
いま、島田清次郎という小説家を知っている方は、はたしてどれぐらいいるのだろうか。大正中期に、新潮社から出版された『地上』という作品が売れ、賀川豊彦の『死線を越えて』とともに当時のベストセラーとなった作家だ。そういうわたしも、数年前までは知らず読んだこともなかった。最後は精神を病み、わずか31歳で病没していることも存在を稀薄化させている要因だろうか。戦後の文学全集にも、ほとんど入れられなかった小説家だ。
当時の“文壇”は、ほとんどが身のまわりの些末なことを書く私小説の作家で占められており、スケールの大きな「虚構」くさい作品、すなわち物語性の強い作品は敬遠され、通俗小説呼ばわりされ高い評価を受けることがなかった。その反動だろうか、若い島田清次郎が書いたロマンチックな『地上』は読者に受け、空前のベストセラーを記録することになる。この1作だけで、新潮社では本社ビルが建てられたとウワサされるほどの売れいきだったという。
だが、現代の視点で『地上』を読むと、主人公の貧乏な青年「大河平一郎」がたどる恋と、“立身出世”に向けた熱い想いと、徐々に階級観にめざめていく過程は、ことさら衝撃的でもそれほど思想的な作品にも思えず、学生の文芸サークルで提出された習作を読むような表現の幼さや拙さとも相まって、どうしてこの作品がそれほどまでに読まれたのか、ちょっと理解に苦しんでしまう。大正デモクラシーという時代の「自由」のなかで、タガが外れたように“なんでもあり”、あるいはなんでもありそうな次の物語展開を、「英雄的態度」の主人公と読者が一体化してしまい、多くの若者たちはドキドキしながら次々とページをめくっていたものだろうか。
裏返せば、当時は惹かれる女性が泊って寝ていった蒲団が気になったり、確執がつづいていた父親とようやくヨリがもどせそうになったり、家出をした妻に向けてエンエンと恋情を綴ったりと、そんなことは「日記にでも書いときゃいいじゃん」レベルの、他者にとってはどうでもいい些末的で現代ならことさら反感をかいそうな、限りなく内向する作品が「小説」であり「文学」だと規定されていた時代に、突然現れた島田清次郎の『地上』は、かなり傾向が異なる新鮮な印象を読者に与えたものだろうか。だが、『地上』に描かれた世界は、著者自身が金沢で体験したことをそのままベースにし、誇大妄想を多分に含めた「私小説」にはちがいないのだが。
島田清次郎は、『地上』の舞台と同じ加賀で生まれ育っている。早くに父親を亡くし、母親の細々とした裁縫仕事でかろうじて暮らす、貧しい家庭環境で育った。金沢市西廓にあった遊郭「吉米楼」で、多感な少年時代をすごしている。彼は小学生のころから、なぜか「おれは神童だ」という自負をもち、特に作文では大人びた表現を見せて教師たちを驚かせている。言動もどこか大人びており、人を威圧するような態度で級長をつとめていたという。金沢の第二中学校に進学するが、祖父が相場で失敗し退学せざるをえなくなった。
母親とともに東京へ出ると、実業家の屋敷で母は女中頭に、島田清次郎は同屋敷の書生となって明治学院普通部へ転入する。だが、母親の再婚を機に金沢の叔父のもとへもどり、再び金沢二中へ通うようになった。このころから、同級生に対して見下すような態度をとりはじめ、鼻もちならない性格が表面化して孤立することになる。叔父の奨めから金沢商業へ進むが、すぐに退学して株式新聞の記者や出版社、用品店など職を転々とし、「神童」の自分をこのような境遇に陥らせた周囲の人々を呪いつつ、いつか「復讐」を誓うようになる。
その「復讐」とは、作家として有名になり、自分を見棄て見放した人々を睥睨して笑ってやろうという、自分は「神童」で「大物」なんだという、子どものころから抱いていた妄想の延長線にある、かなり幼い功名心だったようだ。このような稚拙な思いこみは、下落合803番地にアトリエをかまえていた洋画家・柏原敬弘と、どこか共通する性格を思い起こさせる。柏原敬弘の場合は、文展・帝展に入選して有名な画家となり、自分を見棄てて他の男に走った「恋人」(この認識も被害妄想による彼自身の空想なのかもしれないが)に復讐するためだった。




