金山稲荷(鐵液稲荷)と刀工・孫左衛門のゆくえ。

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 以前、日本女子大学の寮内敷地にあった金山稲荷社(別名:鐵液稲荷社)の遷座先ではないかとご紹介した、バッケ(崖地)の斜面に建つ稲荷社だが、その拝殿・本殿の形状がまったく異なっているのが判明した。1980年代末に撮られた、遷座前の金山稲荷社をとらえた写真が見つかったためで、おそらく雑司ヶ谷に住む宇佐美俊弘という方が撮影したものだ。雑司ヶ谷1丁目34番地にある稲荷社(こちらもバッケの地形がらみて鋳成社?)は、金山稲荷の遷座先ではない。
 写真が掲載されていたのは、1988年(昭和63)に雑司ヶ谷の地元町会である「雑司が谷二丁目町会」の役員をしていた、宇佐美俊弘が自費で出版したとみられる『ふるさと雑二町会』(非売品)という本だ。そこには、遷座前に撮影された写真とともに、金山稲荷社に関する住民の思い出が寄せられている。同書収録の橋本儀重(1901年生まれ)の『私と川』から、その一部を引用してみよう。
  
 柳下の友ちゃんが「遊びにこいやー」、「いくよー」と言って竹の垣根を越すつもりでいたんだが、つるっと足が滑ってお尻に竹の切株を刺してしまいました。そしたら柳下のおやじさんがお経を唱えながら、御符の灰みたいな粉をくっつけて拝んで治してしまった。医者にもかからず、よく治ったものです。/金山稲荷の下はみんな栗の木山で、あの栗の木は俺のだ、あの栗の木は僕のだ、と持ち分にしていました。川の方は篠竹の原っぱでした。
  
 「川」と書かれているのは日本女子大寮の南側、金山稲荷の下を流れていた弦巻川(別名:金川)のことだ。旧・神田上水(1966年より神田川)の南側からは、大久保に湧水源があった金川(近世の別名:カニ川)が流れ、北側からも金川(弦巻川)が注いでいた経緯を考えれば、あちこちにスラグ(金糞・鐵液:かなくそ)が出土する、タタラ製鉄遺跡が点在するのもなんら不思議ではない。また、金山稲荷自体も江戸期の記録から鐵液稲荷社と呼ばれていた。
 以前から、これほど探しても見つからないところをみると、金山稲荷はどこかへ合祀されてしまったものだろうか。金山稲荷社が建立されていた旧跡の近辺には、白鳥稲荷大明神や武芳稲荷大明神腰掛稲荷社、弦巻稲荷社などが展開しているが、それぞれ由緒や歴史のある稲荷社なので、別の社(やしろ)へ安易に合祀されたとは考えにくい。
 つづけて、『ふるさと雑二町会』掲載の写真に貼付された、キャプションから引用してみよう。
  
 日本女子大学寮東側沿いの坂道を下る途中、右手の参道を入ると鳥居が見えてくる。民家がそばまで迫っているにもかかわらず、境内は静寂が支配する別世界。
  
 金山稲荷社がどこかへ遷座してから、この参道は縞模様の工事用バリケードによる立入禁止で塞がれており、現在は金山稲荷の跡地へ入ることができない。ちょうど、大学寮の大谷石が途切れる東側の坂の途中で、西側の斜面へと入る細い参道は草に覆われている。
 空中写真で現状を確認すると、コンクリート塀に沿って新たに建てられたとみられる温室や、青いビニールシートで覆われたところが、金山稲荷社の拝殿・本殿があった境内なのだろう。そのビニールシートが強風で飛ばされないよう、シートの四隅や上部に石材あるいはコンクリートブロックが載せられているが、ひょっとすると遷座で不要になった金山稲荷の廃材なのかもしれない。
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 つづけて、金山稲荷(鐵液稲荷)社の写真に添えられたキャプションから引用してみよう。
  
 橋本さんの子供の頃の遊び場、金山稲荷。元亀年間(1570~73)、この地に住む刀鍛冶・石堂孫左衛門が刀剣製作の妙を祈願して祀ったのが始まり。質素な本殿に比べて、鳥居は石造りの堂々たるものだ。
  
