わたしは、津村節子の小学校時代の成績表をどこかで見た憶えがある。下落合から通っていた学校は、高田第五尋常小学校(現・目白小学校)だ。豊島区高田町にある小学校に、淀橋区下落合から通っていたのだから明らかに越境入学だが、父親や叔父がどうしても目白通りをはさんで学習院の向かいにある、高田第五尋常小学校に入れたかったらしい。
当時の成績表は確か全「甲」で、体操は特に「甲」の上をいく「優秀」が記載されていた。わたしの世代の5段階評価でたとえれば、教科はすべてオール「5」、体育がさらに優秀な特別の⑤ということになるだろうか。わたしの体験からいっても、このような女子は才気ばしるせいか、どこか高慢ちきでクラスメイトを見下すような、ツンと済ました性格をしているように感じるのだが、津村節子はそのようなイメージからはほど遠い性格だったようだ。
もっとも、小学校の通信簿に「4」や「3」がパラパラ混じるような、海辺も近く暗くなるまで外で遊ぶのに忙しくて、宿題を満足にやっていったことがなく(午後7時が近づくと睡魔に勝てなかった)、翌朝は朝礼とともに廊下へ数人の仲間とともに、「宿題忘れ」として正座させられていたわたしにとっては、オール「5」の女子がことさらそのように見えていただけかもしれない。廊下に座っていると、「あ~ら、いつも同じ顔ぶれねえ」といって通りすぎていった、中年の女教師の顔をいまでも憶えている。そう、いつも同じクラスメイトの顔ぶれで遊んでいたからだよ。
津村節子は、体操が「優秀」だったにもかかわらず、小さいころからよく病気をする子だった。特にストレスに弱かったらしく、なにか不満や不安があるとすぐに胃をこわし、食事がのどを通らなくなって病臥していたらしい。これは大人になっても治らず、生来の「虚弱」体質だと自身でも書いている。それだけ繊細な神経の持ち主だったせいか、いくら成績がズバ抜けてよくても、生徒たちのヘゲモニーをとったり、クラスに“君臨”するのが苦手だったのだろう。
下落合1丁目551番地(現・下落合3丁目)に住むことになった津村節子は、本来なら高田町ではなく落合町下落合の相馬坂にある落合第四小学校へ通うことになるはずだが、福井から東京へ転居する際に、あらかじめ東京で下調べをした叔父が奨める、高田第五尋常小学校へ1939年(昭和14)に転入している。もっとも、父親は転勤先の福井にそのまま残り、11歳になったばかりの津村節子は、祖母や姉妹、女中らとともに下落合で生活することになった。
母親は2年前に死去しており、父親は福井へ母親(妻)を無理に連れてきたのが、身体を壊すきっかけになったと痛感し、娘たちにはどうしても東京で学校生活を送らせたかったらしい。津村節子は1941年(昭和16)に高田第五小学校を卒業すると、淀橋区角筈1丁目879番地(現・新宿区歌舞伎町1~2丁目)にあった東京府立第五高等女学校へ進学している。
津村節子が暮らしていた下落合1丁目551番地は、目白福音教会の目白通りをはさんだ向かい(北側)、35mほどつづく先がいきどまりの袋小路を入って、左右どちらかの住宅だ。1938年(昭和13)の「火保図」を参照すると、ここにはテラスハウス風の借家を何軒か確認することができる。同住所は、空襲による目白通りからの延焼も半ばで止まっており、戦後に撮影された空中写真でも当時の家並みの大半を確認することができる。彼女は、この路地を出て800mほど東にある高田第五尋常小学校へ登下校し、また目白駅から府立第五高等女学校へと通っていた。
福井県から、下落合(現・中落合/中井含む)の借家へ転居してきた1939年(昭和14)当時の様子を、1987年(昭和62)に海竜社から出版された津村節子『女の居場所』より引用してみよう。
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父が東京へ転居することを思い立ったのは、姉が女学校を卒業して上級学校へ進学することになったのと、母に似て虚弱だった私の健康を心配したためだと思う。母を福井へ連れて来て死なせたことは、父の痛恨事だったようだ。父は、自分が学業をあきらめねばならなかったせいか、子供の教育には熱心で、東京に住んでいた叔父に、設備がよくて進学率がよく、周囲の環境のよい小学校を調べてくれ、と手紙で書き送っている。/叔父が調査して推薦してきたのは、目白の学習院のちょうど真前にあった高田第五小学校(現在目白小学校)で、まさしく父の希望通りの小学校であった。父は東京へ家を建てるつもりで駒場に地所を買っていたが、とりあえず学校に近い下落合に家を借り、母代わりに信州の隠居所から迎えた祖母と私たち三人姉妹、それに昔からいるお手伝いの人をつけて転居させた。
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せっかく優秀な娘たちに、高等教育を受けさせようとした父親だが、ちょうど津村節子が府立第五高等女学校に進学した年が、太平洋戦争の開戦と重なってしまった。まともな授業は2年生までで、以降は学徒報国隊として工場での労働や、国分寺の理学研究所で研究副手として勤務する間に敗戦を迎えている。また、1944年(昭和19)に父親が福井で急死してしまい、津村節子と姉妹たちは借家を出て、同じ下落合の一家が疎開して不在となっていた、叔父の空き家で生活をつづけている。なお、下落合の叔父の家がどこにあったのかは不明だが、おそらく下落合1丁目551番地からそれほど離れていない下落合東部の可能性が高そうだ。