こうして、どん底生活の中でも『地上』の原稿をコツコツと書きため、金沢の各新聞社に「僕の傑作」を掲載しろと持ちこんだが、そんな驕慢な態度に新聞社がまともな対応をするはずもなく、島田清次郎は失意のうちに再び東京へやってきて、生田長江に原稿を見てもらう。すると、生田は彼の『地上』を褒め、出版社の新潮社を紹介してくれた。こうして、1919年(大正8)に島田清次郎の『地上』は、生田長江の推薦作品として出版されることになった。
地主と箱根土地の地権対立で、運よく下落合(4丁目)1379番地の目白文化村にタダ同然で住めた秋山清は、戦後、島田清次郎の攻撃的な性格と当時の文学状況について、しごく的確かつ鋭い分析を試みている。1969年(昭和44)に学藝書林から出版された『ドキュメント日本人』第9巻<虚人列伝>収録の、秋山清『天才! 島田清次郎』から引用してみよう。
▼
人を攻撃するときの立場は自分を民主的自由主義的なところに置くが、自分が指導的な位置につけば圧制横暴な弾圧者に変貌する。こういう例はひろく見られるところである。(中略) 島田清次郎の対人関係に見られる一貫した性格は、利用価値のある者にはある程度の礼をつくすが、時至らば弊履のごとく放擲する、その繰返しであった。(中略) 今からまる五十年の昔、当時の日本文学の水準如何という問題がここにある。文学第一流の出版社が、ベストセラーに驚喜して続刊をどんどんうながして病的にまで自負と尊大に自ら目をくらまされた若き天才を損わしめた責任は、売れるにまかせて売りまくり、得意の壇上から奈落の底に落して絶望悲歎のはてに狂気せしめた者にもなければならない。
▲
『地上』が空前のベストセラーとなり、島田清次郎が有頂天になったのも想像に難くない。そして、性格はますます傲岸不遜となって、彼を推薦してくれた生田長江ら周囲の作家たちにも平然と無礼な言動をするようになり、出版社からも見放されるのは時間の問題だった。また、故郷の金沢でも島田清次郎の傲慢さゆえに、ベストセラー作家となった彼を快く迎え入れてはくれなかった。だが、彼の「少年小説」のようなロマンチックな作品は売れつづけた。
島田清次郎の末路は、1922年(大正11)に欧米をまわる旅行から帰国した翌年、読者でファンだった海軍少将の娘を葉山に誘いだし、監禁して凌辱したとされる事件(「舟木芳江事件」と呼ばれ実際は無実だといわれる)が決定的となった。1923年(大正12)4月、葉山の養神亭で彼は葉山署員に逮捕され、横浜地裁の検事局に連行されている。徳富蘇峰らの奔走で告訴は取り下げられたが、彼の人気はカダ落ちとなった。最初の『地上』発表から、わずか3年半ほどでの凋落だった。
地主と箱根土地の地権対立で、運よく下落合(4丁目)1379番地の目白文化村にタダ同然で住めた秋山清は、戦後、島田清次郎の攻撃的な性格と当時の文学状況について、しごく的確かつ鋭い分析を試みている。1969年(昭和44)に学藝書林から出版された『ドキュメント日本人』第9巻<虚人列伝>収録の、秋山清『天才! 島田清次郎』から引用してみよう。
▼
人を攻撃するときの立場は自分を民主的自由主義的なところに置くが、自分が指導的な位置につけば圧制横暴な弾圧者に変貌する。こういう例はひろく見られるところである。(中略) 島田清次郎の対人関係に見られる一貫した性格は、利用価値のある者にはある程度の礼をつくすが、時至らば弊履のごとく放擲する、その繰返しであった。(中略) 今からまる五十年の昔、当時の日本文学の水準如何という問題がここにある。文学第一流の出版社が、ベストセラーに驚喜して続刊をどんどんうながして病的にまで自負と尊大に自ら目をくらまされた若き天才を損わしめた責任は、売れるにまかせて売りまくり、得意の壇上から奈落の底に落して絶望悲歎のはてに狂気せしめた者にもなければならない。
▲
『地上』が空前のベストセラーとなり、島田清次郎が有頂天になったのも想像に難くない。そして、性格はますます傲岸不遜となって、彼を推薦してくれた生田長江ら周囲の作家たちにも平然と無礼な言動をするようになり、出版社からも見放されるのは時間の問題だった。また、故郷の金沢でも島田清次郎の傲慢さゆえに、ベストセラー作家となった彼を快く迎え入れてはくれなかった。だが、彼の「少年小説」のようなロマンチックな作品は売れつづけた。