 ここで留意しなければならないのは、備前伝の刀鍛冶・石堂派が近江の故地(石堂)を離れ、江戸へとやってきて江戸石堂を形成したのは徳川幕府が開かれてからであり、室町末期の元亀年間ではない点だ。また、金山稲荷(鐵液稲荷)は室町末期の建立ではなく、神奈(鉄穴)流しに適する丘の急斜面にあることから、さらに古い時代の鋳成社の可能性が高い。なぜなら、地面から大量にスラグ(鐵液・金糞)が出土するのは、刀鍛冶の仕事ではなく鉧(けら)を製錬したあとに出る鉄滓(てっさい)、すなわちタタラ集団による溶炉跡=製鉄遺跡の可能性が高いからだ。目白崖線沿いには、いくつかのタタラ遺跡があることからもそれはうかがえる。鋳成神が、農業神である稲荷神へと習合し、改めて建立されたのが室町末期の元亀年間ではなかったか。いくつかの故事がまじりあい、雑司ヶ谷の地元で伝承されてきたように思われるのだ。
 そして、ここでも「石堂孫左衛門」が登場してくる。この石堂孫左衛門については、これまで何度も記事を書きつづけてきており、その系統は江戸石堂派の本拠地である赤坂を離れた、3代目以降が確認できない(作品が見つからない)、石堂守久(秦東連/東蓮)の流れではないかと想定していた。江戸石堂からの分派の系統は、かなり工房の所在が判明しているが、石堂守久一派の所在が曖昧でハッキリしない。したがって消去法から、分派の初代・守久(八左衛門)が寛文年間に雑司ヶ谷に工房をかまえ、元禄年間に2代目・守久が跡を継ぎ、その後、3代目の守久になるはずだった“孫左衛門”の時代に、刀剣の販路がふるわず赤坂の江戸石堂に吸収されたか、野鍛冶(農工の道具鍛冶)へ転向しているのではないかと想像していた。
 ところが、ここにもうひとり、孫左衛門を名のる刀工の存在が判明した。時代はかなり下って、江戸後期の文化・文政年間に登場し、そのまま「孫左衛門」と刀の茎(なかご)に銘を切る刀鍛冶だ。孫左衛門は刀工銘ではなく本名であり、姓は渡邊と名のっている。渡邊孫左衛門は、備前岡山藩の藩士であり、江戸へ出府して勤務するが、館林秋元藩の日本橋浜町の中屋敷に工房をかまえていた新々刀の刀匠・水心子正秀へ弟子入りしている。
 おそらく、国許の伝統的な鍛刀技術である備前伝の鍛錬法を習いに通ったのだろうが、備前伝の腕前は同じ水心子正秀の弟子だった大慶直胤(荘司箕兵衛)や、その娘婿の荘司次郎太郎直勝のほうが、師よりも断然うまかっただろう。特に大慶直胤と次郎太郎直勝は、相州伝や山城伝など日本各地の伝法に通じており、師の水心子正秀を凌駕する腕前だった。
 ここでちょっと余談だけれど、江戸で渡邊孫左衛門といえば駿河台に屋敷をかまえていた、若年寄支配の泣く子も黙る加役=火盗(火付盗賊改方)の役人が有名だが、まったく同姓同名の別人だ。
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水心子正秀「刀剣実用論」文化8.jpg 水心子正秀「刀剣実用論」孫左衛門.jpg
 備前の渡邊孫左衛門は、岡山藩の資料にも記録されており8俵2人扶持、すなわち薄給取りでかなり身分の低い下級武士だったことがわかる。岡山藩の記録によれば、鉄砲隊の隊員(足軽)だったらしい。それが何を思ったのか、江戸へ出府した際に刀鍛冶になろうと決心したらしい。水心子正秀の資料では、孫左衛門=「備前藩士/渡邊孫左衛門/文化の頃」と書かれているのみで、修業を終えたあとに孫左衛門がどうしたかまでは書かれていない。もっとも、水心子正秀の弟子は全国でゆうに100人を超えていたので、いちいち詳細を記録できなかったのだろう。
 だが、水心子正秀の口述を筆記した著作『刀剣実用論』には、たった1ヶ所だが渡邊孫左衛門の名前が登場している。1811年(文化8)に出版された、『刀剣実用論』より引用してみよう。
  
