東京近郊の農村としての落合地域。(上)

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 落合村(町)葛ヶ谷(のち西落合)に住んでいた伊佐アキという方は、91歳のときに地元の暮らしについてのインタビューを受けている。隣りの野方村(町)江古田の農家に生まれ、1921年(大正10)に見合い結婚をして葛ヶ谷(のち西落合)の農家に嫁いできた。彼女については、かなり前に西落合の生活について子息の伊佐孝孔の証言もご紹介している。
 江古田時代は、父母に次々と子どもが生まれて兄弟姉妹は10人もおり、その子守りに追われて尋常小学校は2年間ぐらいしか通わなかったそうだ。娘になると、家事や行儀作法をおぼえ見習うため、江古田の名主だった深野家に4年間ほど奉公している。江古田周辺は「深野」姓が多く、彼女が生まれた家も深野の苗字だった。旧・名主の深野家では、特に針仕事が上達して、人の体型を見ただけで採寸なしでも着物が縫えるようになった。4年間の奉公での仕事は、深野家の子どもたちを野方東尋常小学校(現・江古田小学校)へ送迎することだったようだ。
 彼女は、見合いをしてから一度も夫となる人物には逢えず、いきなり結婚式の日を迎えている。夜の22時ごろ、江古田の実家から角隠しをした花嫁姿で、家族親戚とともに田畑の中を葛ヶ谷(西落合)まで行列をつくって歩いてきた。行列は、手に手に松明をもって周囲を照らし、花嫁には高僧が用いるような大きな和傘がさしかけられたという。結婚式の広間へ通されると、夜が明けるまで親族の酒盛りがつづいた。このような証言を聞くと、落合地域は大正中期ぐらいまで江戸近郊の農村の面影を色濃く残していたのだと実感する。
 結婚式の間、花嫁は飲食がまったくできず、ご馳走を前にただ座りつづけなければならなかった。ほとんど拷問に近いようなしきたりだが、江古田の実家でもそれを承知しているので、彼女は出発する前に多めの食事をとってきていた。翌朝を迎えると、ようやく朝ご飯を食べることができるのだが、その時点で仲人は披露宴から抜けて帰ったようだ。仲人には、お土産や披露宴でのご馳走をたくさん持たせて帰すのが決まりだった。
 翌日に、ようやく家族親戚が引き上げると、今度は近所の人たちが手伝いに集まって、やはり夜どおしの酒盛りになったらしい。近所の女性たちは、お勝手(台所)に集まり料理を作っては、宴会場へ膳や酒を運ぶのを手伝っていた。また、台所では“おはぎ”を大量にこしらえている。花嫁が、その家に末永く居座ってほしいという願いから、それら“おはぎ”は「ぶっつわりぼた餅」(打っ居座り牡丹餅?)と呼ばれていた。
 これら結婚式や葬式などの行事には、念仏講の「東組」「中組」「西組」から5~6人の人たちが手伝いにきていた。伊佐アキという方の組は「西組」だったが、以前にご紹介した麹町区三番町から西落合へ嫁いできた、貫井冨美子という方が属していた念仏講は「中組」だったので、ふたりの間に深い交流はなかったかもしれない。
 念仏講の講中が、台所で「ぶっつわりぼた餅」を作って配るのが婚礼のクライマックスではまったくなく、祝儀は3日目もつづけられるので花嫁はもうヘトヘトで嫌になっただろう。男たちが、婚礼の広間で相変わらず酒とご馳走を食べている間、花嫁は翌々日になると伊佐家の祖母に連れられて、チャーターした俥(じんりき)で嫁の“顔見せ”として近くの親戚じゅうをまわらなければならなかった。現代では信じられない結婚披露であり風習だが、いまから100年前に落合地域で実際に行われていた3日がかりの結婚式の模様だ。
 同時代に、東京の市街地で行われていた結婚式や披露宴と比べると、ことさら女性の負荷がメチャクチャ高く、まるで東京とは別の地方の風俗を見ているようで驚かされる。ちなみに、現代では結婚して落合地域に住むようになる女性が、結婚式の間はご馳走を目の前にして飲食禁止の“おあずけ”など到底ありえないし、ハイヤーをチャーターして義祖母や姑とともに姻戚まわりも考えられず、「ぶっつわりぼた餅」を無理やり口に押しこまれることもないので、(城)下町出身の女性のみなさんはご安心を。(爆!) 上の子と結婚した根が本郷の娘も、落合地域の風情がとても気に入っているようなので、いちおう念のため……。w
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 結婚式が終わると、彼女は落ち着いてゆっくりしているヒマもなく、家の農作業を手伝わなければならなかった。義父母をはじめ小姑も3人いて、いろいろイヤなこともいわれたようだ。1993年(平成5)に新宿区立婦人情報センターから刊行された『新宿に生きた女性たちⅡ』収録の、伊佐アキ『落合に農家の暮しを守りぬいて』から引用してみよう。
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 春から夏の忙しい時は、朝四時頃起きて日が暮れるまで畑にいるの。暑い時は、昼間三時頃まで寝て、夕方又働いた。お昼はうちに食べに帰ってたけど、三時頃にはお茶うけっていうのがあるの。暮やお正月や寒に、米、黍、もろこしで搗いたお餅を四月か五月位までもつように作っておいて、鉄のほうろく鍋で焼いてお醤油つけて、やかん持って畑に行ったの。子どもも少し大きくなると、朝、茄子を切ったり胡瓜やトマトやとうもろこしをかいたりして手伝ったよ。/春から夏にかけて作った前菜物は、茄子、トマト、胡瓜、とうもろこし、瓜、冬瓜(とうがん)、この冬瓜は、南瓜みたいに丸くて真っ白に粉がふいてて、刺だらけで手では持てない位だったけど、お汁に入れたり、鰹節かけて醤油味で食べると美味しかったよ。それから、なた豆、葉唐辛子も作ってた。秋は小蕪、山東白菜、大根。もみ大根って、うろ抜いたのを塩漬けにして食べると美味しかったよ。冬はほとんど用はなかったよ。
  