島田清次郎の末路は、1922年(大正11)に欧米をまわる旅行から帰国した翌年、読者でファンだった海軍少将の娘を葉山に誘いだし、監禁して凌辱したとされる事件(「舟木芳江事件」と呼ばれ実際は無実だといわれる)が決定的となった。1923年(大正12)4月、葉山の養神亭で彼は葉山署員に逮捕され、横浜地裁の検事局に連行されている。徳富蘇峰らの奔走で告訴は取り下げられたが、彼の人気はカダ落ちとなった。最初の『地上』発表から、わずか3年半ほどでの凋落だった。




1923年(大正12)9月、関東大震災が発生すると本郷にあった島田清次郎の自宅は全焼し、金沢時代のツテを頼って下落合の下宿アパートへ母親とともに避難してくる。残念ながら、この建物がどこにあったのかは不明だ。金沢二中で同窓だった、詩人で漢方医の中山啓の姻戚が経営するアパートだったらしい。中山啓は大震災の混乱が収まると、落合地域が気に入ったのか上落合521番地に自邸をかまえている。この住所は、公楽キネマが開館する区画と同一番地だ。
下落合での様子を、1927年(昭和2)に精神衛生学会から刊行された「脳」8月号収録の、当時は傲慢な島田と絶交中だった中山啓の、『島田清次郎君の発狂』から少し長いが引用してみよう。
▼
(大震災で自宅に)住めなくなったので、下落合の親戚の家を(ママ:へ)転宅する事になつたが、そこは下宿屋の跡の大きな家であつたので、部屋があいて居た。すると或日叔母に家を借りる約束をして、荷物を持ち込んだ男がある。――見ると島田君だ。/その家には金沢で島田君に二階を貸した、僕の祖母も来て居れば、また島田君をなぐりつけた従弟も来てゐる。島田君は僕達を見ると、顔の色をかへて考へこんでしまつたのである。/然し地震の後だ。お互ひに親切にしあいたい心で一ぱいになつてゐる時であり、僕も島田君の一切を許して、友達になる事になつた。――島田君は舟木事件でひどい目にあつて、すつかりおとなしくなつて、僕や母の云ふ事を、ハイハイとかしこまつて聞いて居る様子が、実におかしい程だつた。/だが島田の母を虐待する癖は、当分の中は無かつたが、二三ケ月すると、そろそろ始つて来出して、或日島田君が母をなぐりつけ、母が逃げるのを追ふて、僕等の住んでゐる棟にやつて来た。丁度その時は、僕が留守であつたが、それを見た僕の従弟が島田君の母をかばいながら、島田君をなぐりつけた。島田君の金ブチの眼鏡はこはれて飛び、更に喰つてかかるのを、廊下から庭へ投げ飛ばしてしまつた。(カッコ内引用者註)
▲
島田清次郎の下落合時代、中山啓はほかにもエピソードをいろいろ紹介しているが、キリがないので機会があればまたご紹介したい。本が売れなくなったこのころ、島田清次郎は同居する母親に対して頻繁に暴力をふるうようになっていた。それまでの、彼の言動を踏まえるなら「こうなったのも、みんなお前のせいだ」と、すべての責任を母親をはじめ他者へなすりつけてまわっていたのだろう。この出来事のあと、彼は下落合のアパートを飛び出してどこかへいってしまった。
下落合での様子を、1927年(昭和2)に精神衛生学会から刊行された「脳」8月号収録の、当時は傲慢な島田と絶交中だった中山啓の、『島田清次郎君の発狂』から少し長いが引用してみよう。
▼
(大震災で自宅に)住めなくなったので、下落合の親戚の家を(ママ:へ)転宅する事になつたが、そこは下宿屋の跡の大きな家であつたので、部屋があいて居た。すると或日叔母に家を借りる約束をして、荷物を持ち込んだ男がある。――見ると島田君だ。/その家には金沢で島田君に二階を貸した、僕の祖母も来て居れば、また島田君をなぐりつけた従弟も来てゐる。島田君は僕達を見ると、顔の色をかへて考へこんでしまつたのである。/然し地震の後だ。お互ひに親切にしあいたい心で一ぱいになつてゐる時であり、僕も島田君の一切を許して、友達になる事になつた。――島田君は舟木事件でひどい目にあつて、すつかりおとなしくなつて、僕や母の云ふ事を、ハイハイとかしこまつて聞いて居る様子が、実におかしい程だつた。/だが島田の母を虐待する癖は、当分の中は無かつたが、二三ケ月すると、そろそろ始つて来出して、或日島田君が母をなぐりつけ、母が逃げるのを追ふて、僕等の住んでゐる棟にやつて来た。丁度その時は、僕が留守であつたが、それを見た僕の従弟が島田君の母をかばいながら、島田君をなぐりつけた。島田君の金ブチの眼鏡はこはれて飛び、更に喰つてかかるのを、廊下から庭へ投げ飛ばしてしまつた。(カッコ内引用者註)
