
西落合に住んだ伊佐アキClick!という方は、夫と旅行したことが生涯で一度もなかった。確かに農作物を育てるのは、1日でも目を離せない気配りが要求される仕事で、今日的ないい方をすればシステム管理の24h365dに近いミッションクリティカルな仕事だ。
そのかわり、たまには浅草の繁華街へ出かけ、ついでに浅草寺の観音をお参りしていたようだ。浅草には、よく効く鍼灸院が開業していて、治療がてら浅草を散歩してきたらしい。葛ヶ谷394番地(のち西落合1丁目259番地/現・西落合3丁目)の、中通り(葛ヶ谷街道)沿いに建っていたとみられる伊佐家から、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の東長崎駅で電車に乗り、池袋駅から山手線に乗りかえて上野駅で降りると、駅前から円タクで浅草まで通っていた。円タクなのだが、上野駅から浅草までは50銭もかからなかったという。
鍼灸師の治療を受けるということは、どこかに痛みや凝りがあったと思われるが、当時の葛ヶ谷には「お医者さんが1軒しかなかった」し、また西洋医学で治る症状でもなく慢性的なものだったようなので、遠く浅草まで通っていたのだろう。この葛ヶ谷の「お医者さん」とは、大正期から中通り(葛ヶ谷街道)沿いに、内科医・江原鎌太郎が開業していた「江原医院」のことだろう。伊佐家があったとみられる位置から、葛ヶ谷街道をおよそ450mほど東南へ歩いたところに、葛ヶ谷69番地の江原医院は開業していた。
遠くに野方配水塔が見える、拡幅工事中の中通り(葛ヶ谷街道)を西に向いて撮影した写真が残されている。(冒頭写真) 「火保図」が作成されたのと同時期、1938年(昭和13)前後に撮影された1枚だが、道路の右手に見える床屋はおそらく西田理髪店だろう。その西隣り(奥)が中田足袋店、少し空き地ないしは荷置き場があり、2軒つづきの商店建築の手前が文化堂薬局で奥が田山菓子店だとみられる。そのさらに向こう(西隣り)、垣根がめぐらされ敷地に庭木が繁っているのが、当時は西落合1丁目117番地(旧・葛ヶ谷69番地)の江原医院だろう。江原医院のさらに西側には、鈴木荒物店や名前が不明な理髪店、屋敷林に囲まれた鴨下邸とつづいている。
また、道路の左側には空き地が拡がっているが、造成されたままの住宅敷地のような風情だ。江原医院の前という位置関係を考慮すると、この空き地は下落合4丁目(現・中落合3丁目)の目白通り沿いから葛ヶ谷までの広大なエリアを占めていた、植木農園「渋澤農園分譲地」の葛ヶ谷地域に食いこんだ西端敷地であることに気づく。
そして、この写真を撮影したカメラマンが立つ位置の背後、およそ100mとちょっと東に歩いたところで、13年ほど前にイーゼルを立てて仕事をしていた画家がいた。『下落合風景(葛ヶ谷街道)』(仮)を描く佐伯祐三だ。新開地だった渋澤農園分譲地は、少なくとも1925年(大正14)以前から開発がスタートしており、それから15年前後を経たのちでも住宅があまり建たず、写真からは空き地だらけだった様子が確認できる。写真の左隅に、店舗には見えない建物がとらえられているが、配達用の自転車をそろえた溝口印刷所だろうか。
さて、伊佐アキという方の貴重な証言にもどろう。妊娠してお産をするときも、産婦人科の病院ではなく近くの助産婦(産婆)に依頼していた。お産の様子を、前回の記事と同じく1993年(平成5)に新宿区立婦人情報センターから刊行された『新宿に生きた女性たちⅡ』収録の、伊佐アキ『落合に農家の暮しを守りぬいて』から引用してみよう。
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実家には帰らないで、ここでお産したよ。とりあげ婆さんが間に合わない位に軽々だったから、素人のお婆さんが取り上げてくれたりした。助産婦さんは、今の北郵便局の辺りにいたけど、間に合わない位に軽かったよ。朝、おしるしがあったら、何回も大きなお釜でごはんを沢山炊いて、お産に使うお湯も自分で沸して、それから横になったってわけ。お産の後は、十一日目からもう農作業に入ったよ。農作業は、朝の四時頃から起きて働いて、洗濯は盥でおむつ洗ったり、ゴワゴワの分厚い野良着を洗ったりして、大変だったね。/子どもは十二人生んだよ。男九人女三人で、そのうち長男が戦死、二番目は事故で死んで、あと肺炎とか病気やなんかで半分は亡くなったよ。四人位まではお乳が出たけど、後はそんなに出ないからミルクだった。うさぎ印のミルクっていうの。
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ここで、「北郵便局の辺り」にいた産婆の話題が出てくるが、当時の落合地域には助産婦業(産婆業)がたくさん開業していた。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)によれば、この時点で下落合に17人、上落合に10人、葛ヶ谷(西落合)には4人と、住宅の増加や人口の急増とともに多くの助産婦の名前が記録されている。
「北郵便局」とは、子安地蔵通りの出口から目白通りをはさんで向かい側にあった新宿北郵便局のことで、現在は新宿下落合四郵便局へ名称が変わっている。その近所で開業していた産婆はひとりしかおらず、彼女がかかりつけの助産婦は下落合604番地の富田美津だったのだろう。文中に登場する「うさぎ印のミルク」は、当時の大日本乳製品株式会社(のちに明治製菓へ吸収)が、木製の箱詰めで販売していた煉乳缶詰めだ。
