江戸期からの紙漉きがつづいた落合地域。

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 落合地域へ江戸川沿いから移転してきた工房は、おもに染物業や製氷業だったことは、すでにいくつかの記事に書いてきた。この場合の江戸川は、旧・神田上水の分岐である大洗堰から千代田城の外濠へと流れこむ、舩河原橋までの神田川流域(1966年より神田川)のことで、川の水質や湧水、地下水などが清冽だったことから発達した産業だった。
 ところが、落合地域には染物業や製氷業、製薬業などよりもはるか以前、明治期から下流の江戸川沿いから移転してきた紙漉き工房群が存在していた。製紙業、すなわち江戸期からつづく用語でいえば、和紙を製造する家内制手工業の「紙漉き屋」だ。ご存じかもしれないが、紙漉きも良質な水が不可欠な仕事であり、江戸期から水質に優れた地域で紙漉き業が発達してきた。江戸初期では、和紙製造で有名な田園地帯の浅草が有名だったが、江戸後期になるとより良質な湧水や地下水などを求めて、河川の上流域へと移動している。
 江戸初期の紙漉き業について、1944年(昭和19)に冨山房から出版された関義城『江戸東京紙漉史考』では、延宝年間の岩井守義『浅草地名考』などを引用しながら、次のように解説している。
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 岩井守義述【浅草地名考】中、浅草名物の項に、「連俳武蔵野、寛文四年印本。浅草木綿、同紙、籠耳、貞享四年印本芥子主人蔵」との記述が有る。/延宝四年新版及び天和三年正月版、竝に貞享年間の【江戸絵図】【江戸大絵図】に拠れば、浅草田原町一丁目に続き南の方に「カミスキ町」なる町名が記載せられてゐるのを見る。/貞享四年に刊行された藤田理兵衛の【江戸鹿子】には、/浅草駒形より西筋、東は駒形、西は寺丁まで、三軒町二丁、田原町三丁、紙すき町、茶や町二丁/と有り、又「すきかゑし紙や」として「浅草門跡前、同所はしば」の二個所を記してゐる。/故に寛文、延宝、貞享年代には、已に浅草名物として、製紙業の存在した事が、此等の記録により證明せられ、且つそれが江戸最初の紙漉場所であつた事も判然するやうである。
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 関義城は、「江戸最初の紙漉場所」と書いているが、室町時代にも当然ながら紙の需要はあっただろうから、1400年代に太田道灌が江戸城を築造して、国内でも最大規模の城下町となっていた時点で、江戸の街にはすでに紙漉き屋が開業していたと考えたほうが自然だろう。それは、江戸湊に集積された物資のうち、目白(鋼)など金属類の多さから、刀鍛冶や野鍛冶(道具鍛冶)、金工師たちが集合していたと想定されているのと同様だ。ただし、室町期の和紙の名産地が、浅草とその周辺域だったかどうかまではいまだ不明だ。
 ちょっと余談だが、葛西で収穫した天然海苔や、品川沖で採れた養殖海苔を乾燥させて和紙のように延ばしたものを、江戸初期からの一般名称として「浅草海苔」と呼んでいる。もちろん、浅草地域で製造される浅草和紙を模した工法をヒントに、海苔を長期保存ができる製品として江戸の海苔屋(おもに品川地域)が発明・販売したからで、現代でも海苔の産地を問わず、紙のように乾燥させた海苔の名称は「浅草海苔」と呼ぶのが正しい。よく「韓国海苔」という呼称を聞くが、正確には韓国産の海苔を「浅草海苔」風にしたバリエーション製品だろう。
 さて、江戸川(神田川の一部流域)の周辺にあった紙漉き工房が、よりきれいな水質を求めて上流の高田村や落合村、長崎村へと移転してきたのは、明治期に入りしばらくしてからのことだ。江戸川沿いは桜の名所であり、その水質や湧水、地下水の清冽さから、名物だったうなぎ料理の生け簀や染物業が盛んだったが、水質にことさら敏感な紙漉き工房から郊外への移転がスタートしている。すなわち、のちに染物工房が移転するのと同じ理由で、江戸川沿いの市街地化が進むにつれ徐々に水質の汚濁が進み、明治期には紙漉き用の水としては適さなくなりつつあったからだ。
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 紙漉き工房が東京郊外へ移転するにつれ、業界全体を束ねる同業組合の必要性が生じてきた。大正時代に入るとその動きが活発化して、1920年(大正9)には東京府産紙同業組合が発足している。その様子を、『江戸東京紙漉史考』に収録された、同組合の「沿革」から引用してみよう。
