邨てい。は、1937年(昭和12)に國田弥之輔の編集で刊行された『山本發次郎氏蒐集 佐伯祐三画集』(座右寶刊行会)の奥付。
◆写真中下は、1966年(昭和41)に雑誌「新評」10月号に再録された久生十蘭『ハムレット』とその挿画。は、久生十蘭()と杉邨てい()。
◆写真下は、1925年(大正14)作成の「出前地図」にみる青柳ヶ原(のち聖母病院)へと抜けられる養鶏場の路地。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる中島邸と辻邸にはさまれた路地。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる旗竿敷地の高田邸の門からアプローチへとふさがれた早崎邸(旧・中島邸)東側の路地。
おまけ
 1945年(昭和20)5月17日にF13Click!から撮影の佐伯アトリエと周辺。アトリエから北側と西側の第三文化村の大半は延焼していそうだが、吉田アトリエから南は焼けていない。
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福沢諭吉の幽霊は乃木希典に猛抗議したか。

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 以前、華族女学校Click!(のち学習院女子部Click!女子学習院Click!)の卒業生で、女優になった山川浦路Click!をご紹介していた。報知新聞の記者だった磯村春子が、同紙に連載していた「今の女」のインタビューに答えたものだが、帝劇で上演されるシェークスピア劇に出演していた彼女を、院長の乃木希典Click!は「河原乞食」と蔑んだ。
 院長の言葉を聞いた、山川浦路の同窓生だったお姫様(ひいさま)たちは、彼女を同窓会以外の集まりから締めだし、学校関連の催しすべてに出入禁止を通達する嫌がらせを行っている。また、同窓会へ出席する場合には、髪型(日本髪)やコスチューム(和装)にまで細かな注文をつけるという、いわば卒業生たちからの絶縁状を受けとった。ちなみに、山川浦路は新劇の女優なのでふだんから洋装であり、髪はうしろで束ねて巻きあげるかポニーテールのように背中へたらした、いわば今日的な装いだった。
 当時、日本における新しい演劇創造の先端を走っていた早大の大隈重信Click!が、乃木希典が口にした「河原乞食」というワードを聞いたら「きさま、なんばいうか!」と、学習院へ怒鳴りこんだかもしれないと書いたが、今回は同じく乃木希典のいる目白の院長館へ、大隈重信よりは一見穏やかそうだが軽蔑の眼差しを向けながら、「あんた、何ゆうてるんや!」とさっそくクレームを入れにいきそうな事件が起きている。今回のクレーマーになりそうなのは、残念ながら1901年(明治34)にすでに他界していた、時事新報社の社主で慶應義塾の塾長・福沢諭吉Click!(の幽霊)だ。
 1907年(明治40)に、時事新報社はシカゴ・トリビューン社からの呼びかけに応じて、同社が企画していた「世界美人写真競争」へ参加することになった。今日の「ミス・ワールド」や「ミス・ユニバース」のひな型のような催しだが、当時は本人が出席して舞台に立つことはなく、また水着審査などももちろんなく、未婚や既婚を問わない写真応募のみによる審査だった。しかも、条件としては“美”を職業にしているプロの芸者や女優、モデルなどは応募できず、あくまでも素人でアマチュアの一般女性が対象だった。そして、写真館で撮影されるような鮮明な画像が応募条件だった。
 今日のように、なぜ女だけに「美人コンテスト」があって男にはないの?……というような、フェミニズム的な問題意識の視座は存在せず、他の国々ではむしろ「世界美人写真競争」で有名になり、より有利な職業やポジション、あるいは結婚を実現できる可能性を考え、女性たちが積極的に応募するような時代のイベントだった。当時の新聞を参照すると、応募者は地元の米国を中心にヨーロッパ各国にまでまたがっている。
 日本で写真審査を担当したのは、岡田三郎助Click!(洋画家)をはじめ嶋崎柳塢(日本画家)、高村光雲Click!(彫刻家)、新海武太郎(彫刻家)、三宅秀(医師)、三島通良(医師)、坪井正五郎Click!(人類学者)、中村芝翫Click!(歌舞伎役者)、河合武雄Click!(新派役者)、大築千里(写真家)、前川謙三(写真技師)、高橋義雄Click!(美術鑑定家)、前田不二三(容貌研究家)の男ばかり13名だった。美術関係者が審査員になるのはなんとなくわかるが、考古学者で人類学者の坪井正五郎とか、動きや所作を見るわけでもないのに歌舞伎役者や新派の俳優たち、頭蓋骨の形質でも観察するのか医療関係者たち、はては写真家や写真技師にいたっては「世界美人写真競争」とどのような関係があるのか不明だ。ひょっとすると、写真の修正や加工の小細工を警戒したのかもしれないが。
 応募条件の写真館撮影や、審査員に写真家あるいは写真技師が混じっていたことで、すでに混乱の原因はこのときからはじまっていたといえるだろう。お気づきの方もいると思うが、この「世界美人写真競争」に応募してみようと思ったのは、当の女性本人ばかりでなく、写真館の主人が自分の撮影した作品で応募できると勘ちがいしてしまったのだ。したがって、本人はまったく知らず、当人の応募意志とは関わりのないところで、「美人」たちの写真が時事新報社へ集まることになってしまった。
 時事新報社に集合した、審査員たちによる「美人」審査は1年がかりで進み、1908年(明治41)3月5日の時事新報には、1等の応募写真入りで審査結果が発表された。
  
