佐伯米子と向田邦子の「近似性」について。

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 以前、親父の仕事の都合から、一時期(15年弱)神奈川県の平塚に住んでいたころ、東京に出かける(帰郷する)親父の土産が、頭が白くなるどうしようもないオモチャ類だったのを書いたことがある。また、休日などは東京各地を連れ歩いてくれて散策をしたが、芝居新派の舞台だったりすると、そこは子どもなのでかなりガッカリしたものだ。
 親父は酒を飲まなかった(飲めなかった)が、東京各地の料理屋=“うまいもん”屋によく立ち寄っては、顔見知りだった店の主人や仲居さんと楽しそうに世間話をしていた。わたしは“うまいもん”を食べるのに夢中で、大人の会話なんぞ聞いてなかったが、料理の味はしっかりと舌に記憶している。でも、それは小学校の高学年以上の記憶であって、それ以前に連れていってくれた店の味は、ほとんど思いだせない。
 その後、自宅は母親が手芸店をやってみたいといい出したため、親父の勤め先も近い母親の実家がある横浜へと転居して10年ほどいたが、わたしは学生時代の途中でひとり東京へともどり、親父が停年退職したあとしばらくすると、親たちもわたしを追いかけるように東京の家へともどっている。わたしは学生時代、バイトなどで忙しく親たちとどこかへ出かけた記憶はあまりないが、土産はずいぶんもらった憶えがある。それらは、たいがい親戚東京の知りあいたちが、親たちへの手土産に持参する菓子類だった。
 親父の故郷の親戚や同窓生たちは、酒を飲めないのをよく知っていたので、日本橋の「清壽軒」とか銀座の「虎屋」の羊羹、日本橋は「文明堂」のカステラとかを持参していた。わたしは海街にいたころから、それら菓子のお相伴にあずかっていたわけだが、たまに風味が大きくちがう菓子を食べさせてくれることがあった。当時は気づかなかったが、いまから考えると親父の友人でも、(城)下町ではなく乃手方面に住む人たちが持参した土産だったのではないか。親父は口がおごっていたので、気をつかって老舗の味を選んでいたにちがいない。
 たとえば、食べ慣れた虎屋の「夜の梅」や「おもかげ」ではなく、日本橋堀留町の清壽軒の羊羹でもなかったのは、おそらく甘さが軽く上品な風味をした本郷の「藤むら」の羊羹だったのではないか。文明堂のカステラとは異なり、やや甘さひかえめでふんわりとしていたのは、戦後に目黒へ進出した「福砂屋」の製品ではなかったろうか。これらの製品は江戸期から、または明治初期からの老舗ばかりなので、親父がことさら喜んだ顔が目に浮かびそうだ。
 日本橋の清壽軒は江戸期からの店だし、本郷の藤むらにいたっては室町時代の加賀は金沢からで、加賀前田藩の上屋敷(現・東京大学キャンパス)に呼ばれて江戸へやってきた店だ。虎屋も同じく室町時代からだが、もともとは京の出自で明治になってからやってきているので、江戸東京地方では“新参”の小豆菓子屋ということになってしまう。小豆菓子でいえば、羽振りのいい札差からなぜか菓子屋へ転向した日本橋小伝馬町(その前は大伝馬町だったそうな)の「梅花亭」は、幕末からの元祖・銅鑼焼(どら焼き)の店で、同じ日本橋の人形焼きとともに親父は目がなかった。わたしは、どら焼きも人形焼きも、羊羹やカステラほどには好きではなかったが……。
 文明堂の長崎カステラは、CMとともに東京の進物としてすっかり定着したけれど、明治末からの商売なので、ここに登場している老舗たちに比べると新しい店だ。カステラの福砂屋は、1624年(元和10/寛永元)と江戸初期の創業で、ちょうど先祖が北関東から江戸へやってきたころだが、東京へ進出したのはようやく戦後になってから。福砂屋のカステラは、この正月にいただきもので改めて味わったが、文明堂とは異なる軽妙な風味で美味しかった。
 ほかにも、親父の芝居好きを知っている友人たちは、歌舞伎座も近い銀座の「菊廼舎(きくのや)」あたりの菓子を土産にしていただろう。でも、ここの高級和菓子はわたしの口には絶対に入らなかった。せいぜい、夏場に中元でとどく同店の水羊羹の一片を食べられれば御の字だった。また、親父は菓子の中でもせんべいには目がなかったので、土産や贈答にもずいぶんいただいたろう。柳橋も近い蔵前の「八百屋せんべい」や銀座の「松崎」などがとどくと、ことさら上機嫌だったにちがいない。こういう“うまいもん”や菓子類を食べつづけた親父は、ご想像どおり、40歳をすぎるころから糖尿病の治療にわずらわされ、それは60歳近くまでつづいた。いや、敗戦後、学生時代に銀座松屋の裏にあった米軍のPX(酒保)の調理場で、ホットドッグやパイ、ケーキづくりのアルバイトをしてつまみ食いをしていたころから、すでに糖尿病の予備軍だったのではないだろうか。
