薩長政府「塚丘は総て廃毀せよ」通達はひどい。

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 1876年(明治9)10月10日、内務省は各府県から問い合わせのあった旧「一里塚」に関する処置について、「官令達 乙部第百廿号」を作成し東京府を中心に各府県あてに通達している。旧「一里塚」とは、江戸幕府が各街道沿いに設置した古い里標のことだが、この時期に新政府は改めて新「一里塚」の標杭設置を進めている。
 したがって、早めに新「一里塚」標杭が設置された東京地方の近く、関東および中部の近県では、江戸期の旧「一里塚」の扱いをめぐり薩長政府へ「伺」(うかがい=問い合わせ)をする案件が、明治政府の“膝元”である関東地方を中心に多かった。たとえば、「官令達 乙部第百廿号」が下令される直前、旧「一里塚」について問い合わせをしていた関東近県には茨城県、福島県、静岡県、長野県、石川県、愛知県などがある。
 また、江戸幕府が雇用していたフランス人の専門技師たちを、薩長政府は掲げていた政治思想に反して「攘夷」することもなく、そのままなしくずし的にアドバイザーとして横すべりで雇用しつづけ、フランスのメートル法(1885年採用)の施行をめざすことになるため、新「一里塚」の設置は明治初期のみに限られた施策だったろう。こちらでも、日本初の地形図となる1880年(明治13)に作成された、メートル表示の2万分の1「フランス式彩色地図」をご紹介している。そして、旧「一里塚」が設置されていたのは、主要街道沿いの幕府・各藩直轄地(のち官有地)が多かったため、その扱いについて新政府に「伺」(問い合わせ)をする必要が生じたとみられる。
 当初、政府は近隣府県からの「伺」にいちいち回答をしていたようだが、その手間が面倒になったのか1876年(明治10)に、内務省が各府県に残った旧「一里塚」の課題に対して通達している。ところが、この官令の中には旧「一里塚」とは直接なんの関係もない、明治初期まで残っていた古墳の墳丘についての措置まで含まれていた。いい方を換えれば、旧「一里塚」の「伺」にかこつけ、関東およびその周辺地方に明治期まで残っていた大小古墳を、薩長政府が意図的に破壊し消滅させようとしていた様子がうかがえる。
 1876年(明治9)10月10日の内務省官令達・乙部第120号を、そのまま引用しよう。
  
 各街道一里塚ノ儀里程測定標杭建設既済ノ地方ニ限リ古墳旧跡ノ類ヲ其儘一里塚ニ相用或ハ大樹生立往還並木二連接シ又ハ目標等ニ相成自然道路ノ便利ヲナスモノ等ヲ除之外耕地ヲ翳陰スルカ如キ有害無益ノ塚丘ハ總テ廃毀シ最寄人民へ入札ヲ以テ拂下候積相心得近傍形況及反別等明瞭ノ図面相副可伺出此旨相達候事
  
 つまり、新「一里塚」標杭を設置済みの府県に限り、その目標となる古墳・旧跡や大樹、並木など街道の目標物はそのまま残していいが、耕地開拓などの邪魔になる官有地の「有害無益ナ塚丘」はすべて「廃毀」し、地方地域の「人民」(事業者や地主・農民)に売っ払(ぱら)ってしまえ……という官令だった。もちろん、この新「一里塚」標杭は、1885年(明治18)のメートル法採用で意味をなさなくなり、内務省官令達・乙部第120号は関東地方と、その周辺域の近県のみに多大な影響を及ぼしたことになる。
 明治初期から中期にかけ、利根川沿いに築造されていた大小古墳のほとんどすべてを、政府あるいは自治体が廃毀し、その土砂を利根川の本流をはじめ、長大な流域の河川堤防建設に流用してしまったという茨城県の伝承が、がぜんリアリティをもって認識できる内務省の通達だ。もちろん茨城県(旧・水戸藩側の地方)ばかりでなく、関東地方および中部など近県の目立つ大小古墳は、まったく同様の措置がとられただろう。
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 いまのところ、関東では最大規模の200mをゆうに超え、周濠(周壕)を入れれば300m超とみられる群馬県の太田天神山古墳も、その大半が崩されて畑地にされていた。崩され破壊されなかったのは、開拓の手が及ばなかったエリア(発見されにくい山中など)の古墳か、なんらかの根強い禁忌やタブー伝説が付随する古墳、あるいは江戸東京のケースだと大名庭園の築山や、寺社の境内や墓域に取りこまれていた古墳富士講による「〇〇富士」にされて残った古墳、公園や庭園の見晴らし台として残された古墳などがほとんどだ。
