林芙美子はドヤ街で明け六ツの鐘を聞いたか。

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 近年、新宿区にも時の鐘があるのを知った。江戸市内に時刻を告げる時の鐘だが、江戸市内ではなく郊外にも時の鐘が設置されていた。おそらく、江戸が大江戸(おえど)と呼ばれるようになるころ、甲州街道の内藤新宿が廃止され江戸市内に編入された、比較的新しい時代だろうと考えたが、そのとおりだった。豊島郡の天龍寺境内に建立された時の鐘は、1767年(明和4)の鋳造で、内藤新宿が廃止されてから51年目のことだ。もっとも、地元からの幕府への強力な嘆願で、その後、宿場町(歓楽街)としての内藤新宿は復活(1772年)することになるのだが。
 江戸時代には、天龍寺の周囲に形成された町家は天龍寺門前町と呼ばれていたが、明治期に入ると内藤新宿南町と変わった。目の前が、高遠藩内藤家の広大な中屋敷(現・新宿御苑)で、当時の天龍寺は甲州街道に面して山門が建てられていた。そして、1920年(大正9)に四谷区に編入され、豊多摩郡内藤新宿南町は四谷区旭町に変更されている。いまの地勢でいえば、新宿駅の南口にあるルミネの階段を下りて、甲州街道の陸橋ガードをくぐった先の、玉川上水が流れていた新宿4丁目一帯が旧・四谷区旭町ということになる。
 地形は、南東へ向けて下り坂がつづく典型的な低地で、1970年代までは新宿を代表する労働者のドヤ街のひとつだった。江戸期には、内藤新宿で働く人たちや遊女・芸人、小商人などが住んでいたといわれている。また、周辺は大名の中・下屋敷と幕臣たちの屋敷だらけだったが、明治期になると天龍寺の境内や墓地は徐々に削られていき、内藤新宿南町には新しい街並みが形成されていった。四谷区に編入された直後、1921年(大正10)には東京府立第六中学校(府立六中)が創設されるが、このころから簡易宿泊施設が急増していったという。ちなみに、府立六中は現・都立新宿高校のことで、新宿区内でも都立戸山高校と並び有数の進学校だ。
 上記のように、江戸期の郊外にあたるこの一帯には、幕府の旗本や御家人たちが多く住み、その屋敷が多かったせいで、時の鐘の必要性が高まったのだろう。だが、江戸市内とは異なり、天龍寺の境内に設置されていた時の鐘は、朝方のみ時の刻み方が変わっていた。通常明け六ツにつく夜明けの鐘だが、天龍寺の時の鐘は四半刻(しはんとき=約30分)も早く明け六ツを知らせていた。江戸期の時刻は、季節を問わず夜明けが明け六ツ、日没が暮れ六ツとなり、夏は夜が短く冬は夜が長かったせいで、季節によって時刻が自在に伸縮していた。仮に午前6時を日の出の明け六ツとすれば、1刻は約120分前後なので、四半刻早いということは夜明け前のまだほの暗い時刻、午前5時30分ごろには鐘が鳴りだしたことになる。
 これは、勤め先が千代田城あるいはその周辺にある旗本や御家人たちの出勤、または中・下屋敷を訪れていた大名や家臣の出勤に配慮したもので、江戸の市街地からは遠い内藤新宿ならではの、出勤時間を考慮した四半刻(約30分)前倒しの時の鐘だった。もちろん、鐘の音(ね)は宿場の内藤新宿にも聞こえていたはずで、明け六ツに遊女屋や“飯炊き女”のいる宿から追いだされる遊び人たちは、江戸市内とは異なり約30分の“損”をすることになった。だが、当時の人たちは約30分もあれば平気で7~8kmは歩けたと思われるので、江戸市内にほんとうの明け六ツの鐘が鳴りはじめるころには、内藤新宿から神田あたりまでもどれていたのだろう。
 当時の四谷大木戸は、江戸市内への編入とともに開けっぱなしになっていた可能性が高い。すでに、江戸市内と市外を隔てる大木戸の役目は終えており、のちの文政年間には石垣のみを残して木戸門は丸ごと撤去されることになる。
 江戸市街地から見れば、「府外」と認識されていた天龍寺境内の時の鐘だが、周囲に響く音色はとてもよかったらしく、上野寛永寺と市ヶ谷八幡社の時の鐘と並び、天龍寺の時の鐘は「江戸三名鐘」に数えられている。でも、わたしは残念ながら同寺の鐘の音をじかに聞いたことがない。
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 さて、1920年(大正10)に四谷区旭町になった天龍寺周辺だが、この町名には見憶えがある。わたしは作家としての林芙美子はともかく、地元のさまざまな記録や証言から林芙美子という人物がとても苦手なので、拙記事ではあまり取りあげてこなかったが、彼女の代表作『放浪記』には、この甲州街道沿いの低地だった旭町が何度か登場している。もちろん、当時はドヤ街と化していた旭町の描写で、文字どおり彼女の“放浪時代”に体験した風景だ。1964年(昭和39)に河出書房新社から出版された、現代表記の『日本文学全集・第20巻/林芙美子集』より引用してみよう。
  
