東京郊外に設置された住宅街の水道タンク。

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 子どものころ、横浜に住む母方の祖父の家へ向かうとき、坂道をのぼっていると丘上に水道タンクが見えたのを思いだす。横から見ると三味のバチのような、上部へいくほど末広がりになっており、コンクリート製で白いタイル貼りの意匠をしていた。当時の水道は圧力も低く、丘上の住宅街へ配水の安定化をめざし設置されたものだろう。親たちは道すがら「ウォータータンク」と呼んでいたが、横浜は起伏の多い街並みのためタンクは随所にあったのだろう。
 また、郊外などに「〇〇団地」と呼ばれた、4~5階建てのアパート群がまとめて建てられると、さまざまな形状の水道タンクが設置されている。これも、建物の高層階へ水道水をスムーズに配水するための施設だった。地域によって、水道タンクのデザインが多種多様なため、それを観察するのも面白かった。地面からニョキッと生えた、ツクシかキノコのようなかたちをした水道タンクは、どこか子ども心を強く惹きつけるデザインであり構造物だった。
 西落合に接した、すぐ隣りにある荒玉水道野方配水塔も独特なかたちをしていて、わたしは近くを通るたびついカメラを向けたくなる。1931年(昭和6)に竣工しているが、下落合への通水は3年ほど早い1928年(昭和3)からだった。この野方配水塔も、目白崖線の丘上にある住宅街へ水道水を安定して供給するための施設だった。タンク内に大量の水を貯め、重力によってかかる圧力を活用して配水する、いわゆる「自然流下法」による仕組みだ。でも、下落合に荒玉水道はなかなか普及せず、より美味な地下水を使うお宅が戦後までつづいた。
 現代では水道水の圧力が高く、丘上の住宅地でも水道タンクをニョキッと建てる必要性は低いだろうし、超高層マンションは地下に埋設されたポンプ付きの大型水槽から圧力をかけ、高層階まで配水しているのだろう。(だから武蔵小杉ケースのように停電時や災害時には脆弱で、大きなリスクをともなうのだが) また、東京郊外などでたまに見かける水道タンクを設置した住宅は、地下水をポンプで汲みあげて貯水しているとみられる。東京の水道水は、前世紀に比べれば飛躍的に「美味しく」はなったが、地下水のほうがより美味しいと感じる方もいるにちがいない。ちなみに、関東ロームの下から汲みあげる下落合の井戸水は、いまの水道水よりも美味しい。戦後も、ずっと水道水を使わなかった、住民のみなさんのこだわりが理解できる。
 少し前に、山口諭助の『下落合風景』との関連で、下落合に設置されていた第一文化村の水道タンクについて記事にしたが、きょうはもう少し詳しくこれらの水道タンクについて書いてみたい。大正期から昭和初期にかけ、下落合の住宅街で見られた水道タンクは、もちろん水道水のものではない。井戸に設置されたポンプで地下水を汲みあげ、それをタンクに貯水して自然流下法により配水する方式だった。したがって、タンクの配水エリアに住宅の数が増え、水道の利用家庭が急増するにつれて、水道水の圧力が減衰するためタンクの位置をより高くするか、あるいはより大規模な水道タンクに建て替える必要が生じただろう。
 当時の水道タンクについて、その配水方式を解説する1931年(昭和6)に文精社から出版された木代嘉樹『上水道』より、少しだけ引用してみよう。
  
 配水ノ方法ヲ大別シテ次ノ二ツトス。
 (1)自然流下法
 (2)喞筒(ポンプ)送水法
 自然下流法トハ高キ所ヨリ低キ所ニ重力ニヨリテ送水スル方法ニシテ喞筒送水法トハ之ト反対ニ低キ所ノ水ヲ高キ所ニ送ル方法ニシテ之ニハ喞筒ヲ使用シテ行フ。/自然下流法ハ多ク低地ノ給水ヲ行ヒ、喞筒(ポンプ)送水法ハ高地ノ給水ヲ行フ、然シ地勢ニ応ジテ適当ニ取捨スルヲ要ス。/喞筒式ノ運転費ハ水道ノ維持費中最モ多額ニ上ル故ニ可成自然下流法ニヨルヲ可トスレドモソノ為メニ水路ノ延長甚シク長クナルトキハ両方ノ工費ヲ比較シテ決定スルモノトス。(カッコ内引用者註)
  
山口諭助「下落合風景」1925(部分).jpg
松下春雄「五月野茨を摘む」1925(部分).jpg
松下春雄「風景」1925(部分).jpg
佐伯祐三「雪景色」1926頃(部分).jpg
 昭和初期の当時、ポンプによる送水法はコストもかかり、自然流下法に比べあまり推奨されていなかった様子がうかがえる。したがって、当初は水道が引かれていなかった東京郊外の住宅地では、井戸から地下水をポンプで汲みあげ、高さのあるタンクへ一度貯水することで、あとは自然流下法による配水設備を整備していったのだろう。
 また、市街地で水道が引かれてはいても、アパートなど集合住宅の多棟建設により戸数が一気に増えるケースなどでは、各家庭への配水圧力が不足するため、街中の団地などでも専用の水道タンクが設置されていた。それらは、多種多様なデザインや意匠をしており、タンクや組みあげた鉄骨がむき出しのものもあれば、それらを覆い隠しまるで中世ヨーロッパの尖塔のような形状のものまでさまざまだった。だから、ことさら子どもの目を惹いたのだろう。
 大正期から昭和初期にかけ、各地で建設された水道タンク(配水塔)の意匠について、1934年(昭和9)に淀屋書店から出版された加藤恒雄『上水工学』の、「配水塔」から引用してみよう。
  
