大正期の「名探偵になるまで」のノウハウ本。

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 大正末から昭和初期にかけ、ベストセラーの実用書に中目黒にあった出版社・章華舎から刊行されていた、「なるまで叢書」シリーズというのがあった。「なるまで」は、そのまま「〇〇になるまで」という、とある職業の「〇〇」になるための方法論やノウハウを記した内容で、「〇〇」は当時のあこがれで人気があった職業名があてられている。1926年(大正15)現在で、すでに50編の叢書が出版されている。
 たとえば、叢書シリーズには『野球選手になるまで』『博士になるまで』『新聞記者になるまで』『囲碁初段になるまで』『将棋初段になるまで』など、それをめざす人なら明日から参考になりそうな実用書もあるけれど、『美人になるまで』『スタアになるまで』『大臣になるまで』など、本人の努力のみではなかなか困難な職業もあったりする。ちなみに、「美人」になるには多彩な勉強や訓練が必要なようだが、もって生まれた容姿はなかなか変化しないので、「美人に(見えるように)なるまで」という、かなり個人差のありそうな主観的な評価のことらしい。
 「なるまで叢書」シリーズの中より、今回は第3編『名探偵になるまで』について少し内容をご紹介してみよう。まず、「名探偵」と呼ばれる職業には警察官(刑事)と私立探偵とがあるが、私立探偵の場合は男女を問わずに就ける職業だと規定している。日本における私立探偵事務所の設立は、1909年(明治42)に岩井三郎が設立した探偵社が嚆矢とされているが、探偵事務所は元手(資本)がほとんど不要なため、関東大震災の直後から東京府内では急増した職業のひとつだ。当時の推理小説ブームと相まって、大正末の警視庁による調査では100社を軽く超えていたという。
 大正時代の大手探偵事務所としては、衆議院(現・千代田区霞が関)に近接した「明審社」と、牛込原町(現・新宿区原町)の「東京探偵社」が広く知られていた。大正後期の探偵事務所には、すでに10人以上の女性探偵がいたと記録されている。当時の探偵仕事は、人物の素行調査や信用調査、結婚の身許調査、弁護士事務所からの証拠調査、家出人(行方不明者)の捜索、不動産の価格調査などがメインだが、今日ではストレートな個人情報漏洩となるので出版されなくなった、各分野の興信録(紳士録)の編集も手がけていた。
 特に身許調査や信用調査などでは、女性探偵が調査にあたると証人もつい気を許して詳細を話してくれたり、素行調査の尾行などでは女性探偵のほうが気づかれにくいという大きなメリットがあった。探偵社に就職すると、まずは試用期間に男女を問わず尾行のテストを数ヶ月間させられたようで、これがうまく達成できないと「キミは探偵に向かないよ」といわれ、正社員には採用してもらえなかったようだ。
 おもしろいエピソードも紹介されていて、とある独身サラリーマンが毎朝電車でいっしょになる美しい女性が気になり、丸ノ内の丸ビルに入る彼女を目撃して、「勤め先を知りたい!」という依頼が探偵事務所にあった。さっそく、新人の中でも優秀な青年探偵が、彼女を待ちぶせして尾行をはじめたのだが、彼女はなぜか丸ビルの1階からエレベーターには乗らず、丸ビルを小走りで通りぬけ隣りの郵船ビルに入ると階段を一気に駆けあがりはじめた。探偵が急いであとを追うが、途中で清掃夫が彼の前に立ちはだかり、その場でボコボコに殴られてしまった。
 彼女は丸ビルに入ると同時に、1階に連なる店舗の鏡面のようになったショウウィンドウに映る、自分を執拗に尾行してくる怪しい男にすでに気づいており、変質者か変態ストーカーだと判断した彼女は(おそらく過去にもそのような事例を経験をしていたのだろう)、すぐに隣りの郵船ビルに逃げこんで清掃夫らに助けを求めたのだった。丸ノ内のOGに尾行をたやすく見破られ、階段でボコボコにされたこの新人で優秀な青年探偵が、その後も事務所で雇用しつづけてもらえたかどうかはさだかでない。同書では男性探偵よりも、むしろ女性探偵のほうが有望であるとしている。
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 第3編『名探偵になるまで』から、女性探偵について少し引用してみよう。
  