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 いつだったか、神田の江戸期からつづく水菓子屋(フルーツ店)だった「万惣」閉店について書いたことがあったが、またぞろ江戸期からつづく老舗の閉店を、このところ頻繁に耳にしている。新型コロナ禍の影響も大きかったのだろうが、先述した本郷で営業していた羊羹の藤むらや、蔵前の八百屋せんべい(いつの間に閉店?)、洋菓子の神保町にあった「柏水亭」(こちらもいつの間に閉店?)、菓子屋ではないが柴又の川魚料理で名高かった「川甚」や、文政年間からつづいた深川の木場も近いうなぎの「宮川」、明治の店では浅草でトンカツ発祥の元祖「喜多八」、湯島の牛鍋屋「江知勝」など、古くからの老舗が立てつづけに閉業している。
 ちょっと横道へそれるが、下落合の林芙美子が死去する当日、仕事の宴席で食べにいった蒲焼屋の「宮川」を、わたしは当時もっとも有名だった根岸の「宮川」とばかり思いこんでいた。だが、画家で医者でもある宮田重雄によれば、富岡八幡から大横川をはさんですぐのところにあった、深川の「宮川」だったと店の亭主ともども証言している。
 老舗の閉店は、いまの東京のニーズや味覚に合わないのかと思いきや、江戸期からつづく風味をさほど変えずに、菓子屋も料理屋もパンデミックを乗りこえて順調に営業をつづけている店も多いので、単に「時代の好みが変わった」だけでは説明がつかない。やはり、営業の継続=跡とりや人手不足の課題が大きいのだろうか。また、万惣のように「耐震建築未満」として、なんら営業継承の手が差しのべられないまま、行政によってつぶされた江戸期からの老舗もあるのかもしれない。古い店が、古い建物なのはあたりまえではないか。
 100年やそこらではきかない、街のシンボル的な江戸期からの老舗を観光や街づくり、事業継続の融資設定などとからめ、どうサポートすれば営業を継続できるのかを考えるのも、行政の重要な役目であり努めだろうに。この街の、そういう地場・地元の感覚を備えた役人がほとんどおらず、よその街の「他人事」のように感じていたものだろうか? 自身の住んでいる街のアイデンティティを持たない(持てない)人間が、数百年にわたり営業してきた店を紙切れ1枚で右から左へ“処分”しているとすれば、日本橋の上空に高速道路を建設しようなどと計画した、あるいは江戸東京じゅうの町名を「恥ずかしい」から変えてしまえと画策した、いけいけドンドン(小林信彦)の愚かな役人たちの時代から、この65年間、さほど進歩していないのではないか。
 さて、1950年代の読売新聞に、同社の社会部が企画したコラム「味なもの」というのが連載されていた。作家や画家、役者・俳優、舞踊家、音楽家、スポーツ選手、大学教授、評論家、漫画家、政治家たちが、江戸東京の行きつけの老舗=“うまいもん”屋(江戸・明治期からの店が中心)を紹介するという趣向で、のち1953年(昭和28)に現代思潮社から単行本として出版もされている。その中に、画家の佐伯米子が言問団子について書いたエッセイがあるので、そこから少しご紹介したい。
  
 赤煉瓦通りだった頃の銀座で育った私の子供時代には、近くの青柳とか風月(ママ)、弥左衛門町の松崎のお煎餅、栄太樓の甘納豆、壺屋の最中などが、ふだんのおやつに頂いたお菓子でした。そして古いお店は今では場所も変り、昔の店の面影はありませんが、その頃、春の季節の訪れを子供心に一番先きに教えてくれるのが、百花園の七草でした。お芝居の忍ぶ売りの持つ籠のような物に入った七草は、すぐに、向島の桜餅、言問団子といった連想につながる、楽しい春の前触れでした。長命寺の桜餅はお花見に賑う頃、誰かがお土産にもってきてくれたものでしたし、言問のお団子は、ボートレースと結びついて、その頃の私共の喜びでした。
  
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 印刷では「風月」となっているが、佐伯米子の原稿ではまちがいなく「凮月」となっていたはずで、活字職人による植字ミスか、「凮」の活字が見つからなかったかのどちらかだろう。彼女が挙げている菓子店は、銀座の「青柳」を除いていまも健在な老舗ばかりだ。
