
江戸東京の総鎮守である神田明神の境内には、江戸社(江戸神社)と呼ばれる社(やしろ)がたたずんでいる。702年(大宝2)の建立なので、今年で創立1323年となり神田明神よりも古い社ということになる。もともと、エト゜(et=江戸)岬のつけ根、平川(現・神田川の祖流)の河口域である柴崎村にあった社のようだが、現在の主柱は出雲神のタケミナカタだ。だが、わたしはこの古い社に鎮座していた地主神は、産鉄神のアラハバキではないかと疑っている。
アラハバキ神は、おもに東日本に広く展開する由来の知れないほど古い祭神で、近世に入ると脛巾・脛衣(はばき)などと結びつけられ、足の病気を治癒する神になったり、女性の多産・安産の神に転化しているようだ。だが、アラハバキのご神体が残されている社を調査すると、片目・片足を傷つけられている神像が多いという。(近江雅和『隠された古代』1985年など) アラハバキ神は、明らかに片目と片足が不自由な神として認識されていたのがわかる。
アラハバキ神は、1980年代ごろから今日では偽書と判明している『東日流外三郡誌』の記述と結びつけられ、縄文時代に由来する豊穣の象徴といわれる女性の縄文土偶と結びつけられたり、また「アラハバキ」はアイヌ語で「女性器」を意味するとされて、出産や子育ての神として位置づけられることが多い。だが、前者は偽書で丸ごと虚偽の内容であり、誰が意味づけしたのかは不明だが、後者のアイヌ語にいたってはどのような経緯で解釈されたのかが不明だ。
わたしは、アラハバキ=女性器というアイヌ民族の語彙は聞いたことがないし、道南および道東のアイヌ語辞典にも、そのような用語は掲載されていない。ふつう、陰部といえば「i-oma-uske(イヨマウシュケ)」が一般的だし、特に女性器の場合は「enkip/enkipi(エンキプ/エンキピ)」、あるいは「i-oma-i(イオマイ)」が広く用いられていたのではないか。
アラハバキ神について、わたしはもっと新しい時代の、少なくとも弥生時代以降に誕生している神ではないかと想像している。すなわち、武器や生産用具(農工具)に鉄器が用いられはじめ、砂鉄や餅鉄をタタラで精錬して目白(鋼)を精製する必要性が生じた際、質のいい目白(鋼)が鉧(けら)から少しでも多く採取できるようにと祈願した、大鍛冶(タタラ製鉄集団)の産鉄神ではないかと考えている。そして、もう少し時代を限定するならば、吹きあげの自然風を利用した半地下式溶炉ではなく、また手動で鞴(ふいご)からから風を送る小型溶炉でもなく、足踏みの鞴で大型長方形箱形の溶炉へと送風する、古墳時代の前期以降に誕生した産鉄神ではないか。
江戸期の記録にも見えているが、大鍛冶(タタラ製鉄業者)は溶炉にうがたれた小さな穴から、素材(砂鉄や餅鉄)の溶解具合を利き目で観察しつづけ、またかわり番子に足踏み鞴を利き足で踏みつづけるため、40歳を前に片目が失明し、また片足(鞴板を踏みつづけた利き足)が萎えて、文字どおりタタラを踏んで歩く職人が多かったという。すなわち、なぜアラハバキ神の神像に片目・片足を傷つけられた像が多いのか、その理由がストレートに腑に落ちる特徴だろう。
アラハバキ神は、おもに東日本に広く展開する由来の知れないほど古い祭神で、近世に入ると脛巾・脛衣(はばき)などと結びつけられ、足の病気を治癒する神になったり、女性の多産・安産の神に転化しているようだ。だが、アラハバキのご神体が残されている社を調査すると、片目・片足を傷つけられている神像が多いという。(近江雅和『隠された古代』1985年など) アラハバキ神は、明らかに片目と片足が不自由な神として認識されていたのがわかる。
アラハバキ神は、1980年代ごろから今日では偽書と判明している『東日流外三郡誌』の記述と結びつけられ、縄文時代に由来する豊穣の象徴といわれる女性の縄文土偶と結びつけられたり、また「アラハバキ」はアイヌ語で「女性器」を意味するとされて、出産や子育ての神として位置づけられることが多い。だが、前者は偽書で丸ごと虚偽の内容であり、誰が意味づけしたのかは不明だが、後者のアイヌ語にいたってはどのような経緯で解釈されたのかが不明だ。
