大正期の下落合には薬局がわずか3店舗。

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 わたしの学生時代から、落合地域には薬屋(薬局・ドラックズトア)がやたら多いと感じていたが、このところさらに増えているようで、大きめな通り沿いにはほぼ100~200mおきぐらいに薬局があるのではないかとさえ思えてくる。いつか、歯科医院の多さを記事にしたことがあったけれど、薬屋も同様に地元ではかなり数が多い店舗だ。
 たとえば下落合(現・中落合/中井含む)には、救急対応の大型病院が国際聖母病院と目白病院のふたつもあるので、処方箋薬局が多いのは当然なのだが、市販薬のみを扱うチェーン店の数も多い。これに昔ながらの「薬屋さん」を加えると、コンビニ同様あちこちに開店しているのに気づく。高齢化社会を迎えて増加しているせいもあるのだろうが、もちろん店舗をかまえる薬屋のほかに、各戸訪問で救急箱を補填する「富山の薬売り」はいまも健在だ。
 いまから、100年以上前の落合地域(落合村の時代)には、薬屋はたった3店舗しかなかった。それも、3店とも下落合(現・中落合/中井含む)の目白駅寄りの東部にあり、下落合の西部や上落合、葛ヶ谷(西落合)には1店舗もなかったとみられる。もっとも、上落合の場合は東中野駅前からつづく商店街があり、また小滝橋のすぐ南側、戸山ヶ原の西端には1902年(明治35)以来、大型の豊多摩病院が開設されていたので、小滝橋通り沿いなどの周辺には薬局があったかもしれない。また、当時は個人経営の医院でも医薬品を扱うところが多かっただろう。
 東京じゅうの薬局を網羅する、1922年(大正11)に東京薬局会から刊行された『東京薬局会会員名簿』が残されている。当初、わたしはアトリエを建設したばかりの曾宮一念佐伯祐三が、ちょっとした調合薬や市販薬を購入するのに、どこの薬局を利用していたのかが気になっていた。曾宮一念は、季節により微熱や頭痛がつづく体調不良にみまわれ、アトリエに付属して「静臥小屋」とも「寝小屋」とも呼ばれる部屋を自身で設計して増築している。また、佐伯祐三は風邪をひきやすい体質だったものか、1926年(大正15)秋の「制作メモ」を参照すると、月に5日間ほどは“病気”のために休養して屋外写生へ出かけていない。
 このふたりの画家が、ちょっとした頭痛や熱、風邪などで市販薬を求める際、どこの薬局を利用していたのかが気になり、大正期の落合村(1924年より町制が敷かれ落合町)に開店していた薬局を調べてみたくなったのだ。そして見つけたのが、1922年(大正11)現在で開店していた東京市内の薬局をリスト化した、前述の『東京薬局会会員名簿』だった。なお、1922年(大正11)といえば中村彝がいまだ存命だった時期であり、彝もまた同居する岡崎キイや近くの友人たちに頼み、カルピスの飲みすぎによる征露丸などw、なんらかの市販薬を買ってきてもらったのかもしれない。
 1922年(大正11)の時点で、豊多摩郡落合村に記録された薬局は次の3店舗だ。
 ・豊青堂薬局  下落合516番地  経営者:青山道雄
 ・増井薬局   下落合524番地  経営者:増井正男
 ・中央薬局   下落合642番地  経営者:森田司吉
 この中で、「増井薬局」は山手線・目白駅も近い、目白通りに面した近衛町の入口付近にあった店舗で、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」を参照すると、西隣りを蕎麦屋「長寿庵」と東隣りを糸生地屋「池田メリヤス」とにはさまれて開店していた。目白駅で下車した勤め帰りの人たちが、ちょっと立ち寄るのに便利な薬局だったろう。ちょうど、大正期は萬鳥園種禽場の目白通り側(北側)に接する位置にあり、佐伯祐三が仮住まいをしていたかもしれない借家から、わずか100mほど歩いた目白通り沿いだ。
 つづいて「豊青堂薬局」は、「増井薬局」から目白通りをさらに西へ180mほど歩いたところ、ちょうど目白中学校のキャンパスが途切れたあたりに開店していた。「下落合事情明細図」を参照すると、西隣りが「八十四銀行」の大きな建物で、東隣りが「有田〇〇屋」という業種が不明な店舗にはさまれていた。「豊青堂薬局」の角を南へまがると、すぐに観世喜之邸と付属する能舞台が建っていた。中村彝が、なにか市販薬の購入を頼んだとしたら、アトリエから歩いて280mほどでたどり着けるので、おそらくこの薬局だろう。
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 次に「中央薬局」は、現在では聖母坂通りの貫通で消えてしまった木村横町の入口に近い、目白通りに面して開店していた。目白駅から約1.1kmと少し離れており、下落合の中部(現在の中落合)に住んでいた人たちがよく利用した薬局だろう。1925年(大正14)に作成された「出前地図」(「下落合及長崎一部案内図」)を参照すると、西隣りを「並木金物屋」と東隣りを小野邸にはさまれた位置に開店していた。そして、1931年(昭和6)ごろ聖母坂が拓かれると同時に、同薬局は目白通りへと出る角地に開店して営業を継続している。
 なお、「中央薬局」は大正期からの上記3店では唯一現存していて、「クスリ中央」と屋号を変え営業をつづけており、わたしもたまに佐伯祐三アトリエのついでなどに利用している。1921年(大正10)の創業で、今年で創業104年を迎える下落合ではもっとも古い薬局の老舗だ。佐伯アトリエや曾宮一念アトリエの建設と同年に開業した「中央薬局」(現・クリス中央)は、佐伯アトリエから歩いて約200m余、曾宮アトリエからも歩いて約300m余なので、両画家とも利用していた店舗だろう。ただし、曾宮一念は中村彝の存命中は頻繁に彝アトリエを訪問していたので、ついでに「豊青堂薬局」へも立ち寄っているのかもしれない。
 1922年(大正11)に刊行された『東京薬局会会員名簿』からは、当時の医薬品に関するさまざまな課題が透けて見える。同会の「規定」によれば、東京在住の薬剤師の資格をもつ人物が経営する薬局を網羅するとしており、薬剤師の資格がない“モグリ薬局”は除外している。裏返せば、市販薬の急増とともに薬剤の知識がない薬局経営者も出はじめていた時期で、同会ではそれらの素人が経営する薬局を排除する目的もあったのだろう。
 また、薬局の設備がバラバラでは均一の薬剤を調合できないため、同会所属の店舗では最新設備による統一化を努力目標にかかげ、調剤に使用する薬品(原材料)の調達も統一することで、薬剤の品質向上と効能の安定化をめざしていたようだ。また、薬局によっては価格がバラバラだった薬品の値段を一定にし、店舗の目立つところに公示することで、顧客に不満や不信感を与えないよう留意するなど、かなり細かな規定を設けていた。特に、A薬局で薬品を購入すると50銭で済んでいたのが、B薬局では1円を請求されるなど利用者からの苦情も多かったらしく、薬価が不統一だったのを是正するのが喫緊の課題だったのだろう。
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 ちなみに、当時の薬局に掲げられた東京薬局会による「調剤薬価規定」は、以下のとおりだ。
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 また、処方箋を要する薬剤については、その処方箋の発行に関し、医師会や医師個人に対して「交渉ヲ為スモノトス」、つまり意見をいえると規定している。これは、医師のいいなりに薬剤を処方すると、患者に対してなんらかの影響(薬害)が出る場合などを想定しているのだろう。いまでも問題となっているように、マイナ保険証や“薬手帳”などない時代なので、複数の薬を飲みあわせることで身体にダメージを与えかねない場合は、医師に通達して薬剤を変更させるなどのアドバイスができるとしたのだろう。
 さらに、同会では「従業員紹介部」という部署を設け、薬局に勤務する従業員の斡旋・紹介、すなわちリクルートも行っていたようだ。「東京薬局会規定」の、第7条から引用してみよう。
  
