馬ばかり作って有名になった彫刻家・三井高義。

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 下落合を舞台にしたドラマ『さよなら・今日は』(1973~1974年)で、彫刻家のアトリエを改造し喫茶店「鉄の馬」を開業していたシーンを、期せずして思いだしてしまった。カレーを食べながら、大阪からやってきた緒形拳が「しかし、ここはなんで、こう馬ばっかりあるんやろな?」と訊くと、カウンターで仕事をしていた大原麗子が「でも面白いわよね、馬ばっかり彫って有名になった(彫刻家)なんて」と答えるドラマの初回(1973年10月6日)、以下のシーンだ。
 その「馬」の作品ばかり作って有名になった彫刻家が、実際に下落合でアトリエをかまえていた。下落合1丁目414番地(現・下落合2丁目)、当時の近衛町1号の敷地に住んでいたのは三井高義だ。まさかと思ったけれど、ほんとうに下落合で暮らしており、しかも戦前から戦後にかけ一貫して同住所を動かずににアトリエをかまえていた。同敷地には、近衛町の開発とほぼ同時に、彫刻家で島津マネキンの開発者としても有名な島津良蔵が住んでいたので、ふたりとも東京美術学校の出身であり、ひょっとすると同業のよしみから京都へもどる島津良蔵が、そのまま三井高義へ住宅やアトリエごと譲っているのかもしれない。
 島津良蔵は、1932年(昭和7)まで近衛町の同番地にいたことが、東京美術学校の卒業生名簿で確認できるが、翌1933年(昭和8)の同校名簿には京都市中京区東洞院御池上ルに転居しており、このころにアトリエの住人が三井高義へと交代しているのだろう。島津良蔵は、1926年(大正15)3月に東京美術学校塑造部を卒業しているが、三井高義も1930年(昭和5)3月に同校のやはり塑造部を卒業しているので、学年は島津が三井の5年先輩ということになる。
 ただ、馬ばかり作って有名になった彫刻家の「吉良アトリエ」は、大正期から画家たちが集合して住んでいた薬王院の北西側にあたる、下落合2丁目801番地だと浅丘ルリ子が劇中で証言しているし、同家の居間からは落合第四小学校のチャイムが近くに聞こえ、また出勤する家族たちは相馬坂を下って高田馬場駅まで歩いているので、ドラマの制作者たちは下落合(現・中落合/中井含む)東部のどこか……ということで設定したかったのだろう。w
 三井高義は、1903年(明治36)に東京市の麹町で生まれているが、1987年(昭和62)まで健在だったので、当然ドラマの放映当時は68歳と、いまだ旺盛に作品を制作していた時期にあたる。ひょっとすると、NTV開局20周年記念の同ドラマで小道具として使われた数多くの馬彫刻は、すべて三井高義が協力して提供したものであり、「吉良家」の大きなアトリエつき西洋館は、近衛町の三井アトリエがモデルになっているのかもしれない。NTVの経営陣あるいはドラマのプロデューサーに、三井高義と親しい人物でもいたものだろうか。
 ただし、三井アトリエは1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲で焼けているので、それ以前に建てられた西洋館は戦後まで残っていなかったはずだ。したがって、アトリエ付きの大正建築が舞台だった「吉良邸」とは設定が一致していない。また、島津良蔵の住宅兼アトリエを受け継いだと思われる三井高義は、1936~1938年(昭和11~13)の間に自邸を大幅に増築するか、ないしは建て替えをしている。1936年(昭和11)の空中写真に写る同邸と、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同邸とは、形状がまったく異なっているからだ。
 大正期に近衛町へ建設され、島津良蔵アトリエから三井高義アトリエに引き継がれた、屋敷林に囲まれ門から奥まった位置にある西洋館、あるいは1936年(昭和11)すぎにかなり大きな屋敷へと建て替えられているとみられ、空襲で焼失してしまう戦前の三井アトリエの写真をともに探したが、残念ながら見つけることはできなかった。
 三井高義は、三井財閥における一本松家の裕福な当主なので、他の芸術家たちとは異なり、生涯にわたり生活の心配はなかったと思われる。1930年(昭和5)に東京美術学校を卒業すると、さまざまなものをモチーフに作品を制作しはじめるが、ほどなく多種多様な種類の馬をモチーフにした彫刻づくりに傾倒していく。1987年(昭和62)に立風書房から出版された佐藤朝泰『門閥』より、簡単な紹介文を引用してみよう。
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 一本松家の現当主は三井高義。明治三十六年十月生まれ・昭和五年美校を卒業。馬の彫刻では右に出るものがいないという異色の三井一族。幻の名馬「トキノミノル号」「五冠馬シンザン号」の記念像の製作者としても知られている。
  
 競馬好きの方なら、一度は耳にしたことのある名馬だと思うが、これらは三井高義が競馬界から依頼され戦後に制作された作品群であり、美校を卒業した彼は、帝展や日仏展、新文展などへ作品を出品し、帝展では7回ほど入選している。全日本彫塑家連盟の会員で、戦時中は日本美術報国会の代議会員にも就任していた。帝展系の彫刻家集団「第三部会」では、特選につづき無鑑査会員となっている。また、自身が中心となって1933年(昭和8)ごろに結成したとみられる「五年会」展でも、定期的に作品を発表しつづけていた。
 三井高義の馬好きは、どうやら父親で三井一本松家の創立者だった三井高信(三井得右衛門)ゆずりのようだ。三井高信には、馬に関するエピソードが数多く残されているが、今日では法規を無視する傍若無人な「上級国民」と批判されそうな逸話も多い。父・高信に関して、落合地域の近くで起きたエピソードがらみでご紹介すると、下落合から2kmほど下流の旧・神田上水にクルマごと転落して事故死した、初代・東京駅長の高橋善一との「馬」エピソードが有名だろうか。1959年(昭和34)に東西文明社から出版された、加東源蔵『東京駅発車 ゆうもあ号』から引用してみよう。
  