わたしは、アラハバキ=女性器というアイヌ民族の語彙は聞いたことがないし、道南および道東のアイヌ語辞典にも、そのような用語は掲載されていない。ふつう、陰部といえば「i-oma-uske(イヨマウシュケ)」が一般的だし、特に女性器の場合は「enkip/enkipi(エンキプ/エンキピ)」、あるいは「i-oma-i(イオマイ)」が広く用いられていたのではないか。
アラハバキ神について、わたしはもっと新しい時代の、少なくとも弥生時代以降に誕生している神ではないかと想像している。すなわち、武器や生産用具(農工具)に鉄器が用いられはじめ、砂鉄や餅鉄をタタラで精錬して目白(鋼)を精製する必要性が生じた際、質のいい目白(鋼)が鉧(けら)から少しでも多く採取できるようにと祈願した、大鍛冶(タタラ製鉄集団)の産鉄神ではないかと考えている。そして、もう少し時代を限定するならば、吹きあげの自然風を利用した半地下式溶炉ではなく、また手動で鞴(ふいご)からから風を送る小型溶炉でもなく、足踏みの鞴で大型長方形箱形の溶炉へと送風する、古墳時代の前期以降に誕生した産鉄神ではないか。
江戸期の記録にも見えているが、大鍛冶(タタラ製鉄業者)は溶炉にうがたれた小さな穴から、素材(砂鉄や餅鉄)の溶解具合を利き目で観察しつづけ、またかわり番子に足踏み鞴を利き足で踏みつづけるため、40歳を前に片目が失明し、また片足(鞴板を踏みつづけた利き足)が萎えて、文字どおりタタラを踏んで歩く職人が多かったという。すなわち、なぜアラハバキ神の神像に片目・片足を傷つけられた像が多いのか、その理由がストレートに腑に落ちる特徴だろう。


1986年(昭和61)に女性民俗学研究会が編纂した『女性と経験』より、須賀良子の文章を引用してみよう。大宮にある氷川社の地主神はアラハバキ神だが、同神がヤマトに「夷神」とされたため、やむをえず出雲神(クシナダヒメ・スサノオ・オオクニヌシ・タケミナカタなど)を主柱とし、アラハバキ神は「門客神」あるいは属社のひとつとされてしまった経緯に触れたあとの文章だ。
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アラハバキを信仰する出雲族は、即<すなわち>、製鉄民であり、産鉄民特有の片目の伝承と結びつき門客人から門脚神に変化しても、しばしば神像は片目にされたということである。武蔵においても、産鉄民にかかわりのある片目、片足、巨人伝説は広範囲にわたっているそうである。/過日、古代東国の王者の墳墓として、琵琶湖より東では最大の、五世紀半ばに位置する、群馬太田天神山古墳(<残滓>二百十米)を見学した折、太田の呑竜様の東に、大和三輪山によく似た形の、金山<かなやま>丘陵の存在を知った。その姿を、早春の雨に煙る車窓から眺めながら、附近には古墳時代の製鉄遺跡もあるということだし、ここにもアラハバキの社があるかも知れないなど、考えたものである。(< >内引用者註)
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事実、北関東にはアラハバキ社が数多くカウントされている。著者が訪ねているのは、古代に「上毛野(かみつけぬ)」勢力の中心地とみられる群馬の古墳密集地帯だが、ヤマトの圧力による“国譲り”で居場所を失った出雲からの亡命者たちが、関東のクニグニを頼って上陸し先進の産鉄技術を各地へ伝えたとみられる事蹟は、数多くの出雲神が奉られた河川沿いに拡がる氷川社などの存在とともに、今日では定説に近い古代史の出来事とみられている。
