大正末の目白文化村に建つ邸宅群を拝見する。

①梶野邸玄関.jpg
 これまで拙サイトでは、下落合の目白文化村に建っていた邸宅群を数多くご紹介してきた。その多くは、完成直後の様子をとらえたもので、住宅雑誌や建築誌が竣工を待って取材したものだった。だが、1926年(大正15)発行の『建築画報』10月号(建築画報社)には、建築直後とみられる邸もあるが、竣工から数年たったとみられる邸もまとめて紹介されている。
 全部で7邸が紹介されているが、そのうちの下落合1605番地に建っていた梶野龍三邸()については、以前の記事で邸の内部も含めて詳しくご紹介していた。その際、居間や子ども部屋、サンルーム、洗面所と水洗トイレの写真は掲載していたが、玄関先は遠景でしかご紹介できなかった。『建築画報』10月号には、梶野邸のエントランスがアップで掲載されている(冒頭写真)。梶野龍三は、梶野養眞堂医院を経営する院長で内科と小児科が専門だった。医院は芝区南佐久間町にあったようで、以前の記事に掲載した写真の門前にとらえられている、文化村ではまだめずらしかった自家用車に乗って芝まで通勤していたのだろう。
 ほかに紹介されているのは、第一文化村から第二文化村へ向かう三間道路=“センター通り”沿いの邸宅が多い。目白文化村の各エリアを取材するのではなく、メインの通り沿いで連続して取材できる邸をまとめたものかもしれない。ほとんどが、第二文化村の邸となっている。
 まず、先年に記事にしたばかりの、下落合1642番地に建っていた高山貞三郎邸()が紹介されている。高山貞三郎は、海軍通信隊の中佐だったが大正期に実現した国際軍縮の影響で退職し、目白文化村で建築会社の「水交組」を、下落合1605番地の同じ文化村内に住む海軍出身の山口徳一とともに起業した人物だ。東西に細長いかなり大きな邸宅だが、2階建ての多い文化村ではめずらしい1階建てとなっている。だが、建築業のせいか邸のデザインは凝りに凝っており、どの角度から見てもオシャレに見えるような外観をしていたのがわかる。
 つづいて、センター通りをはさんで高山貞三郎邸の斜向かいになるが、下落合1642番地の鈴木金吾邸()が紹介されている。鈴木金吾は、1922年(大正11)から1929年(昭和4)まで、前橋女学校の校長をつとめた人物だ。群馬県の前橋女学校に勤務する校長が、なぜ就任期間中にもかかわらず目白文化村に自邸を建設したのかは不明だが、ひょっとすると自身は週末だけ帰宅する単身赴任で、家族が住む家を下落合に建てたのかもしれない。邸の意匠は、モルタル外壁の西洋館で、玄関先に植えられたヒマラヤスギとみられる樹木も含め、どこか宮本恒平アトリエと同じような風情を感じる。なお、訓導と校長を兼務していたらしい鈴木金吾については、群馬県に残る前橋市史や同県教育史、現在の県立前橋女子高等学校の資料などに詳しい。
 鈴木金吾邸の北隣りの下落合1642番地には、同じ鈴木姓だが鈴木保雄邸()が建っていた。鈴木保雄は、箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」(1925年)では鈴木セメント(株)取締役と紹介されているが、もともとは商工省工業試験所に勤務していた技官で、同省を辞めると日洋煉瓦(株)の技師長に就任し、つづいて鈴木セメント(株)を起業しているとみられる。また、東京出身なので土地をよそにもっていたらしく、地主・家主としての収入もあったようだ。鈴木保雄邸の意匠は、三角に鋭く尖がった切妻の屋根が重なるファサードで、いかにも「ザ・文化村」のような西洋館だが、自家用車があったのか門の内側に広いスペースが設けられ、大谷石の縁石が取り払われているのがわかる。生垣や周囲の庭木が大きく育てば、より趣きのある外観になっただろう。
①梶野龍三邸.jpg
①地割図1925.jpg
②高山貞三郎邸.jpg
 次に、鈴木保雄邸の北隣りの同じく下落合1642番地には、小林音次郎邸()が建っていた。小林音次郎は、興信録によれば小児科の医師だが、この人物についてはそれ以上のことはわからない。ただし、建築に少なからず興味をもっていたらしく、建てられた自邸は大正モダニズムを感じさせない、戦後の現代住宅と見まごうような先進の外観をしていた。2階建ての邸は、西洋館とも日本家屋とも呼べないような風情をしており、玄関前の妙なエンタシスの柱2本を除けば、1970年代の建築といっても通じるような意匠だ。ひょっとすると内部も“現代風”で、文化村の建築には必ず付属していた応接室をもたない、いちばん陽当たりのいい部屋を家族の居間にしていた、遠藤新設計創作所による小林邸のようなコンセプトだったろうか。
