自身の東京弁に疑いをもった曾宮一念。

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 いったい「曾宮」という苗字はめったにないらしく、曾宮一念は戦前から“同族”の姓を探して全国にアンテナを張りめぐらしていたらしい。だが、なかなか見つからず、どうやら先祖は九州の豊後か阿蘇地方にいた武家だったらしいことを確認している。
 曾宮一念が養子になる前の旧姓は「下田」だが、新聞記者だった養父の「曾宮」という姓は東京ではめずらしく、自分の親族以外の「曾宮」姓をたどっていくと、九州の阿蘇地域にたどりついたようだ。養父の実家は、豊後佐伯藩(現・大分県佐伯市)の「軽い身分の武家」で、当時でも佐伯郊外の直美村という地域には、「曾宮」姓の人たちがいくらか住んでいたようだ。曾宮一念が、自身の苗字に興味を抱いたのは、50年間で一度も同姓に出会わなかったのが理由だと、1952年(昭和27)に四季社から出版されたエッセイ集『袖の中の蜘蛛』に書いている。
 曾宮一念の家族が、日本橋浜町から大川(隅田川)の河口域に近い霊岸島へ転居したころ、茅場町にあった西洋料理屋「常盤亭」の出前持ちから、深川の木場に「曾宮」という家があることを聞いている。曾宮一念が子どものころのことだが、その時代から自身のめずらしい苗字に興味を抱きはじめていたのだろう。ただし、深川の「曾宮」は実際に確認したわけではなく、子どものことなのでそのままになってしまった。また、発音ではよく「染谷」とまちがえられたため、深川の「そみや」は「そめや」だったのではないかと回顧している。
 また、東京美術学校(現・東京藝大)時代にクラスメイトの鶴見守雄と市電に乗っていたところ、彼が曾宮をつついて向かいに座る男のことを知らせた。男は「曾宮」と書かれた黒蛇ノ目の傘を手にしており、帰ってから養父に話すと豊後佐伯の故郷に近い地方の人だろうということだった。美校を卒業して、しばらく病床にあったころ『古事記』を読んでいたら、「曾の宮」というワードに気づいた。その様子を、上記のエッセイ集に収録された『曾宮はゐないか』より引用してみよう。
  
 祖の宮なら解るが曾の字では解らない。曾といふ字は曾遊などといふ以外には使ひ方を知らない。曾根、曾我、曾田の姓を稀に見るだけである。曾の宮に就て旧師(池内宏氏)にきいたら熊襲の“そ”も阿蘇の“そ”も九州の事さ、とのことであつた。(語源的にはアイヌ語の噴烟の意の転化と後に知つたが) 古事記に出てゐると言へば、ちと物々しいけれども日向、肥後の何処かを記に出てゐる曾の宮の地と考へて、その地名が姓に用ひられたのかも知れない。
  