 一、ためしにて折れ候事も度々有之事にて先頃備州候の御家士渡邊孫左衛門と申人の咄に、関打と見え候刀にて腰車を切候処 一体刀には疵も無之候ひしが鎺元より折れ候由
  
 この一文は、渡邊孫左衛門が弟子入りする前、水心子正秀が彼の話を聞いて周囲に語ったエピソードなのだろう。「ためし」とは、小塚原(こづかっぱら)で罪人を処刑したあと、その身体を使って試し斬りをすることで、死体の腰車(腰骨の位置)を斬ったところ、鎺(はばき)元すなわち鍔(つば)のすぐ上あたりから刀がポッキリ折れてしまったという逸話だ。試し斬りに使われたのは「関打(せきうち)」つまり美濃伝で、刀剣を鍛造したのは関鍛冶(岐阜)の仕事だった。
 このあと、渡邊孫左衛門は水心子門に弟子入りし、備前伝をマスターしたのだろうが、その後、薄給の備前藩士を辞めて江戸に居住しなかっただろうか。当時、武家は家督を兄弟や親戚の誰か(男子)に譲れば、すぐにも隠居あるいは武家以外の身分になることができた。そういえば、江戸後期の絵師や物書き、俳諧・狂歌師たちは、その多くが武家の出自だったことに気づく。武士を辞めて町人になることで、自分の好きな職業を選ぶことができた。こちらでも、由緒ある旗本の家督を弟にゆずって、花柳界で幇間になった松廼家露八の生涯をご紹介していた。
 徳川幕府は、基本的に触書政治であり凶悪な犯罪はともかく、軽犯罪や細かな生活風俗まで取り締まる今日の警察のような大規模な組織をもたなかったため、町役や村役を中心とする街ごとの自治に一任していた。したがって、武家を辞めて町人になっても、髷もそのまま苗字を名のり、2尺(幕府の規定で、町人は刃長2尺未満の刀剣しか指して出歩けない建前だった)を超える大刀を指す町人さえめずらしくなかった。渡辺孫左衛門もまた、貧乏な武家に嫌気がさし、全国に名の通った憧れの水心子正秀の門人にもなれて、雑司ヶ谷に住み備前伝の刀鍛冶になりはしなかったろうか。
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 江戸石堂は江戸後期に入ると、関東ではあまり人気のない匂(にお)い本位に、華々しい派手な丁子刃(ちょうじば)の刃文を焼く、ちょっと公家趣味的な備前伝をやめ、鎌倉鍛冶の五郎入道正宗を頂点とする錵(にえ)本位の豪壮な相州伝を改めて修得しなおしている。そして、「相伝備前」という新技法を編みだし、7代目・石堂運寿是一は徳川家の御用鍛冶にまでなった。孫左衛門は、江戸や関東のマーケットニーズがよく見えず、そのまま備前伝を焼きつづけて工房を維持できずに廃業したのではないだろうか。彼が雑司ヶ谷にいたとすれば、自身の技術である備前伝にちなみ、また師の水心子正秀が5代目・石堂是一から備前伝を修得した関係から、自身は“孫弟子”にあたる師弟筋となるので、あえて「石堂」孫左衛門と周囲へ名のっていた……そんな情景を想像してしまうのだ。

◆写真上:1980年代末ごろに撮影された、雑司ヶ谷の金山稲荷(鐵液稲荷)社。
◆写真中上は、金山稲荷の遷座先かもしれないと訪れた雑司ヶ谷1丁目34番地の稲荷社だが、拝殿本殿の形状がまったく異なるのが分かる。は、1980年代末ごろに撮影された金山稲荷社と参道。は、同社の参道があったとみられる跡の現状。
◆写真中下は、Googleマップ3Dによる金山稲荷跡の現状で、社の跡にはビニールシートが敷かれているようだ。は、水心子正秀資料にみる刀銘「孫左衛門」。は、1811年(文化8)出版の水心子正秀『刀剣実用論』()と、同書に登場する渡邊孫左衛門の記述()。
◆写真下は、水心子正秀が鍛えた備前伝による互(ぐ)の目丁子の刃文。は、茎(なかご)に切られた「水心子白熊入道正秀」銘。は、江戸石堂派が焼いた匂い出来の派手な丁子刃の典型例。