 時事新報社の募集美人写真/一等は末弘ヒロ子/美人写真第二次審査の結果
 去月二十九日の第二次即ち最終審査において、全国第三等まで当選したる美人写真は左の三名にして、愈々そのまゝ確定したるにつき、こゝに写真募集に参同せられたる全国各新聞社の尽力を謝すると同時に、諸者諸子に披露することゝせり/小倉市室町四十二 直方 四女 一等 末弘ヒロ子(十六)/仙台市東四番町 皈逸 娘 二等 金田ケン子(十九)/宇都宮市上河原町五九 三等 土屋ノブ子(十九)/次に次点者中得点最も多かりし者を挙げれば左の如し/四 三重県飯坂町 尾鹿貞子(廿二)/五 東京市麹町区三番町 武内操子(十七)/六 茨城県水戸市 森田ヨシ子(廿二)/七 東京市日本橋区中洲 鵜野ツユ子(十九)
  
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 1等の末弘ヒロ子自身はもちろん、当時は小倉市長だった父親の末弘直方は驚愕することになる。華族女学校の4年生だった末弘ヒロ子は、あと少しで同校を卒業できる予定だし、市長と同郷で親しかった侯爵・野津家の長男・野津鎮之助との婚約もまとまったばかりだった。乃木希典は、末弘ヒロ子をすかさず退学処分にしている。
 末弘市長は、婚約者の父親で陸軍元帥の野津道貫への釈明と、なぜ娘の写真が時事新報社に送られたのかを調査するために東京へやってきた。事情はすぐに判明する。東京で撮影した末弘ヒロ子のポートレートを、写真館が末弘家には無断で「世界美人写真競争」に応募してしまったのだ。また、旧知の野津家では特に問題にはされておらず(むしろ婚約者も父親もともに喜んでいたようだ)、どうしたら乃木希典の退学処分を撤回させられるかを検討し、立憲政友会の代議士・古賀庸蔵に相談している。古賀は、日露戦争では第二軍司令官として乃木と親しい、陸軍元帥・奥保鞏に仲立ちを依頼することにした。
 こうして、末弘小倉市長と野津元帥、奥元帥に古賀代議士の4人は、乃木希典Click!がいる目白の院長館で直談判を行うが、乃木は「(華族女学校は)美人をつくる学校じゃない」と、本人にまったく責任がないにも関わらず退学処分の撤回をかたくなに拒否した。そのときの様子を、1963年(昭和38)に小倉市が出版した『小倉六十三年小史』から引用しよう。
  
 乃木院長にすれば、二人の息子を日露戦役に喪い身辺とみに寂寥を覚える時、学習院で華族の青少年と起居を共にするのは唯一の慰めであった。然し同じ学習院でも女子部の方は院長としてあまり強い関心を持っていなかった。質実剛健を旨とする武士道を叩きこむには華族少女は不向きな相手である。それにその前年、女子学部長下田歌子の辞職問題があり、皇族、華族間に生まれた選民意識や、女性間の複雑微妙な葛藤や、嫉妬による権謀術策等には弱りきっていたときだから、末弘ヒロ子の美人入選はひどく乃木院長の気に障ったのも無理はなかった。その日、末弘と古賀が野津について彼の邸宅に行くと/「今日は全く悪い日だった、乃木にはヒロ子さんのことよりも、まだ気になることが多すぎるのだ。(以下略)」
  