 米と黍(きび)とを混ぜた黄色い黍餅(トウモロコシは入っていない)は、つけ焼きにすると独特な香ばしさが美味しく、白餅や玄米餅とともにわが家でも好きな餅のひとつだ。前菜物(青物=野菜)は、落合地域のどこでも作付けされていた品種だが、貫井冨美子という方の話に出ていた狭山茶の茶畑は、特に登場していない。茶畑は手がかかるため、人手あるいは経済的に余裕のある農家が手をだしていた作物だったものだろうか。
 また、伊佐家では荷運び用の牛も飼っており、おもに夫が世話をしていた。牛は荷物を運んだり、市街地から契約家庭や施設の下肥えを運搬するのに使っていたそうだ。伊佐家の北側にあたる近所には、斎藤家が経営していた斎藤牧場もあって、付近でははそれほどめずらしい動物ではなかっただろう。早朝に収穫した野菜・果実類は、孟宗竹を割いてで編んだ「エンロ籠」(遠路籠?)に入れて、ヤッチャバ(青物市場)まで牛車で運んでいた。
 大正期のヤッチャバは近くにいくつかあって、おもに出かけたのは椎名町にあった「八百六」(現・南長崎2丁目あたり)、別名が「六兵衛」「六さん」と呼ばれていた、規模の小さな私営市場だったようだ。この青物市場は、ダット乗合自動車車庫や椎名町交番の西並び、1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」では、長崎町大和田1965番地に採取されている「八百ヤ〇〇小ヤ」のことではないだろうか。ちょうど、目白通りから長崎バス通りへと入るすぐ右手にある施設だ。
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 ほかに、早稲田の砂利場(南蔵院のあるあたり)や江古田にも市場はあったが、運搬がたいへんなので「八百六」での競りが中心だったらしい。競りは夜の19~20時ごろにはじまり、終わるのはたいてい21時をまわっていた。牛車1台の野菜が、5~7円ぐらいで取引きされており、豊作の場合は3~3.5円ぐらいの値だったという。
 市場への運搬は重労働なので、おもに男たちの仕事だった。「仕切りが良い」(高額で競り落とされた)ときは、帰りに椎名町で1杯飲んで帰るのが男たちの楽しみだったようだ。近くの市場ではなく、神田の青果市場へ出かけるときは、夜ではなく朝荷と呼んで午前1時ごろに葛ヶ谷を出発している。中通り(葛ヶ谷街道)など、当時の葛ヶ谷は土の上に砂利が敷かれただけの道路が多く、鉄輪をはめた牛車や大八車の車輪の音が、未明からあたり一帯に響きわたっていた。
 葛ヶ谷(のち西落合)でも、ダイコンの栽培には力を入れていたようだ。収穫したダイコンは干して、100樽ほどの沢庵漬けを作っていた。落合柿と同様に、それの仕込みが終わるころには仲買人が農家の間をまわって、「証紙」(売約済み)の札を貼って歩いている。葛ヶ谷の農家では、陸軍に納める沢庵漬けの買い占めが多かったらしい。
 ダイコンを育てるのはたいへんで、雨風や台風がくるとすぐに畝(うね)が崩れてしまうため、それを盛りなおすのに手間がかかった。11月の終わりごろに収穫すると、それを洗う作業も体力のいる仕事だった。下落合には、収穫した作物を洗う湧水の“洗い場”が数多く存在していたが、西落合ではいちいち盥(たらい)に井戸水を張っては、サメ皮でていねいに洗っていたようだ。タワシで洗うより、サメ皮で洗ったほうが乾きが早いし見栄えもよかったという。夜間に洗ったダイコンは、朝になると10本ぐらいずつ束ねては干していた。干したダイコンは、凍らせては美味しい沢庵漬けにはならないので、乾燥した北風が吹くなかでの温度調節もたいへんだったろう。
 農作業の様子を、もう少し『落合に農家の暮しを守りぬいて』から引用してみよう。
  