さて、上毛野勢力と連携して、ヤマトに阿(おも)ねて接近する北武蔵勢力を盛んにけん制していた南武蔵勢力、すなわち東京・神奈川・千葉などにもハラハバキ神は「門客神」になることなく、そのままアラハバキ社のかたちで何社か伝えられている。そこで、冒頭のいまや神田明神の境内に「門客神」扱いのようにされている江戸社(江戸神社)のテーマにもどるわけだが、同社はヤマトの年代でいうと飛鳥時代、大宝律令が制定されたころに建立されている古い社だ。もともと江戸岬の柴崎村にあった「神田」という地名の場所かその近くに鎮座していたとみられ、のちに柴崎古墳上へ730年(天平2)に建立される神田明神にも近接していたのだろう。当時、神田山は崩されることなく存在していたので、その麓か斜面、あるいは山頂に鎮座していたのかもしれない。
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アラハバキを信仰する出雲族は、即<すなわち>、製鉄民であり、産鉄民特有の片目の伝承と結びつき門客人から門脚神に変化しても、しばしば神像は片目にされたということである。武蔵においても、産鉄民にかかわりのある片目、片足、巨人伝説は広範囲にわたっているそうである。/過日、古代東国の王者の墳墓として、琵琶湖より東では最大の、五世紀半ばに位置する、群馬太田天神山古墳(<残滓>二百十米)を見学した折、太田の呑竜様の東に、大和三輪山によく似た形の、金山<かなやま>丘陵の存在を知った。その姿を、早春の雨に煙る車窓から眺めながら、附近には古墳時代の製鉄遺跡もあるということだし、ここにもアラハバキの社があるかも知れないなど、考えたものである。(< >内引用者註)
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事実、北関東にはアラハバキ社が数多くカウントされている。著者が訪ねているのは、古代に「上毛野(かみつけぬ)」勢力の中心地とみられる群馬の古墳密集地帯だが、ヤマトの圧力による“国譲り”で居場所を失った出雲からの亡命者たちが、関東のクニグニを頼って上陸し先進の産鉄技術を各地へ伝えたとみられる事蹟は、数多くの出雲神が奉られた河川沿いに拡がる氷川社などの存在とともに、今日では定説に近い古代史の出来事とみられている。
さて、上毛野勢力と連携して、ヤマトに阿(おも)ねて接近する北武蔵勢力を盛んにけん制していた南武蔵勢力、すなわち東京・神奈川・千葉などにもハラハバキ神は「門客神」になることなく、そのままアラハバキ社のかたちで何社か伝えられている。そこで、冒頭のいまや神田明神の境内に「門客神」扱いのようにされている江戸社(江戸神社)のテーマにもどるわけだが、同社はヤマトの年代でいうと飛鳥時代、大宝律令が制定されたころに建立されている古い社だ。もともと江戸岬の柴崎村にあった「神田」という地名の場所かその近くに鎮座していたとみられ、のちに柴崎古墳上へ730年(天平2)に建立される神田明神にも近接していたのだろう。当時、神田山は崩されることなく存在していたので、その麓か斜面、あるいは山頂に鎮座していたのかもしれない。



ここで、歴史学あるいは地理学、言語学などにおける地名転訛(転化)の法則を思いだしてほしい。日本の地名には、その地方地域における母語の発音に依存するかたちで、「たなら相通」が起きやすいというテーマがある。この「たなら相通」の法則を、「神田」に当てはめて考えると、「かんた」は容易に「かんな」が転訛(転化)したものではないかと想定できる。カンナは、もちろん大鍛冶(タタラ)が製鉄の原料となる砂鉄を採集するカンナ(鉄穴/神奈/神流/金)流しの手法を指すのであり、崖地や山の急斜面、谷戸地形などに古くから伝わる地名のひとつだ。
すなわち、神田明神はカンナ明神だったかもしれず、それより古い江戸社は産鉄民が奉じるアラハバキ社だったかもしれない……と考えるのは、それほどピント外れではないだろう。いずれの社も、現代では出雲神が主柱に奉られているが、アラハバキ神が「夷神」とみなされてから、改めて出雲神に入れ替えているのではないか。余談だが、今日では神田川(旧・平川)と名づけられている川沿いには、上流域に向けて氷川社が広くまた数多く展開しているが、こちらも本来はカンナ流しが各地で盛んに行なわれた、古代の「神奈川」だったのではないか。「たなら相通」の法則にしたがえば、きわめて質のいい目白(鋼)を製錬でき、のちに正宗を頂点とする相州伝を編みだす鎌倉鍛冶たちがいた、「神奈川(県)」と同名になってしまうのが面白い。