 下田歌子は、軍人の乃木希典とは女性の自立や自活をめぐって教育方針がまったく噛みあわず、徹底的に対立して当局に辞表をたたきつけた人物だ。
 このあと、末弘小倉市長は娘のヒロ子をともなって小倉へと帰っている。これに黙っていなかったのが、時事新報社をはじめ新聞各紙だった。本人のあずかり知らぬところで応募がなされたうえに、「学習院だからといつて日本一の美人に入選した故を以て退学を命じるとは、まつたくの没義道である」とし、乃木希典を激しく批判している。
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 さて、小倉に帰ったふたりは、今度は末弘ヒロ子をひと目でも見ようとする群集に市長官舎を取り囲まれている。また、彼女あてに同性からの激励の手紙が全国からとどいたが、末弘市長によりすべて開封せずに焼却された。彼女が病気だった兄の見舞いに、馬借の小倉市立病院まで外出しようとすると、市長官舎から病院までの沿道に見物人が並んだというから、すさまじい評判ぶりだったようだ。特に京町から常盤橋の広場は、大勢の市民たちで埋めつくされたと『小倉六十三年小史』は伝えている。そして、実際に彼女を見た感想は、「かなり背が低く、少女のようだった」としている。
 翌1909年(明治42)の1月、時事新報社にシカゴ・トリビューン社から連絡が入り、「世界美人写真競争」の審査結果がもたらされた。その知らせによれば、末弘ヒロ子は第6位に入選したとのことだった。以下、コンテストの入選順位は第1位はいわずもがなの米国でマクエライト・フレー嬢、第2位はカナダのバイオレット・フッド嬢、第3位はスウェーデンのゼーン・ランドストーム嬢、第4位はイングランドのアイビー・リリアン・クローズ嬢、第5位はスペインのセーリタ・ドナハース嬢、第6位が日本の末弘ヒロ子嬢、第7位がノルウェーのケート・ホーウィント嬢、第8位がスコットランドのネッケー・チャドック嬢、第9位がアイルランドのダビン・ホワー夫人(既婚)という結果だった。
 その後、末弘ヒロ子と野津鎮之助とは結婚するが、おかしなことにその媒酌人をつとめたのが乃木希典・静子夫妻だった。当時は、学習院内のゴタゴタで気が立ち、いつになく感情的になっていたのが、さすがに自身でも事情をよく斟酌せず退学処分にし、あとから時事新報社のいうとおり「没義道」だとかなり気がとがめていたものか、当時の報道や周囲からの批判で遅まきながら収拾を図りたかったのか、それとも福沢諭吉(の幽霊)が連夜抗議に枕辺を訪れたのかはさだかでないが、乃木希典Click!が仲人の仕事を引き受けるのはめずらしいことだった。のちに、「乃木希典の大岡裁き」などといわれるが、地元・小倉における末弘家の動向や、東京の古賀代議士あるいは野津家などの証言からすると、「大岡裁き」は後世につくられたまったくのフェイク美談だろう。
 大磯の高田保Click!は、『第3ブラリひょうたん』(1951年)にこんなことを書いている。
  
 ミス日本に当選した末弘嬢は、その後間もなく、日露役の司令官将軍だつた野津大将の息子さんの夫人に迎えられたように記憶しているが、今でも健在でいられるかどうか。最近選ばれたミス日本と二人会わせてみたら、この間約半世紀の時代の距たりなどはつきりして面白いだろうとおもうが、どこの雑誌社でもまだやつていない。
  
 ちなみに、1950年度(昭和25年度)の「ミス日本」は山本富士子だった。高田保もまったく勘ちがいをしているが、シカゴ・トリビューンと時事新報が実施した「世界美人写真競争」は、未婚・既婚を問わない世界各国の女性写真による審査で、第9位にアイルランドの代表で既婚者(ホワー夫人)の女性がいるように、未婚者の「ミス」には限定していない。また、末弘ヒロ子は華族女学校在学中から、父親と同郷で親しかった野津家の野津鎮之助と婚約していたのであり、ことさら「ミス日本」に選ばれたから結婚したのでもない。
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 戦後、末弘ヒロ子に会った人物がいる。JAZZの山下洋輔Click!(pf)で、彼はヒロ子の姉の末弘直子と結婚した建築家・山下啓次郎の孫にあたる。山下の小説『ドバラダ門』では、腰が曲がりリューマチに罹患していた彼女のことを、ひそかに「カイブツ」と呼んでいた。

◆写真上:学習院大学内に保存されている、乃木希典が起居していた「乃木館」。
◆写真中上は、1905年(明治38)撮影の華族女学校卒業アルバムで軍服姿が乃木希典。は、時事新報社にとどいた末弘ヒロ子のポートレート。は、「世界美人写真競争」の審査結果を伝える1908年(明治41)3月5日刊の時事新報。
◆写真中下は、同コンテストに応募してきた女性4人の肖像。氏名は不詳だが、中には既婚者も含まれていたとみられる。下左は、当時は小倉市長だった末弘直方。下右は、のちになぜか結婚の仲人を引き受ける院長時代の乃木希典。
◆写真下上左は、1963年(昭和38)に出版された『小倉六十三年小史』(小倉市)。上右は、新聞各紙のセンセーショナルな記事を集めて1968年(昭和43)に出版された高田秀二『物語特ダネ百年史』(実業之日本社)。中左は、1951年(昭和26)に出版された高田保『第3ブラリひょうたん』(創元社)。中右は、1990年(平成2)に出版された山下洋輔『ドバラダ門』(朝日新聞社版)。は、1950年度の初代「ミス日本」に選ばれた山本富士子。