戦後、津村節子は目黒のドレスメーカー女学院に通って洋裁を学び、自立するために埼玉県入間川町(現・狭山市)で洋裁店「ボン」を開店。店は順調で、彼女とお針子3人ではさばききれない仕事を外注に出すなど繁昌していたが、戦争で途切れた学問への希求が激しくなって閉店し、1951年(昭和26)に学習院短期大学部国文科に入学している。ここで、校友誌「浜木綿」を創刊し、また学習院大学の文芸誌「赤絵」に次々と作品を発表していくことになる。翌年には丹羽文雄を訪ね、文芸雑誌「文学者」の例会にも出席するようになった。
津村節子は就職せず、少女小説を書いて食いつなぎながら、文芸誌や同人誌へ次々と作品を発表していった。そして、1953年(昭和28)に学習院大学の文芸誌「赤絵」の編集長をしていた男と結婚している。東京は日暮里町出身の、作家・吉村昭だ。このあと、吉村昭とともに繊維関係の商売に手を出したがうまくいかず、日本各地を放浪して行商をしながら、窮乏生活の中で執筆を継続している。ふたりとも、周囲からはいつまでもプロになれない「同人作家」と揶揄されつづけたが執筆をやめず、1965年(昭和40)に津村節子は『玩具』で第53回芥川賞を受賞している。
今日ではほとんど死語になったが、津村節子ほど「主婦作家」と呼ばれた小説家もいないのではないか。戦前、女性の小説家は「閨秀作家」などと呼ばれ、その多くは裕福な生活ができる階層の女性か、あるいはそれほど裕福でなくても、夫がふつうの勤め人であれば昔は女中あるいは乳母のひとりぐらいは雇える環境だったので、とりあえず日々の家事や子育てのすべてを心配する必要はなかったが、戦後はまったく事情が異なっていた。津村節子は、吉村昭がほとんどできない家事・育児を、アルバイトの少女とこなしながら作品を書きつづけている。
また、現代とは異なり当時は妻が家事・育児を行うのが当然と考えられていた時代なので、いくら同じ仕事をしていても、家庭では妻=「主婦」の労働負荷が高くなるのは必然的だった。1980年(昭和55)に新潮社から出版の津村節子『重い歳月』(旧・『暗い季節』)には、一般の文芸誌で長・短編を発表し活躍しはじめた夫に対し、相変わらず少女小説を書きながら家事をこなし、「同人作家」を抜けられない妻の苛立ちがそのまま吐露されている。同書より、少し引用してみよう。
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(A賞やN賞を)受賞するのとしないのとでは、候補になるのとならないのとよりも遥かに差異がある。候補作家に照明が当るのは、新聞発表から、選考委員会までである。受賞者が決れば、再びもとの同人雑誌作家に戻り、候補になったことすら忽ち忘れられてゆくのだ。(中略) 紙に字を書いて原稿料を貰うなどということは、贋金造りのような後めたさがあって、職業だなどと大っぴらに言えぬ気がする。まして主婦が、そのため主婦としての義務をないがしろにすることは、やはり世間体の悪いことに違いなかった。(中略) 夫婦で小説を書いているということさえ恥ずかしいことに思えるのに、夫は大晦日にぼろ雑巾で窓や柱を磨いており、妻は髪をふり乱して少女週刊誌の原稿を書いているのだ。(カッコ内引用者註:芥川賞と直木賞のこと)
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この間、津村節子は何度も文学賞の候補に挙がるが受賞できず、相変わらずの「同人作家」へともどったが、吉村昭は一流の文芸誌に次々と作品を発表していった。家事や育児に追われる彼女は、「私だって、もう一息だったのよ。時間さえあれば――」とグチると、夫は「書けないのを時間のせいにするのは卑怯だ」といってプイッと外出してしまうシーンも描かれている。共働きがあたりまえになった現代の若い子なら、家事・育児の負荷をなぜ分担しないのか?……と不思議に思うだろうが、当時は家事・育児=「主婦」がこなすものという考え方が一般的だったのだ。
1965年(昭和40)の春、吉村家に電話が入った。数年前から、何度も芥川賞の候補になっていた吉村昭は、妻が受賞したのを聞いて愕然としただろう。いまだ芥川賞が、プロ作家への登龍門としての価値や重さを十分にもっていた時代だ。文学の周辺では、吉村昭が「潰される」などというウワサが流れ、子どもたちは父親に「お母さんがお母さんじゃなくなった」と話していたという。
◆写真中上:上は、転居3年前の1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる北原邸から高田第五小学校までの通学路。中は、北原家が転居してくる直前の1938年(大正13)作成の「火保図」にみる下落合1丁目551番地。下は、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる下落合1丁目551番地。南側は類焼しているが、北側の多くの住宅が焼け残っているのがわかる。
◆写真中下:上は、女学校時代の津村節子。中は、1965年(昭和40)の芥川賞受賞時の会見で撮影された津村節子。下は、1970年(昭和45)の女性作家の集いで撮影された記念写真。列の手前から佐多稲子(右)と円地文子、後列は左から津村節子、瀬戸内晴美、池田みち子。
◆写真下:上は、書斎の執筆机で撮影された津村節子。中は、「オシドリ夫婦」といわれたが蹉跌や葛藤がかなりあったとみられる吉村昭と津村節子。下は、1965年(昭和40)出版の津村節子『玩具』(文芸春秋/左)と、1980年(昭和55)出版の同『重い歳月』(新潮社/右)。ちなみに、拙サイトで現役の作家(元・下落合住民)を扱うのはきわめてまれで、津村節子は97歳で健在だ。