葛ヶ谷(西落合)での食生活は、主食が米に麦を混ぜたいわゆる麦飯で、おみおつけには自家製の味噌を使用し、具には採れたての新鮮な野菜類を入れていた。おそらく大正期の話だろう、付近にはお菓子屋も魚屋もなく、よく行商人が触れ歩いていたという。
伊佐家のお勝手にも、近くにある魚屋から棒手振(ぼてふり)が出入りしていて、その日によりイワシやサンマなどの魚を1種類ずつとどけていた。勝手口から入ってきて、台所の皿の上へ魚を5~6尾のせると20~25銭はしたらしい。また、保存食の干し鱈は毎日のように食べていたという。年の瀬になると、歳暮などでいつも新巻鮭がとどき、当時は祝いごとの日にしか塩鮭は食べなかったので、4~5月ごろまでそのまま台所に吊るしてあった。



戦時中は、オリエンタル写真工業の第1工場とその周辺を除き、西落合の住宅街はそれほど激しい空襲にも遭わず(ただし敗戦が近い時期には、P51とみられる戦爆機による機銃掃射が野方配水塔を中心に頻繁にあった)、また食事はほとんど自給自足でまかなえる農家だったので、食糧難時代もそれほど苦労はしなかったようだ。つづけて、同資料より引用してみよう。
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支那事変の時は、お父さんは大正六年兵で現役だった。歩兵一連隊に入ってたけど、召集令状は来なかった。跡取りだからじゃないけど、防護団があって防空演習やったり、在郷軍人もやってた。千人針は昭和六年に満州事変があって作ったの。長男は、昭和十五年十二月一日に志願兵で入営したけど、二十年に戦死したよ。太平洋戦争の時は、うちは食糧は困らなかったよ。売るほどはなかったけど、自給自足できたからね。うちには田舎がないから、六帖敷位の大きい防空壕を二つ作ってあったよ。/この辺は焼けなかったけど、自性院と増田さんに焼夷弾が落ちたんだよ。すぐそこの今消防署の寮の建っている所に火の見櫓があって、空襲があると、息子なんかはよく登って見てたよ。ここは高台だから遠くに火柱がいくつも、百何個も立っているのが見えたって。
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「歩兵一連隊」とは、麻布に駐屯していた第一師団歩兵第一連隊(通称:麻布一連隊)のことで、彼女の夫はわたしの義父とまったく同じ連隊にいたことになるが(ただし義父のほうが20歳近く年下だ)、時期的にも大きくズレていると思われる。
太平洋戦争がはじまる直前、1941年(昭和16)に退役した義父には、彼女の夫と同様に再召集の赤紙はこなかったけれど、戦争末期には軍に徴用されて陸軍の国内輸送のトラック部隊に勤務していた。1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲による負傷者を、被災した街々から陸軍のトラックで下落合の国際聖母病院までピストン輸送している。
文中では、自性院と「増田さん」に焼夷弾が落ちたとなっているが、戦後1947年(昭和22)に撮影された空中写真では、確かに同院の本堂は全焼しているが、併記されている「増田さん」とは「松田さん」の聴き取りちがいではないだろうか。自性院の東、西落合1丁目49番地あたりに建っていた松田邸の南一帯が、戦後の写真で焼失しているのが見てとれる。西落合は、焼夷弾による延焼跡は少ないだけに、空中写真で見ると街中の焼け跡が目立つのだ。
防空壕に退避するようになってから、伊佐アキという方はようやく日本髪をやめて洋髪にしている。日本髪は、近くの髪結い(美容院ではない)に通って結ってもらっていたが、防空壕へ入るのにいちいち日本髪用の箱枕を持っていくのが面倒になったからだそうだ。



髪結いでは、「四角い灰みたいな髪洗い粉」で長い髪をていねいに洗ったあと、ツバキ油をつけて整髪していたという。そのツバキ油は、葛ヶ谷街道(現・新青梅街道)から目白通りを東へまっすぐ歩いた右手の通り沿い、下落合4丁目1528番地の小野田製油所へ買いにいくか、あるいは自宅へとどけてもらっていた。当時の小野田製油所はゴマ油だけでなく、ツバキ油やナタネ油の生産も行っていたようで、工場には“若い衆”がいたのだろう、注文すると自宅まで配達してくれたようだ。
<了>
◆写真上:1938年(昭和13)に撮影された、拡幅工事中の葛ヶ谷街道(現・新青梅街道)。
◆写真中上:上は、伝法院から眺めた浅草寺の五重塔。中は、最近はインバウンドであふれ返る仲見世。下は、クルマよりも俥(じんりき)が人気の浅草界隈。
◆写真中下:上は、1925年(大正14)に作成された「出前地図」(西部版)にみる葛ヶ谷69番地の江原医院。中は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる西落合1丁目117番地の江原医院。下は、子安地蔵に近い下落合604番地の産婆業・富田美津邸。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる伊佐邸とその周辺。中は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる西落合1丁目259番地の伊佐邸界隈。下は、戦後1947年(昭和22)に撮影された空中写真にみる同邸と周辺で空襲の被害はほとんど見られない。
★おまけ
葛ヶ谷街道を東に向き、下落合4丁目(現・中落合3丁目)エリアの渋澤農園分譲地を描いたとみられる、1926年(大正15)ごろ制作の佐伯祐三『下落合風景(葛ヶ谷街道)』(仮)。
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