 だが、20世紀末から考古学が科学技術と連動するようになると、関東では特に明治期から内務省の官令や開発の手が及ばなかった(あえて無視するか逆らった)、千葉県や群馬県、埼玉県など関東各県では次々と大小古墳群が発見され、薩長政府が躍起になって消滅させようとしていた関東の古代史(古墳時代)にもかかわらず、特に千葉県と群馬県は全国でトップクラスの古墳域であることが判明している。特に千葉県は、同じ利根川沿いに展開する数多くの古墳群が健在であり、対岸の茨城県側とは対照的な現状となった。
 この内務省官令により、関東に築造された膨大な大小古墳が破壊され、「関東地方には大型古墳がない坂東夷の豪族レベルが跋扈していた未開地」という、マッチポンプ式の結果論的な皇国史観=薩長政府による「日本史」のイメージづくりが進められたのは、中国・朝鮮半島の儒教思想とその男権思想をわが国へ無理やり根づかせようと、関東の社(やしろ)から巫女(女性神主)を無理やり追放した1873年(明治6)の巫女禁断法令と同一線上にある、古代から連綿とつづいた日本文化つぶしの意図的な策謀だったろう。
 さらに、「日本史」(おもに古代史)を捏造するだけでなく、薩長政府は日本の神々にあろうことか序列(位階)づけを行い、皇国史観に都合の悪い日本の神々の抹殺・廃棄=「日本の神殺し」や、各地の社に奉られた主柱(神々)の入れ替えまで(バチ当たりなことに)やってのけている。これらのテーマへ接するたびに、文化人類学レベルにまで根ざす「“日本”とはなにか?」「オリジナルな“日本文化”とはなにか?」、そして「“ナショナリズム”とはなにか?」を深く考えさせられてしまうのだ。薩長政府は、中国や朝鮮半島など外国の思想や宗教を借りて、原日本色が色濃い東日本になにを植えつけようとしていたのだろうか?
 さて、わたしは相変わらず戦前戦後の空中写真や地形図、各地の伝承などをたよりに、東京近郊に展開していたとみられる大型古墳の痕跡探し、いわば「古墳探しの東京散策」をつづけているが、今回は阿佐ヶ谷と大泉学園のふたつの事例を駆け足でご紹介したい。また、友人から最近いただいた1922年(大正11)作成の、東京近郊の地形を精細に記録した3,000分の1地形図は、古墳痕の探索にはもってこいの地図なのが判明したのでとても嬉しい。
 まず、阿佐ヶ谷のケースは、ずいぶん以前から戦前の空中写真を参照するたびに、阿佐ヶ谷駅の北側に並んで残る、いかにも古墳然とした形跡が気になっていた。ひとつは、阿佐ヶ谷駅の北口からすぐのところにある阿佐ヶ谷神明社から世尊院、そして同寺社の南側にあたる大地主が屋敷をかまえていた一帯のかたちだ。古墳が寺社の境内にされている事例は、全国的に無数に存在しているが、ことに後円部らしい屋敷林が色濃く残っていた大地主屋敷(一部は現・杉並第一小学校)のあたりが気になっていた。
 同地の地形は、北側および東側には田圃が拡がり湧水流(灌漑用水)が流れる広めの谷間が口を開け、前方部(阿佐ヶ谷神明社や世尊院)が北北西を向く小高い丘上に位置している。全長は墳丘とみられるかたちだけで300mをゆうに超える鍵穴型のフォルムだが、大正期からの宅地開発が進むまで、なんとかその形状が残されていたとみられる。実際に現地を歩いてみると、大地主の屋敷は解体工事中でマンションでも建設されるのか、もはや地面が平坦にならされたあとであり、また阿佐ヶ谷神明社や世尊院のあたりも、ほとんど墳丘の残滓と呼べるほどの地面の“ふくらみ”を確認することができなかった。おそらく、かなり早い時期に墳丘は崩されているとみられる。
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 阿佐ヶ谷駅北口のフォルムとは対照的に、やはり前方部を北北西に向けたもうひとつの鍵穴型の痕跡は、後円部とみられる位置の中心部に、羨道や玄室に使われていたとみられる大きな房州石が、個人宅(元・地主宅か?)の庭石にされて残っていた。阿佐ヶ谷北2丁目から天沼1丁目にかかる大きなフォルムで、こちらは200m超のサイズだろうか。戦前の空中写真を参照すると、大型の前方後円墳が前方部を北北西に向け、高円寺駅北口のフォルムとあわせ、中央線の北側にふたつ並んで築造されているように見える。また、後円部の墳丘はそのまま土砂を外周へ均すように拡げて宅地開発が行なわれたのだろう、1944年(昭和19)の空中写真では家々がその道筋とともに、円の中心から外周へと向くように建てられている様子が確認できる。