 曾宮一念は触れていないが、戦後に住んだ富士宮から間近に見える富士山も、「アソ・マ」「アサ・マ」(浅間)と呼ばれていた時期がある。「アソ」「アサ」は、曾宮が書いているとおり噴烟をあげる火山の意だが、「マ」は原日本語(アイヌ語に継承)で聖なる所=「聖域」を意味する名詞だ。各地に散在する浅間社は、富士信仰(富士講)からきていることにも留意したい。
 富士山は、「アソ・マ」「アサ・マ」から不二→富士へと転化したが、「浅間」をそのまま山名あるいは別称に残している山は、現在でも日本各地に見いだすことができる。したがって、九州の阿蘇にちなんだ「曾宮」さんは、中部地方から東北にかけて多い「浅間」さんと、根の深いところで同じような意味あいなのかもしれない。曾宮家に入った養子とはいえ、富士山の麓にある富士宮にアトリエをかまえたのも、偶然とはいいながら面白い符合ではないだろうか。
 その後、曾宮一念は「曾宮」姓をふたり発見している。ひとりは、熊本県から日中戦争へ従軍して戦死した一等兵曹の「曾宮某」と、1951年(昭和26)に発刊された俳句雑誌「馬酔木」12月号に、「曾宮三郎」という人の発句が掲載されたのを見つけている。曾宮一念が見たのは、同号に掲載された「文とゞくポストや萩に隠れをり/曾宮三郎」なのだろう。彼は大津在住となっているが、出身地は九州だろうと感じたので、さっそく「馬酔木」編集部の水原秋桜子にこの人物のことを問い合わせているが、返事がくる前に同エッセイの原稿締め切りがきて出版されてしまった。
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 以上の人々が、曾宮一念が50年間に発見した曾宮姓の人物のすべてだが、「曾宮」という苗字がめずらしいせいか、既述のように発音では「染谷」とまちがえられることがしばしばあった。また、郵便物の書きまちがいも多く、人偏をつけて「僧宮」だったり、土篇をつけて「増宮」だったり、よくある名前に置き換えた「曾根」だったり、會(会)と曾(曽)をまちがえて「會宮(会宮)」になっていたりと、配達される1%ほどが誤記だったようだ。特に最後の誤記は、邪馬壹国(邪馬壱国)と邪馬臺国(邪馬台国)の書きまちがい(『魏志倭人伝』)を想像してしまうが、それでも下落合623番地の曾宮アトリエには、異なる苗字の郵便物がなんとかとどいていたらしい。
 いろいろ調べたところが、結局のところ曾宮氏は九州の阿蘇山周辺で農民のちに武家をしていたか、あるいは社(やしろ)の神主でもしていた家筋であり、全国に分布する鈴木氏とは異なり、最終的には「それにしても甚だしく繁殖の悪い種族である」と結論づけている。そして、最後に電話を介した面白い“空耳”エピソードを紹介している。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 私は会社や病院や取次人のゐる家へ電話はかけない。小宮か富谷としか聞いてくれないからである。下落合に長く住んでゐたので下落合の曾宮と言つたら「さうですか」と電話が通じたので、その家へ行つて今朝電話で参上を約束したと言つても女中さんに要領を得ない。強引に主人に会つたら相撲茶屋の富屋(下落合の曾宮)と聞かされてゐた。かうなると自ら本場と称してゐる私の東京弁にも疑を持つて来る。/(廿七年一月)
  
 これは、その経緯がおおよそ想像できる。おそらく、電話を受けた女中さんは東北地方から東京へやってきたばかりで、電話で訪問を告げた曾宮一念のことを、確かに主人あるいは夫人へちゃんと伝えたはずだ。だが、その発音とイントネーションから、聞いた人には「下落合の曾宮さん」が「相撲茶屋の富屋さん」に聞こえてしまったのだ。「はて、相撲茶屋の富屋なんて知らんけどな」と、主人は不可解に首をひねっていたのだろう。
 曾宮一念は、子ども時代を大川(隅田川)も近い日本橋浜町で育っているので、その“母語”である東京方言(城)下町言葉はかなり自負をもって話していたのだろうが、どうやらこの一件のあと「取次人」のいるところへ電話しなくなるほど、自身の発音に自信がなくなってしまったらしい。
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 曾宮の故郷である日本橋浜町が出たついでに、ちょっと気になっていた長めの余談を書いてみたい。いつだったか、槇本楠郎『文化村を襲った子供』について記事にしたことがある。そこで、槇本が定義していた「ブルジョア」とは、目白文化村など新山手に住みオシャレな広い西洋館で暮らして犬を飼い、ときおりピアノの音色が近隣に響くような街角の住民たちのことだったらしく、彼らを「階級敵」とみなす槇本は、同作で「文化村」の家々を子どもたちに襲わせて、彼の「階級観」から湧きあがる怒りの溜飲を下げていたようだ。同記事では、以下のように書いていた。
  
 ちなみに、ピアノの音色をブルジョア趣味に象徴させているけれど、ピアノは乃手の習いごとや趣味一般であり、下町に流れる三味(しゃみ)の音色と同様の位置づけであることを、どうやら槇本は知らない。ましてや高級な、あるいは名うての三味一式なら、今日のアントニオ・ストラディバリと同様に、当時の家庭用ピアノよりもはるかに値段が高いことも知らないのだろう。高価な楽器=「ブルジョア趣味」と短絡的に規定するなら、当時の神田や日本橋、尾張町(のち銀座)など下町のほうが、よほど「ブルジョア」になってしまうではないか。
  