さて、わたしたちは室町期以降も、また江戸東京の街中でもタタラ職人とはおなじみだ。子どものころ、寺社の縁日などへ出かけると、必ずお面を売る露天商がいたものだ。その中には、アニメのヒーローたちの面と並んで、おかめ面とともに火男(ひょっとこ)面が売られていた。火男(ひょっとこ)は、髪に火が燃え移らないよう水を含ませた手ぬぐいを頭からかぶり、片目がつぶれて口は火起こしのせいで尖がり妙なかたちにまがっている。火男(ひょっとこ)は、たいてい片足が萎えたようなガニ股で、タタラを踏むような動作をしながら滑稽に踊る。定住者としての農民からは、砂鉄を求めて移動する産鉄民への蔑視からそのように映っていたのだろう。
東日本に多いアラハバキ社だが、地域によっては妖怪に転化した例も見られる。1956年(昭和31)に出版された柳田国男『妖怪談義』(修道社)収録の、「一眼一足の怪」から引用してみよう。
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『紀伊国続風土記』巻八十、牟婁郡色川郷樫原の条に、昔一蹈鞴(ひとつだたら)と称する妖賊ありて、熊野の神宝を奪い雲取の旅人を掠む。狩場刑部左衛門なる者三山衆徒の頼みに応じこれを退治しその功をもって三千町ある寺山を色川郷重八村の立合山にしてもらい、死して後はこの土地に王子権現と祀られたとある。南方先生は曰く、右のヒトツダタラはただの泥坊ではあるまい。熊野の山中には今でも「一本ダタラ」という怪物が住むという。
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「南方先生」は、もちろん柳田国男が教示を受けている南方熊楠のことだ。「一本ダタラ」は、足跡を一方しかつけない、1本足の妖怪ということにされている(片目かどうかは不明)。山奥でのカンナ(鉄穴・神奈)流しによって、河川や灌漑用水、田圃の水を汚す産鉄民を、定住する下流域の農民たちが反感を抱きつつ、彼らをどのような目に見ていたのかがうかがい知れる伝承だろう。
すなわち、神田明神はカンナ明神だったかもしれず、それより古い江戸社は産鉄民が奉じるアラハバキ社だったかもしれない……と考えるのは、それほどピント外れではないだろう。いずれの社も、現代では出雲神が主柱に奉られているが、アラハバキ神が「夷神」とみなされてから、改めて出雲神に入れ替えているのではないか。余談だが、今日では神田川(旧・平川)と名づけられている川沿いには、上流域に向けて氷川社が広くまた数多く展開しているが、こちらも本来はカンナ流しが各地で盛んに行なわれた、古代の「神奈川」だったのではないか。「たなら相通」の法則にしたがえば、きわめて質のいい目白(鋼)を製錬でき、のちに正宗を頂点とする相州伝を編みだす鎌倉鍛冶たちがいた、「神奈川(県)」と同名になってしまうのが面白い。
さて、わたしたちは室町期以降も、また江戸東京の街中でもタタラ職人とはおなじみだ。子どものころ、寺社の縁日などへ出かけると、必ずお面を売る露天商がいたものだ。その中には、アニメのヒーローたちの面と並んで、おかめ面とともに火男(ひょっとこ)面が売られていた。火男(ひょっとこ)は、髪に火が燃え移らないよう水を含ませた手ぬぐいを頭からかぶり、片目がつぶれて口は火起こしのせいで尖がり妙なかたちにまがっている。火男(ひょっとこ)は、たいてい片足が萎えたようなガニ股で、タタラを踏むような動作をしながら滑稽に踊る。定住者としての農民からは、砂鉄を求めて移動する産鉄民への蔑視からそのように映っていたのだろう。