 夜。/新宿の旭町の木賃宿へ泊った。石崖の下の雪どけで、道が餡このようにこねこねしている通りの旅人籠に、一泊三十銭で私は泥のような体を横たえることが出来た。三畳の部屋に豆ランプのついた、まるで明治時代にだってありはしないような部屋の中に、明日の日の約束されていない私は、私を捨てた島の男へ、たよりにもならない長い手紙を書いてみた。(中略) 夜中になっても人が何時までもそうぞうしく出はいりをしている。/「済みませんが……」/そういって、ガタガタの障子をあけて、不意に銀杏返しに結った女が、乱暴に私の薄い布団にもぐり込んで来た。(中略) 朝、青梅街道の入口の飯屋へ行った。熱いお茶を呑んでいると、ドロドロに汚れた労働者が駈け込むように這入って来て、/「姉さん! 十銭で何か食わしてくんないかな、十銭玉一つきりしかないんだ」/大声で言って正直に立っている。すると、十五六の小娘が、/「御飯に肉納豆でいいですか」と言った。/労働者は急にニコニコしてバンコへ腰をかけた。
  
 このシーンは、住みこみの女中として働いていた家を追いだされたあと、いくあてがなくて旭町のドヤ(簡易旅館)へ泊まる様子だが、大正当時の新宿の様子や匂いがわかって興味深い。林芙美子は、甲州街道沿いにある旭町の簡易旅館をでると、カギの字に折れ曲がった追分の、青梅街道へと出るすぐ手前の飯屋へ入っているのがわかる。現在の甲州街道から青梅街道へと抜ける、新宿3丁目の三菱UFJ銀行新宿支店のあたりだろうか。
 その後、林芙美子は男にひどい目に遭ったり、いろいろ職を変えたりなどして再び旭町へともどってくる。同じく『放浪記』より、つづけて引用してみよう。
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 烏が啼いている。省線がごうごうと響いている。朝の旭町はまるでどろんこのびちゃびちゃな街だ。それでも、みんな生きていて、旅立ちを考えている貧しい街。/私のそばに寝た三十年配の女は、銀の時計を持っている。昔はいい暮しをしていたと昨夜も何度か話していたけれど、紫のべっちん足袋は泥だらけだ。/役にもたたぬ風呂敷包みを私達は三つも持っている。別にどうと云うあてもなく、多摩川を逃げ出して来て、この木賃宿だけが楽天地のパレルモなり。
  