 槇本は岡山からきたので、江戸東京のことをまったく知らなかったのかもしれないが、大企業の代表取締役よりもはるかに高額な所得を得ていた商家が、上記の街々にはゴマンと存在していた。店構えは、やや繁華な通り筋にあるさして大きくない店舗でも、当時の用語でいえば「百万長者」はあちこちにいた。槇本は、立派な洋館に住んでいるから「ブルジョア」、それほど大きくない店を構えるのは「プチブル」とでも、見た目で判断していたのではないか?
 確かに勤め人や工員、労働者などを雇用する会社組織は企業家が経営しており、彼らの多くは新たに住宅地が形成された、山手線西部の内外に屋敷を建てることが多かったのだが(ただ目白文化村は学者や文化人などが主体で経営者は少数だ)、住宅の外観やピアノの音色ではなく、所得の多さで「ブルジョア」を規定するのであれば、財閥の総帥やカネ持ち華族は論外としても、住宅のサイズや生活スタイルなどで判断していたら、この城下町では大まちがいを犯すことになる。
 極度に発達した市場をもつ商業都市(江戸時代も含めて)の商人たちは、別に三つ揃えを着て一見紳士風な姿をし、わかりやすく葉巻やパイプなどくわえてはいない。基本的にはふつうの市井人と変わらない容姿(なり)で、しかもベースが商人なので横柄でも傲慢でもなく気さくで腰も低いが、所得で比べるならば圧倒的に乃手よりも、(城)下町の商人のほうが高かっただろう。
 たとえば、曾宮一念の故郷である日本橋浜町近くでいえば日本橋横山町や馬喰町界隈には、大阪の船場(せんば)と同様に戦前から繊維問屋街が形成され、大金持ちの人々が住んでいた。彼らは、最盛期にはおそらく名の知られた企業の社長よりも数倍の所得を稼いでいただろう。大磯鎌倉箱根、国府津、湯河原、新興地では軽井沢などに複数の別荘をもち(江戸期であれば本所や向島など大川の東側に拡がる田園地帯に寮=別荘を所有し)、日常勤務のある企業の経営者や取締役などよりも、よほど優雅でゆとりのある暮らしをしていた。槇本楠郎のような、この街に関する根本的な勘ちがいが(およそ欧米式のアップタウンとダウンタウンを想定するような、すなわち丘陵地=経営者街で平地=労働者街というマルクス時代のロンドン風景のような見当ちがいの錯覚が)、最近、いくつかの書籍や資料で散見されたので、改めて念のため余談として書いてみたしだい。
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 戦後になるが、野村芳太郎・監督による『女たちの庭』(松竹/1967年)という映画がある。戦前からつづく、おそらく日本橋あたりの商家を舞台にしたホームドラマだが、やはり繊維関係の仕事をなりわいにしている商店だ。店主役を小沢栄太郎が演じており、扇子を片手に開襟シャツ姿で働く店(たな)の主人なのだが、街を歩けばどこにでもいそうなヲジサンが、乃手で大きな屋敷をかまえる重役たちよりもよほど高収入と聞いたら、いまの若い子たちは信じるだろうか? でも、それが巨大市場を抱える商業が極度に発達した城下町=江戸東京の史的事実であり、浅草っ子の野村芳太郎は熟知していたらしく、商家の町娘たちの豊かで優雅な暮らしぶりをリアルに描いている。

◆写真上:風景を写生中の曾宮一念で、AIエンジンでカラー化してみた。今回の記事では、従来のモノクロ写真をすべてAIで緻密なカラー化を試みている。
◆写真中上は、1921年(大正10)4月ごろに竣工したアトリエ前に立つ曾宮一家。しばらくすると、佐伯祐三が建設中だったアトリエ内部のカラーリングの参考にと、曾宮アトリエを見学しに訪れている。(提供:江崎晴城様) は、残雪の庭に立つ曾宮一念。佐伯祐三が描いたとみられる、背後の『浅川ヘイ』の様子がよくわかる。(提供:江崎晴城様) は、1952年(昭和27)に四季社から出版された曾宮一念『袖の中の蜘蛛』の表紙()と奥付()。
◆写真中下は、1951年(昭和26)に発行された俳句雑誌「馬酔木」12月号(馬酔木発行所)で曾宮一念が見つけた同姓「曾宮三郎」の発句。は、農閑期の用水路のような場所で制作中の曾宮一念。は、1952年(昭和27)ごろに制作された曾宮一念『御前崎燈台』。
◆写真下は、タブローの制作中にひと息入れるアトリエの曾宮一念。は、1952年(昭和27)ごろに制作された曾宮一念『桜と海』。は、同じく1952年(昭和27)ごろに制作された『初島』。
おまけ
 1967年(昭和42)に公開された、監督・野村芳太郎による『女たちの庭』(松竹)の宣伝ポスター。わたしの感覚やイメージからすると、いかにも(城)下町の勝気肌で娘気質(かたぎ)っぽい、好きな岡田茉莉子と香山美子ふたりが出演していたので、遅ればせながら先ごろ観賞した作品のひとつ。
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