 女探偵は或る場合には男よりも便利であると云はれてゐる。即ち、女の身許を調べるとか、女の家出人を捜すとかいふ場合は女同志(ママ:同士)の方が警戒されず、自然成績も挙るし(ママ)、家出人を匿つた家へ行く場合なども、家族は多く女であるから女同志(ママ)の方が懇意になつて事実を引出すにも便利であり、或る場合は子供を連れて訪問すると、非常に都合がいゝといふ。適任者さへあれば女探偵の仕事は無限にあると云つて差支へない。/一体人間には誰しも探偵的興味のあるものであり、殊に女には男より多いと云はれてゐる位であるし、女は直覚の点では男以上であるから、或る意味に於ては男よりも適任であるかも知れない。日本にも軈(やが)ては女の名探偵が現はれるであらう。(カッコ内引用者註)
  
 著者が、なぜ女性探偵を強く推奨しているのかといえば、実際の探偵業務には小説や映画などにあるようなバイオレンスも、心おどらせるサスペンスも、おどろおどろしいスリリングな場面もほとんどなく、非常に地味で定型的で根気と熱意が必要な仕事だと、あらかじめ同書のはじめで断っているからだ。探偵小説に登場するような、殺人や誘拐、監禁、強盗、傷害などの派手な事件は警視庁の探偵(刑事)の仕事であり、民間の私立探偵が関与できる余地などほとんどないと書いている。ホームズ明智小五郎が活躍する小説を読み、私立探偵にあこがれてなろうとすると、まったく異なる世界であることを読者に納得させたかったのだろう。
 また、元・刑事や警察官も、民間の私立探偵社には「適しない」と書いている。彼らはすぐに「威嚇」をして横柄な態度をとるからで、依頼案件に対する協力者を減らす主因になっていたらしい。「民間探偵として成功するには、最初から民間探偵で行くに限る」とし、男性なら20歳、女性なら18歳ぐらいから修業するのか最適だとしている。
 ちなみに、大正末の私立探偵社の給与は、新人探偵が40円/月ぐらいでベテラン探偵が100円/月ぐらい支給されていたようなので、それほど悪い条件ではなかっただろう。また、依頼者の事案ごとに多少の成功報酬ももらえたようで、経済的に困るような職業ではないとしている。大卒の国家公務員の初任給が50円だった時代であり、ベテランの女性探偵にとってはいい稼ぎになったのではないだろうか。ただし、勤務時間の拘束がないのは警察官といっしょで、依頼があればいつでもどこでも即座に出動しなければならなかった。
 さて、昔の事蹟を調べていると、そんな私立探偵社が足で調べた詳細な資料にぶつかることが多々ある。落合地域について資料を漁っていると、何度となくいきあたるのが「土地評価」のレポート、すなわち不動産価格の現地調査報告書だ。〇〇興信所とか〇〇探偵社が、当該地域の地元不動産屋(周旋屋)や住民(地主など)たちを取材して情報を集めた、おもに地価と周囲の地域環境を記録したレポートだ。落合地域でも、何度となく類似の評価レポートがつくられ、企業や店舗、不動産業者、土地投機家などに活用されていたのだろう。
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 日本橋区坂元町にあった東京興信所が、近衛町目白文化村の販売を開始する1922年(大正11)の3月現在で調べた、「豊多摩郡落合村土地概評価」という報告書が残っている。同報告書では、落合村を上落合・下落合・葛ヶ谷(のち西落合)の大字に分けた章立てで、それぞれの環境と字名ごとの地価を調査しているが、これを参照しながら企業は工場立地などの進出先を、店舗なら開業立地の条件を、不動産業なら開発の可能性を探る検討材料にしていたのだろう。
 その中に、地元不動産屋や住民(地主)たちに取材したとみられる、興味深い記述が残っているのでご紹介したい。それは、同レポートに書かれた落合村の地勢記録だ。
  