 つづいて、箱根土地本社国立(くにたち)へと移転したあとの時期、大正末に建てられたとみられる、センター通りから少し西へ入った下落合1647番地の水野邸()について見てみよう。1階建ての、軒の低そうな平べったい感じのデザインだが、下見板張りの外壁に沿って、南東側にバルコニーが設けられているオシャレな意匠だ。写真では、ハレーションを起こしてよく見えないが、薄い三角形の屋根を備えていたようだ。住民の水野家については、フルネームが不明なので調べようがなかった。写真の水野邸は、竣工直後の様子をとらえたものだろう。なぜ、建築時期が大正末だとわかるのかといえば、水野邸は広い箱根土地社宅建築敷地の北東端に建っているからだ。同社の社宅敷地に道路が拓かれ、分譲地として販売されるのは国立への本社移転が決定していた1925年(大正14)以降のことだ。
 写真にとらえられた水野邸の裏には、見わたすほどの空き地が拡がっているのがわかるが、水野邸を含むこの広い空き地一帯=下落合1647~1650番地が、箱根土地の社宅建設予定地だった。昭和期に入ると水野邸の裏、すなわち同邸の南西側に大きな安本邸が建設されるが、それでも広い社宅敷地の一部は戦後まで住宅が建たず、空き地のまま残っていた。現在、元・箱根土地社宅建築敷地の北側は十三間通り(新目白通り)に大きく削られているが、戦後、南西側には下落合教会(下落合みどり幼稚園)が建設されている。
 余談だが、昭和期に入ると第一文化村の東端、箱根土地の不動園に接して建てられていた下落合1321番地にも、同姓の水野家が邸を建てて転居してくる。それまでは、海軍少将の勝木源次郎邸だったものが、どこかへ転居したのか昭和初期に住民が入れ替わっている。だが、写真が撮影された1926年(大正15)と同年作成の「下落合事情明細図」でも、同邸は勝木源次郎のままだし、昭和初期の興信録でも勝木邸は下落合1321番地のままなので、まちがいなく水田邸は第二文化村の箱根土地社宅建築敷地跡に邸を建設したほうの家庭だろう。
③鈴木金吾邸.jpg
④鈴木保雄邸.jpg
⑤小林音次郎邸.jpg
②③④⑤地割図1925.jpg
 さて、最後に残ったのが建設地の番地が不明な沼田邸()だ。もちろん、フルネームも不明なので村田家については調べようがなかった。目白文化村の邸は、短くて数年で売却してよそへ転居してしまうか、邸を貸家にして家主はより交通の至便な東京市街地へ転居してしまうケースも多いので、沼田邸もそのようなケースのひとつだろうか。
 写真を見ると、明らかに道路の角地に建っているので、それらしい位置の住宅をシラミつぶしに探してみたが見つからなかった。箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」(1925年)には記載のない第三文化村や、第四文化村まで探してみたが発見できなかった。もちろん、『落合町誌』(1932年)にも沼田姓は見あたらず、氏名のわからないのが残念だ。『建築画報』に掲載された写真の取材傾向から、センター通り沿いに近いどこかの邸宅なのかもしれない。
 沼田邸の写真を見ると、大谷石の縁石上に穴のあいた四角いブロックを積み、生垣をめぐらした独特なデザインをしている。家の造りも、中央にキューブのような主棟を置き、四角い棟を“「”字型に横へ積み伸ばしたような形状だ。特に中央の建物に穿たれた窓は、やや出窓のような設計をしており、ずいぶん高い位置にあるようで文化村ではあまり見かけない意匠をしている。そして、その窓の下にある独特な質感の外壁は、セメントで石をかためて積みあげたような質感に見える。どこか、中村鎮によるコンクリートブロック式の住宅のようにも見えるが、このように印象的な邸は、住民たちに語り継がれてもいいような気がするけれど、比較的早い時期に入居者が変わり、住宅自体が建て替えられてしまったものだろうか。
⑥水野邸.jpg
⑥火保図1938.jpg
⑦沼田邸.jpg
 以上のように、建築雑誌では目白文化村に建てられた住宅の中でも、西洋館あるいは和洋折衷館をメインに取りあげ取材し掲載しているが、もちろん数は多くないものの従来の日本家屋も建てられている。以前にご紹介した、第二文化村の島峰徹邸(現・延寿東流庭園)も和館だったが、今度、あえて文化村に和館を建てている家庭の取材記事を見つけたらご紹介したいと考えている。

◆写真上:1926年(大正15)秋に撮影された、梶野龍三郎邸の門と玄関。
◆写真中上は、梶野龍三邸の外観。は、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」にみる同邸の位置。は、高山貞三郎邸の外観。
◆写真中下は、鈴木金吾邸の外観。中上は、鈴木保雄邸の外観。中下は、小林音次郎邸の外観。は、「目白文化村分譲地地割図」にみる各邸の位置で近接している。
◆写真下は、水野邸の外観。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる箱根土地会社宅地建築敷地の北端に建設された同邸。は、建設場所が不明な沼田邸の外観。