 第七條 本会ハ薬局従業員ノ補足ニ付 会員ノ便宜ヲ図ルモノトス
     但シ薬局従業員紹介部規定ハ別ニ之レヲ定ム
  
 そして、最後の規定では、会員の薬局になんらかの問題が生じた場合には、薬剤・薬品以外の案件でも、同会が緊密に相談に乗るとしている。たとえば、親が開店した薬局を子どもが継ごうとせず後継者がいないとか、郊外住宅地ブームで建設業者から立ち退きを迫られているとか、病院や医院が近くにないので誘致できないかとか、多種多様な相談ごとにも対応したのだろう。
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 当時の豊多摩郡に属した地域では、ほかに渋谷町中渋谷、同町下渋谷、代々幡町、千駄ヶ谷町、淀橋町、大久保町、戸塚町、中野町、野方村に開店していた薬局が網羅されているが、いまだ「村」だったのは落合村と野方村のみで、野方村には新井地域に2店の薬局が開店していた。

◆写真上:1921年(大正10)創業の、今年で104年を迎える老舗「クスリ中央」(旧・中央薬局)。
◆写真中上中上は、豊多摩郡では最大の医療機関だった1902年(明治35)創立の豊多摩病院の全景と中庭を囲む病棟の一部。中下は、1931年(昭和6)に下落合670番地に設立された国際聖母病院。は、1967年(昭和42)に下落合1丁目662番地に設立された目白病院。
◆写真中下は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる下落合524番地の増井薬局。は、同じく「下落合事情明細図」にみる下落合516番地の豊青堂薬局。は、1925年(大正14)作成の「出前地図」にみる下落合642番地の「中央薬局」。
◆写真下は、大正期に製薬会社が出稿した医薬品の媒体広告。は、1922年(大正11)に東京薬局会から刊行された『東京薬局会会員名簿』の表紙()と奥付()。
おまけ
 昭和初期に、濱田増治が描いた薬局のモダン店舗デザイン。「光丹」は(森下)仁丹で「ミツワ薬局」はミツワ石鹸のパロディだが、すでに入口のドアの上には「DRUGSTORE(ドラッグストア)」の看板文字が見えている。なお、このようなモダン薬局で、わたしも欲しい「バカナオール」が売られていたかどうかはさだかでない。
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