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 東京府産紙同業組合は、東京府北豊島郡、豊多摩郡、荏原郡、南足立郡、及東京市小石川区の四郡壱区内に於ける手漉製紙業者を以て組織し、大正九年十二月二十七日附農商務大臣より設置を認可せらる。現組合員は百十五名にして、大正九年中、其全産額は実に金百弐拾萬円に達し、益々業務の改良発達を企画しつゝあり。(中略) 製品の主要原料は三椏(ミツマタ)を使用し、一般和紙特に江戸川巻紙、同封筒、同辞令用紙等、優良手漉和紙を抄造せり。(カッコ内引用者註)
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 この沿革文でもわかるように、組合員は家内制手工業者すなわち手漉きの製紙業者(和紙製造)がメインの組合で、機械化された工場の経営者は含まれていない。また、ほとんどの紙漉き業者が東京郊外の郡部で操業していたが、唯一東京市内の小石川区(現・文京区の一部)のみが残っているのは、江戸期からつづく江戸川(神田川)の地域が含まれているからだ。
 では、東京府産紙同業組合に登録された、落合地域の紙漉き工房を見ていこう。もっとも多くの業者が集まっていたのは、下落合でも上落合でもなく、当時は落合村葛ヶ谷と呼ばれ宅地開発の手が及んでいなかった、田園地帯の西落合地域だ。このリストを見ると、同業者同士が同じ番地、あるいは近隣に集まって操業していたのがわかる。これは、同業者が資金を出しあって設置した井戸や湧水口の水を、共同で利用していたからだとみられる。以下、落合村葛ヶ谷で操業していた手漉き製紙業者は、1920年(大正9)の時点で18工房を数えることができる。
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 翌1921年(大正10)には2工房ほど増えて、葛ヶ谷(西落合)の紙漉き業者は20工房になっていた。操業していた番地は、特に落合分水や妙正寺川の近くとは限らないので、おそらく井戸水を活用した操業だったろう。なお、★印は1944年(昭和19)現在で操業をつづけている工房だ。
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 つづいて、下落合(現・中落合/中井含む)は1工房、上落合は3工房の紙漉き業者が営業していた。上落合の番地は、前田地区の南側に位置する旧・八幡通り沿いだ。けれども、下落合に3315番地は存在しないので誤植だろうが、とりあえずそのまま記載してみる。下落合2306番地は、目白学園の北東側にあたる番地だ。なお、翌1921年(大正10)になると、上落合には11業者増えて12工房、下落合には1業者増えて4工房の紙漉き業者が操業している。
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 上記と同様に、★印は1944年(昭和19)の時点で操業をつづけていた業者だ。
 また、大正末になると手漉き製紙業者の個人工房ではなく、機械による洋紙・和紙の製紙工場が落合地域にも進出してくる。この傾向は、市街地にあった工場が関東大震災による被害で操業不能となり、郊外へと移転せざるをえなくなったケースも含まれているだろう。近代的な製紙工場は、大正末の時点で下落合に3工場、上落合に1工場、葛ヶ谷(西落合)に2工場が記録されている。
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 紙漉き業者は、東京府産紙同業組合の統計によれば、1922年(大正11)の116工房をピークに漸次減少をつづけている。昭和に入るとわずか48工房に減少し、手漉き和紙の需要が急激に落ちこんでいった様子がうかがえる。1929年(昭和4)になると、産紙同業組合は解散を宣言することになる。

◆写真上:現代でも高級和紙は、手漉きによる個人事業者の工房で製造されている。
◆写真中上:上左は、1944年(昭和19)に出版された関義城『江戸東京紙漉史考』(冨山房)。上右は、文政年間ごろに制作の貞秀『風流職人尽/紙漉』。中上・中下は、1856年(安政3)に出版された菱川師宣『職人尽倭画』(写し)の紙漉き。下は、1853年(嘉永6)に作成された尾張屋清七版の江戸切絵図「今戸箕輪浅草絵図」にみる浅草・田原町(紙漉町)界隈。
◆写真中下:上は、明治期の代表的な和紙「江戸川巻紙」のパッケージ。中上は、1770年(明和7)出版の『彩画職人部類』の「紙」。中下は、1829年(文政12)に出版された貝原益軒『女大学宝箱』の「紙すきや」。下は、九州の有明海産の海苔を加工した「浅草海苔」。
◆写真下:上・中は、昭和初期の手漉き製紙工房。下は、現代もつづく手漉きによる和紙づくり。