 日本橋の飴で有名な「榮太樓」をはじめ(わたしの世代では甘納豆や梅ぼ志=梅干飴ではなくラムネ飴が印象的だ)、最中(もなか)で知られる本郷の壺屋(最中は嫌いなので食べたことがない)、銀座のせんべいで有名な「松崎」、同じく銀座の洋菓子で有名な「凮月(堂)」、そして新型コロナ禍を押して、つい先だても食べに寄った長命寺(=元祖・桜餅)の「山本や」に、異なる風味の餡を3種並べた「言問団子」。ついでに、日本橋の佃煮「鮒佐」や鴨すき「鳥安」、本所のももんじ「豊田屋」も江戸期や明治期のたび重なる大火や地震、関東大震災、そして薩長政府による国家の滅亡=敗戦を超えて、昔から変わらずに営業をつづけている。なお、文中の「ボートレース」とは、1905年(明治38)の春にはじまり現在までつづく、早稲田大学漕艇部と慶應義塾大学端艇部が競う春の風物詩、大川(隅田川)の「早慶レガッタ」のことだ。
 佐伯米子による上掲の随筆は、まるで銀座のタウン誌「銀座百点」にエッセイを書いていた向田邦子のような出だしであり、最後まですんなり読めてしまった。文章に、この街で育った女性特有の文体というか、芝居のわたり台詞の“間”あるいは呼吸のようなリズムがあるので、ゴリッとした抵抗感や描写の味わいに違和感がないせいだろう。(長谷川時雨にも強くそれを感じる) 向田邦子が「銀座百点」に『父の詫び状』(1976年)を書きはじめる、20年以上も前の文章だ。
 佐伯米子のエッセイは、これまでにもけっこう読んできており、また拙記事でも取りあげて引用しているけれど、美術や連れ合いに関するテーマよりも、池田象牙店があった尾張町(現・銀座4丁目界隈)の昔話のほうが文章もみずみずしく活きいきとし、文体もこなれて優れたエッセイに仕上がっているように感じる。いっそ、画家にならず文筆の腕を磨いたほうが、より豊かな才能が発揮でき、いい仕事が残せたのではないかと思うと残念だ。(爆!)
 佐伯米子が尾張町(銀座4丁目)にこだわるのは、店にストックしていた貴重な象牙のほとんどが関東大震災の被害で失われ、経営が急速に悪化したため、尾張町を離れて土橋(現・銀座8丁目)に移転したのが、よほど口惜しかったせいもあるのだろう。彼女の結婚は関東大震災の前であり、夫である佐伯祐三は、尾張町にあった本来の店舗へ頻繁に顔を見せていたはずだ。
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 もし、彼女が文筆家になっていたら、明治から大正にかけての故郷=銀座中心街の姿を、そして(城)下町に漂う独特な風情を、より多く記録してくれたのではないかと思うと残念でならない。もちろん、池田象牙店に彫師の見習いとして弟子入りしてきた月島出身の少年=彫刻家・陽咸二の姿をはじめ、黙々と象牙を彫りつづける職人たちや店内の様子、正月に「天目一箇神」(彫神・刃物神=鍛冶神・タタラ神)を奉った紙垂も真新しい神棚を、家族や職人たち全員で礼拝する光景、振袖を着て初詣でと新春顔見世興行へ出かける習慣の娘たち(足の悪い池田米子も出かけただろう)、年始まわりで店にくるさまざまな人間模様など、リアルで貴重な記録が残されていたはずなのだ。
 ……あっ、なるほど、佐伯米子の生活環境のそこかしこに漂う空気は、どこか向田ドラマの設定やシチュエーションにとても近似していることに改めて気づかされる。「ほんとうにもう、50年もたってしまったのでしょうか?」(黒柳徹子)と同様に、昔懐かしい“東京の匂い”がするのだ。

◆写真上:1953年(昭和28)ごろに、佐伯米子が挿画として描いた『言問団子』。
◆写真中上は、万延年間から営業をつづける羊羹で知られた日本橋「清壽軒」。中上は、東京で明治以降に進物の定番となった羊羹の「虎屋」。中下は、残念ながら閉店してしまった江戸東京では300年近い歴史をもつ本郷の羊羹「藤むら」。は、江戸の札差から途中で菓子屋に鞍替えした元祖・銅鑼焼(どら焼き)の日本橋小伝馬町「梅花亭」。
◆写真中下は、歌舞伎座も近い高級菓子「菊廼舎(きくのや)」だが夏場の水羊羹の印象が強い。中上は、せんべいでは定番の銀座「松崎」。中下は、どれだけ食べたかわからない甘味に飴各種の日本橋「榮太樓」。は、わたしは苦手な最中の本郷「壺屋」。
◆写真下は、明治からは洋菓子の進物として定番となった300年近くつづく銀座「凮月(堂)」。中上は、300年をゆうに超えて営業をつづける元祖・桜餅(長命寺)の「山本や」。中下は、170年ほど前から営業をつづける向島の代表的な菓子「言問団子」。は、秋の向島百花園の井戸。
おまけ
 1960年(昭和35)すぎごろに、写真愛好家の山田広次という方が撮影した「雪の日本橋」。気がせいて2041年といわず、もっと早く上空のぶざまな高速道路を取っ払えないものだろうか。
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