 五慶庵の裏は、すぐ講談社の野間さんのお屋敷で、昔の芭蕉庵のあった所である。/初代の東京駅長であった高橋さんが、駅長をやめるとすぐに、渡辺治右衛門さんのお世話でこの芭蕉庵に仮住居をされたのであったが、たまたま自動車の試運転に乗って、江戸川へ落ちて即死をされた。(中略) 三井高義さんのお父さんは、高橋駅長と非常に懇意にしておられたそうであるが、ある時、外国から珍らしい種類の馬を買っておいでになって昔の新橋の駅へ貨車で到着した時に、高橋駅長にたのんで、改札口を通そうとされたところ、若いまじめな改札係が故障をいったので困っておられると、高橋駅長があとからやって来て、/「ああそれは犬だ。通してやれ」/といって、さっさと通してしまったということである。
  
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 三井高義が子ども時代の思い出だが、「野間さん」は目白山(=椿山/現・文京区関口)の胸突き坂を上がったところに現存する、下落合の吉屋信子もお呼ばれしていた野間清治邸(現・野間記念館)であり、「芭蕉庵」は神田上水の工事に従事したといわれている松尾芭蕉が滞在していた関口芭蕉庵のことだ。また、高橋善一がクルマごと転落したのは大洗堰(現・大滝橋あたり)の上流であり、文中には「江戸川」とあるが旧・神田上水が正しい表現だろう。
 高橋善一が事故死したのは1923年(大正12)のことなので、三井高義が父親からこの話を聞いたのは、東京美術学校に入学する以前の中学時代のことだろうか。ちょうどそのころに撮影された愛馬「老松号」にまたがる、三井高義の写真が残されている。(冒頭写真)
 敗戦後、GHQによる財閥解体が進むと、三井高義は競馬の競争馬を制作することが多くなった。また、馬に限らずイヌやニワトリなどの動物彫刻、いわゆる一般に販売する“売り彫刻”も多く手がけるようになり、逆境の家計を支えていたようだ。競馬は、本人も好きだったのかもしれないが、馬彫刻で有名な彼に競馬界からの依頼も増えていったようだ。
 そのような状況のなかで、1回めの東京オリンピックが開かれた1964年(昭和39)に、戦後の日本競馬界を代表するシンザン号の制作を依頼されている。シンザン号は、同年に戦後初となる日本クラシックの三冠馬となり、翌1965年(昭和40)には天皇賞と有馬記念でもつづけて優勝したため、「五冠馬シンザン号」と呼ばれるようになった名馬だ。三井高義は、1964年(昭和39)の三冠馬時代にブロンズで『三冠馬シンザン』を制作している。
 三井高義の制作途上を取材したとみられる、1966年(昭和41)に中央競馬会から刊行された『蹄跡/昭和40年度』収録の、「ブロンズ像/三冠馬シンザン」から引用してみよう。
  
 40年間 馬を彫りつづけた彫刻家が ある日 シンザンを彫ることになった/彫刻家は 見て愕いた 一段上から人間を見下しているような シンザンの風格に/彫刻家は 彫り始めて目を瞠った これほど狂いのない脚があるのかと/彫刻家は 彫りつづけて茫然とした おれは馬に負けてしまったのではないかと/朝に 夕に 彫刻家は シンザンを見た さわってみた 話してみた/彫刻家は 彫りつづけた 負けて似せたくなるのを 懸命に怺えながら/「おれが彫りたいのは シンザンそのもの!」/40日後 彫刻家は ノミを置いた/像を前にして 彫刻家は懐う 「やはり負けた 苦しかった だが 幸せだった――」と
  
 シンザンの彫刻はその後、横浜や北海道、京都など競馬場にゆかりの各地に建立されている。
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 三井高義は、観世流の謡曲(能楽)にも造詣が深かったが、これもまた父親の三井高信から受け継いだ趣味のひとつだった。能雑誌などを参照していると、しばしば三井高義のネームを見かけ、「安達原」や「俊寛」などの舞台で謡っていた記録が残されている。自邸とともに能舞台も併設されていた、近くの観世喜之邸にも親しく出入りしていたのかもしれない。下落合414番地の三井アトリエと下落合515番地の観世邸とは、直線距離でわずか280mほどしか離れていない。

◆写真上:大正末に撮影されたとみられる、愛馬「老松号」に乗った三井高義。
◆写真中上は、下落合414番地に住んだ島津良蔵()と三井高義()。中上は、1945年(昭和20)4月2日の空襲直前に撮影された三井アトリエ。中下は、1933年(昭和8)撮影の「五年社」記念写真(三井高義は中央右)。は、1926年(大正15)制作の三井高義『のり馬』。
◆写真中下からへ、三井高義が制作した『繋がれた馬』(1927年)、『老』(1928年)、『乗馬婦人』(1934年)、『馬車馬』(1957年)の多彩な馬をモチーフにした作品群。
◆写真下からへ、同じく三井高義の制作による『組馬』(1962年)、『放たれた喜び』(1967年)、『組馬コンポヂッション』(1983年)、そしてもっとも有名な『三冠馬シンザン』(1964年)。
おまけ
 1975年(昭和50)の空中写真にみる、近衛町1号(現・下落合2丁目)の三井高義アトリエ。
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