 畑仕事するには、木綿の単衣ものを着て、手甲、脚絆に足袋はだしで、被り笠かぶってたよ。子どもの世話はおばあさんがしたり、実家に頼んで来てもらったりしてたね。/戦後は、西落合で農家やってるうちの五軒だけが杉並と中野の杉中農協っていうのに入ってて、麦とさつま芋を供出してたよ。戦後は、昭和二十五年位まで農家やってたの。だんだんに、食糧もないとはいっても、少しずつ配給とかでも出回ってきたし、土地も返してくれって言われて、そこに建物なんか建てちゃってね。
  
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 大正期には、江戸期の葛ヶ谷村時代とあまり変わらないような農村風景だったものが、昭和期に入ると徐々に宅地化の波が押し寄せてくるようになった。戦後になると、農地が削られて大きな屋敷が建ち並ぶ閑静な住宅街となり、田畑が減って造成済みの宅地ばかりが目立つようになる。
                                    <つづく>

◆写真上:伊佐アキという方が奉公にいった、江古田の旧・名主だった深野家玄関。
◆写真中上は、深野家の屋敷内に奉られていた御嶽社の祠。落合地域と同様に、江古田地域でも御嶽信仰が盛んだったようだ。は、落合地域へと流れる井草流(現・妙正寺川)と中新井川(現・江古田川)との合流点。は、1921年(大正10)に作成された1/10,000地形図にみる当時の落合村(大字)葛ヶ谷。彼女が嫁いだのは、葛ヶ谷394番地あたりの農家だとみられる。同住所は、昭和期に入ると西落合1丁目259番地(現・西落合3丁目)に変更されている。
◆写真中下は、大正期に撮影された井上哲学堂前(南側)の畑で収穫された大量のダイコンの寒風干し。は、当時は10本前後を束ねて干すのが一般的だった。は、1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」にみる大和田1965番地。椎名町交番の並びに記載されている、「八百ヤ〇〇小ヤ」が「六兵衛さん」の私設市場ではないかと思われる。
◆写真下は、1955年(昭和30)ごろに撮影された西落合風景。モダンな住宅と、茅葺きの農家に畑が混在する住宅地だった。は、西落合の住宅街に建つ大邸宅群。
おまけ
 西落合1丁目303番地(現・西落合4丁目)にアトリエがあった、鬼頭鍋三郎が1932年(昭和7)にスケッチした素描『牛』。西落合の農家で飼われていた、荷運び用の牛を描いたものだろうか。
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