 配水塔(Elevated tank)
 竪管の下方部は水圧の為めには效用少いから,下部を剛鉄或は混凝土(コンクリート)の基礎脚となし上部に水槽を置いたものである,水槽も主に剛鉄或は混凝土にてつくられ幅或は径に対して,高さは少し大にする,底部は半円或は楕円形とするのが普通で,又は拱形(きょうけい=アーチ)とすることもある。(カッコ内引用者註)
  
 以前にご紹介した第一文化村の水道タンクは、第二文化村の水道タンクに比べてかなり背が高い。1923年(大正12)の夏に、埋め立てを完了した第一文化村の前谷戸部だが、箱根土地本社の並びに建設された住宅群は少し高い位置にあるので、それだけ配水圧力を必要としていたのだろう。
佐伯祐三「タンク」1926頃(部分).jpg
水道タンク側面図1931.jpg
水道タンク(水戸).jpg
 また、目白文化村のエリアに住宅が増えるにつれ、水道の圧力が減衰してきた事情があるのかもしれない。1925年(大正14)に松下春雄が制作した『五月野茨を摘む』に描かれている第一文化村の水道タンクと、1935年(昭和10)ごろに斜めフカンから撮影された同水道タンクとでは、高さが異なっているようにも感じる。後者のほうが、タンクの位置がかなり高いように見えるし、またタンク自体もサイズが大きくなっているように思えるのだ。もしかしたら、昭和初期に入ると目白文化村には住宅がさらに増えつづけ、各戸への配水圧力が弱まったため、水道タンクの大型化とともにより高い位置へ設置する必要性が生じたのではないだろうか。もっとも、松下春雄が構図のバランスを考え、やや低めに描いた可能性も否定はできないが。
 第一文化村の水道タンクに比べ、第二文化村の水道タンクは同じ高さを保っているように見える。これは、同エリアに高い敷地へ給水する必要がなかったからで、むしろ下り斜面(振り子坂など)に建つ住宅を考慮すれば、それほど配水圧の心配がいらなかったからだろう。また、第三文化村にも水道タンクがあったと、かなり以前に古老からうかがっていたが、斜めフカンの空中写真では目白会館文化アパートの南東側に見えている、なんらかの細めな突起物がそれだろうか。地図で確認しても、この位置に火の見櫓は設置されていなかったはずだ。
 水道タンクでは、もうひとつ若いころの思い出がある。大学を卒業してすぐのころ、1982年(昭和57)からしばらく住んでいた下落合のマンションで、水道に細かな黒い鉄錆が混じることがあった。契約業者が、屋上にある水槽の定期清掃をサボっているのではないかと住民の間でウワサになり、なぜかわたしが屋上へ上がり、球体の水槽に設置された梯子を登って確認してくることになった。山ではけっこう高所まで平気で登るくせに、ビルなど人工物の高いところが苦手なわたしは、水槽の上まで登って尻がムズムズし、足がすくんでしまったことを憶えている。
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水道タンク(長岡).jpg 水道タンク設計図(長岡).jpg
戦後の水道タンク(浦和).jpg
 屋上の縁には、30cmほどの段差があるだけで柵もなく、足を踏み外せば15~16m下の聖母坂まで真っさかさまに落下しないともかぎらない。まあ、万一なにかあっても、目の前が救急も受け入れる大規模な国際聖母病院なので、すぐに担ぎこまれ治療を受けられるのでなんとかなるなどと、のんきに考えていた憶えがある。15~16mの落下では、どうにもならなかったと思うのだが。

◆写真上戸山アパートなどの集合住宅に設置されていた、かなりの高さのある水道タンク。
◆写真中上は、1925年(大正14)制作の山口諭助『下落合風景』(部分)に描かれた第一文化村の水道タンク。中上は、同年の松下春雄『五月野茨を摘む』(部分)の同タンク。中下は、同年の松下春雄『風景』(部分)に描かれた同タンク。は、1926年(大正15)ごろ「下落合風景」シリーズとして制作された佐伯祐三『雪景色』(部分)の同タンク。
◆写真中下は、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三『タンク』(部分)に登場する第二文化村の水道タンク。は、昭和初期には一般的だった住宅地に設置される水道タンクの側面図。は、茨城県水戸市に残る住宅街の水道タンク。
◆写真下は1974年(昭和49)に撮影された空中写真にみる戸山アパートの水道タンク。は、1927年(昭和2)に竣工した新潟県長岡市の浄水場に設置された水道タンク()とその設計図()。は、戦後に埼玉県浦和市(現・さいたま市)の住宅街にに建設された水道タンク。
おまけ
 1935年(昭和10)ごろに斜めフカンから撮影された。第一文化村の水道タンク×2葉。松下春雄が描く水道タンクよりもいくらか高そうに見えるので、目白文化村の住宅が急増した昭和初期に、流下圧を向上させるためにかさ上げ工事をしているのかもしれない。
第一文化村水道タンク1930頃1.jpg
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