東日本に多いアラハバキ社だが、地域によっては妖怪に転化した例も見られる。1956年(昭和31)に出版された柳田国男『妖怪談義』(修道社)収録の、「一眼一足の怪」から引用してみよう。
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『紀伊国続風土記』巻八十、牟婁郡色川郷樫原の条に、昔一蹈鞴(ひとつだたら)と称する妖賊ありて、熊野の神宝を奪い雲取の旅人を掠む。狩場刑部左衛門なる者三山衆徒の頼みに応じこれを退治しその功をもって三千町ある寺山を色川郷重八村の立合山にしてもらい、死して後はこの土地に王子権現と祀られたとある。南方先生は曰く、右のヒトツダタラはただの泥坊ではあるまい。熊野の山中には今でも「一本ダタラ」という怪物が住むという。
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「南方先生」は、もちろん柳田国男が教示を受けている南方熊楠のことだ。「一本ダタラ」は、足跡を一方しかつけない、1本足の妖怪ということにされている(片目かどうかは不明)。山奥でのカンナ(鉄穴・神奈)流しによって、河川や灌漑用水、田圃の水を汚す産鉄民を、定住する下流域の農民たちが反感を抱きつつ、彼らをどのような目に見ていたのかがうかがい知れる伝承だろう。



また、同書では土佐の「山鬼」または「山チチ」と称する妖怪も取りあげているが、こちらは一眼一足の妖怪だとされている。柳田国男は、「これら山にいる大小いろいろの一つ目が、何ゆえに一つ目と伝えられているかについては、なお研究せねばならぬ」と書いているが、今日では研究がかなり進み、「一蹈鞴(ひとつだたら)」あるいは「一本ダタラ」はその名のとおり、山奥の谷間まで砂鉄を求めて移動するタタラ民(産鉄民)が、定住者でミクロコスモス(村落共同体)側の農民たちによって、差別的に得体の知れない「妖怪」呼ばわりされていったのではないかと考えられている。
◆写真上:濡れ手ぬぐいで頬っかぶりし、片目でタタラを踏んで滑稽に踊る火男(ひょっとこ)。
◆写真中上:上は、神田明神にある飛鳥時代に創建された江戸社。中は、都内あきる野市にある養澤社(あらはばき社)。下は、大宮氷川社の舞殿から拝殿を見る。
◆写真中下:上は、都内あきる野市にある荒波々伎社。中は、横浜市栄区に残るアラハバキ社の祠。下は、静岡県浜松市に残る堀谷荒鎺社。浜松の荒鎺社は、「堀谷」という付近の地名が付属しており、谷を掘り返してカンナ流しを行ったタタラの事蹟が顕著に残る。
◆写真下:上は、昔から各地に伝わる手ぬぐい頬っかぶりで片目のひょうきんな火男(ひょっとこ)の面。現代では障碍者に対する「差別」を気にしてか、史的背景を無視して両目の開いている面が多い。中は、青森県の市浦村にある荒脛巾社。下は、宮城県の多賀城市に残る荒脛巾明神社。
★おまけ
水木しげるによる、「一本ダタラ」の妖怪図。そういえば、江戸の街にも出没したらしい一目一本足の「傘オバケ」も、伝承をたどるとどこかでタタラの産鉄民にたどり着くのかもしれない。
◆写真中上:上は、神田明神にある飛鳥時代に創建された江戸社。中は、都内あきる野市にある養澤社(あらはばき社)。下は、大宮氷川社の舞殿から拝殿を見る。
◆写真中下:上は、都内あきる野市にある荒波々伎社。中は、横浜市栄区に残るアラハバキ社の祠。下は、静岡県浜松市に残る堀谷荒鎺社。浜松の荒鎺社は、「堀谷」という付近の地名が付属しており、谷を掘り返してカンナ流しを行ったタタラの事蹟が顕著に残る。
◆写真下:上は、昔から各地に伝わる手ぬぐい頬っかぶりで片目のひょうきんな火男(ひょっとこ)の面。現代では障碍者に対する「差別」を気にしてか、史的背景を無視して両目の開いている面が多い。中は、青森県の市浦村にある荒脛巾社。下は、宮城県の多賀城市に残る荒脛巾明神社。
★おまけ
水木しげるによる、「一本ダタラ」の妖怪図。そういえば、江戸の街にも出没したらしい一目一本足の「傘オバケ」も、伝承をたどるとどこかでタタラの産鉄民にたどり着くのかもしれない。