 実際に現地を歩いてみると、前方部(谷間に向いた北北西側)に地面の急激な盛り上がりを一部確認することができた。けれども、後円部は完全に整地(おそらく1940年ごろの宅地開発)がゆきとどいており、正円形を物語る道筋や住宅敷地は残っているものの、地面の突起や“ふくらみ”は確認できなかった。ただし、後円部の中心にあたる住宅地には、大きな房州石が6個ほど庭石として残されているのを確認できたのは先述のとおりだ。
 もうひとつ、練馬区にある大泉学園駅の北側、白子川をはさんだ小泉牧場の北にある丘上に、前方部を東へ向けた前方後円墳の残滓らしい地面(畑地)のフォルムを見つけていた。阿佐ヶ谷に残る痕跡に比べ、こちらは200m弱ほどとやや小さめだが、ところどころに畑地(もちろん練馬ダイコンが中心)が残るエリアだけに、そしてあからさまなフォルムが残っていた練馬地域だけに、大いに期待して散策に出かけた。
 結果からいうと、こちらは前方部が道路や住宅敷地の境界にかたちを残しており、地面の傾斜や“ふくらみ”も一部で視認できた。また、後円部には畑地が残り東南北いずれの方角にも、薄っすらとした盛りあがりを確認することができた。すべてが区画整理で宅地化され、整然とした住宅街として整地されていたら、おそらく残らなかった地面の“ふくらみ”だろう。この古墳跡とみられるフォルムは、白子川が流れる谷間から南側一帯を眺望できる丘の、ちょうど南斜面ギリギリの淵ところに築造されており、古代には白子川流域の集落を見下ろすには格好の位置だったと思われる。
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 最後に余談だが、丘下へともどる途中で大泉村役場跡(現・大泉中島公園)に寄ったのだが、そこで「石舞台」と刻まれた巨大な石が設置されているのに驚いた。石舞台といえば、奈良の明日香村にある玄室が露出した石舞台古墳(方墳/蘇我馬子の墳墓とされているが不明)をすぐに想起するので、これは丘上から玄室の石材を下ろして村役場の敷地に設置したのか?……と一瞬疑ったが、実は現代彫刻家が制作したオブジェで、神奈川県の真鶴から21tの小松石を運んで刻み「石舞台」と名づけたらしい。それにしても、前方後円墳の痕跡が残る直下に「石舞台」のオブジェとは出来すぎで、制作者は知ってか知らずか面白い偶然があるものだ。

◆写真上:1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる、阿佐ヶ谷駅(手前右手)の北側。
◆写真中上は、1876年(明治9)10月10日に発令された「達 乙部第百廿号」(『官令全書』1876年より)。中上は、1941年(昭和16)の空中写真にみる阿佐ヶ谷駅北側の様子。中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる阿佐ヶ谷北から天沼にかけてのフォルム。は、1944年(昭和19)の空中写真にみる同フォルムの後円部。森が残る円の中心部あたりに、6個の房州石とみられる大石の残るのが今回の散策で確認できた。
◆写真中下は、阿佐ヶ谷駅北口に近いフォルムの大地主の屋敷があったあたりで建設工事中の現状。中上は、阿佐谷北2丁目と天沼1丁目にまたがるフォルムの後円部から北側の前方部へとカーブを描く道筋。中下は、同フォルムの前方部の北端あたりでいまだ地面の“ふくらみ”が確認できる。は、同フォルムの後円部にあたる中心部に残されていた羨道や玄室の石材に使われた房州石とみられる大石の一部。
◆写真下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる大泉学園の白子川北岸に見えるフォルム。中上は、より古い1936年(昭和11)の空中写真にとらえられた同フォルム。中下は、後円部の東側あたりでやや地面が盛りあがっているのが確認できる。は、帰りぎわに立ち寄った大泉村役場跡(現・大泉中島公園)で見つけてビックリした「石舞台」のオブジェ作品。
おまけ
 もちろん小泉牧場にも立ち寄り、キャップにホルスタインのイラストをあしらった搾りたての「CRAFT MILK’S MILK」(200ml)を手に入れた。この牛乳からは、生クリームもバターも生成できる成分無調整(ノンホモジナイズ製法)の製品で濃厚な風味だ。東京23区で唯一「東京牧場」として残る小泉牧場だが、近々、以前と同様に各種アイスクリームの販売を再開するとうかがったが、ヨーグルトなどの製造も予定しているそうだ。
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