古瀬静夫という洋画家については、詳しいことはわからない。野外写生で、よく落合地域にはやってきてはいたようだが、画家は彼の“二刀流”の半面であって、もう半分の顔は農林省の農業総合研究所の研究員で国家公務員だった。
1960年(昭和35)に農林省を退職するまで、豊島区長崎2丁目23番地(のちの微妙な番地変更で24番地になっているとみられる)に住んでいたようで、現在の豊島区が運営する「中高生センタージャンプ長崎」の界隈だ。その後、ある時期に川崎市幸区の小向西町へ転居していると思われる。所属していた美術団体は「示現会」で、戦後は定期的に日展へ作品を出品しており、街の風景画を得意とする画家だったようだ。
古瀬静夫の『下落合風景』(冒頭写真)は、1957年(昭和32)に開催された第13回日展に出品されたものだが、このころは毎年日展へ応募していたようで、画面はいずれも東京を中心とした街中の風景だったとみられる。1954年(昭和29)の第10回日展にも作品が入選しており、こちらはそのままのタイトル『ある街かど』という画面で、角(すみ)切りのある丁字路を描いた画面も、やはり東京のどこかの風景だろう。残念ながら、両作ともカラー画像は発見できなかった。
古瀬静夫の『下落合風景』は、ひと目見たとたんに描いた場所がピンポイントでわかった。いまだリニューアルされる前の、1950年代の田島橋の東側欄干を左手に見て、東京電力の目白変電所前の路上から旧・神田上水(現・神田川)をはさみ、対岸に建っていた戦前からつづく下落合1丁目69番地の三越染物工場内の建屋を描いたものだ。もっとも、当時は三越専属工場(第二クリーニング工場)という名称で事業を継続しており、染物の需要が徐々に減少しつづけていたため、旧・神田上水沿いの多くの染物工場がクリーニング業へ転換したように、三越も染物工場の一部をクリーニング工場として運営していたのだろう。
画面は、数日前に降雪があった真冬か春先のように見え、橋や路上などには残雪が描かれているようだ。太陽光は画家の背後から射しており、建物などの陰影から時刻はおそらく真昼に近い時間帯だろう。当時の下落合(現・中落合/中井含む)のエリアで、目白崖線南側の谷間を流れる旧・神田上水、あるいは妙正寺川に架かっている橋は数多いが、橋の北詰めが画面のようにかなり急な下り坂になっている橋はたったひとつ、高田馬場駅から栄通りに入り下落合へと向かう、江戸期からつづく田島橋しか存在していない。
1960年代に入ると、田島橋のリニューアル工事とシンクロするように、三越専属工場の跡地には巨大な三越マンション(つい先年リニューアルされている)が建設されているが、その際に坂道の傾斜角がかなり修正され、現在の下り坂はこれほど急傾斜ではない。また、1957年(昭和32)当時の旧・田島橋は変わったデザインをしていて、西側に造られた欄干の親柱の上には、南北ともに平べったい立方体をベースに地球儀の北半球のような球体オブジェが載っていたが、東側の親柱にはそれがなく単なる四角柱となっていた。どことなく、大川(隅田川)の大橋(両国橋)を想起させるようなデザインだが、大正末から昭和初期に流行った意匠なのだろうか。
正面に見える三越専属工場の右手(東側)には、下落合1丁目68番地のST化学工業(株)の本社・工場が建っているはずだが、キャンバスの枠外れで描かれていない。同社はいまも健在であり、現在は本社ビルとなっている消臭剤でおなじみのエステー(株)だ。また正面奥に見える、東西に長いビルのように描かれた四角い大きな構造物は、建築中だったとみられる下落合1丁目247番地のアリミノ化学(株)と日本ヘレンカーチス(株)の協業工場だと思われるが、実質はアリミノ化学の本社兼工場だったろう。ヘアワックスやヘアカラーなどで知られる(株)アリミノは、現在も同じ敷地に独特なデザインをしたブルーの本社ビルが建っている。
アリミノ化学工場の右手(東側)、下落合1丁目番地71番地にはアオガエルを「ミドリガエル」、青々とした葉を「緑々した葉」と呼ばないと許してもらえそうもない、池田元太郎が設立した池田化学工業(株)が建っているはずだが、空襲で全焼したあとに再建された工場の建屋の軒が低かったものか、三角の屋根がかろうじて見えているだけだ。
田島橋の北詰め(左側)に見えているコンクリートの塀と門は、防火帯36号江戸川線の建物疎開で無理やり解体された、豊菱製氷工場の塀と門の残滓で、当時は内部が広い空き地となっていた。古瀬静夫が『下落合風景』を描いた当時も、また1960年代に入ってからも田島橋北詰めの左手(西側)、製氷工場があった敷地は長く空き地の状態がつづいていた。
そして、豊菱製氷工場北側の道路沿いにつづく敷地に建っていたのが、戦後、新たな住宅地として開発された区画で、いちばん手前(南側)の家が下落合2丁目212番地の原邸、つづいて北へ向かって同番地のアパート「竜雲荘」、大久保邸(現・ビアンカ大久保)、阿部材木店(現・阿部マンション)という順番に建てられて間もない家々が並んでいた。現在は、製氷工場が建っていた区画のほとんどが、東京富士大学(旧・富士女子短期大学)のキャンパスエリアとなっている。
現在の田島橋あたりからは、企業のビルやマンションに遮られて見えないが、『下落合風景』の当時は、もう少し目白崖線の緑がつづく下落合の丘が見えてもいいのかもしれない。だが、それを描くと手前の街並みが際立たなくなるため、画家があえて省略している可能性もありそうだ。
◆写真上:日展に出品された、1957年(昭和32)制作の古瀬静夫『下落合風景』。
◆写真中上:上は、制作と同年撮影の1957年(昭和32)の空中写真にみる描画ポイント。下は、1960年(昭和35)作成の「全住宅案内図帳」にみる同所。
◆写真中下:上は、1955年(昭和30)に撮影された田島橋と南詰めの東京電力目白変電所。田島橋の西側親柱に載った、半球体オブジェの様子がよくわかる。下は、古い三越マンションが解体された直後の田島橋南詰めから北を向いて眺めた現状。左手やや遠めな青いビルがアリミノの本社ビルで、右端の三越敷地のすぐ右側がエステーの本社ビル。
◆写真下:上は、1954年(昭和29)の第10回日展に入選した古瀬静夫『ある街かど』。下は、練馬の石神井公園まで写生にでかけた古瀬静夫『晩秋の三宝池』(制作年不詳)。
★おまけ
旧・神田上水と妙正寺川の合流点から、少し下流にあった一枚岩(ひとまたぎ)にAI着色をしてみた。それなりに木漏れ日があたるリアルな情景になったが、『江戸名所図会』に描かれた一枚岩は田島橋の上流、現在の下落合駅南側に接する変電所のあたりにあった。