 右手には新宿高島屋やタイムズスクエアが建ち、やや左手にはNTTドコモの尖塔のようなビルがそびえる、現代の新宿4丁目の風景とは思えないような風情だ。それでも、旧・旭町の路地を散策すると、いまでも新宿高校の東側に通う低地へ下る坂の中途に、大正期からつづく現代版の簡易宿泊所、ビジネスホテルや旅館などをいくつか見つけることができる。おそらく林芙美子も、この緩斜面のどこかに建っていた「木賃宿」へ泊っているのだろう。戦前までは、ひと雨降ると空き地に池のような大きな水たまりができる湿地帯だった。
 新宿を代表するドヤ街だった旭町だが、幸運な街でもあった。古い建物が多かったにもかかわらず、1923年(大正12)の関東大震災では二葉保育園の園舎を除き被害を受けずに無事で、1945年(昭和20)の二度にわたる山手大空襲でもほぼ延焼をまぬがれている。むしろ、旭町から見て高台にあった新宿駅東口の繁華街が、この空襲で壊滅的な被害を受けた。
 林芙美子の『放浪記』とは別に、もうひとつ「新宿・旭町」について印象に残る映像を思いだす。1974年(昭和49)1月19日にNTVで放送されたドラマ、下落合が舞台の『さよなら・今日は』の第16回「旅立ちのとき」だ。吉良家の次女「みどり」(中野良子)が、アトリエの喫茶店「鉄の馬」のバーテンだった、「和気一作」(原田芳雄)の行き先を「高橋清」(緒形拳)に訊ねる。緒形拳が「あいつ、新宿・旭町のなんとかいう、あけぼの荘とかいう旅館に泊まるゆうとりました。……花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ」と井伏鱒二の訳詩をつぶやき、長女の「夏子」(浅丘ルリ子)が「あの子、まさか……」とあとを追いかけるシーンだ。
 当時、高校生だったわたしは、新宿区の旭町がどこにあるのか、さっそく地図で調べた記憶がある。けれども、とうに旭町は消滅していて新宿4丁目(1952年12月~)になっていたので、見つけられなかったのを憶えている。ドラマの脚本家は、新宿駅南口界隈の歴史や経緯に詳しかったか、あるいは林芙美子の『放浪記』を読んで印象に残ったものだろうか。林芙美子が「旅立ち」と書き、このドラマでも家を離れ自立しようとする、みどりの「旅立ち」を描くシーンに旭町が登場している。念のため、1938年(昭和13)作成の「火保図」や、1960年代に作成された「東京都全住宅案内帳」を参照してみたが、「あけぼの荘」という名の簡易旅館は残念ながら見あたらなかった。
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 時の鐘は、戦時中の金属供出からまぬがれたものが多く、いまでも江戸期の音色を聞かせてくれるが、天龍寺の時の鐘は大正時代まで鳴り響いていただろうか。時の鐘は、明治期を通じて大正期までつづいた地域が多い。もっとも、大正期には鐘の音が聞こえる範囲での“鐘役銭”は、すでに徴収していなかったろう。大正期は江戸時代の昼夜12刻制ではなく、もちろん現在の24時間制をもとに鐘をついたので、明け方の鐘は午前6時だったとみられる。林芙美子は旭町の「木賃宿」に泊まりながら、天龍寺の午前6時を告げる時の鐘の音を垢じみた蒲団の中で聞いていたのだろうか?

◆写真上:天龍寺に残る「江戸三名鐘」のひとつ、1767年(明和4)に鋳造された時の鐘。
◆写真中上は、1862年(文久2)に作成された尾張屋清七版による江戸切絵図「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」。は、1899年(明治32)に作成された1/20,000の「東京全図」にみる内藤新宿南町の界隈。は、新宿4丁目にある天龍寺山門の現状。
◆写真中下は、1935~38年(昭和10~13)ごろに作成された新宿駅周辺の「火保図」にみる四谷区旭町。は、新宿4丁目(旧・旭町)のいまに残る旅館街。右手は天龍寺の墓地だが、昔日の面影は薄い。は、あちこち「放浪」した時代に撮影された林芙美子。
◆写真下は、1941年(昭和16)に作成された「淀橋区詳細図」にみる旭町界隈。は、1957年(昭和32)に撮影された新宿駅甲州口(南口)で、徒歩5分ほどにある旭町は安宿と街娼の巣窟だった。は、1960年代に作成された「東京都全住宅案内帳」の新宿4丁目(旧・旭町)界隈。町内を北東から南西へ貫通する明治通りの敷設で、旧・旭町は斜め東西に分断されてしまった。
おまけ
 旭町に住みつき、角筈1丁目の武蔵野館横に天城俊彦が開設した天城画廊で、盛んに個展を開いていたのが長谷川利行だ。1935年(昭和10)ごろに制作された長谷川利行『新宿風景』の1作。下の写真は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲下における照明弾に照らされた旭町。
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