▲
島田清次郎の下落合時代、中山啓はほかにもエピソードをいろいろ紹介しているが、キリがないので機会があればまたご紹介したい。本が売れなくなったこのころ、島田清次郎は同居する母親に対して頻繁に暴力をふるうようになっていた。それまでの、彼の言動を踏まえるなら「こうなったのも、みんなお前のせいだ」と、すべての責任を母親をはじめ他者へなすりつけてまわっていたのだろう。この出来事のあと、彼は下落合のアパートを飛び出してどこかへいってしまった。



次に島田清次郎が登場するのは、白山通りを血まみれで人力車に乗っていた彼を、不審に思った警察官が職質して検束した1924年(大正13)7月のことだ。あまりにも言動がおかしく、頻繁に幻聴が聞こえるようなので精神鑑定を受けさせた結果、「早発性痴呆症」と診断され、そのまま巣鴨町庚申塚413番地の巣鴨保養院(巣鴨脳病院)へ収容されている。保養所で病気は徐々に快復したとされているが、1930年(昭和5)に肺尖カタルの症状が悪化し、わずか31歳で死去している。彼は入院中も執筆をつづけていたが、絶筆となった原稿には大泉黒石の訪問したことが記載されていた。
◆写真上:大勢のファンや読者たちに囲まれ、得意の絶頂にある島田清次郎。
◆写真中上:上・中は、少年期をすごした金沢市西廓の吉米楼跡とその現状。下は、島田清次郎(左)と1919年(大正8)出版の『地上-地に潜むもの』(新潮社/右)。
◆写真中下:上は、1930年(昭和5)出版の『現代長篇小説全集』第24巻(新潮社)に収録された『地上』の挿画で日本画家・水島爾保市の担当による「冬子」。中は、同じく吉倉和歌子を前に「僕だって直におおきくなります」と大言壮語する大河平一郎。下は、わずか数年で人相が大きく変わってゆく島田清次郎(左)と、秋山清『天才! 島田清次郎』が収録されている1969年(昭和44)出版の『ドキュメント日本人』第9巻<虚人列伝>(学藝書林/右)。
◆写真下:上は、1923年(大正12)4月に「舟木事件」を報じる新聞。中は、舟木芳江(左)と島田清次郎(右)。下は、1926年(大正15)作成の「西巣鴨町東部事情明細図」にみる巣鴨保養院。
★おまけ
1957年(昭和32)に脚本・新藤兼人/監督・吉村公三郎で映画化された『地上』(大映)のスチール。大河平一郎を川口浩、吉倉和歌子を野添ひとみが演じ、ほかに田中絹代や三宅邦子、香川京子、清水将夫、佐分利信、滝沢修、信欣三、小沢栄太郎、川崎敬三など豪華キャストが共演した。
◆写真中上:上・中は、少年期をすごした金沢市西廓の吉米楼跡とその現状。下は、島田清次郎(左)と1919年(大正8)出版の『地上-地に潜むもの』(新潮社/右)。
◆写真中下:上は、1930年(昭和5)出版の『現代長篇小説全集』第24巻(新潮社)に収録された『地上』の挿画で日本画家・水島爾保市の担当による「冬子」。中は、同じく吉倉和歌子を前に「僕だって直におおきくなります」と大言壮語する大河平一郎。下は、わずか数年で人相が大きく変わってゆく島田清次郎(左)と、秋山清『天才! 島田清次郎』が収録されている1969年(昭和44)出版の『ドキュメント日本人』第9巻<虚人列伝>(学藝書林/右)。
◆写真下:上は、1923年(大正12)4月に「舟木事件」を報じる新聞。中は、舟木芳江(左)と島田清次郎(右)。下は、1926年(大正15)作成の「西巣鴨町東部事情明細図」にみる巣鴨保養院。
★おまけ
1957年(昭和32)に脚本・新藤兼人/監督・吉村公三郎で映画化された『地上』(大映)のスチール。大河平一郎を川口浩、吉倉和歌子を野添ひとみが演じ、ほかに田中絹代や三宅邦子、香川京子、清水将夫、佐分利信、滝沢修、信欣三、小沢栄太郎、川崎敬三など豪華キャストが共演した。