 神田上水以北、不動谷以東の高台。此の区域は当村の東部三分の一を占め西郊より目白台を経て東京市と通ずる要路筋に当り目白(東端より約一丁)高田馬場(大島邸附近即ち俗称七曲りより約四丁)の両駅の便あり 最も古くより而して最も発展せる地域にして高台の南部は幾多の窪地を挟みて突出し何れも南面して見晴しを有し(場所によりては西及び東の眺望を兼有す) 優れたる邸宅地となり 此処に相馬邸、近衛邸(字丸山) 大島邸、徳川邸(字本村) 谷邸、川村邸(字不動谷)等あり、北部にも字新田の舟橋邸、中原の浅川邸等あり
  
 下落合の東部を解説している文章だが、明らかに「不動谷」青柳ヶ原の西側にある谷(西ノ谷)として境界設定し、その東側に拡がる地勢を紹介している。興信所の調査員は、必ず現地を訪れて取材調査しているはずで、この地理に関する認識は地元住民たちの共通認識でもあったとみられる。徳川邸谷邸川村邸は不動谷の出口、現在の聖母坂下の近辺にあった邸であり、また浅川邸は曾宮一念アトリエの東隣り、佐伯祐三「浅川ヘイ」を描いた大屋敷だ。
 この時期、箱根土地の堤康次郎郊外遊園地として設置し、ほどなく目白文化村の開発で消滅し同社の庭園名となった「不動園」の名称が、落合地域に浸透していたとは思えず、また江戸期には中井御霊社にあった中井不動尊は、開発の協業地主である小野田家の屋敷内にあった時代であり、前谷戸のことを「不動谷」と呼ぶ住民は当の開発関係者を除き、ほとんどいなかったのではないか。「不動谷は、どうして西へいっちゃったんでしょうね?」という、下落合東部の古老たちがつぶやかれていた疑問は、上記「落合村土地概評価」の調査に応じた地元の不動産業者や住民(地主)たち、そして取材した当時の調査員(探偵)とも共通する疑問だったのではないか。
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 ちなみに、当時の落合地域でもっとも価格の高い土地は、目白通り(旧・清戸道)で南北に分断された、下落合東部にあたる(字)新田の商業地で60円/坪、そのすぐ西側で江戸期から「椎名町」と呼ばれていた目白通り沿いの(字)中原の同じく商業地が50円/坪、目白駅に近く東京土地住宅の常務・三宅勘一近衛町を開発中の(字)丸山が50円/坪、次いで七曲坂をはさみ丸山の西側で鎌倉時代から村落があったとみられる、鎌倉支道が通う(字)本村が45円/坪という評価順だった。

◆写真上:ロンドンで再現された、シャーロック・ホームズの事務所兼自宅アパート。
◆写真中上は、大正期に章華舎から出版された「なるまで叢書」の一部。は、同シリーズ第3編『名探偵になるまで』の表紙()とその奥付()。
◆写真中下:現実の探偵業務には、こんなワクワクするスリリングな場面はほとんどないし()、そんなドキドキして鼻血が出そうになるエロい美女たちにも出逢えないし()、ましてや、あんなオドロオドロしい恐怖の事件現場にも残念ながら遭遇できない()、ひどく地味で根気のいる仕事だ。このような幻想を否定するのも、同書が書かれた趣意のひとつだろうか。上からシャーロック・ホームズ、明智小五郎、金田一耕助の事件現場シーン。
◆写真下は、1955年(昭和30)に撮影された戦後もっとも有名になった女性探偵の佐藤みどり。戦後、探偵だった父親の仕事をそのまま引き継ぎ日本橋で「佐藤みどり探偵局」を開業しており、事務所で依頼者にわたす調査報告書を作成中のスナップ。は、1922年(大正11)に刊行された東京興信所による「豊多摩郡落合村土地概評価」の調査報告書()とその奥付()。